インスティテュート
主が刈り入れを増し加えられる


主が刈り入れを増し加えられる

ヘンリー・ B・アイリング長老との夕べ,1998年2月6日

今晩皆さんとともに過ごせることに感謝しています。この集会は「中央幹部との夕べ」と呼ばれています。わたしにとっては友人との夕べです。多くの人がソルトレーク・シティーの歴史的なタバナクルに集っています。そしてさらに多くの人が,今も加速し続ける革新的な電子技術の奇跡的な広がりによって,国中からこの壮大な集会に参加しています。このことは主がこの地上での業を加速させようとしておられる証です。主は,愛にあふれた優しさと寛容によって,天の御父の子供たちに永遠の命を選ぶ機会を提供するという,わたしたちが召されている業を行うために必要な力を増し加えてくださいます。

この2月の晩に,皆さんは青少年が永遠の命を選ぶように導くことがいかに難しいかを思い,多少の落胆を感じているかもしれません。今日や昨日のクラスで,皆さんは生徒たちの表情や仕草を観察して,福音が彼らの心や生活に浸透している兆しを探していたことでしょう。ちょうど今は年度の中間〔訳注-北米では9月始業が一般的〕で,北半球では朝はまだ暗いこの時期,皆さんは昔の生徒からもらった感謝の手紙を引っ張り出したり,クラスの後に生徒の生活に良い変化があったと分かるような会話を思い出そうとしたりする,そんな時期なのです。わたしたちは皆,わたしたちの努力と犠牲が,主の救いの業に何らかの貢献をしているというしるしを目にしたいと願い,時に切望するものです。

わたしたちには,希望だけではなく,圧倒されるほどの感謝の念を持つ理由があります。主はわたしたちに与えてくださっている現代の技術的な奇跡をはるかに超えるような,わたしたちの努力の成果を増し加える力強い手段を,神の王国を築くために,初めから用意してくださっています。今晩,その幾つかについてお話しします。わたしの話から,もっと他のことを思いつく人もいるかもしれません。わたしがこれから話す手段とは,とても単純で有りふれたことなので,それらはないがしろにされ,その力は容易に見過ごされているかもしれません。

わたしの目的は,主がわたしたちの働きの成果を大いなるものとするよう準備してくださっているので,小さな簡単な行いによって,すばらしい刈り入れを期待できるという自信を持てるようにすることです。そして,主が準備された手段についてお話しすることで,より大きな刈り入れをもたらす小さな簡単なことを実践しやすくなります。教義と聖約第104章に記されているように,主は僕たちに次のように約束しておられます。「彼らが忠実であれば,わたしは彼らと彼らの後の子孫に数々の祝福を,まことに多くの祝福を増し加えよう。」(33節)

この約束の言葉は,皆さんの努力から得られる大いなる刈り入れのために,主が用意しておられる一つの方法を思い起こさせます。その方法はこの世の創造の前からあり,永遠に続く原則です。それは,主は家族を通して働かれるという原則です。祝福が個人だけでなく後に続く世代にまで宣言されるとき,祝福は無限に増えていくのです。この単純な概念により,わたしは生徒たちを見る目や,今晩皆さんを見る目さえも変わりました。わたしたちは後の何世代もの父親や母親になる生徒たちを教えているのです。両親は,子供たちの教師になることができるのではなく,必ず教師となるように命じられています。わたしたちは週に数時間生徒たちを教える祝福にあずかっています。両親は,もし望むならば,子供たちが幼いうちから毎日多くの時間を費やして教えることができます。両親は,わたしたちが彼らの子供たちを教える機会にあずかるずっと前に,子供たちの心と霊が感じやすく,永遠の命に向きやすい時期から教えることができるのです。

さて,彼らが成長して親になったときに,わたしたちが教えた方法に倣って,将来の家庭という神聖な領域の中で子供たちを教えているだろうかと思うかもしれません。教師には両親とは異なった責任と限界があります。しかしながら,生徒たちはわたしたちの教えを手本にするだけでなく,自信を持ってそのようにするということが分かってきました。わたしたちが教える原則は,家庭でも同等の力を発揮するのです。わたしたちが熱心に研究し,原則を応用することは,生徒たちの家族を何世代にもわたって祝福します。

