教会歴史年表と地図
教会歴史年表
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1805年12月23日ジョセフ・スミスがバーモント州シャロンにおいてジョセフ・スミス・シニアとルーシー・マック・スミスの間に生まれた(ジョセフ・スミス—歴史1:3-4参照)。
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1820年早春ジョセフ・スミスがニューヨーク州の自宅近くの森で最初の示現を受けた(ジョセフ・スミス—歴史1:15-20参照)。
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1823年9月21-22日ジョセフ・スミスが天使モロナイの訪れを受け,モルモン書の記録について告げられた。ジョセフは近くの丘(クモラ)に埋められた金版を目にした(ジョセフ・スミス—歴史1:27-54参照)。
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1827年9月22日ジョセフ・スミスがクモラの丘でモロナイから金版を受けた(ジョセフ・スミス—歴史1:59参照)。
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1829年5月15日バプテスマのヨハネがペンシルベニア州ハーモニーにおいてジョセフ・スミスとオリバー・カウドリにアロン神権を授けた(教義と聖約13章;ジョセフ・スミス—歴史1:71-72参照)。
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1829年5月ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリはペンシルベニア州ハーモニーとニューヨーク州コールズビルの間を流れるサスケハナ川沿いでペテロ,ヤコブ,ヨハネからメルキゼデク神権を受けた(教義と聖約128:20参照)。
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1829年6月モルモン書の翻訳が完成した。3人の証人と8人の証人は金版を見た(2 ニーファイ11:3;2 ニーファイ27:12-13;教義と聖約17章参照)。
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1830年3月26日印刷された最初のモルモン書がニューヨーク州パルマイラで発行された。
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1830年4月6日ニューヨーク州フェイエットタウンシップ(訳注-州の郡区)において教会が組織された。
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1830年9月-10月レーマン人(アメリカ原住民)に福音を宣べ伝えるために最初の宣教師が召された(教義と聖約28章;30章;32章参照)。
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1830年12月から1831年1月主は聖徒たちにオハイオ州へ行くよう命じられた(教義と聖約37章;38:31-32参照)。
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1831年7月20日ミズーリ州インディペンデンスにおいてシオンの町(新エルサレム)を建設するための土地が預言者ジョセフ・スミスに明らかにされた(教義と聖約57章;信仰箇条1:10参照)。
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1833年3月18日シドニー・リグドンとフレデリック・G・ウィリアムズが教会の大管長会顧問として任命され,王国の鍵を受けた(教義と聖約81章と教義と聖約90章の前書き参照。教義と聖約90:6も参照)。
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1833年11月7日ミズーリ州ジャクソン郡を暴徒によって追われた聖徒たちは,ミズーリ川を渡って,ミズーリ州クレイ郡に逃れた。
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1834年5月5日ジョセフ・スミスはジャクソン郡を追い出された聖徒たちに慰めを与えるため,シオンの陣営の指導者としてオハイオ州カートランドをたち,ミズーリに向かった。
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1835年2月14日オハイオ州カートランドで十二使徒定員会が組織された(教義と聖約107:23-24参照)。
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1835年2月28日七十人第一定員会の組織がオハイオ州カートランドで機能し始める。
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1835年8月17日オハイオ州カートランドにおいて教義と聖約が教会の標準聖典として採択された。
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1836年3月27日カートランド神殿が奉献された(教義と聖約109章参照)。
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1836年4月3日イエス・キリストがカートランド神殿においてジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに御姿を現された(教義と聖約110:1-10参照)。モーセ,エライアス,エリヤが現れて,神権の鍵を授ける(教義と聖約110:11-16参照)。
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1837年7月19日ヒーバー・C・キンボール長老と6人の同僚が初の海外の伝道のために,イングランドのリバプールに到着した。
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1838年4月26日教会の名称が啓示によって明らかにされた(教義と聖約115:4参照)。
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1838年12月1日から1839年4月16日預言者ジョセフ・スミスとそのほかの人々がミズーリ州リバティーにあるリバティーの監獄に収監された(教義と聖約121-123章参照)。
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1840年8月15日死者のためのバプテスマが執行されることが預言者ジョセフ・スミスにより正式に発表された。
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1841年10月24日オーソン・ハイド長老がアブラハムの子孫が帰還する地としてパレスチナを奉献した。
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1842年3月17日女性のための扶助協会がイリノイ州ノーブーで組織された。
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1842年5月4日最初の完全な神殿のエンダウメントがイリノイ州ノーブーで授けられた。
