1843年から1844年にかけての冬に,預言者ジョセフ・スミスはノーブーにおいて数日間にわたり十二使徒定員会に神殿のエンダウメントを授け,彼らの責任について教えたことを説明する。ジョセフ・スミスは間もなく世を去るに当たって,王国の鍵をだれにも授けないままそのときを迎えることのないようにしたいと十二使徒に語った。当時十二使徒定員会の会員であったウィルフォード・ウッドラフは預言者ジョセフが次のように語った言葉を思い起こしている。
「さて,兄弟たち,わたしは皆さんにエンダウメントを授けることができる日まで生き長らえたことを神に感謝します。わたしは今,アロン神権とメルキゼデク神権と使徒職のすべての力を,神がわたしに結び固められたそのすべての鍵と権能とともに皆さんの頭に結び固めました。ここで,この教会と神の王国のあらゆる務めと重荷と管理を皆さんの肩に譲り渡します。わたしは今,主イエス・キリストの御名によって,皆さんが自らを整えて,天と地の前で,神と天使と人々を前にしてこの教会と神の王国を導くよう命じます。」(ジェームズ・R・クラーク編,Messages of the First Presidency of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints,全6巻〔1965-1975年〕第3巻,134)
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大管長会の継承に関する大切な原則が教義と聖約107:22-24に記されています。これらの聖句を生徒とともに読む。大管長会と十二使徒定員会の関係についてこれらの聖句はどのようなことを教えているでしょうか(大管長会と十二使徒定員会はそれぞれ定員会を構成する。これら二つの定員会は同等の権能と力を持つが,大管長会が管理する召しを与えられている)。
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教会のこれら二つの管理定員会の関係を理解することはなぜ大切でしょうか。
ハロルド・B・リー大管長はこのように述べている。「預言者ジョセフ・スミスはこう宣言している。『大管長がいなければ大管長会は成り立たない。』大管長の死に伴い,次位にある十二使徒定員会が即座に管理役員となり,新しい大管長が公式に聖任され支持されるまで十二使徒定員会会長が大管長代理を務める。」(「わたしたちの時代」『聖徒の道』1970年10月号,258)
継承の過程に関する詳しい情報については「教えるためのそのほかのアイデア」1を参照する。
「ノーブー神殿」の絵を見せる。聖徒たちはノーブーを去る準備をすると同時に,神殿を完成させるために熱心に働いていたことを説明する。神殿の準備が整うやいなや,大勢の聖徒が詰めかけて,自身の神殿のエンダウメントを受けた。以下のブリガム・ヤング大管長の日記から,聖徒たちがこれらの儀式をどれほど待ち望んでいたかを察することができる。
「今朝,受付の待合室に大勢の人々が詰めかけて入場を待っていた。……儀式を受けたのは121人だった。」(History of the Church,第7巻,565)
「聖徒たちは〔神殿の〕儀式を受けることに並々ならぬ熱意を示し,彼らに儀式を執行するわたしたちもそれを心から望んでいた。そのため,わたしは夜も昼も神殿で主の業にすべてをささげることにした。1日の睡眠時間は平均して4時間以下であり,帰宅するのは週に1度だけだった。
ヒーバー・C・キンボール長老やほかの十二使徒は神殿にこもり切りだった。けれどもあまりにも熱心だったために,何人かの十二使徒は休息を取り,健康を回復するためにやむを得ず神殿から退出する始末だった。」(History of the Church,第7巻,567)
1846年1月に至って聖徒に対する迫害が激しさを増してきた。1846年2月の初めにヤング会長は,聖徒たちがノーブーを脱出できるように神殿の儀式を中止することを発表した。しかし,エンダウメントをまだ受けていない人々はノーブーを出ようとしなかった。ヤング会長は1846年2月3日付けで次のように記している。