計画された進路に従う

わたしは教えるべき原則を確認するために,J・ ルーベン・クラーク ・ジュニア管長の「教育に関する教会の指針」という説教をいつも読み返します。それは60年も前に,ブリガム・ヤング大学が所有するアスペン・グローブで教師たちに語られた説教です。クラーク管長は預言者としての洞察によって,今の時代とさらに先までを見据えていました。管長が教えている,生徒をどのように見て,どのように教えるべきかという原則は,わたしたちのレッスンや家庭,生徒たちの家族や将来の彼らの子供たちにも当てはまります。J・ ルーベン・クラーク管長は,次のように真実の原則を述べています。

「教会の青少年,すなわち皆さんの生徒は大多数,思いにおいても霊においても健全です。問題は主として,彼らを健全に保つことであって,彼らを改心させることではありません。

教会の青少年は,霊に関することに飢えています。彼らは福音を学びたいと切望しています。福音を薄めることなく純粋なまま学びたいと思っています。」(「教育に関する教会の指針」改訂版〔1994年〕,3)

クラーク管長は同じ説教の後半で,このような生徒たちから必ず生じるに違いない,教えることの原則について,はっきりと次のように話しています。

「既に申し上げたように,教会の青少年は霊的には子供ではありません。彼らは,世の人々の普通の霊的成熟度にかなり近づいています。したがって,世の人々が一般の青少年を扱うように,教会の青少年を霊的に子供として扱うことは,まさに見当外れの行為です。もう一度申し上げます。皆さんのセミナリーやインスティテュートにやって来る青少年はほとんど,自分が霊的な祝福を受けていることをよく知っています。また,祈りの効果を目にし,病人を癒す信仰の力を目の当たりにし,霊的なほとばしりを見ています。世の人々は一般に,このようなことを知らずにいます。皆さんは,このような霊的経験の豊かな青少年に対して,ご機嫌取りをする必要もなければ,宗教について耳にささやきかける必要もありません。まっすぐに面と向かって話せばよいのです。宗教的な真理を世俗的な事柄で覆い隠す必要はありません。皆さんはこれらの真理を包み隠さず,ありのままに教えることができるのです。青少年は皆さんよりも真理を恐れずに受け入れるでしょう。少しずつ小出しに教えたり,子供を寝かせつけるときの話のように教えたり,甘やかしたり,過保護にしたり,その他子供に対するような工夫を凝らす必要はまったくありません。そのようなものは,霊的な経験のない,あるいは霊的に死んだも同然の人々の心を動かそうとして使う手段です。」(「教育に関する教会の指針」,9)

皆さんはクラーク管長の青少年に対する楽観的な描写に耳を傾けるときに,クラーク管長がこの説教をされた1938年から教会は偉大な成長を遂げており,青少年は霊的なことに飢えているので,霊に関することを直接的に教えるべきであるという原則は変わったと思うかもしれません。クラーク管長の時代にセミナリーやインスティテュートに参加していた若い人々は,主に末日聖徒の2世や3世の世代でした。今日,教会員の67%は改宗者です。しかしそのうちの60%が14歳から25歳で,わたしたちのクラスに招かれている年代です。改宗者の生徒はますます増えていくでしょう。

神の王国がすべての国民,部族,国語の民,民族へ出て行くにつれて,皆さんのクラスに起こる大きな変化は,クラーク管長の預言的な洞察力を実証するに過ぎません。この先の数年間,それどころか数週間のうちに,ますます多くの生徒たちが,自分の選びによってバプテスマの水で神聖な聖約を交わすことでしょう。彼らは,神から権能を受けた神権者の按手によって聖霊を伴侶とする権利を受けます。彼らはその瞬間のことを覚えており,霊的なことに飢え乾くことでしょう。彼らは御霊により,真理が行われたことを認めます。そして,皆さんの回復されたイエス・キリストの福音の基本的な真理に対する証の炎を感じることにより,自身の証を深めたいと切望することでしょう。

