インスティテュート
高ぶりを心せよ


高ぶりを心せよ

Conference Report, 1989年4月,3;『聖徒の道』1989年7月号,4-7

愛する兄弟姉妹の皆さん,教会の栄えある総大会で再びお会いすることができ,うれしく思います。全世界の献身的な教会員の愛と祈り,奉仕に心から感謝しています。

モルモン書で地と自分自身の生活を洪水のごとく満たすために努力している,忠実な聖徒の皆さんをほめたたえたいと思います。わたしたちは画期的な方法を講じて,より多くのモルモン書を世に広めなければなりません。しかし,求められているのは,それだけではありません。わたしたちは意を決して,この大いなるメッセージを自分自身の生活に,ひいては地の隅々に浸透させなければなりません。

この神聖な書物は現代のわたしたちのために書かれました。その聖文は「自分たちに当てはめ」るべきものです(1ニーファイ19:23参照)。

高慢の罪

教義と聖約には,モルモン書について,「ある堕落した民の記録」と記されています(教義と聖約20:9)。彼らはなぜ堕落したのでしょうか。これはモルモン書の重要なメッセージの一つです。モルモンはモルモン書の終わりの方の章にその答えを記しています。「見よ,この国民,すなわちニーファイ人の民は,悔い改めなければ高慢のために滅びてしまう。」(モロナイ8:27)主はさらに,わたしたちがモルモン書の堕落した民から伝えられたこの重要なメッセージを見落とさないように,教義と聖約の中で次のように警告されました。「あなたがたは昔のニーファイ人のようにならないよう,高慢に気をつけなさい。」(教義と聖約38:39

わたしは今からモルモン書のこのメッセージ,すなわち高慢の罪とは何かについて明らかにしたいと思います。皆さんの信仰と祈りによる助けを心からお願いします。このメッセージがここしばらくの間,わたしの心に重くのしかかっていました。主が今わたしにこのメッセージを伝えるように望んでおられることが分かります。

「高慢に気をつけなさい」

前世の会議で,「暁の子」ルシフェルが投げ落とされたのは,その高慢さのゆえでした(2ニーファイ24:12-15教義と聖約76:25-27モーセ4:3も参照)。神がこの世の終わりに火で地を清めるとき,誇り高ぶる者はわらのように焼かれますが,柔和な人は地を受け継ぎます(3ニーファイ12:525:1教義と聖約29:9ジョセフ・スミス-歴史1:37マラキ4:1参照)。

主は教義と聖約の中で3度,この「高慢に気をつけなさい」という言葉を使っておられます。その中には,教会の第二の長老であるオリバー・カウドリと,預言者の妻であるエマ・スミスに対する警告もあります(教義と聖約23:1教義と聖約25:1438:39も参照)。

神が定義する高慢

高慢は,はなはだしく誤った解釈をされている罪であり,多くの人が無意識のうちにこの罪を犯しています(モーサヤ3:113ニーファイ6:18参照)。聖典の中には,義にかなった高慢というようなことを教えている箇所は一つもありません。高慢は常に罪と見なされています。ですから,世の中でこの言葉がどのように使われているかは問題ではありません。わたしたちが理解しなければならないのは,神がこの言葉をどのように使われているかです。そうすれば聖典の言葉を理解して,その恩恵にあずかることができるのです(2ニーファイ4:15モーサヤ1:3-7アルマ5:61参照)。

ほとんどの人は,高慢というと「自己中心」,「うぬぼれ」,「自慢」,「尊大」,「傲慢」,などの言葉を思い浮かべます。これらは皆,高慢の罪の中に数えることができますが,核心となるものが抜けています。

高慢の中心をなすのは「敵対心」,すなわち神と同胞に対する敵対心です。敵対心は「憎悪,敵意,反感」などを意味します。サタンは,この力によってわたしたちを支配しようとします。

神に対する敵対心

高慢は本質的に闘争的な性質を持っています。わたしたちは,自分の思いを押し通して,神の御心に刃向かうことがあります。自分の高慢な心を神に向けるのは,「御心ではなく自分の思いが成るように」と言っているのも同じことです。パウロはそのような人についてこう言いました。「自分のことを求めるだけで,キリスト・イエスのことは求めていない。」(ピリピ2:21

神の御心に対する敵意は,欲望や欲求,激情の歯止めを失わせてしまいます(アルマ38:123ニーファイ12:30参照)。

高慢な人は,自分の生活を律する神の権能を認めることができません(ヒラマン12:6参照)。自分なりに真理を解釈して,神の偉大な真理に挑むのです。また,自分の能力をもって神権の力に対抗したり,自分の功業を挙げて偉大な神の御業に対抗したりするのです。