「もう儀式は行わないとわたしが発表したにもかかわらず,主の宮は一日中人でごった返していた。やがてわたしたちの行く手が遮られ,敵がわたしたちを遮断するまで,兄弟たちはわたしたちをここにとどめて,エンダウメントを続けるよう求めるのだろうかと考えるほど,儀式を受けたいと願う彼らの熱意は大きかった。しかしわたしは,そのようなことが賢明でないこと,わたしたちはもっと多くの神殿を建てるはずであること,聖徒が受ける準備のでき次第,主の祝福を受ける機会がさらにあることを兄弟たちに告げた。わたしたちは,たとえほかには何も受けなかったとしても,この神殿で豊かな報いを受けてきた。そして兄弟たちに,わたしは馬車に乗って出発するつもりだと伝えた。群衆がもういなくなっているだろうと考えながら,神殿から少し離れた場所を歩いて行き,戻ってみると,神殿はまだ人であふれていた。
大勢の聖徒たちを目にし,主の言葉に飢え渇いている彼らの切なる願いを知って,わたしは主の宮で引き続き熱心に働くことにした。儀式を受けたのは295人だった。」(History of the Church,第7巻,579)
その週の間中,神殿の儀式が続けられて,その後に閉鎖されたことを説明する。合わせて6,000人近くの聖徒が西部への旅を始める前に自身のエンダウメントを受けた。
ノーブーからの脱出の絵を見せる。一部の聖徒は1846年2月4日にノーブーを出発したことを説明する。割り当てておいた生徒に『わたしたちの受け継ぎ』69-70ページから「ノーブーを去る準備」と「冬期移住の試練」の項の概要を発表してもらう。
冬の間にノーブー出発を開始したことと,急いで準備しなければならなかったことが重なったために,聖徒たちは非常に困難な旅を強いられた。一つの注目すべき出来事が2月の初めにシュガー・クリークで起こった。ノーブーから7マイル(10キロ)ほど先の,ミシシッピ川を越えたアイオワ州側である。シュガー・クリークで野営した最初の晩に9人の幼子が生まれた。寒さがことのほか厳しかったにもかかわらず,聖徒たちには寒さをしのぐ場所がなかった。エライザ・R・スノーはこのように記録している。
「母親たちは今までに経験したことのない,ありとあらゆる状況下で子供を出産しました。嵐や吹雪のさなかに,テントや荷車の中で出産しました。出産する場所がないために,地面に立てた棒に毛布を巻きつけて両側の壁とし,その上に木の皮をかぶせて屋根にしました。雨の滴るむき出しの粗末な小屋で出産した人もいると聞いています。そして心優しい姉妹たちが立って,滴る雨を皿で受け,……こうして,まさにこの人間社会を始めようとする赤ん坊と母親を降りしきる雨から守ったのでした。 ……
荒れ野で赤ん坊を出産したこれらの母親は……森林を歩き回り,風雨や大暴風に立ち向かうのに慣れていたわけではないことを忘れてはなりません。……彼女たちのほとんどは東部で生まれ,教育を受けた人たちでした。……イエスと使徒たちが教えた福音を受け入れ,自分たちの信じる宗教のために聖徒らと集合し,困難な環境の下で信仰と忍耐と力を尽くしてノーブーをその名のとおり『美しい町』に築き上げた女性たちでした。ノーブーには美しい家がありました。色とりどりの花を植え,果物の木を植えて,それらの果樹が豊かな実りをもたらし始めたところでした。
母親たちはこれらの家に……最後の別れを告げ,わずかな物資を1台か2台,ある人たちは3台の荷車に載せて,砂漠を目指して旅立ったのでした。」(エドワード・W・タリッジ,The Women of Mormondom〔1877年〕307-308)
1846年9月までにほとんどの聖徒はノーブーを離れ,アイオワ州の各地に築かれた居留地に散って行き,そこで次の冬に備えたことを説明する。暴徒はノーブーに残っていた聖徒を一掃するために家々を略奪し,聖徒たちを川に追い立てた。一部の人は向こう岸まで渡ることができた者もいたが,食料や着替えを持ち出すことはできなかった。逃げ遅れた人たちは暴行を受けたり,川に投げ込まれたりした。
川岸には2マイル(3.2キロ)にわたって家のない500人から600人の男女,子供たちが避難生活を送った。ほとんどの人は雨露をしのぐために毛布か,葉の茂った枝しか持っておらず,食物に至っては非常に乏しい状態だった。多くの人が病気で歩くことができず,息絶える人もいた。ニューエル・K・ナイトビショップは何とかして手に入れた小麦粉を配ったが,聖徒たちの命をつなぐほどの量を手に入れることはできなかった。そのとき主は奇跡的な方法で彼らを養われた。
10月9日,食糧はほとんど底をついていた。すると,うずらの大群が幾つか野営地に飛来した。そして地面やテーブルの上に降り立ったのである。多くのうずらが捕らえられ,調理されて飢えた聖徒たちを満たしたのである。忠実な聖徒にとって,それは古代のイスラエルの場合と同じように現代のイスラエルに与えられた神の憐れみのしるしだった(B・H・ロバーツ,A Comprehensive History of the Church,第3巻,135-136参照)。