インスティテュート
封じられた書物,聖書


封じられた書物,聖書

補足資料,A Symposium on the New Testament, 1984(1984年)1-7

この場に立てることは喜びであり,光栄です。ここで,教師としてのわたしたちの働きに関わる非常に重要な事柄について考えるに当たり,わたしたちすべてに聖なる御霊が豊かに注がれるよう祈ります。

これから話すのは王国の数多くの奥義が載っている封じられた書物についてです。そこに載っているのは福音を教えるすべての者にとって非常に価値のある事柄です。話のテーマは,「封じられた書物,聖書」ですが,このテーマについて,わたしは通常とは異なる方法で論議を進めようと思います。

言うべきことはたくさんありますが,分かりやすく話しましょう。この話が感情を損なうのではなく,皆さんを教化するものとなるよう願っています。

次に紹介する非常に有名な言葉は,これから話すことに幾分当てはまるでしょう。

地上の生きとし生けるものに,

いつの日か死はやって来る。

ならば,恐ろしい確率によって死に直面するよりも,

先祖のなきがらのため,

また神々の神殿のために,

死ぬ方がずっとましである。

(トーマス・バビントン・マコーレー,“Horatius,” 第219-224行,The Lays of Ancient Rome, 1842年より)

もっと平易な翻訳だと思うものもありますが,いずれも口語的だったり,信憑性に欠けていたり,典拠が疑わしかったりします。これはつまり,愚か者は,知恵ある者が踏み込まないようなことに首を突っ込む,という意味なのです。とかくそういうものです。

イザヤもヨハネも,封じられた書物について話しています。イザヤの預言には,その書物の封を解かれた部分から取った言葉を言語能力にたけた学者の一人に見せると,書物そのものを見せてほしいと言うとあります。

その書物の3分の2は封じられていると告げられると,世の言語学に通じたその著名な学者は,「わたしは封じられた書を読むことはできない」と言うというのです(ジョセフ・スミス-歴史1:65)。この預言は,マーティン・ハリスがモルモン書の版から写し取った文字の一部をニューヨーク州のチャールズ・アンソン教授のもとに持って行き見せたときに成就しました(イザヤ29章2 ニーファイ27章ジョセフ・スミス-歴史1:63-65参照)。

黙示者ヨハネは,7つの封印で封じられた巻き物が偉大な神の手にあるのを見ました。現代の啓示を見ると,「それには明らかにされた神の御心と奥義と業が載っている。また,この地球が存続する七千年間,すなわち現世の存在の間のこの地球に関する神の摂理についての隠された事柄も載っている」とあり(教義と聖約77:6),それぞれの封印が一千年の時を封じていることも分かります。ヨハネが見たように,「ユダ族のしし,ダビデの若枝」である御方,主イエスの他に(黙示5:5),この7つの封印を解く力を持つ者はいません。

同様の知識が,モルモン書の封じられた部分に含まれています。この2冊の封じられた書が同じものだということを知っておくべきです。わたしたちは次のことを確信しています。つまり,福千年にモルモン書の封じられた部分が翻訳されると,そこには前世の生活や万物の創造,堕落と贖いと再臨,神殿の儀式についての完全な記述があるでしょう。身を変えられた者の務めと使命について,パラダイスと地獄双方の霊界について,復活した人々が住む栄光の王国について,またそれに類する多くの事柄についての記述があるに違いないのです。

現在のところ,世の人々にはこれらの真理を受ける用意ができていません。一つ例を挙げると,こうした教義が新たに公表されれば,現在ほとんどの学校で広く教えられている生物進化の理論を完全に覆すことになります。さらに,この地球とそこに住むあらゆる生物だけでなく数々の恒星から成る天そのものについても,創造の概念と時系列に関して前提となっている人の理論を根本からまったく違うものに書き換えることになります。そして残念ながら,現時点で強いてどちらを選ぶかと問われたら,神よりもダーウィンを選ぶ人たちがいるのです。

イザヤとヨハネの語る封じられた書物について話すのは,現在わたしたちの手にある封じられた書物,聖書について考えるのに備えるためです。主イエスだけがヨハネの記録にある七つの封印を解く力をお持ちなので,モルモン書の封じられた部分が明らかにされるかどうかは,わたしたちの信仰と義にかかっているのです。

わたしたちを神や天使との完全な交わりから隔てている不信仰のとばりを破るなら,またヤレドの兄弟のような信仰を持つようになるならば,わたしたちは彼が得ていたのと同じ知識を得るでしょう。これは,主が来られるときまで,実現することはありません(エテル4章参照)。

モルモン書は出てきて,神の賜物と力によって翻訳されました。学者や知者が翻訳したのではありません。世のあらゆる言語に通じた著名な学識者によるのではなく,聖霊の力によって世に出たのです。これを翻訳した者が「わたしは無学です」と言うのに対し(2 ニーファイ27:19),主は,版に刻まれた言葉を「学者は,……読めない」と言われました(2 ニーファイ27:20)。

ここに大きな鍵があります。モルモン書が正確に翻訳されたのは,無学な人が神の力によって翻訳したからです。翻訳に要した日数はわずか60日足らずでした。聖書は,各時代の最も博学な学者や翻訳家が何年もかけて古代の文書の翻訳に取り組んだ末に出版されたにもかかわらず,間違いや誤訳がたくさんあります。

神聖な書物を理解する鍵は,人の知恵にも俗世{ぞくせけん}から離れた修道院の中にもありません。学位やギリシャ語とヘブライ語の知識にもありません。これらはどれも,知的な面で優れた洞察をもたらすかもしれませんが,神に関わる事柄は神の御霊の力によってしか,知ることも理解することもできないのです(1コリント2章参照)。主は次のように言われました。「わたしは,……世の弱い者たち,無学で見下されている者たちを呼ぶ。」(教義と聖約35:13