神への敵意は,反抗,かたくなな心,強情さ,罪を悔い改めない,誇り高ぶる,すぐに怒る,しるしを求める,など実に様々です。高慢な人は,神が自分の考えに同意するよう求めます。神の御心に合わせて,自分の考えを変えるなどということは念頭にありません。

同胞に対する敵対心

どこにでも見受けられるこの高慢という罪悪には,もう一つ重大な要素があります。それは同胞に対する敵対心です。わたしたちは,人よりも上に立ち,ほかの人をおとしめようとする誘惑に毎日直面しています(ヒラマン6:17教義と聖約58:41参照)。

高慢な人は,自分の知性,意見,仕事,財産,才能など,この世的な尺度をもって張り合い,すべての人を敵にまわします。C・ S・ルイスはこう書いています。「高慢な者は何かを所有しただけでは喜ばない。人より多く持って初めて喜ぶのである。-人を高慢にするのは比較である。すなわち,自分は他よりも優れているという優越感である。競争心という要素がなくなれば,高慢もその姿を消すのである。」(Mere Christianity, ニューヨーク:マクミラン,1952年, 109-110)

ルシフェルは前世の大会議で,イエス・キリストが擁護する御父の計画に反抗して,自分の考えを押し立てました(モーセ4:1-3参照)。彼の願いは,すべての人に勝る誉れを得ることでした(2ニーファイ24:13参照)。要するに,ルシフェルは高慢にも神をその位から退けようとしたのです(教義と聖約29:3676:28参照)。

高慢の結果

聖典には,この高慢の罪が個々の人間,あるいは民,町,国家に悲惨な結果を及ぼした実例が数多く記されています。「高ぶりは滅びにさきだ〔つ〕」のです(箴言16:18)。ニーファイ人の国やソドムの町を滅ぼしたのも,この高慢の罪です(モロナイ8:27エゼキエル16:49-50参照)。

キリストを十字架につけたのも,この高慢でした。パリサイ人は,御自身を神の子と主張するイエスの言葉に激怒しました。彼らによってイエスのその言葉は,自分たちの地位を危うくする大きな脅威でした。それで彼らは,イエスの殺害を謀ったのです(ヨハネ11:53参照)。

サウルがダビデの敵になったのも,高慢のゆえでした。イスラエルの女たちが次のように歌うのを聞いて嫉妬したのです。「サウルは千を撃ち殺し,ダビデは万を撃ち殺した。」(サムエル上18:718:6,8も参照)

高慢な人は,神の裁きよりも,人にどう思われるかを恐れます(教義と聖約3:6-730:1-260:2参照)。彼らにとっては,「神にどう思われるか」よりも,「人にどう思われるか」の方が重要なことなのです。

ノア王は預言者アビナダイを放免しようとしましたが,邪悪な祭司たちに高慢な心をかきたてられて,アビナダイを火刑場に送りました(モーサヤ17:11-12参照)。ヘロデもバプテスマのヨハネの首を切るように妻から求められたときに,当惑しましたが,結局は「列座の人たちの手前」よく見られたいという高慢な思いから,ヨハネを殺してしまいました(マタイ14:9マルコ6:26も参照)。

人にどう思われるかを恐れる人は,人の称賛を求めて争うようになります。高慢な人は「神のほまれよりも,人のほまれを好」むのです(ヨハネ12:42-43)。どのような動機で行動するかによって,罪かどうかが決まってくるのです。イエスは,「わたしは,いつも神のみこころにかなうことをしている」と言われました(ヨハネ8:29)。わたしたちは,人に勝ることや勝つことではなく,神の御心にかなうことをしたいという動機で,行動すべきではないでしょうか。

高慢な人の中には,自分の収入が生活の必要を満たしているかどうかよりも,ほかの人よりも多いかどうかということに気をとられている人がいます。このような人が望む報酬は,人より上に立つことです。これが高慢な思いのもたらす闘争心です。

高慢な思いに捕らわれると,この世的なものに縛られ,人にどう思われるかを恐れて自由を失ってしまうようになります。世の声は御霊のささやきよりもはるかに大きいものです。そして,人の理論は神の啓示を押しのけ,高慢な人は鉄の棒から離れていくのです(1ニーファイ8:19-2811:2515:23-24参照)。