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1844年6月27日ジョセフとハイラム・スミスがイリノイ州カーセージにあるカーセージの監獄で殉教した(教義と聖約135章参照)。
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1846年2月4日ノーブーの聖徒たち,西部へ移動するためにミシシッピ川を渡り始めた。一部の聖徒はブルックリン号に乗ってニューヨーク市から海路カリフォルニアに向かった。
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1846年7月16日モルモン大隊が合衆国軍の分隊としてアイオワに集結した。
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1847年4月ブリガム・ヤング会長の開拓者隊がウィンタークォーターズを出発して,西部への旅に向かった(教義と聖約136章参照)。
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1847年7月24日ブリガム・ヤング会長がソルトレーク盆地に足を踏み入れた。
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1847年12月27日ブリガム・ヤングが大管長として支持された。
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1848年5月-6月ソルトレーク盆地を襲ったクリケット(訳注-いなごのような田畑を食い荒らす当時大量発生した新種の黒い大型の昆虫)が作物を食い荒らした。かもめの大群がクリケットを食べ尽くしたために畑は壊滅的な状態から救われた。
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1849年12月9日リチャード・バレンタインによって日曜学校が組織された。
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1850年6月15日ソルトレーク・シティーにおいて『デゼレトニューズ』(Deseret News)が発刊された。
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1856年10月ウィリー手車隊とマーティン手車隊が異常に早い降雪のために足踏み状態を強いられた。ソルトレーク・シティーからの救援隊により救出された。
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1869年11月28日若い女性プログラムの先駆けとなる青年女子の倹約協会が組織された。
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1875年6月10日若い男性プログラムの先駆けとなる青年男子相互発達協会が組織された。
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1877年4月6日ユタ州セントジョージ神殿が奉献された。ブリガム・ヤング大管長は神権組織とシオンのステークを組織化することについて啓示を受けた。
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1978年8月25日オーレリア・スペンサー・ロジャーズがユタ州ファーミントンで最初の初等協会集会を開いた。
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1880年10月10日ジョン・テーラーが教会の大管長として支持された。高価な真珠が標準聖典として採択された。
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1883年4月14日七十人の組織に関する啓示がジョン・テーラー大管長に授けられた。
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1889年4月7日ウィルフォード・ウッドラフが教会の大管長として支持された。
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1890年10月6日「公式の宣言」が総大会で支持され,多妻結婚の実施に終止符が打たれた(「公式の宣言1」参照)。
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1893年4月6日ウィルフォード・ウッドラフ大管長が,建設に40年の歳月をかけて完成したソルトレーク神殿を奉献した。
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1898年9月13日ロレンゾ・スノーが教会の大管長となった。
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1899年5月17日ロレンゾ・スノー大管長がユタ州セントジョージにおいて啓示を受け,什分の一を強調するよう導かれた。
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1901年10月17日ジョセフ・F・スミスが教会の大管長となった。
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1918年10月3日ジョセフ・F・スミス大管長が死者の贖いに関する示現を受けた(教義と聖約138章参照)。
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1918年11月23日ヒーバー・J・グラントが教会の大管長となった。
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1936年4月大恐慌の間,困窮者を支援するために教会補償プログラムが制定された。後に教会福祉プログラムとなる。このプログラムは以前にヒーバー・J・グラント大管長が受けた啓示から発展したものである。
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1941年4月6日十二使徒補助が初めて召された。
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1945年5月21日ジョージ・アルバート・スミスが教会の大管長となった。
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1951年4月9日デビッド・O・マッケイが教会の大管長として支持された。
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1961年9月30日大管長会の指示の下でハロルド・B・リー長老は,教会のすべてのプログラムが家族と個人を強めるために神権を通して相互調整されることを発表した。
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1964年10月家庭の夕べの実施が強調された。
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1970年1月23日ジョセフ・フィールディング・スミスが教会の大管長となった。
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1971年1月新しい教会機関誌,Ensign,New Era,Friendが発刊された。