パウロはこれについて実によく言い表しています。「知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を,愚かにされたではないか。……神の愚かさは人よりも賢く,神の弱さは人よりも強いからである。兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には,知恵のある者が多くはなく,権力のある者も多くはなく,身分の高い者も多くはいない。それだのに神は,知者をはずかしめるために,この世の愚かな者を……選ばれたのである。」(1コリント1:20,25-27

もちろんわたしたちは,あらゆる分野でできる限りのことをして学ぶべきです。パウロとともに,ガマリエルの膝元で薫陶を受けるべきであり,王国や国々や言語に関する知識を得るべきです(教義と聖約88:76-81参照)。ヤコブは,「神の勧告に聞き従うならば,学識のあるのはよいことである」と言っています(2 ニーファイ9:29)。

しかし,それ以上に,これらすべてを兼ね備えるよりも,あらゆる時代の賢者から得られるどんな知恵にも増して大切なのは,わたしたちが研究し,教えるときに必要な御霊の導きなのです。神はモルモン書を世にもたらすために無学な者を用いられました。この神の力による方法は,王国におけるわたしたちの働きすべての規範となります。わたしたちが喜んで応じるなら,主はわたしたちを通して業を行うことがおできになるのです。

さて,これはわたしがよく考えた末に得た考察であり,固く信じていることですが,現在わたしたちの手元にある聖書は封じられた書物です。聖書には,信仰と義によってしか解くことのできないヤレド人の封印はありません。聖書は善人と悪人を含む現代の人類のための書物です。これを封じている封印は7つではなく,2つです。その封印の名と,どうしたら解くことができるのかを教えましょう。聖書は,公開されるべき書物であり,地上のすべての人が読み,信じ,理解するべき書物です。

しかしまず,聖書とは何かについて語り,聖書と救いを得ることの関連性,および霊感によるその他の書物との関連性を示さなければなりません。聖書が書物の中の書物であり,地上のすべての人に対する主の思いと御心と声が収められていること,またこれまでに記されたどの書物にも増して,現代に至るまで世の文明に大きな影響を与えてきたことは誰もが知っています。

末日聖徒ほど聖書を重んじる民は,他にはいません。わたしたちは聖書を信じていますし,その言葉を読んで深く考えます。聖書が教える真理に喜びを感じ,その中で宣言されている神の標準に従って生活するよう努力しています。しかしわたしたちは,福音主義キリスト教のように,救いに必要なことがすべて聖書に載っているとは信じていませんし,神がもはや口を閉じて,その子供たちに語りかけ,啓示を与え,御心を伝えることをおやめになったとも信じていません。

実際,聖書に含まれる事柄は,神が過去の時代に与えられた啓示のごく一部にすぎず,どう見てもセコイアの大木から折り取った1本の細い枝以上のものではないということを,わたしたちは知っています。わたしたちはこれまで,現在の聖書にあるよりはるかに多くの啓示を受けてきました。聖書に載っているのは,現代よりも霊的な知識が豊かだった時代に明らかにされた真理という広大な海からくみ取ったバケツ1杯またはコップ数杯の水か,せいぜい細々とした小川の流れのようなものでしかありません。

しかも,現在の聖書がわたしたちに伝える真理のごく一部ですら,最初に書かれたように分かりやすく完全な形を保っているわけではありません。そのことを,天使はニーファイに繰り返し強調しました。旧約,新約を含む聖書には,書かれた当初は救いに必要な知識が載っていましたが,後に「ほかのあらゆる教会にも増して大きな忌まわしい教会」の手を経て出てからは(1 ニーファイ13:26),分かりやすくて大変貴い多くの部分と,主の多くの聖約が取り去られた結果,非常に多くの者がつまずいて,何を信ずるべきか何をするべきか分からなくなってしまったのです(1 ニーファイ13章参照)。

しかし,これらすべてをもってしても,神の摂理によってすべてが定められたとおりに実現するのを妨げることはできません。つまり,聖書には現在でも主の言葉が載っており,不従順で邪悪な背教の世にもそれを受ける権利があるのです。

また,わたしたちは現在ある聖書が,人の信仰を試すために与えられているとも信じています。聖書はモルモン書を読む備えになります。聖書を本当に信じる人は,モルモン書を受け入れます。モルモン書を信じる人は教義と聖約と高価な真珠を受け入れます。こうして啓発された人は,いずれ明らかにされる封じられた書物にある,さらに大いなる光と知識を受けられるような生き方をしようと努力します。繰り返しますが,これらの書物は,無学な人が聖霊に導かれて世にもたらすのです。

幸いなことに聖書は,たとえ霊的な賜物がわずかであっても,すべての人が真理と啓発を得ることができるように書かれています。一方で,識別の力を持つ人は,聖徒のためだけに取っておかれた深く隠された事柄を,聖書から学ぶことができるのです。

救いを得るという観点から言うと,聖書の重要性は,モルモン書や他の末日の啓示にとうてい及びません。これら現代の聖文は,実際,わたしたちが救われるために信じ受け入れなければならないものです。そうだとすれば,時満ちる神権時代に生きているわたしたちは,まったく聖書がなくとも,救われることは可能です。福音の真理と力が,直接の啓示によってすっかり新たに与えられているからです。

また,あらゆる点を考え合わせると,標準聖典以外にも,霊感を受けて書かれ承認された文書があることを知っておかなければなりません。それらの文書も真理であり,福音を学んだり教えたりする際に,聖文そのものと合わせて活用するべきです。このような教会の書籍の中から,標準聖典に次ぐ最も偉大な文書を5つ挙げましょう。

  1. “Wentworth Letter.”(「ウェントワース書簡」)(History of the Church, 第4巻,535-541参照)。預言者ジョセフ・スミスが記したもので,モルモン書の出現や古代アメリカの住民,この神権時代における教会の設立,初期の末日聖徒が受けた迫害についての記述があります。また,13箇条の信仰箇条もこの書簡に含まれています。