高慢の現れ

人の高慢はよく目につきますが,自分自身の高慢の罪を認めるのは非常に難しいことです。多くの人は,高慢の罪を犯すのは金持ちや学者のように社会的地位や権力があって,ほかの人を見下す人だと考えています(2ニーファイ9:42参照)。しかし,それ以上にわたしたちの間に広がっている病があります。それは人を見下すのとは逆に,自分より多くのものを持つ人を,ねたみ心を持って見上げる高慢さです。これは,あら探し,うわさ話,中傷,不平,収入以上の生活,そねみ,うらやみ,また,人を高める感謝の念や称賛の言葉の欠如,人の過ちを赦さない不寛容さ,嫉妬など様々な形で現れます。

不従順も本質的には,自分より上の立場にある人に反抗するという,高慢のなせる業です。不従順な人は,両親や神権指導者,教師,そしてついには神にまで挑んでいきます。彼らは,自分の上にだれかが立つことを嫌います。それによって自分の立場が低くされると考えるのです。

利己心は,高慢がさらに一般的な形をとって現れたものです。うぬぼれ,自己憐憫,この世的な願望の実現,自己満足,利己主義などの根底にあるのは,「それは自分の得になるのか,損になるのか」という考え方です。

高慢の行き着く結果として,権力と「利益と世の誉れ」を求めて作られた秘密結社を挙げることができます(ヒラマン7:5エテル8:9,16,22-23モーセ5:31参照)。高慢の罪の実である秘密結社は,ヤレド人とニーファイ人の文明を崩壊させました。そしてほかにも多くの国の堕落の原因となり,それは今後も続いていくことでしょう(エテル8:18-25参照)。

高慢はもう一つ,争いという形でも現れます。論争,けんか,不正な支配,世代の断絶,離婚,伴侶の虐待,暴動,騒乱,これらはすべて高慢の範ちゅうに加えられるべきものです。

家庭内の争いは主の御霊を遠ざけます。また,家族の多くを遠ざける結果にもります。争いの範囲は,憎しみの言葉から,果ては世界的な紛争にまで及びます。聖典には「高ぶりはただ争いを生じる」とあります(箴言13:10箴言28:25も参照)。

聖典は,高慢な人は容易に怒り,恨みを抱くことを証しています(1ニーファイ16:1-3参照)。そして,相手に責任を負わせたまま赦しを与えず,自分の傷ついた気持ちだけを正当化しようとします。

高慢な人は,勧告や矯正を容易に受け入れません(箴言15:10アモス5:10参照)。彼らは自分の弱点や失敗を正当化し,合理化するため自己弁護に終始します(マタイ3:9ヨハネ6:30-59参照)。

高慢な人は,自分に価値があるかどうかの判断を世の人々に求めます。彼らの自尊心は,世の人から自分がどれほど成功していると思われているかということによって左右されます。また,業績や才能,美しさ,知性などにおいて,自分より劣る人が多いほど,その自分の価値が高いと感じるのです。高慢は醜いものです。高慢な思いに捕らわれている人はこう言います。「あなたの成功は私の失敗です。」

もし神を愛し,御心を行い,人の裁きより神の裁きを恐れるなら,わたしたちは自尊心を持つことができるようになります。

「破滅的な罪」

高慢は,確かに破滅をもたらす罪です。人の成長を制限し,止めてしまいます(アルマ12:10-11参照)。高慢な人は,なかなか教えを聞こうとしません(1ニーファイ15:3,7-11参照)。心を入れ換えて真理を受け入れようとしません。そうすることは自分の間違いを意味するからです。

高慢はあらゆる人間関係に悪影響を及ぼします。その影響は,神とその僕,夫と妻,親と子,雇用者と従業員,教師と生徒,そしてすべての人間関係に及びます。高慢の度合は,神や兄弟姉妹に対してどのような態度を取るかによって量られます。キリストは御自身のおられるところまでわたしたちを高めたいと望んでおられます。わたしたちも人々に対して同じ気持ちを持っているでしょうか。

高慢は,自分が神の子供であり,すべての人と兄弟姉妹であるという意識を薄れさせます。また「富と学問の機会の多少に応じて階級に区別」します(3ニーファイ6:12)。高慢な人に一致は不可能です。わたしたちは一つとならなければ主のものではありません(モーサヤ18:21教義と聖約38:27105:2-4モーセ7:18参照)。

高慢がもたらすもの

高慢の罪が自分の生活や家族,教会に,これまで何をもたらしてきたか,また今何をもたらしているか考えてください。

また悔い改めがもたらすものを考えてください。高慢な思いで罪の告白と悪い行いを捨て去るのを拒むようなことをしないかぎり,わたしたちは生活を変え,夫婦のきずなを保ち,家庭を強めることができます(教義と聖約58:43参照)。

