インスティテュート
信仰によって教える


信仰によって教える

2002年2月1日,ロバート・D・ヘイルズ長老 教会教育システム教職員用放送2−5,7より抜粋

幼子のようになる

数か月前,カリフォルニア州パームスプリングスのあるワードを訪問しました。初等協会の会長は窮地に陥っていました。一人の教師が来ていませんでした。建物を出ようとすると,教師のいない2つのクラスが一つに集まっているのを見ました。そこでわたしは子供たちにあいさつをしようと初等協会へ向かいました。若い帰還宣教師の姉妹が選ばれてそのクラスを教えることになりました。けれども教室を出ようとしたとき,子供たちから次のように尋ねられ,わたしは心を動かされました。「一緒に出席してくれるんでしょう? 僕たちを教えてくれるんでしょう?」子供たちの訴えるような目に,断れないものを感じました。

かつて救い主が感じられたに違いないものに少し触れたように思いました。親たちは「イエスにさわって〔祈って〕いただくために,人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが,弟子たちは彼らをたしなめた。

それを見てイエスは憤り,彼らに言われた,『幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。』」(マルコ10:13-14マタイ19:13-14も参照)

わたしは言いました。「皆さんがお願いしたので,わたしを必要としているので,わたしはここで先生をします。」その若い教師もクラスの子供たちと同意見でした。8歳から11歳の子供たちでしたが,驚くほど洞察力にあふれた質問を幾つかしました。例えば,一人の少女はこう質問しました。「あなたは良い使徒になるためにどのようなことをしていますか。」彼女の質問を聞いたときに,わたしの目に熱いものがこみ上げてきました。

わたしはこう答えました。「わたしはちょうど皆さんのような,幼子のようになろうと努力しています。これからもそうしていきますよ。『幼子のようになりなさい』とイエス様が言われたので,その通りになるようこれまでずっと努力してきました。」わたしは第三ニーファイから「見よ,わたしは,世に贖いをもたらし,世の人々を罪から救うために世に来た。

それゆえ,悔い改めて幼子のようにわたしのもとに来る者を,わたしはだれでも受け入れよう。神の王国はこのような者の国である」ことについて教えました。(3ニーファイ9:21-223ニーファイ11:37教義と聖約99:3も参照)

ほとんどの子供は信じる心を持ち,親切であって,偏見や非難の気持ちを抱きません。純粋で,かわいらしく,謙遜で,快く指導を受け入れます。

御霊は子供たちとわたしの心に触れておられました。わたしはこう言いました。「わたしたちはだんだん大人になると,子供の持つすばらしさや,今の皆さんのように信じようとする気持ちを忘れることがあります。今感じていることや,御霊によって経験していることをいつも忘れないようにしましょう。今経験していることを時々思い出し,心に刻み込んで,決して忘れないようにしましょう。」

子供たちは鋭い意見を述べ,興味深い質問をしました。神に頼る強い気持ちを子供たちから感じました。特に,1人の少女と2人の少年からそれを感じました。証と真摯な気持ちをはっきりとその表情から見て取ることができました。

イエス・キリストがアメリカ大陸を訪れられたことについても教えました。子どもたちはイエスが霊界においてどのような御方であられたのか,またイエスが再臨されるときにはどのような方として現れるのかについて質問してきました。わたしは次の聖文をよみました:

「イエスは幼い子供たちを一人一人抱いて祝福し,彼らのために御父に祈られた。

そして,イエスはこれを終えると,また涙を流された。

また,イエスは群集に語って,『あなたがたの幼い子供たちを見なさい』と言われた。」

そこで彼らは,見ようとして天に目を向けたとき,天が開くのを見た。そして,天使がまるで火の中にいるかのような有様で天から降って来るのを見た。天使は降って来ると,幼い子供たちを取り囲み,幼い子供たちも火に包まれた。そして,天使は幼い子供たちに恵みを施した。」(3ニーファイ17:21-24

