わたしたちが死んだ後に受け継ぐ王国はイエスに対するわたしたちの証によってどのように決められるのでしょうか(教義と聖約76:31,35〔滅び〕;教義と聖約76:82,101〔星の栄え〕;教義と聖約76:79〔月の栄え〕;教義と聖約76:51-53,69;121:29〔日の栄え〕参照)。あなたにとって「イエスの証に雄々し〔い〕」とはどのような意味でしょうか(教義と聖約76:79)。
生徒の意見について話し合うほかに,ブルース・R・マッコンキー長老の以下の話を紹介するとよい。
「……イエスの証に雄々しくあるとはどういう意味だろうか。
それは,勇ましく大胆であるということであり,世との戦いに力と勢力と能力をすべてつぎ込むことであり,信仰のために敢然と戦うことである。……義の大義を全うするに当たって大いなるかなめ石となるものは,完全なる福音の完全なる律法に従順に従うことである。
イエスの証に雄々しくあるには,『キリストのもとに来て,キリストによって完全になり』,『神の御心に添わないものをすべて拒み』『勢力と思いと力を尽くして神を愛する』ことである(モロナイ10:32)。
イエスの証に雄々しくあるには,キリストとキリストがもたらされた福音に対して揺るぎない信仰を持たなければならない。すなわち地上で行われている業が真実神の業であることを知ることである。
しかしこれがすべてではない。イエスの証に雄々しくあることには,信じることや知ること以上のものがある。わたしたちは聞くだけの者ではなく,行う者とならなければならない。雄々しいということは口先だけの奉仕とは違う。救い主が神の御子であられることをただ口に出して言うだけでは不十分なのである。従順,確信,そして自分自身が義にかなった生活を送ること,これが雄々しいということである。 ……
イエスの証に雄々しくあるには,『キリストを確固として信じ,完全な希望の輝きを持ち,神とすべての人を愛して力強く進まなければならない。』そして『最後まで堪え忍ぶ』のである(2 ニーファイ31:20)。それはわたしたちの信じる宗教に生きること,すなわち説くことを行い,戒めを守ることなのである。そして,『困っている孤児や,やもめを見舞い,自らは世の汚れに染ま』らずに,『清く汚れのない信心』を生活の中に具現することである(ヤコブの手紙1:27)。
イエスの証に雄々しくあるには,情欲を抑え,欲望を制し,世俗的な悪しき物事から離れていなければならない。それこそ世に打ち勝つことであり,わたしたちの手本であり,神の子の中で最も雄々しい御方がなされたことである。それは道徳的に清くあることであり,什分の一やほかの献金を納めることであり,心に目的を抱いて祈ることであり,必要とあらばすべてを犠牲にすることである。
イエスの証に雄々しくあるには,あらゆる点で主の側に立たなければならない。主が選ばれるように選び,主が考えられるように考え,主が信じられるように信じ,主が語られるように語り,主が行われるように行うのである。そしてキリストが天父と一つであられるように,わたしたちもキリストの思いを内に抱いて一つにならなければならない。」(「信仰の戦いに雄々しくあれ」『聖徒の道』1975年4月号,182-183)