  2. Lectures on Faith(『信仰に関する講話』)。これらの講話は,預言者ジョセフ・スミスにより,またジョセフ・スミスの指示の下で用意され,ジョセフとその他の者が預言者の塾で教えたものです。預言者ジョセフは,これらの講話には「救いに関する重要な教義」が含まれていると言っています(教義と聖約の序文,1835年版;再版,Independence, Mo.: Herald House, 1971年)。

  3. The Father and the Son: A Doctrinal Exposition by the First Presidency and the Twelve(『御父と御子-大管長会と十二使徒による教義的説明』)(ジェームズ ・R・クラーク編,Messages of the First Presidency of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, 全6巻〔Salt Lake City:Bookcraft, 1965-1975年〕第5巻,26-34参照。第5巻,23-25も参照)この解説書は,御父と御子がお持ちの地位と関係について説明し,キリストが御父であられることを幾つかの点で明らかにしています。また様々な例を挙げて,アダムがわたしたちの御父でありわたしたちの神であるという異端的な誤った考えを一掃しています。

  4. “King Follett Sermon”(「キング・フォレット説教」)および“Sermon in the Grove”(「林の中での説教」)(History of the Church, 第6巻,302-317;第6巻,473-479参照)。この二つの説教は同一のテーマと内容を扱っており,神は複数おられるという教義と,キリストと共同の相続人になるという教義を教えています。また,人は創造主のようになり,日の栄えの昇栄にあって永遠に統治するようになることを示しています。

  5. “The Origin of Man,”(『人の起源』)大管長会著(クラーク,Messages of the First Presidency, 第4巻,200-206参照。第4巻,199も参照)。霊感あふれるこの書物は,人の起源に関する教会の公式見解を表明し,生物学者などの科学者が奉じる進化論に反論しています。予想にたがわず,この書物は真実ではなく空虚な仮定を信じる知識人の怒りをかき立てています。

さて,現代の封じられた書物である聖書は,さらなる光と知識を受けるよう人を備えさせるために主が備えてくださった書物です。驚嘆すべき事柄を世の人々の目から隠している封印とは,何でしょうか。

封印は二つあり,振り子が左右に振れるように,正反対のものです。これはサタンの封印であり,その狡猾さによって捏造されたものです。実際,この二つの封印以上に,聖書の価値をおとしめ,その使用を妨げるのに効果的なものを,わたしは思いつきません。その二つとは,無知の封印と知性の封印です。順を追って説明しましょう。

まず,無知の封印についてですが,この封印のために,1,500年近くもの間,世のほとんどの人は聖書を手にすることができませんでした。封じられた書物というのは間違いなく暗黒時代を通じての聖書です。人々を支配していた教会は,聖書を使うことも聖書の教えを説くこともせずに,先祖の言い伝えに代えて,神は三位一体の霊であるとする教義に従っていました。マリヤ礼拝と偶像礼拝,聖人の執り成し,生者と死者の救いのためのミサ,免罪符,煉獄の概念,幼児洗礼,スペイン異端審問に見られるような異端者への迫害や殺害の正当化など,どれ一つとっても,聖文によってその正当性が裏付けられるものはありません。

この暗黒時代を経て起こったルネサンスと宗教改革の中核となったのは,聖書の翻訳と使用を目指す動きです。真理を求める多くの人が,認められていない聖書を所持していたというだけの理由で火あぶりの刑に処せられました。これについてはこれ以上述べる必要がありません。彼らが受けた悲惨でむごい仕打ちについて記した書物は,どこの優れた図書館の書架にもたくさん並んでいます。

今日,無知の封印は,聖書の研究にあまり関心を持たない一般のキリスト教徒や,その他の世の一般大衆にのみ影響が残っています。現代の聖職者は世事に精通してはいても,宗教的原則を教える力量に欠けているのです。しかも,カトリック教国では聖書を所持することも,聖書の言葉を読むことも,ほとんど奨励されていません。

知性の封印については,まったく別の話になります。この封印は,多くの場合,「自分に学識のあることを誇る知者や,知恵のあることを誇る学者」によって,恐らく無意識に押されているものです。ヤコブが述べたこの人々は,そうすることで自分がイスラエルの聖者によって「さげすまれる」者の一人になっていることを知りません(2 ニーファイ9:42)。

御霊に頼るより,また救いの計画に関する知識全般に信頼を置くよりも,学識と知性に頼るのは誤りだということを,わたしたちは示さなければなりません。そこで,封じられた聖書から封印を解くことのできる理解力の鍵について,説明しましょう。

理解力の鍵には,ほぼ無限の重要性を持つものが幾つかありますが,それ以外はあまり重要ではなく,見過ごしても誰も残念に思わないでしょう。しかし,重要な鍵について相対的な見方ができるよう,この取るに足りない鍵についても触れるべきでしょう。勝手ながら,それぞれの鍵の重要性に応じて,1から10までの点数を付けてみました。

モルモン書についてパーリー・ P・プラットが「封印解かれて光は世に出づ」と述べていますが(「長き沈黙破りて出づ」『賛美歌』10番 ),聖書についても同様のことが言えます。

第1の鍵:聖書を読む

これほど明白な鍵が他にあるでしょうか。ただ聖書そのものを読むのです。読まない限り,聖書の封印は取り除けません。この鍵の評価としては10点以外に考えられません。聖書の研究や理解はすべて,基本資料である聖書を読むことから始まります。

問題の一つは,聖書について述べた他人の言葉をわたしたちが読んでいる点です。旧約聖書の物語を取り扱った本を読んだり,『リーダーズダイジェスト』〔訳註-小説や書籍の要約を掲載しているアメリカの雑誌〕のように,聖書と銘打ってはいても,系図や難しそうな部分を省略したダイジェスト版を手に取ったりします。

聖書そのものを読んでください。「聖文を調べなさい。」(ヨハネ5:39参照)主の言葉を心に蓄えてください。原典を読むのです。その言葉は神聖なものです。最初に書かれたままに伝わる限り,それは聖霊によって霊感を受けた言葉です。わたしたちが生きている限り繰り返し読まなければならない言葉なのです。