生徒たちがますますクラーク管長が描写した若者たちのようになっていくように,彼らの将来の家庭に生まれる子供たちもそうなることでしょう。ついこの前皆さんが子供と座り,聖文を読み,家庭の夕べのレッスンを教えたとき,皆さんは子供たちの中にクラーク管長が述べた特質を目の当たりにし,感じたことでしょう。彼らは霊的なことに飢えており,霊的な真理を認識し,時には皆さんが教えた以上のことを知っているかのようです。何年も前に述べられた原則は,将来皆さんのクラスでも生徒たちや彼らの子孫の家庭でも,確かな指針となるでしょう。

このことはわたしたちが学び,わたしたちを導く原則に信仰を持って従うことをきわめて重要にします。幾つかの原則を,誤解のないようにクラーク管長の言葉でそのまま紹介します。

「皆さんは一般社会の知識や文化に純粋に関心を持っています。しかし,わたしはもう一度繰り返し強調します。皆さんがまず関心を払うべきこと,皆さんの最も大切な,また唯一の義務は,この末日に啓示されたままに,主イエス・キリストの福音を教えることです。……職の高低にかかわりなく,皆さんの仕事の中に自分独自の考え方を無理やりねじ込むようなことをしてはなりません。その源が何であれ,あるいはそれがどんなに喜ばしく,道理にかなったもののように思えたとしても,そうすべきではありません。そのように行うならば,セミナリーのクラスの数と同じくらい多くの教会が出現することになります。そして,混乱を招くことになります。

皆さんは職の高低にかかわりなく,教会の標準聖典に宣言され,主の御旨と御心を教会に伝えるように権威を与えられた人々の宣べた教会の教義を,変えたり修正したりしてはなりません。主は御自身のことを『昨日も,今日も,またとこしえに変わらない』と言っておられます。」(「教育に関する教会の指針」,10)

さて,この教えによると,わたしたちは霊的に飢え乾いている生徒たちに,できる限り直接的に,生ける預言者や標準聖典が述べているままに,イエス・キリストの福音を教えるべきです。概して,この点において皆さんはとてもよくできています。しかし,わたしたちの責任と与えられている機会の重要性を考えると,もっと良くできないだろうかと自問することが求められます。世の中の常識や福音の教義もその答えを与えてくれます。わたしたちはもっと良くできます。皆さんがご存じのように,ブリガム・ヤング大管長は次のように話しています。皆さんには大管長の声が聞こえるでしょうか。

「物事の進歩とは,霊と天の計画に属するものです。思いを改善すること,知恵や知識,理解を増すこと,地球や地球の創造の目的について,また天や天体について,あらゆる種類の仕組みや科学の知識を収集すること,これらは全て天のものであり,神から来ます。しかし,人々の霊が衰え,退き,下降していくならば,彼らは天と天の事柄から離れて行くのです。」(Discourses of Brigham Young, ジョン・ A・ウイッツォー〔1941年〕,78)

よく行う事柄の中に小さな変化を起こす

ほとんどの人は,自己を改善するように努力した経験が多少はあります。わたしは自分の経験から,人々と組織の改善方法について学びました。最も注目すべき点は,わたしたちのよく行う事柄の中に小さな変化を起こしていくことです。着実に,また繰り返し行うことには力があります。適切で小さな変えるべき事柄を選ぶよう霊感による導きを得ることができれば,従順であり続けることによって大きな進歩がもたらされます。

そこで,わたしたちの多くが教えるときにいつも利用している,もしくはあえて利用しないようにしている3つの手段について提案します。それらのいずれか,または全てにおいて小さな良い変化を起こせば,わたしたちが心から望むように,刈り入れは増し加えられるでしょう。1つ目はディボーショナル,2つ目は教科課程,そして3つ目は質問をすることと答えることです。

さて,わたしが少しでも改善できそうな小さな変化を起こす箇所を探す方法について少しお話しします。わたしはクラーク管長が教えた原則に従います。管長は,わたしたちの生徒たちは霊的に飢えており,わたしたちは彼らを養うのを助けるのだと話しました。彼らを養うことができる唯一の方法は,聖霊がわたしたちの教える福音の真理を確認し,理解を広げることです。そして,主はどのようにしてそれが確かに起こるか示されました。わたしにそれを明らかにしてくれた聖文は,教義と聖約第6章の14節と15節です。主はオリバー・カウドリの経験した過程について述べました。その過程はわたしたちの生徒たちと彼らの子供たちにも当てはまります。