わたしたちのクラスに出席している若人は天父の大切な子供たちです。

同じ時期にデビッド・ B・ヘイト長老がたまたまパームスプリングスに来ていました。ヘイト長老はわたしが出席した集会のすぐ後に開かれる集会に出席しました。ヘイト長老は駐車場に着いたときに,両親と幼い初等協会の子供に会いました。両親はこう言いました。「今,息子はヘイルズ長老からレッスンを受けたんですよ。」ヘイト長老はわたしに話してくれました。「少年は光り輝いていましたよ。」

わたしたちが御霊によって教えると,心を開いている人は御霊によって受けます。「教えを説く者は聞く者よりも偉いわけではなく,教える者は学ぶ者よりも偉いわけではない……。このように,彼らは皆,平等であった。」(アルマ1:26

子供たちとわたしはともに御霊によって学びました。それはセミナリーやインスティテュートのクラスでも同じです。

信仰の大切さを忘れることはできません。御霊によって教えることは,実は信仰を行使することなのです。教えるすべての概念,証するすべての事柄について生徒の心を動かすには,聖霊にすがる必要があります。わたしたちは信仰によって教え,御霊によって教え,自らの証を大胆に宣言するのです。

若人についてわたしたちが大きな関心を寄せていることの一つは,大勢の若人がセミナリーやインスティテュートに出席しているにもかかわらず,生活の中で教えを応用していないという事実です。つまり,神殿で結婚する機会があっても,自分のエンダウメントや結び固めを受けるために神殿に参入しないのです。

生徒が日常生活の中で福音の原則を応用するよう励ますには,皆さんの助けが必要です。セミナリーの教えを日常の生活で実行するよう奨励するならば,青少年の証を強め,霊的な成長を促すことができます。 ……

福音の原則を応用する

わたしが心配しているのは,わたしたちの教えている若人が福音について知っていることと,彼らが福音の原則を応用するために生活の中で実際に行っていることの間に差があることです。

教師であるわたしたちが,生徒の生活において非常に大切なのはこの分野です。わたしたちの役割は多くの場合,生徒が学問を追及し知識を得るために知る必要のある事実を,生徒にとって最良の方法で教えることです。

わたしたちは生徒に考えることを求めなければなりません。わたしは10歳のころに日曜学校の教師から学んだレッスンを忘れることができません。わたしたちはクリスマスに大きなカードをプレゼントとしてもらいました。カードの間に,小さな本が入っていました。ダビデとゴリアテ,世界の創造,ダニエルとししの穴など聖書からの物語を扱った小冊子でした。すばらしい聖書の物語が長いシリーズになっていました。家でその本を読み,話し合う準備をしてクラスに出席するのです。わたしはそのときの様子を今日に至るまで克明に覚えています。

一つ一つの物語について話し合った後,次のような質問を受けました。「それはあなたにとってどのような意味があるでしょうか。」「この聖句,物語,原則はあなたの生活とどのような関連があるでしょうか。」「この教えを家庭で応用するにはどうすればよいでしょうか。」「あなたはそれについてどう思いますか。」わたしは自宅で兄弟たちにこの質問をしてみて,応用した生活を始めてみると,教えられたように感じることがわかりました。

わたしたちは考えるように求められました。物語を学んだだけではありませんでした。それらを生活の中で応用する方法を見つけていました。教師はわたしたちに信仰の種を植えて,それを成長させるのを助けてくれました。

わたしたちは物語形式で聖典を教えます。そして若人の生活において最も効果の高い分野にそれらを当てはめるのです。これに対して若人は,それぞれの生活の中で最も必要とするときに,物語や福音の原則の真理を思い出すことができなければなりません。

ジョン・グリーンリーフ・ウィッティアは力強く記しました。「……舌が語り,ペンがつづる悲しい言葉の中で,最も悲しい言葉はこうだ。『しようと思えばできていたのに。』」(“Maud Muller,” The Complete Poetical Works of Whittier〔1894年〕,48)