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1972年7月7日ハロルド・B・リーが教会の大管長となった。
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1973年12月30日スペンサー・W・キンボールが教会の大管長となった。
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1975年10月3日スペンサー・W・キンボール大管長が七十人第一定員会の再組織を発表した。
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1976年4月3日二つの啓示が高価な真珠に加えられた。1981年にこれらは教義と聖約137章および教義と聖約138章となった。
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1978年9月30日人種や皮膚の色に関係なくすべてのふさわしい男性会員に神権を授ける啓示が教会によって支持された(「公式の宣言2」参照)。
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1979年9月学習資料が付された欽定訳聖書の末日聖徒版が発行された。
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1981年9月モルモン書,教義と聖約,高価な真珠の改訂版が発行された。
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1984年6月七十人から召される会員により構成される地域会長会が正式に発足した。
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1985年11月10日エズラ・タフト・ベンソンが教会の大管長となった。
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1989年4月1日七十人第二定員会が再組織された。
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1994年6月5日ハワード・W・ハンターが教会の大管長となった。
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1995年3月12日ゴードン・B・ヒンクレーが教会の大管長となった。
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1995年4月1日地域幹部と呼ばれる新しい指導者の召しが発表された。
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1995年9月23日ゴードン・B・ヒンクレー大管長が扶助協会中央集会において,大管長会と十二使徒定員会からの「家族—世界への宣言」を読み上げた。
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1997年4月5日地域幹部が七十人に聖任された。七十人第三,第四,第五定員会が組織された。
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1997年10月4日ゴードン・B・ヒンクレー大管長が小規模神殿の建設計画を発表した。
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1997年11月教会の会員数が1,000万人に到達した。
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1998年4月5日ゴードン・B・ヒンクレー大管長が西暦2000年までに儀式執行可能な神殿を100にする目標を発表した。
地図1-アメリカ合衆国ニューヨーク州,ペンシルベニア州,オハイオ州地域
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サウスベインブリッジ。ジョセフ・スミス・ジュニアとエマ・ヘイルは1827年1月18日,ここで結婚した(ジョセフ・スミス—歴史1:57参照)。
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コールズビル。教会の最初の支部の一つが,1830年,コールズビルタウンシップ(訳注-州の郡区)にあるジョセフ・ナイト・シニアの家で組織された。
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ハーモニーのジョセフ・スミス・ジュニアの家。モルモン書の翻訳の大部分はここで行われた。1829年にサスケハナ川の河畔で神権が回復された(教義と聖約13章;128:20;ジョセフ・スミス—歴史1:71-72参照)。
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ファイエット。3人の証人はここで金版を目にし,天使モロナイにあった(教義と聖約17章参照)。1829年6月にここでモルモン書の翻訳が完成した。教会は1830年4月6日にここで組織された(教義と聖約20-21章参照)。
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メンドン。ブリガム・ヤングとヘーバー・C・キンボールは回復された福音を最初に耳にしたときにここに住んでいた。
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カートランド。1830年,レーマン人のもとへ派遣された宣教師がここに立ち寄り,シドニー・リグドンをはじめとする地域の人々にバプテスマを施した。カートランドには1931年2月初旬から1838年1月12日まで教会の本部に置かれた。現在の神権時代の最初の神殿はここに建設され,1836年3月27日に奉献された(教義と聖約109章参照)。
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エリー運河。ニューヨークの3つの支部が1831年4月と5月にエリー運河,エリー湖を経由してオハイオ州カートランドに移住した。
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ハイラム。ジョセフとエマは1831年9月から1832年9月までここに住んだ。ジョセフとシドニー・リグドンは聖書のジョセフ・スミス訳の作業を行った。教義と聖約1章,65章,67-69章,71章,73-74章,76-81章,99章,133章はここで受けた啓示である。
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アマースト。ジョセフ・スミスは1832年1月25日,ここで大神権の大管長として支持された(History of the Church,第1巻,243参照。教義と聖約75章の前書きも参照)。
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トロント。第3代大管長ジョン・テーラーと,後にハイラム・スミスと結婚したメアリー・フィールディングの故郷。
地図2-アメリカ合衆国イズーリ州,イリノイ州,アイオワ州地域
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インディペンデンス。1831年7月,主はインディペンデンスをシオンの中心の場所として指定された(教義と聖約57:2-3参照)。1831年8月3日,神殿用地がここで奉献された。1833年11月,聖徒たちは暴徒の圧力によりインディペンデンスとジャクソン郡から退去させられた。