しかし,これはわたしの意見ですが,聖書の言葉すべてが同じ価値を持つわけではありません。福音書,特にヨハネによる福音書には,金に匹敵する価値があります。使徒行伝にも,これに劣らぬ価値があります。パウロの手紙は,最も重要なローマ人への手紙から重要度が一番低いピレモンへの手紙に至るまで,教義と賢明な勧告の宝庫です。ペテロの手紙とヤコブの手紙,それにヨハネの第一 の手紙は,あたかも天使によって記されたかのような価値があります。ヨハネによる第二の手紙と第三 の手紙には格別の重要性はありません。ユダの手紙は少なくとも読む価値があります。そして,福音をよく理解している人にとって,黙示録は神の知恵の源であり,その思いを広げ,心を照らします。

旧約聖書においては,創世記が最も重要です。創世記は神聖な記録であり,その価値は計り知れません。出エジプト記と申命記にも,ひときわ価値があります。民数記,ヨシュア記,士師記,サムエル記,列王紀,歴代志はどれも,重要な歴史書です。信仰による行いと不思議が折り合わされ,キリスト教徒の信仰を理解する素地を成しています。レビ記には特にわたしたちに当てはまる記述はなく,幾つかの聖句を除いて常に研究するには及びません。ルツ記とエステル記は,わたしたちの受け継ぎの一部となる愛すべき物語です。詩篇にはすばらしい詩が収められており,救い主についての記述や,末の日と主の再臨に関する記述は,非常に大切です。箴言と伝道の書,哀歌は興味深い書です。ヨブ記は,ヨブの書を愛する人のためにあります。雅歌は,聖書の中では価値のない書です。霊感を受けて書かれたものではありません。エズラ,ネヘミヤ,オバデヤ,ヨナは最も重要度の低い預言者です。その他の預言者はイザヤを筆頭に,その地位と位に従って,深く研究すべき教義や預言を語っています。

第2の鍵:ヘブライ語とギリシャ語を学ぶ

ヘブライ語とギリシャ語を学ぶことについては,何の異論もないはずですが,これには幾分危険が伴います。ジョセフ・スミスと初期の幹部の兄弟たちの何人かは,ある程度ヘブライ語を研究しました。特定の聖句について霊感を得る手段として古代の言語の知識が適切に活用されるなら,その利点の評価は,1点から1.2点といったところでしょう。しかし,知識を適切に活用せず,言語の学習そのものに終始するなら,本人の考え方や霊的な見解にもよりますが,評価はマイナス5点かマイナス10点にまで落ちてしまいます。

教義的な知識を得るために原語に注目する人は,預言者ではなく学者に頼って聖文を解釈しようとする傾向があります。これは危険です。自分は主よりも知識があると思い込んでいる知者や学者の中に数えられるのは,悲しむべきことです。

聖書が最初に書かれた言語に関する基礎知識がないからといって,思い悩んだり劣等感を持ったりする必要など誰にもありません。大切なのは,御霊の導きを受けて,古代の言語を末日の啓示と調和させて解釈することだからです。

第3の鍵:聖書の注釈と聖書事典を利用する

この項目で言うべきことは,勧めよりもむしろ警告です。歴史的な事柄や地理について,霊感によらないこれらの書籍の評価は1点か2点です。教義的な事柄については,教義にもよりますが,マイナス10点,マイナス100点,マイナス1,000点にまで落ちます。

知者や学者は教義についてほとんど知りませんから,こうしたものを読むのは時間の無駄です。彼らの信条はことごとく主の目に忌まわしいものです。彼らは人の戒めを教義として教え,聖文を自分たちの慣習に合わせて曲解します。彼らが何らかの正しい解釈を得ることがあっても,それは偶然にすぎません。

ある聖書の注釈には,イエスは水の上を歩かれたのではなく,岸辺に寄せる波の中を歩かれたと書かれています。なぜなら,水の上を歩くことは不可能だからです。

別の注釈には,イエスはパンと魚を増やして5,000人に食物をお与えになったのではないと書かれています。自然の法則に反するからです。正しくは,群衆の多くが食べ物を袋に入れて持って来ていたのに,人に分け与えるのを嫌がり取り出さなかったので,イエスは分かち合うことを教えられたにすぎないというのです。

また,わたしたちは文字どおりの再臨を待つ必要はないという注釈もあります。キリストはもはや人ではないのだから人の中に住むことはおできにならないというのです。それどころか,再臨というのは,キリストが人の心の中に住まわれるときにいつでも起きるというのです。

人格を備えた神の本質について,この世の注釈は何を教えられるでしょうか。前世における存在や,天での戦い,永遠の救いの計画について,肉体の死と霊の死を伴う人の堕落,福千年の間に回復される楽園の創造について,メルキゼデク神権とその様々な職について,イスラエルの文字どおりの集合と十部族がイスラエルの山に回復されることについて,獄にいる霊に福音が宣べ伝えられることと死者の救いの教義について,神殿と日の栄えの結婚,また家族のつながりが永遠に続くことについて,賜物としるしと奇跡について,世界的な背教や輝かしい回復の日,そしてモルモン書の出現について,従順を条件に救いを可能にしたキリストの贖罪について,栄光の3つの段階について,人がキリストと共同の相続人となり,天の最高位である日の栄えの世界で昇栄することについて,救いのあらゆる基本的な教義について,わたしたちに何を教えられるというのでしょうか。

わたしと同じ教師の皆さん,これらすべてのことと,この何万倍にも及ぶ事柄は,この恵みあふれる最後の神権時代に,直接の啓示によって,天におられる神からわたしたちに示されました。それらの事柄は救いを可能にする真理であり,世の学者たちの書いたものには載っていません。