「こうであったらよかったのに」と考えながら過去を振り返ることや,生徒が神の子であることを知らず,救いの計画を知らず,なぜこの地上にいるのか,自分が何者かを知らずに人生を送ることほど悲しむべきことはありません。彼らがこの偉大な計画を理解するなら,人生のあらゆる試練に堪え,敵対する者が放つ火の矢をよけて,終わりまで堪え忍び,幸福の計画がもたらす最終的な報いを得ることができます。

深く考えることの大切さと力について教え,考えて意見を交換する時間をクラスの中でとってください。「それはあなたにとってどのような意味があるのだろうか」という実際に応用するための質問を用いてください。深く考え,祈ってください。御霊によって与えられた考えや印象,気持ちを書き出すように指導してください。クラスの友達に対して教え,証するようになるときに,子供たちの信仰を強める出来事が起こります。祈りや聖文の研究などの大切さについて自由な話し合いを展開することは非常に大切です。こうして若人は助け合い,支え合うことができるのです。

それは一つの過程です。若人と一緒に過ごす時間を有効に使って彼らを成長させてください。きょうだいや友達,聖典に記されている例など,ほかの人の過ちから学ぶ能力を身に付けて,自分がそれを経験しなくてもいいように教える必要があります。聖典には,従順でないときに起きるありとあらゆることが記されています。生徒たちは過ちを繰り返して,苦痛に堪える必要はないのです。

学習の方法は対象となる事柄によって様々に異なるものです。学習のこの分野では生徒の学習能力を知ることが教師に要求されます。偉大な教師は教えるテーマを知っているだけでなく,生徒が何を必要としているかを理解しています。これは同じように大切なことです。教師から学ぶ偉大な生徒は進んで過ちを改め,思いやりを込めた教師の勧告に対して感謝を表します。皆さんは偉大な教師として生徒に,彼らが何者かを教え,永遠の救いに到達するために各自の持つ力を十分に発揮させます。

生徒の生活に何が起きているかを知ってください。彼らの心配事や直面していること,なぜそのように行動するのか,なぜそのように言うのかを知らなければなりません。

個人が選択の自由を行使して,決断する力を身に付けているときを見極めてください。示唆を与えてから,生徒に自分でチャレンジに備えさせることも教えるための一つの方法です。

だれもがこの世の試しの時期に遭遇する試練を,できることなら避けたいと思うのではないでしょうか。

ギリシャ神話の英雄の一人アキレスはホメロスの叙事詩の英雄でした。

アキレスに関してホメロスがつづった歴史的な出来事に加えて,後の文筆家たちはアキレスと母のテティスに関する寓話あるいは民話伝承を作り上げました。

幾つかの記事によれば,テティスはアキレスをステュクス川に沈めて不死不滅の体を作ろうとしました。テティスはつかんでいたかかとを除いてアキレスを不死身の体にすることに成功しました。

アキレスは成長して不敗の戦士となり,ギリシャ軍を率いてトロイに戦いを挑みました。

アキレスの死についてはオデュッセイアに記されてます。アポロに率いられたパリスの放った矢がアキレスの唯一の弱点であるかかと(アキレス腱)を貫いたために殺されたと言われています。

親や教会教育システムの教師は皆,敵対する者の放つ火の矢に傷つけられないように,子供たちを守るための秘密を見つけたいと思わないでしょうか。

残念ながら,わたしたちはこの世の石投げ器や矢から子供たちを守ることができません。わたしたちのチャレンジであり,学習経験であり,反対のものは,わたしたちを打ち負かしたり滅ぼしたりするためでなく,強めるためにあるのです。

人生の嵐に備えて信仰を培う

苦しんでいるとき,試されているときに,聖霊の優しい説得や慰めを受けることと,平安を失うような行いと無縁でいられることはどれほど大切でしょうか。それは人生の嵐に堪え,神の道に近づくために,正しい選択をしているという確信を与えてくれます。