「まことに,まことに,わたしはあなたに言う。あなたが行ってきたことのために,あなたは幸いである。あなたはわたしに尋ね,そして見よ,尋ねる度に,わたしの御霊からの教えを受けてきたからである。そうでなかったならば,現在あなたがいる所に来ることはなかったであろう。

見よ,あなたがわたしに尋ねたので,わたしがあなたの思いを照らしたことを,あなたは知っている。そして今,あなたが真理の御霊に照らされたことを知るように,わたしはこれらのことをあなたに告げるのである。」

わたしはこの言葉を真実の教義として,また簡潔な指示として理解しています。わたしが求めている小さな変化とは,教える生徒が信仰によって神に尋ね求める可能性が増すことです。そのような機会は,必ずいつも御霊による教化をもたらします。そして,それこそわたしたちが教える人々に求めている霊的な養いなのです。それはわたしたちが教える際に通常行うすべてのことの中で,改善の余地を見つけられるように助けてくれるでしょう。

ディボーショナル

例として,ディボーショナルは原則を当てはめる機会を提供する場です。わたしたち多くにとって,ディボーショナルとは,音楽,祈り,霊的な話を含み,しばしばその順序で構成されています。

シオンの賛美歌は部屋に聖霊を招きます。そのため,わたしたちは可能な限り歌います。それには手軽な方法と入念な方法があります。入念な方法は,その日のレッスンの内容を前もって考え,生徒たちに真実であると分かってもらいたい,中心的な概念を見つけます。そして一人の生徒に,そのことを実現する助けになるような賛美歌を選ぶように依頼するのです。わたしたちが真剣に助けを求めていると感じるとき,依頼された生徒は,それは簡単なことではないと思うかもしれません。しかし,もし周到に行われるならば,わたしたちの招きは生徒たちに天に助けを求めるよう促します。彼らは祈るときに教化されるのです。そして,その賛美歌を歌うときに,たとえ伴奏が下手で,歌声が多少小さくても,いつもの音楽以上のものとなるでしょう。

同様の小さな変化は,ディボーショナルの中で生徒に祈りを依頼するときにも可能です。わたしたちは生徒に開会の祈りをささげてくれるよう依頼することがあります。もし彼らが,わたしたちがその日に教えようとしている内容と,どれほどの助けが必要かを知っていれば,祈りの中で神に助けを求めるかもしれません。そのようなときには,そのクラスでささげられた祈りはより嘆願と感謝に満ちたものとなるでしょう。そして,祈っている生徒とその嘆願の祈りを聴いている生徒はともに教化されるのです。

主は,霊的なお話を依頼された生徒の努力を増し加える方法も用意しておられます。多くの生徒はわたしたちが学ぶ聖典を毎日読んでいます。彼らの多くがモルモン書も読んでいるでしょう。自覚しているかどうかにかかわらず,彼らが聖典を読むときには,その言葉が真実であるという確認を受けています。わたしたち一人一人の方法があると思いますが,霊的なお話を依頼する際に次のように招くことができます。「あなたは,これまで読んだ聖文から何かを感じたことがあると思いますが,その聖文を皆さんに読んで,感じたことを分かち合ってくれますか。」

十分な余裕を持って依頼がなされるときに,力強い連鎖が始まります。依頼された生徒は聖文を読むときに御霊の小さなささやきにもっと注意深く耳を傾けるようになります。そしてより注意深く耳を傾けていると,そのような気持ちを感じる頻度と明瞭さが増します。それによってどの聖文を選ぶべきか促しを受けます。そうすると,クラスの生徒たちは聖文に書かれてある以上の言葉を聞き,霊的なお話を分かち合っている生徒が感じているよりも強い気持ちを感じます。わたしたちが教科課程を教える前に,生徒たちは御霊によって教えを受けるのです。

教科課程

では,次の手段である教科課程について話しましょう。わたしたちは,ただクラーク管長の勧告が真実であると受け入れることだけで,教科課程の使い方を改善する方法を見いだすことができます。クラーク管長は,わたしたちは教会の基本的な教義を,標準聖典のままに,また教義を宣言する責任を持つ預言者の教えのままに教えなければならないとはっきり述べています。教科課程を計画する人々は,その勧告に注意深く従っています。すべてのレッスンの手引き,教える内容と教え方に関するすべての提案は,同じ原則に基づいて制作されます。教会で教えられる教義が正確であることを確認するために預言者によって召された人々は,皆さんが受け取るその教科課程の中のすべての言葉,すべての写真,すべての図表を吟味します。教科課程は神から霊感されたものであるという信仰をただ働かせることによって,教科課程の力を引き出すことができるのです。