第4の鍵:現地の習慣や伝統について学ぶ

これはかなり役に立ちます。2点か3点挙げましょう。聖文の言葉は,舞台となった地域の状況に照らし合わせて読むと,新たな意味を帯びることがよくあります。

偽預言者に気をつけなさい,彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが,その内側は強欲なおおかみであるというイエスの勧告について,それが当時のラビや律法学者,パリサイ人のことを念頭に置いて言われた言葉であると知るなら,現代に当てはめると,偽りの教義を教える偽りの教会の聖職者を指していることに気づきます。

わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いので,わたしのもとに来てわたしのくびきを負いなさい,そうすればあなたの魂に休みを与えようという柔和なナザレ人である御方の言葉が,モーセの律法の勤め,すなわち儀式偏重且つ形式にとらわれた重くのしかかる勤めから離れて,福音の平易な礼拝を受け入れるようにという勧めであるということが分かるなら,世の罪の重荷による苦しみから離れて聖なる福音を受け入れるようにという呼びかけに全く新たな理解がもたらされるのです。

パレスチナでは旅の一団はいずれも隊商宿に宿泊し,「宿」と呼ばれる部屋に囲まれた中庭に動物をつないでおくのが慣例だったことを知ると,主イエスがお生まれになった場所に対するイメージは全く新しいものになります。

ユダヤ人の教師が自分たちの慣習のために神の律法を無益なものにしていたため,イエスが彼らを厳しく叱責されたこと,また,安息日に関する全くばかげた制限や,洗いと清めに関する形式的な行為に対して,彼らを激しく非難されたことについて読むとき,その慣習や制限,儀式がどのようなものだったかが分かると,非常に理解しやすくなります。

ニーファイは「イザヤの言葉」を引用して,「預言の霊に満たされている人々には分かりやすい」と言っています(2 ニーファイ25:4)。預言者の言葉を理解するための補足としてニーファイは,人は「ユダヤ人の風習を教わ〔る〕」必要がぜひともあると述べています(2 ニーファイ25:5)。

100年以上前,人々の信仰が今より篤く,イエスが神の子であられることを信じていた時代にエデルスハイムやファーラー,ゲイケといった作家が書いた書物を読むと,こうした古代の習慣や生活様式について,役立つ情報がたくさん得られます。

第5の鍵:すべての聖文を文脈に照らし合わせて研究する

どの聖句でも,文脈は大切です。2点か3点の評価をあげましょう。神は人を偏り見る御方ではありません。一人に言われたこと,あるいは今後言われることは,同じ状況にある別の人にも当てはまるのです。しかも神は,違う状況にある別の人に対して,矛盾するように思えることをお命じになることもあります。

聖文に「あなたは殺してはならない」とあるなら(出エジプト20:13),主はなぜあえてニーファイに,泥酔して寝ているユダヤ人有力者ラバンを殺すように言われたのでしょうか。殺人を犯す教会員は永遠の命が受けられないと聖文に書かれているなら,それは異教国の人々にも当てはまるのではないでしょうか。政教分離を教える聖句が必要だとしたら,神権によって民が統治されていた時代の旧約聖書に,またはカエサルのものはカエサルに返すよう求められた時代の新約聖書に,そのような記述が見つかるのではないでしょうか。レビ人の行っていた勤めを研究するとき,わたしたちはモルモン書に目を向けるでしょうか。モルモン書に登場する民の中にはレビ人はいなかったのです。似たような例は,これ以外にもたくさんあります。聖文の記述には明らかに限界があり,一般的には文脈に従って応用するべきです。

第6の鍵:聖句が文字どおりの意味か,比喩的表現かを的確に見分ける

これは難しいことで,かなりの経験と洞察力が必要です。確実に,3点か4点の価値があります。聖文には比喩的な表現がたくさんありますが,一般的には,文字どおりに解釈した方が無難です。

文字どおりの出来事としては,人がその友と語るように神と実際に顔を合わせて語ったこと,人が霊的にも肉体的にも神の形に創造されたこと,キリストが肉において神の独り子としてこの世に来られたこと,エノクの町シオンに主イエス御自身が住まわれること,福千年には主自らが統治されること,すべての人は死から復活して骨肉の体を得ること,などかあります。

比喩的な事柄の中には,エノクが主とともに歩いたこと,主エホバが古代イスラエルの人々と共に住まわれたこと,キリストは天から降って来た生けるパンであられること,聖餐の儀式でキリストの肉を食べ,キリストの血を飲むこと,などがあります。

第7の鍵:欽定訳聖書を使う

世に出回っている聖書について言えば,欽定訳は他のあらゆる版とは比べものにならないくらい優れており,5点か6点の評価に値する書物です。モルモン書の翻訳に道を備えるための聖書であり,教義と聖約における啓示の著述の規範であり標準となりました。欽定訳は教会が公認する聖書です。これについてさらによく知るには,Why the King James Version?(『なぜ欽定訳か』」)J・ ルーベン・クラーク・ ジュニア著(Salt Lake City: Deseret Book Co., 1956年)を参照するとよいでしょう。

第8の鍵:世に出回っているその他の翻訳にどのようなものがあるか

この問いに答えて言います。忘れてください。それらにはほとんど価値がなく,調べるのは時間の無駄です。寛大に評価しても,10点満点のうち1点にしかなりません。読む必要はありません。一般的に欽定訳以外の翻訳は,宗教に対する翻訳者独自の考えを述べているにすぎません。例えば,中には,キリストはおとめからではなく,若い女性からお生まれになったとしているものもあるのです。

このような霊感を受けていない翻訳者が,時には特定の事柄に何らかの新たな考察を加えることもあるでしょう。そういった翻訳がすべて悪であるというわけではありませんが,研究し,学ぶ事柄はたくさんあるのですから,全く霊感を受けていない知者や学者の翻訳上の見解を心に蓄えることが賢明かどうか疑問です。永遠の真理を理解するのに役立つとは思えません。