心を傷つけられて教会に来ていない多くの人々について考えてみてください。彼らは高慢な思いのために,人の過ちを赦すことができず,主のテーブルに着くことができないでいるのです。

高慢を取り除けば伝道に出られる大勢の若い男性や夫婦について考えてください。彼らは高慢のために,自分の思いを神に従わせることができません(アルマ10:6ヒラマン3:34-35参照)。

高慢な思いのままに様々なことを追い求めて時間を浪費するよりも,死者のために働くことの方が大切です。それが理解されれば,神殿活動がどれほど活発になるか考えてみてください。

至る所に見受けられる罪

高慢は様々なときに,様々な強さで,すべての人に影響を与えます。さて,これで皆さんは,リーハイが夢で見た,人々の高慢を表す建物がなぜ大きくて広々としていたのか,理解できたのではないでしょうか。またなぜ大勢の人々がそこへ入っていったのかも,お分かりになったと思います(1ニーファイ8:26,3311:35-36参照)。

高慢は至る所に見受けられる罪であり,大きな悪です。そうです。高慢は世を覆っている大きな悪なのです

謙遜:高慢の治療薬

高慢の治療薬は謙遜です。柔和と従順です(アルマ7:23参照)。「打ち砕かれた心と悔いる霊」です(3ニーファイ9:2012:19教義と聖約20:3759:8詩編34:18イザヤ57:1566:2参照)。ルドヤード・キプリングは次のように書いています。

「喧噪と叫び声がやみ

司令官や王は世を去っても

いにしえの主の犠牲と

へりくだり悔いる心は残る。

万軍の主なる神よ,我らとともにおりたまえ。

我らが主の犠牲と贖いを忘れぬために。」

”God of Our Fathers, Known of Old,” 賛美歌〔英文〕 80番)

へりくだる道を選ぶ

神は謙遜な民を求めておられます。わたしたちは自ら進んでへりくだることもできれば,強制されてへりくだることもできます。アルマは言いました。「やむを得ずへりくだるのではなく,自らへりくだる人々は幸いである。」(アルマ32:16

自分からへりくだる道を選びましょう。

わたしたちは,兄弟姉妹に対する憎しみを克服し,彼らを自分自身のように尊び,また自分以上に尊重することによって,進んでへりくだることができます(教義と聖約38:2481:584:106参照)。

勧告と懲らしめを受け入れる人は,自分の意志で謙遜になる道を選べます(モルモン書ヤコブ4:10ヒラマン15:3教義と聖約63:55101:4-5108:1124:61,84136:31箴言9:8参照)

わたしたちは,自分を傷つけた人を赦すことにより,進んでへりくだる方を選ぶことができます(3ニーファイ13:11,14教義と聖約64:10参照)

また,無私の奉仕を行うことによっても,進んでへりくだることができます(モーサヤ2:16-17参照)。

伝道に出て,人を謙虚にする神の御言葉を宣べ伝えるなら,自分からへりくだる道を選ぶことができます(アルマ4:1931:548:20参照)

もっと頻繁に神殿に参入することにより,自らへりくだることができます。

罪を告白してそれを捨て,神から生まれる人は,自分の選びによって謙遜になることができます(教義と聖約58:43モーサヤ27:25-26アルマ5:7-14,49参照)。

そして,神を愛し,自分の思いを神の御心に服従させ,神を第一にした生活を築きあげることによって,わたしたちは進んでへりくだることができるのです(3ニーファイ11:1113:33モロナイ10:32参照)。

自分からへりくだる道を選びましょう。わたしたちにはそれができます。確かにできるのです。

シオンの大きなつまずきの石

愛する兄弟姉妹の皆さん。わたしたちはシオンを贖うために備えなければなりません。預言者ジョセフ・スミスの時代にシオンの建設を妨げたのは,本質的に高慢の罪でした。ニーファイ人の中で行われていた奉献制度を終わらせたのも,高慢の罪でした(4ニーファイ1:24-25参照)。

高慢はシオンの大きなつまずきの石です。もう一度言います。高慢はシオンの大きなつまずきの石です。

わたしたちは高慢を克服して器の内側を清めなければなりません(アルマ6:2-4マタイ23:25-26参照)。

「聖なる御霊の勧めに従い,主なるキリストの贖罪により,生まれながらの人を捨てて聖徒となり,子供のように従順で,柔和で,謙遜」になるのです(モーサヤ3:19アルマ13:28も参照)。

皆さんがそれを行い,さらに前進して,神聖な使命を果たすことができますように,イエス・キリストの御名によりお祈りします。アーメン。