第一には,レッスンの順序に従うことです。これには信仰が必要かもしれません。例えば,ここ数週間わたしは強く感じているのですが,もし報道関係の人々がヒラマン書を読んだならば,自分たちが伝えるニュースをどれほどよく解釈できることでしょう。(このように言うと,ヒラマン書の内容を知っていて放送を見ている人は苦笑するかもしれません。)その思いに促され,わたしはセミナリーとインスティテュートの教科課程で,約束の地の人々の繁栄,高慢,罪悪,破滅,そして悔い改めの悲惨なサイクルについて書かれている,ヒラマン書の7章から16章を注意深く学びました。もしこの内容を3月ごろに教える予定だと分かったならば,わたしは今すぐにでも教えたいという誘惑に駆られることでしょう。そのレッスンの話し合いはとても活気のあるものになるでしょうし,当時の預言者がわたしたちの時代を恐ろしいほどはっきりと見ていたことが分かるでしょう。生徒たちは預言者が神の権威を持って警告していることに感銘を受けるかもしれません。彼らは聖文がわたしたちの時代の脅威に当てはまることが確かに分かるでしょう。

しかし,わたしは次のように勧めます。わたしたちは霊感された教科課程の順序にとどまるならば大丈夫です。わたしたちが喜んで従うことにより,信仰ある,はるかに力強いレッスンを教えることができます。生徒たちは,聖文はどんな時代にでも当てはめられるという確かな確信をわたしたちが持っていることを感じるでしょう。今年や来年の3月,もしくは4年後の3月であっても,ヒラマンの言葉をわたしたちの生活になぞらえる十分な理由があるのです。そしてわたしたちは,もし主が今日の出来事に直ちに対応するように求められるならば,クラーク管長の次の警告をあえて軽んじるようなことはせず,今日の預言者の言葉に頼る完全な信仰を持っていることを,模範によって示すのです。管長は言いました。「皆さんの仕事の中に自分独自の考え方を無理やりねじ込むようなことをしてはなりません。その源が何であれ,あるいはそれがどんなに喜ばしく,道理にかなったもののように思えたとしても,そうするべきではありません。」(「教育に関する教会の指針」,10)

教科課程の内容と順序に忠実であれば,わたしたちが持つたぐいない教授の賜物は抑えられることなく,引き出されることでしょう。わたしたちが使い切れないほど多くの,教えるためのアイデアや教え方,相互参照聖句があります。預言者の指示に従順に従い,教科課程を単純化し削減してきましたが,それでもまだわたしたちが網羅できる以上の分量があります。ですから,わたしたちそれぞれの教え方に合った内容を選択する十分な機会があります。しかし,わたしたちは生徒たちが啓発されるように,また主に尋ね求めるようになってほしいと望んでいるので,模範によって彼らを祝福しなければいけません。そのために,わたしたちは教科課程を一字一句じっくり読むのです。恐らく全ての参照聖句を探し,研究する時間はないかもしれませんが,神はわたしたちの生徒を御存じであり,相互参照聖句やレッスンを豊かにするアイデアを御存じです。主はわたしたちの多忙なスケジュールや心の望みをよく御存じです。主はわたしたちができる限り教材を読み,準備をするときに,そのことを御存じです。わたしたちが生徒たちに教化されてほしいとどれほど望んでいて,どれほど助けを必要としているかを御存じです。わたしたちが求めるときに,主はわたしたちに教科課程のどの部分を,どの順序で使い,どの参照聖句を掘り下げるべきか導いてくださいます。