第9の鍵:ジョセフ・スミス訳,いわゆる霊感訳を活用し,信頼を置く

この勧めに対する評価は,8点か9点です。どんなに強調しても強調しすぎることはありません。ジョセフ・スミス訳つまり霊感訳は,現在地上にある最上の聖書(英文)と比べても,はるかに価値があります。欽定訳聖書全体を包含したうえに,追加や訂正を含むページや,所々削除された部分もあります。それは啓示の霊によるもので,加えられた変更や追加事項には,モルモン書や教義と聖約で明らかにされた言葉に匹敵する価値があります。

歴史上の理由その他で,かつて教会員の中には,ジョセフ・スミス訳の位置付けに関して偏見や誤解を持つ人もいました。そういった偏見や誤解が現在一掃されているよう願っています。末日聖徒版の英語の聖書では,霊感訳に加えられた主要な変更が脚注に数多く掲載されており,長すぎて脚注に載せられない部分は,17ページにわたる抜粋に収められています。

この抜粋と脚注そのものを読むと,霊的な洞察力を持つ誰もが,預言者ジョセフ・スミスの啓示による働きに深く感謝するでしょう。これは,ジョセフ・スミスが預言者の召しを受けていたことを示す力強い証拠の一つなのです。

そして,ここブリガム・ヤング大学に,ジョセフ・スミス訳にかけては世界でも第一人者と目される人物がいると言えることをうれしく思います。福音研究の分野における彼の著作は,この神権時代に出版された最良の書物と肩を並べるものです。もちろんこの人物は,宗教教育学部の学部長ロバート・ J・マシューズ兄弟です。出版されている彼の著作“A Plainer Translation”: Joseph Smith’s Translation of the Bible, a History and Commentary(『平易な訳-聖書のジョセフ・スミス訳,その歴史と解説』)(Provo: Brigham Young Univ. Press, 1975年)は,注意深く研究する価値があります。

第10の鍵:末日聖徒版聖書にある教えるためのヒントを活用する

あるセミナリー教師から手紙が届きました。新たに出版された教会の聖典に脚注や参照聖句,教えるためのヒントが掲載されているのを非難するものでした。そういったものは,会員が聖書を集中的に研究し独自の参照聖句を作ろうとする意欲をそぐものだと言うのです。

さて,わたし個人としては,そのような学習の手がかりが必要ですし,皆さんにも活用するよう勧めます。こうした参考資料には,ジョセフ・スミス訳や「聖句ガイド」,脚注,地名索引,地図などがあります。

これらの参考資料はどれも完璧ではありませんし,それ自体が教義を定めるものではありません。誤りはこれまでもありましたし,間違いなく現在もあるでしょう。例えば,参照聖句は対応する聖句並びに同じテーマについて論証するために設けられたものではありません。これらは単なる補助資料なのです。重要度からすれば,4点か5点になるに違いありません。これらの参考資料を常に活用してください。

第11の鍵:霊感によって解釈され,翻訳された聖文を活用する

霊感による聖書の翻訳と解釈から力強い啓発を得られることを,ほとんどの教会員は知らないように思えます。霊的な洞察力を持つ人にとって,この霊感による解釈には8点か9点の価値がありますが,霊的にあまり成熟していない人にとっては,疑念や疑問の種となるだけです。

皆さんも御存じのように,新約聖書にある旧約聖書からの引用はどれも,わたしたちの手元にある聖書の原本であるヘブライ語の原文とは異なります。なぜでしょうか。理由は二つあります。一つは,引用聖句の多くはギリシャ語の七十人訳聖書から翻訳されたもので,旧約聖書の原本となったヘブライ語からの翻訳ではないからです。七十人訳聖書には,教義に関する翻訳者の見解が組み入れられているため,不完全な点がたくさんあります。

さらに重要なのは,イエスの時代にユダヤ人はヘブライ語ではなくアラム語で話していたにもかかわらず,聖文がヘブライ語で書かれたということです。そのため,会堂での礼拝で,一人の教師がヘブライ語の聖文を読むと,別の教師がそれをアラム語に翻訳するか言い換えていました。または言い伝えによると,人々が理解できるようにタルグムというアラム語に訳すのが慣例でした。

イエスと使徒たちは皆,常に会堂で定期的に教えを説いていましたが,彼らが霊感を受けて作った「タルグム」は,取り上げられるどの聖文についても貴重な知識を豊富にもたらしました。旧約聖書の多くの聖句が,新約聖書の中で引用されることによって新たな意味を持つようになったのです。

こうした実利的な目的で,ニーファイも,イザヤやゼノスの言葉を引用する際に同じ手法を度々用いています。彼は言葉を文字どおりに引用するのではなく,霊感によって解釈し翻訳して述べました。そして多くの場合,ニーファイの言葉は,元の預言者の言葉に新たな意味やより深遠で幅広い意味を与えました。

実際,モロナイは1823年にジョセフ・スミスに現れたときに同じ手法を用いています。例えば,エリヤの再臨の約束についてより詳しく説明することで,たそがれの薄明かりから真昼の太陽の輝きの中に足を踏み入れるかのように分かりやすくなっています。さらに数年後,ジョセフ・スミスはより熟達した翻訳の知識によって,モルモン書や教義と聖約,霊感訳聖書に欽定訳と同じ語法を保ちました。

ここに確かなメッセージがあります。一つには,同じ聖句でも正しい翻訳は幾通りもあり,翻訳は人々の霊的な成熟度に影響されるものだということです。

同じように,モルモン書に記されている山上の垂訓は,より洗練された言葉に多少書き換えられてはいるものの,欽定訳聖書の語法を保っています。しかし,その後のジョセフ・スミス訳では,この説教の多くがモルモン書さえもしのぐ形で描写されているのです。

ヨハネ17:3のように平明な聖句は,誰にとっても限られた意味しか持ちませんが,わたしたちに明白な天啓をもたらす霊感の源です。この聖句から,神とイエスを知るとは,御二方のようになること,すなわち御二方のように考え,御二方が語られることを語り,なさることを行うことだということが分かります。こういった知識はすべて,思いを照らされていない人の理解力を超えるものです。