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フィシング川。ジョセフ・スミスとシオンの陣営はジャクソン郡の聖徒たちの所有地を取り戻すために,1834年オハイオ州カーとランドからミズーリへ行軍した。この川の河岸で教義と聖約105章が啓示された。
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ファーウェスト。1836年から1838年まで聖徒たちの避け所がここに築かれた。1838年の一時期,教会本部がここに置かれた。神殿用地がここで奉献された(教義と聖約115章参照)。1838年7月8日,十二使徒定員会は海外で伝道する召しを主から受けた(教義と聖約118章参照)。1838から1839年にかけて,聖徒たちはイリノイへ逃れることを強制された。
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アダム・オンダイ・アーマン。アダムは死ぬ3年前に,義にかなった子孫をここで祝福した(教義と聖約107:53-57参照)。救い主の再臨の食前にここで大きな集まりが開かれる(ダニエル7:9-14;教義と聖約78:15;116;Teachings of the Prophet Joseph Smith,ジョセフ・フィールディング・スミス選〔1976年〕157参照)。
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リバティー。ジャクソン郡の聖徒たちは1833年から,退去を求められる1836年までこの地域に集合した。ジョセフ・スミスをはじめとする兄弟たちは1838年12月から1839年4月まで,ここで不当に投獄された。教会が苦難を強いられていたとき,ジョセフは主に指示を求め,教義と聖約121-123章を受けた。
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ノーブー。ミシシッピ川流域に位置するこの地域に1839年から1846年まで教会の本部が置かれた。ここに神殿が建設されて,死者のためのバプテスマ,エンダウメント,家族の結び固めなどの儀式が執行された。扶助協会は1842年にここで組織された。ここで授けられた啓示には教義と聖約124-129章がある。
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カーセージ。預言者ジョセフ・スミスと兄のハイラムは1844年6月27日にここで殉教した(教義と聖約135章参照)。
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ウィンタークォーターズ。ソルトレーク盆地へ向かう聖徒たちのために本部が置かれた(1846-1848年)。西部に向かって旅をするためにここでイスラエル陣営が組織された(教義と聖約136章参照)。
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カウンシルブラッフス(ケネスビル)。ブリガム・ヤングを大管長とする大管長会が1847年12月27日,ここで支持された。
地図3-西部へ移動する教会
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フェイエット。1831年1月,預言者ジョセフ・スミスはフェイエットを出発してオハイオ州カートランドに向かった。ニューヨークの3つの支部は,集合するようにとの主の命令に従って1831年4月と5月にカートランドに向かった(教義と聖約37-38章参照)。
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カートランド。1831年2月初旬から,預言者がミズーリ州ファーウェストに移った1838年1月12日まで教会の本部が置かれた。
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インディペンデンス。1831年7月,主はインディペンデンスをシオンの中心の場所として指定された(教義と聖約57:2-3参照)。1833年11月,聖徒たちは暴徒の圧力によりインディペンデンスとジャクソン郡から退去させられた。
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リバティー。ジャクソン郡の聖徒たちは1833年から、退去を求められる1836年までこの地域に集合した。
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ファーウェスト。1836年から1838年まで聖徒たちの避け所がここに築かれた。1838年の一時期,教会本部がここに置かれた。1838年から1839年にかけて,聖徒たちはイリノイに強制的に退去させられた。
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ノーブー。1839年から1846年まで教会の本部が置かれた。預言者と兄のハイラムが殉教してから約2年後に,聖徒たちは西部へ移動した。
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カウンシルブラッフス(ケネスビル)。1846年6月に開拓者たちはここに到着した。1846年7月21日,モルモン大隊はジェームズ・アレン中佐に率いられてここを出発した。
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ウィンターズクォーターズ。ソルトレーク盆地へ向かう聖徒たちのために本部が置かれた(1846-1848年)。ブリガム・ヤング会長の率いる先遣隊は1847年4月にここを出発した。
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フォートレベンワース。モルモン大隊は1846年8月,西部に向かって行軍を開始する前に,ここで身支度を整えた。
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サンタフェ。フィリップ・クック中佐は1846年10月19日にここから進軍するモルモン大隊の指揮を執った。
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プエブロ。モルモン大隊からの3つの分遣隊は病に冒されたためプエブロにとどまるように命じられた。彼らはミシシッピからの聖徒たちとともに1846年から1847年の冬をここで過ごした。そして1847年7月にソルトレーク盆地に入った。
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サンディエゴ。モルモン大隊は1847年1月29日,約3,200キロの行軍をここで終えた。
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ロサンゼルス。モルモン大隊は1847年7月16日にここで解散した。
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サクラメント。大隊を除隊した一部の隊員は,サクラメントと,アメリカン川をさらに東に進んだサターズミルで働き,金鉱の発見に貢献した。
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ソルトレーク・シティー。ブリガム・ヤング大管長は1847年7月24日,ソルトレーク盆地に到着した。