そうするときに,昔からの疑問が解決されます。少なくともわたしにとっては疑問でした。何年も前にわたしが教えた教師訓練のクラスでは,一つのステップとして「事前評価」という項目がありました。覚えておられるでしょうか。それにいつも戸惑いました。教師はまず生徒が知っていることと知る必要があることを知ってからレッスンの準備をすることになっていました。わたしにはどのようにそれができるのか,はっきりと分かりませんでした。たとえミニレッスンを行うときでさえ,一人一人の生徒を事前に評価することは不可能に思えました。この中にはクラスが少人数のため,生徒と親しい関係を築くことができ,彼らが何を知っていて,何を必要としているか,ある程度自信を持って推測できる人もいるかもしれません。しかし,多くの生徒を持ち,このことが難しい多くの人のために,慰めがあります。主は彼らが何を知っていて,何が必要かを完全に御存じです。主は生徒たちを愛し,わたしたちも愛しておられます。そして,主の助けを受けて,わたしたちはこれらのことを事前に評価し,その日のクラスで自分の教える力を最大限に引き出すだけでなく,生徒たちに天の力をもたらすような教科課程の内容を選ぶことができるのです。

さて,教科課程に加えて,クラスをより豊かにする活動が何か必要だと感じる時があるかもしれません。2月は特にそのように感じる時期です。生徒たちはクラスに参加しても関心を欠いており,出席率が下がっているかもしれません。何かを付け加えようとしてわたしたちが真っ先に考えるのは,レッスン以外で彼らが関心を持っていると分かっていることでしょう。生徒たちは様々な世の娯楽にますますさらされ,引き付けられています。クラーク管長のメッセージは,何を加えるべきか選択する方法や,どのような活動を加えるか,どのように賢い選びができるか提案しています。管長はわたしたちや将来の世代が生きる,このメディア漬けの時代を予見していたように思えます。管長は,もしわたしたちが尋ね求めるなら,どのような経験が御霊を招き,何がわたしたちの求めている御霊の影響を退けてしまうのかが分かると約束しています。次にクラーク管長の祈りの言葉を引用し,わたしから皆さんへの約束とします。

「皆さんの義にかなった努力のゆえに,神がいつも皆さんを祝福してくださいますように。神が皆さんの理解を早め,知恵を増し,経験を与えて啓発し,忍耐力と愛を授けてくださいますように。また,非常に貴い賜物の一つとして,霊を識別する賜物を与えられ,皆さんが自分に近づく義の霊と,その反対の霊を確実に見分けることができますように。神が皆さんに,皆さんの教える生徒の心の入口を示してくださり,また,皆さんがそこを入るとき,聖なる所に立っていることを知らせてくださいますように。皆さんは,偽りの教義や邪悪な教義,罪深い行いによってその聖なる所を汚してはなりません。神が皆さんに,義を教える技術と能力とともに,知識を与えてくださいますように。皆さんの信仰と証が増しますように。また,日々他の人々の信仰と証を鼓舞し養う力を増し加えられますように。それによってシオンの若人たちを教え,築き上げ,励まし,鼓舞し,また彼らが道をそれることなく永遠の命に向かって歩み続け,これらの祝福が彼らにもたらされ,また彼らによって皆さんも祝福されますように。」(「教育に関する教会の指針」,12)

クラーク管長の祝福により,わたしたちのセミナリーやインスティテュートが御霊を妨げる音楽や活動,お話,ユーモアで盛り上がるようなことのないよう願います。

質問は霊感を招く

ここで,わたしたちがもっと効果的に使えると思われる,もう一つの日常的な手段について話します。質問をすることと質問に答えることは,学び,教えるすべてのことの中心です。主はその教導の業の間,質問し,質問に答えられましたが,時には答えないということを選択されました。教科課程には問いかけたり,深く考えさせたりするための多くの質問が提案されています。その中には,「ヒラマンの父親は誰でしょうか」や「この地は誰のために聖別されているでしょうか」といった質問のように,ただ記憶の中から答えとなる事実を探し出すことを求める質問もあります。

しかし,中には霊感を招く質問もあります。優れた教師が尋ねるのはそのような質問です。言葉遣いや声の抑揚をほんの少し変えるだけでよいかもしれません。次のような質問は霊感を招くものとは異なります。「真実の預言者はどのようにして分かりますか。」この質問に対する答えは,リスト形式で,聖文と生ける預言者の言葉についての記憶から引き出されます。多くの生徒が参加し,質問に答えられます。大抵の人なら無難な意見を述べることができます。そして,知性が鼓舞されることでしょう。