救いの計画について学び,聖霊と波長を合わせるやいなや,聖文はまったく新しい意味を持つようになります。もはや偏狭な世の知者のように制限を受けることなく,現在のわたしたちに考えつく何にも勝る光と理解によって心があふれんばかりに満たされるのです。

第12の鍵:現代の聖文は,古代の聖文を解き明かす

この鍵については,いくら強調しても強調しすぎることはありません。その価値は10点以上です。本当の意味で,聖書の言葉を理解する唯一の方法は,まず,末日の啓示を通して,人に対する神の計らいについて知ることなのです。

わたしたちは聖書がなくても救われますが,末日の啓示なくして救われることはあり得ません。回復された王国はわたしたちのものなのです。教義や律法,儀式,力は,すべて回復されました。神と天使が新たに与えてくださったのです。わたしたちは自分たちが信じている事柄を信じ,真理を保有し,授けられた鍵と力を行使しています。この時代に天が開けて,これらのものが与えられたからです。わたしたちは救いを求めて過ぎ去った日々を振り返ったり,過去に生きていた人間に頼ったりしません。

実のところ,わたしたちの持っているものは,古代の聖徒たちが持っていたものと一致しています。神は変わることのない御方ですから,一致しないはずがありません。古代の聖徒が持っていた同一の真理や儀式はどれも,福音の真実性を補足するもう一つの証となります。しかし,わたしたちの知識と力は直接天から与えられたものです。

したがって,聖書に見られるような,古代の聖徒に対する主の計らいについての不完全で部分的な記述は,わたしたちが現在受けている知識と一致するはずですし,調和させて読み取らなければなりません。聖書が真実だからモルモン書が真実なのではなく,その逆だということを今こそ知る時です。聖書は正確である限り真実の書物ですが,それは,モルモン書が真実の書物だからです。

不朽不滅の福音と永遠の神権,救いと昇栄に関する同一の儀式,決して変わることのない救いの教義,同じ教会と王国,王国の鍵。人を永遠の命に結び固めることができるのは,これらのものだけです。これはすべて,いつの時代にも変わりませんでしたし,今後もこの地上で,また全ての世界で永遠にいつまでも続くものです。これらのことを,わたしたちは末日の啓示から知ったのです。

これらのことが分かると,聖書にある断片的な情報を理解するための扉が開きます。モルモン書と教義と聖約と高価な真珠を結びつけることで,古代の人々の間に広く行き渡っていたことについて分かる聖句が少なくとも千はあります。

不朽不滅の福音はいつの時代にもあったでしょうか。ありました。アダムの時代から,主イエスがバウンティフルの地に御姿を現されるまで,わたしたちが今手にしている福音が,永遠に完全な形で地上に存在しなかった時は,ひとときたりともなかったのです。

モーセの律法の勤めがアロン神権によって執行されていたという事実について考え違いをしないでください。メルキゼデク神権のあるところには完全な福音があり,預言者は皆,メルキゼデク神権を持っていたのです。

古代イスラエルの時代にバプテスマはあったのでしょうか。この答えは,ジョセフ・スミス訳聖書とモルモン書にあります。ニーファイ人の歴史の最初の600年に関する記録には,モーセの時代以降の古代イスラエルで行われていた事柄について,ありのままに分かりやすく書かれています。

古代にも教会はあったでしょうか。そして,もしあったなら,どのように組織され,統制されていたのでしょうか。紀元前という呼び名がまだ存在していなかった全時代を通じて,基本的に今日と同様に組織されたイエス・キリストの教会が地上に存在していなかった時期は,一瞬たりともありませんでした。メルキゼデクは教会に所属していましたし,ラバンは教会員でした。リーハイも,エルサレムを去るずっと前から教会員だったのです。

使徒の力はいつの時代にもありました。メルキゼデク神権は,常にアロン神権の働きを導いていました。どの時代でも,預言者は皆,その時代の聖職階級において職に就いていました。日の栄えの結婚は常にありました。それは確かに,アブラハムの聖約の神髄であり,核となるものだったのです。エライアスとエリヤは,この古代の位を回復し,永遠にわたって効力を持つ結び固めの力を与えるためにやって来ました。

人はこう尋ねます。彼らは,五旬節の日の前に聖霊の賜物を持っていたのですか。主が生きておられるように確かに,彼らは聖霊の賜物を授けられていました。それは福音に属するもので,彼らは聖霊の賜物を受けていたからこそ,奇跡を行い,神御自身がその創造主である街を求めてそれを得たのです。

わたしは常々,古代イスラエルの歴史が,預言者モルモンの手で編集されていたらよかったのにと思ってきました。そうであったならば,聖書もモルモン書のように読むことができたでしょう。しかし,いずれにせよ,聖書も最初書かれたときには,モルモン書のように純粋なものだったのです。

一般的な鍵:深く考え,祈り,御霊を求める

これが全般にわたる結論です。この鍵が封印を解きます。聖書に隠された純粋で貴い真理を完全に知ることのできる方法は,これ以外にありません。そしてこの鍵に対する評価は,他の何よりも高いのです。

わたしたちは皆,命の言葉を蓄えなければならないことを知っています。神の口から出る一つ一つの言葉に従って生きなければならないこと,昼は義に関わることについて深く考え,夜にはニーファイのように,枕を涙でぬらさなければならないことも承知しています。これはすべて,永遠に関わる神聖な事柄を心に深く染み込ませるためです。

主から導きと啓発を求めなければならないことは,誰でも知っています。「求めなさい。そうすれば,与えられるであろう。たたきなさい。そうすれば,開かれるであろう。」(教義と聖約4:7)「あなたがたのうち,知恵に不足している者があれば,その人は,とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に,願い求めるがよい。そうすれば,与えられるであろう。」(ヤコブの手紙1:5

