カートランドの時代を考察するに当たってもう一つの大切な側面はアメリカ合衆国,カナダ,イギリスで福音を宣べ伝えるために宣教師が召されたことである。ほとんどの宣教師は個人的に大きな犠牲を払ってこの奉仕を行った。
割り当てておいた生徒に『わたしたちの受け継ぎ』の28-29ページから「初期のオハイオの改宗者の伝道」と「十二使徒定員会の伝道」の概要を発表してもらう。
以下の経験談を紹介するとよい。
1836年,十二使徒定員会会員であるパーリー・P・プラット長老はカナダで伝道する召しを受けた。カナダのトロントへ向かう途中,「見知らぬ人からトロントに住むメソジスト派の信徒説教者であるジョン・テーラーへの紹介状をもらった。テーラーは,既存の教派が新約時代のキリスト教に合致していないことを信じているグループに属していた。このグループは過去2年にわたって『いかなる教派からも独立して真理を求めることを目的として』週に数回集会を開いていた。トロントでテーラー家族はプラット長老を厚意をもってもてなしたが,初め福音のメッセージに関して熱烈な関心を寄せてはいなかった。
こうして説教のできる場を見つけられないまま,気落ちしたパーリーはトロントを去る決意をする。そして預けた荷物を受け取り別れを告げるためにテーラー家に立ち寄った。テーラー家では,レオノラ・テーラーが居合わせた友人のイザベラ・ウォルトン夫人にパーリーが直面している問題について話し,このままトロントを去るのは残念だと言った。するとウォルトン夫人は『彼は神から遣わされた人かもしれませんよ』と言い,自分がその日の朝,御霊に導かれてテーラー家を訪れたことを打ち明けた。そして,プラット長老に自分の家に滞在してもらい,説教を続けてほしいと思っていたということであった。こうしてパーリーはウォルトン家に滞在することになり,やがてテーラーのグループの会合にも招かれるようになった。その会合でジョン・テーラーは新約聖書からサマリヤでのピリポの伝道について読んでこう言った。『さて,わたしたちのピリポはどこにいるのでしょう。どこでわたしたちは御言葉を聞いて喜んで受け入れ,それを信じたときにどこでバプテスマを受けたらよいのでしょう。わたしたちのペテロとヨハネはどこにいますか。使徒はどこでしょう。按手によって与えられる聖霊はどこにあるのでしょう。……』話をするように求められたパーリーは,このジョン・テーラーの疑問に答えられることを宣言する。
それから3週間,ジョン・テーラーはプラット長老の集会に出席してその説教の一部始終を書き留め,聖書と比較検討した。そして,イエス・キリストの真実の福音が回復されたことを次第に確信するようになった。1836年5月9日,ジョン・テーラーと妻のレオノラはバプテスマを受けた。」(『時満ちる時代の教会歴史』157)
ジョン・テーラーは長老に聖任され,宣教師として忠実に働いた。後に彼は教会の第3代大管長となった。
リーバイ・ハンコックは1830年11月にバプテスマを受けた。間もなく彼はカートランドを離れて,ミズーリ州で伝道する召しを受けた。ミズーリまでは数百マイルの,しかも徒歩による旅だったが,旅の途中で,同僚のゼベディー・コルトリンとともに福音を宣べ伝え,成功を収めることができた。「しかしながら,この旅の間,二人は苦難を経験した。リーバイは足が病原菌に冒されて歩けなくなったため,回復するまでの間,ある家族の世話になることになった。そこで,ゼベディーは一人でミズーリ州に向かった。しばらく後にリーバイはミズーリに到着したが,状態は一向に改善されず,思うように行動できないために苦しんでいた。しかし,奉仕できることに対する感謝の気持ちは変わらなかった。次のように記している。『わたしは神の前に正直であって,神の王国のためにあらゆる善を行わなければならない。さもないと後悔の念にさいなまれることになるだろう。わたしはこの世について何の関心も持っていない。世の人々が何を言おうとも気にならない。彼らは裁きの席でわたしの証と対決しなければならないのだ。そのように行動していれば,わたしの言葉を信じてもらえるだろう。主がわたしの助け手となってくださるのだから。』」
後に,リーバイはシオンの陣営で雄々しく働いた。1835年2月,彼は七十人定員会の会長の一人に召された(ドン・L・シール,“It Is the Truth, I Can Feel It,” Ensign,1999年7月号,48-50参照)。
教会が発展するにつれて,教会に敵対する力が勢いを増してきたことを説明する。一部の聖徒は信仰を揺さぶられていた。この困難な時期に主は預言者ジョセフ・スミスに「主の教会を救うために新しい何ごとかを行わなければならない」と啓示された(History of the Church,第2巻,489)。
割り当てておいた生徒に『わたしたちの受け継ぎ』の29-30ページから「イギリスへの伝道」の概要を紹介して,どのようなことが行われたかを述べてもらう。
そのように困難な時期に,これらの兄弟たちにカートランドを出て行くように指示された主の戒めは理解し難いものであったことであろう。しかし,これらの忠実な兄弟たちがささげた犠牲は教会を大いに強めることとなった。
1837年7月23日,宣教師たちがイギリスで初めて福音を宣べ伝えた日に,預言者ジョセフ・スミスは十二使徒定員会会長のトーマス・B・マーシュに向けた啓示を受けた。この啓示は現在,教義と聖約112章となっている。12-34節にはトーマス・B・マーシュが十二使徒に与えるべき指示が記されている。