しかし,質問を少し変えるだけで,次のように尋ねることもできます。「皆さんはいつ,自分は預言者の前にいると感じましたか。」この質問は,記憶の中の自分の気持ちを思い出すように促します。質問した後,誰かに答えてもらう前に少し時間を置くのが賢明でしょう。話さない人たちも霊的な経験について考えることでしょう。それが聖霊を招きます。それから,もし誰も話さなかったとしても,生徒たちは,神がわたしたちを教え,導くために預言者を召されている時代に生きる祝福についての皆さんの穏やかな証を聴く準備ができていることでしょう。

わたしたちが生徒に質問するときに,生徒たちの思いには決まって疑問がわいてくるものです。時々生徒たちはわたしたちが知らないことや,預言者がどのように言っているのか分からないような質問を尋ねてきます。そのようなときには,生徒たちが聖霊によって確認された真理を聞くことによって養われるようにするというわたしたちの目的を思い起こして,最善を尽くします。基本的で確立されたイエス・キリストの福音の真理に基づいた回答ができるか不安がある場合は,生徒に単純に「分からない」と言うことが最も良いでしょう。例えば,救い主の再臨の日がいつかは分からないと答えるときに,わたしたちにはすばらしい仲間ができます。天の使いであってもそのように答えるからです。わたしたちは生徒たちに,神は答えが必要なすべての質問に答えられるという信仰と,たとえ答えがなくとも前進する忍耐を示すことができます。

これらの提案はどれも特に目新しくも重要でもないように思えるかもしれません。しかし,一人の生徒の何年も後の姿についてしばし想像してみてください。皆さんの心の目で思い浮かべてください。小さな居間で,数人の小さな子供たちが集まり,中には床に座っている子もいるでしょう。そして今や親となった生徒が,いすに座り,子供たちにほほえみかけています。家庭の夕べが始まる時間のようです。片方の親がその日のプログラムを静かな声で発表し,子供たちはいつものことを始めます。一人の子は音楽を指揮し,もう一人はお祈りをします。別の子が霊的なお話をします。それから,わたしたちの生徒が寝室から持ってきたよく使い古された聖典を使い,年長の子供に幾つかの聖句を読んでもらって簡単なレッスンをします。わたしたちの生徒は前回のレッスンや次のレッスンの内容について何かを言及します。そしてその後にゲームをしています。そのゲームはその部屋に始めからある雰囲気を保つもので,その雰囲気は寝るときまで続くのです。

第三者から見ると,それは在りきたりで平凡なことに思えるかもしれません。しかしそこには,それ以前に起きているために,観察者には見ることのできないことがあります。それは何年も前に,皆さんのようなすばらしい教師の模範によって起きたことです。この未来の家にいる親たちは,どの聖典の教科課程に従うか何度も思い巡らしてきたことでしょう。彼らはレッスンの準備に何時間も費やしました。彼らはどのような概念を教え,どの聖句を使うべきか知るために祈りの中で嘆願しました。彼らは子供たちに歌を選び,祈り,霊的なお話をするよう個人的に依頼しました。観察者には小さな女の子が毎晩聖文を読む姿も,御霊を招く目的で尋ねられた質問に答えた子供の目の輝きも見ることはないでしょう。

教会教育システムの教師として,自分たちの働きの実を見ることが難しい日々もあるでしょう。しかし,わたしたちは自分たちの力をはるかに超える力をもって,大いなる業に携わっているのです。刈り入れの主,イエス・キリストがわたしたちの主人であり指導者であられます。主はわたしたちを主の業の特別な役割に召され,その働きの結果を大いなるものとするために手段を用意してくださいました。わたしたちは主の信頼に忠実でありましょう。主も御自身の約束を果たされます。シオンの若者は築かれ,彼らは命のパンで養われ,そしてこの世での神の王国の基であり,天の王国での約束である,永遠の家族を築くのです。

わたしたち教会教育システムは示された指針に従います。生徒たちがわたしたちと航海するのはわずか数年にすぎませんが,皆さんは自分の人生の旅路の終わりに,皆さんの模範に従うことによって祝福されてきた,何千人もの彼らの子孫とまみえることでしょう。わたしは主が皆さんを,その忠実な働きのために愛しておられることと,主が刈り入れを増し加えられること,これらのことを皆さんが分かるように祝福します。

イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。