「御霊は信仰の祈りによってあなたがたに与えられるであろう。そして,御霊を受けなければ,あなたがたは教えてはならない。」(教義と聖約42:14)なぜならば,「聖書の預言はすべて,自分勝手に解釈すべきでないことを,まず第一に知るべきである。なぜなら,預言は決して人間の意志から出たものではなく,人々が聖霊に感じ,神によって語ったものだから」です(2 ペテロ1:20-21)。

さて,言うべきことはたくさんありますが,研究への扉はすでに開かれています。世の知者と学者がどんなに深い無知の闇の中にいようと,わたしたちは当惑する必要も,疑念を抱く必要もありません。福音のラッパは高らかに響き渡っています。わたしたちは封じられた書物の封印を解き,そのページから輝き渡る知識の光に浴する力を有しているのです。

まとめとして,教義として,証として,皆さんに4つの簡単な勧告をしたいと思います。

  1. 聖典から教えてください。聖文そのものを使うのです。わたしたちはとかく,神の言葉を純粋なままに味わうよりも,聖書について書かれたテキストの研究を優先しがちです。

    生ける水は永遠の泉から流れ出て,預言者が備えた聖文という水路を流れます。ここには,皆さんのほとんどが理解できるちょっとした知恵があります。馬が水を飲んでいる所より下流で飲んではいけません。特に,学閥という馬によって汚された水,すなわち霊感によらない情報をうのみにしないでください。

  2. 倫理に先立って教義を教えてください。 J・ルーベン・クラーク・ ジュニア管長が教師に与えた指示をもう一度読んでください。この指示は,『教育に関する教会の指針』に載っています(宗教教育者への説教,1938年 8月8日付。Charge to Religious EducatorsSalt Lake City: The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, 1981年〕も参照)。クラーク管長が述べているように,わたしたちが倫理以外に何も教えないなら,失敗に終わります。しかし,救いに関する偉大で永遠の教義を教えるならば,成功します。そうすれば,倫理の原則は自ずと身につくでしょう。

  3. 御霊によって教えてください。これは論ずるまでもありません。最初からずっと真理であり,これからも永遠に変わらぬ真理です。福音をどのような方法で宣べ伝えなければならないのかは,アダムの時代に宣言されています。皆さんはこの偉大な宣言を理解し,自分のものにしているでしょうか。

    聖文にはこう書かれています。「その独り子,すなわち,時の中間に来ると神が宣言した者,創世の前に備えられた者を信じ〔なさい〕。」(モーセ5:57)つまり,キリストを信じて,偉大にして永遠に続く救いの計画に従いなさいということです。

    次のような言葉が続きます。「このように,福音は最初から宣べ伝えられ,神の前から遣わされた聖なる天使たちによって,神自身の声によって,また聖霊の賜物によって告げ知らされた。」(モーセ5:58

    福音は,聖霊の賜物によってのみ教えるべきであり,また聖霊の賜物によらなければ教えることができません。この賜物は,いと高き御方の聖徒であるわたしたちに与えられるもので,他の者には与えられません。わたしたちは比類のない存在であり,世の人にない力を持っています。宗教的な事柄や霊的な事柄についてのわたしたちの見方は,世の人々よりはるかに優れています。天からの霊感があるからです。

    男女の別に関わりなく,教えるという召し,教師になるという召しが教会で3番目に重要な責任であるのはこのためです。まさに,次のパウロの言葉のとおりです。「神は教会の中で,人々を立てて,第一に使徒,第二に預言者,第三に教師とし,次に力あるわざを行う者,次にいやしの賜物を持つ者,また補助者,管理者,種々の異言を語る者をおかれた。」(1コリント12:28)使徒,預言者,教師の順です。山を動かしたり,死人をよみがえらせたりする業は,その後なのです。

    使徒と預言者もまた教師です。これよりも偉大な責務を主から頂く人が他にいるでしょうか。教師は主の代理人としてその立場に立ち,主御自身がその場にいたらおっしゃるであろう言葉を語り,それを実行します。言葉が,聖霊の力によってあふれ出るからです。

  4. 福音の研究者になってください。このように偉大な責務を頂いているのですから,福音の研究者になって,御霊の力によって蓄えてきた真理の宝庫から,まさに必要なときに必要な言葉を引き出していただけるような生き方をしてください。それ以上のことができるでしょうか。

    当然のことながら,どの教師も,生徒にとっては聖文の解説者になります。それ以外の者になり得ません。わたしたち教師は説き,教え,説き明かし,勧めなければならないのです。しかし,教師の説明は,預言者や使徒の言葉と調和していなければなりません。御霊に導かれるならば,そうなるでしょう。預言者と使徒は,わたしたちが「様々な教の風に吹きまわされたり,もてあそばれたりすることがな〔い〕」ように(エペソ4:14),教会に置かれた最高指導者だということを忘れてはなりません。

さて,最後の言葉です。教会では皆,兄弟姉妹です。主は人を偏り見る御方ではありません。人は教会での地位によるのではなく,従順と個人の義によって救われるのです。

福音は,「すべての人が主なる神,すなわち世の救い主の名によって語るため」に回復されました(教義と聖約1:20)。わたしたちは皆,霊感の霊を受ける権利を有しています。預言者ジョセフ・スミスは次のように言っています。「神は何でもジョセフに啓示されただけでなく,十二使徒にもお知らせになるからである。また,最も小さな聖徒でさえも,耐えられる程度に応じてすべてを知ることができるのである。」(Teachings of the Prophet Joseph Smith, ジョセフ・フィールディング・スミス選〔Salt Lake City: Deseret Book Co., 1938年〕 149)

御霊の賜物はすべての教会員に与えられます。それどころか,ねたみと恐れを除き去り,「幕は裂け,」主を見て,主がおられることを知るまで,主の前にへりくだることは教会員の特権であり,王国のすべての長老の特権なのです(教義と聖約67:10)。

この業は真実の業です。この業には主の御手があります。やがて主の業は勝利を得ます。そして,自分の務めを果たす者は皆,この世で平安と喜びを得,次の世では永遠の命を受け継ぐ者となるのです。イエス・キリストの御名によって,アーメン。