教義と聖約112:19で与えられている約束はすぐさま成就されたことを説明する。これらの宣教師の努力によって8か月以内に2,000人の人々が教会に加わり,26の支部が組織された。
主は十二使徒に対して,もし彼らが「わたしの前にへりくだり,わたしの言葉のうちにとどまり,わたしの御霊の声を聴く」ならば,福音を宣べ伝えるために国々の門を開く力を授けると約束された(教義と聖約112:21-22)。主はこの約束を現在も果たしておられることを示すために,トーマス・S・モンソン大管長が語った以下の物語を紹介するとよい。
「1968年,緊張の高まる中,わたしはドイツ民主共和国を初めて訪問しました。信頼や相互理解はなく,外交関係もありませんでした。どんよりと曇り,今にも雨が降りそうな日でした。……ドイツ民主共和国の国土の中心に近いゲルリツの町へと向かいました。初めて参加した聖徒たちの集会は,小さな古い建物で行われていました。会員たちがシオンの賛美歌を歌ったとき,会場は人々の信仰と熱意で満たされました。
会員たちの間には支部が組織されているだけで,祝福師もおらず,ワードやステークもありません。それを思うと,わたしの心は悲しみでいっぱいになりました。神殿の祝福,すなわちエンダウメントや結び固めの祝福にあずかることもできません。教会本部からの幹部の訪問も久しく途絶えていました。会員たちは自国を離れることができませんでした。それでも主を心から信頼していました。
わたしは壇上に立つと,目に涙があふれてきました。そして高まる感情に声を詰まらせながら,人々に約束しました。『もしあなたがたが神の戒めを忠実に守るならば,ほかの国々の会員たちと同様に,あらゆる祝福があなたがたのものとなるでしょう。』言ってしまった後で,自分が何を言ったか気づきました。その晩,わたしはひざまずいて天父に嘆願しました。『天父よ,わたしはあなたの使いとしてやって参りました。これはあなたの教会です。わたしが語った言葉は,わたしのものでなく,あなたと御子の言葉です。どうか,この高貴な人々が生きている間に,この約束が成就されますように。』こうして,わたしはドイツ民主共和国への初めての旅に終止符を打ったのです。」
8年後にモンソン大管長はその地で奉献の祈りをささげた。
「1975年4月27日の日曜日の朝,わたしは,エルベ川を眼下に望むドレスデンとマイセンの町の間にある岩の上に立ち,その地と人々のために祈りをささげました。祈りの中で,わたしは会員たちの信仰について触れ,多くの人々が神殿の祝福にあずかりたいと心から願っていることを強調しました。また,平和と,天からの助けを求めて,次のように祈りました。『愛する天父よ,この地におけるあなたの教会の会員にとって,この日が新たな出発の日となりますように。』
すると突然,真下の谷間からとある教会の尖塔の鐘が鳴り出しました。また,雄鶏のかん高い鳴き音が,朝のしじまを破って,新しい出発を祝うかのごとく響き渡ってきました。わたしは目を閉じていましたが,太陽の光が顔や手や腕を暖かく照らすのを感じました。そんなことはあり得ないはずなのです。その朝はずっと雨が絶え間なく降っていたからです。
祈りを終えると,わたしは天を見上げました。すると,厚い雲の切れ間から一筋の日の光が注がれ,わたしたち数人を包み込んでいるのに気がつきました。その瞬間,神の力が注がれていることを知ったのです。」
この霊感あふれる祈りがささげられて以来,教会はこの地で急速な発展を遂げた。地方部評議会が組織され,続いてステークが誕生した。神権指導者や祝福師が召された。1985年にはフライブルク神殿が奉献された。そして1989年,ドイツ民主共和国政府は同国に専任宣教師を派遣する許可を教会に与えたのである(「神に感謝をささげん」『聖徒の道』1989年7月号,54-55)。
カートランドにおける聖徒の時代は1838年で終わりを告げたことを説明する。迫害が熾烈化したために,カートランドにとどまっていること自体が危険になったのである。割り当てておいた生徒に『わたしたちの受け継ぎ』の33ページから「カートランドからの脱出」の概要を発表してもらう。
カートランドにおいて一部の教会員は背教したが,ほとんどの教会員は忠実であり,教会にとって大きな力となった。ブリガム・ヤングの生涯で起きた以下の出来事を紹介する。
カートランドに住んでいたときに,ブリガム・ヤングは背教者のグループと会う機会があった。そのグループには卓越した教会の指導者の姿も見られた。彼らは預言者ジョセフ・スミスを追放して,ほかの人をその地位に据えようと企んでいた。ブリガム・ヤングはそのときの経験を次のように述べている。
「わたしは立ち上がり,分かりやすい言葉で力強くジョセフが預言者であること,それを知っていることを告げました。彼らが預言者を気の済むまでののしり,中傷するとしても,彼らには神の預言者としての彼の召しを反故にすることはできません。できるのは自分たちに与えられた権利を反故にすることです。預言者や神につながる糸を自ら断ち切り,地獄に沈むのです。彼らの手段に断固として反対するわたしに対する彼らの怒りは天を突く勢いでした。……この集会は背教者たちが反対の声を上げる方法について一致できなかったために崩壊しました。」(“History of Brigham Young,” Deseret News,1858年2月10日付け,386)