大切な決断を下すための準備をさせて,チャレンジが訪れたときに,生徒が知恵を使って選択できるようにすることがわたしたちの務めです。生徒に選択の自由があることと,「すべての事物には反対のもの」(2ニーファイ2:11参照)があることを知っているわたしたちが目指しているのは,生徒が「神の武具」(エペソ6:11,13教義と聖約27:15も参照)を身に着けて,「御霊の剣」(エペソ6:17教義と聖約27:18も参照)と「信仰の盾」(エペソ6:16教義と聖約27:17)を手にして「敵対する者の火の矢」(1ニーファイ15:24教義と聖約3:8エペソ6:16も参照)を防いで,終わりまで堪え忍び,父なる神と御子イエス・キリストの前に立って,永遠に住むにふさわしい者となるよう助けることです。

この教訓を十分に学んで,静かな細い警告の声に耳を傾けた人々については,聖典に数多くの例が記されています。ヨセフはポテパルの妻から逃れました。救い主と家族は逃れるようにと告げられました。リーハイとその家族も立ち去るように告げられました。生徒は邪悪な状態にとどまってはならないことを学ばなければなりません。わたしは,一歩だけならバビロンに踏み込んでも大丈夫だと考えている若人を限りなく目にしてきました。

わたしたちが教会教育システムの教師として望んでいることは,生徒が成功することだけです。わたしたちはそれをあまり強く望みすぎて,無理やりそうさせようとすることがあります。わたしたちが親しんでいる賛美歌の中に次のような一節があります。

人は皆自由であることを知りなさい

自分の人生や,どのような者になるかを選ぶことを

そのためにこの永遠の真理が与えられたのだから

神は天に来ることを誰にも強制されない

神は呼びかけ,説得し,正しい道に導き

知恵と愛と光を祝福してくださる

数え切れないほどの恵みを与え,愛を示してくださる

しかし,神は決して人に強制なさらない

“Know This, That Every Soul Is Free,” Hymns, 240番)

わたしたちは,子供たちに無理やり信仰を持たせることはできません。信仰は内側から来るものであり,信仰を受けて,生活の中で行使したいという望みを基としています。御霊を通して揺らぐことのない信仰を築き,それを行動に表すものなのです。

わたしたちは自分の願いから,だれかを福音に導こうとすることがしばしばあります。これは初期の段階では非常に大切なことかもしれません。しかし,まことの教師は生徒に事実を教えて,生徒が知識を持ったら,霊的な証と心の底から理解するという次の段階へと導きます。それは行動と実行に向かわせるものとなります。

これを,質問と話し合いを通じて毎日評価しなければなりません。一人一人の生徒が,信仰への道のどこを歩んでいるのかを見極めるために全力を尽くす必要があります。 ……

信仰は神の賜物です。信仰を願い求めるならば,それはわたしたちに与えられます。すると,わたしたちはほかの人々に,信仰を得る方法と御霊が常にわたしたちとともにいてくださる方法を教えることができます。信仰は,律法と儀式に従って生活することによって与えられます。「神のみこころを行おうと思う者であれば,だれでも,……この教が……わかるであろう。」(ヨハネ7:17

この偉大な業について教え,証する皆さんに主の祝福があって,次世代の聖徒と両親となる若人に影響を与えることができますように。生徒が世にあっても世のものとなることのない生活に向けて備えをするときに,皆さんが御霊の導きによって彼らの霊的な必要を見極めることができますように。導きを求める彼らの声に耳を傾け,皆さんが生活における行いの模範を通して手本となることができますように。

皆さんが教えるときに,若人がまことに神の子であることを彼らの心に刻みつけることができるよう祈っています。皆さんが家族を愛し,世話をし,義にかなって導くときに祝福がありますように。

皆さんの献身と心からの働きに感謝しています。生活の中で,また家庭の中で福音に従って生活するならば,神の御霊によって教えることができます。イエス・キリストの御名により,アーメン。