マーティン手車隊の絵を見せる。『わたしたちの受け継ぎ』70ページの「手車隊」から第1段落の概要を話す。それから,ゴードン・B・ヒンクレー大管長が語った以下の話を紹介する。
「1856年10月の総大会のことを振り返ってみましょう。その大会が開かれた土曜日にフランクリン・D・リチャーズと何人かの同僚が,この盆地に到着しました。彼らは,ウィンタークォーターズから旅して来たのでした。元気な雄牛と軽い荷車の編成だったために,旅は速やかに進みました。リチャーズ兄弟は,直ちにヤング大管長を訪ね,子供を含む数百人かの男女が……この盆地に通じる長い道のりのあちこちに散らばった状態でいるということを報告しました。……彼らは非常に危険な状態にありました。冬の到来が早かったのです。雪混じりの強風が……高地に吹きすさんでいました。……人々は飢え,手車や荷車は壊れ,牛は死んでいきました。人々も行き倒れになっていました。助けがないかぎり,皆死んでしまっていたことでしょう。
ヤング大管長は,恐らくその晩,眠れなかっただろうと思います。苦しみの果てに,凍えて死んでいく人々の姿が,心に次々と浮かんだことと思われます。翌朝,彼はこの一画に建っていた旧タバナクルに来て,聴衆を前にこう言いました。
『わたしは,これから話をする長老たちに代わって,教会員に申し上げたいことがあります。……この日に大勢の兄弟姉妹が,高原を手車でこちらに向かっています。ほとんどの人は,ここから1,100キロぐらい離れた所にいます。彼らをここへ連れて来なければなりません。彼らに援助を送る必要があります。わたしが申し上げたいのは,彼らをここへ連れて来てほしいということです。
これは,わたしの信じていることであり,わたしが受けた聖霊の指示です。この人々を救わなければなりません。
わたしは今日,ビショップの皆さんに要請します。明日まで待つつもりはありません。60組の元気ならばと12台から15台の荷車が必要です。明日まで待つこともできないし,その翌日まで待つこともできません。牛を送りたくありません。必要なのは元気な馬とらばです。この準州内には元気な馬とらばがいます。ぜひそれを集めなければなりません。また12トンの小麦粉と,実際に馬やらばを駆る人のほかに,良い御者を40人そろえる必要があります。
皆さんに申し上げます。わたしが今話しているような原則を実行に移さないかぎり,皆さんの中で,その信仰,宗教,信仰告白によって神の日の栄えの王国に救われる人はだれもいないでしょう。さあ,行って,今平原にいる人々を連れて来てください。』(リロイ・R・ヘーフェン,アン・W・ヘーフェン,Handcarts to Zion〔1960年〕120-121)
その日の午後には,女性たちによって多くの寝具や衣類が集められました。翌朝,馬のていてつが打ち変えられ,荷車の修理や荷積みが行われました。翌日の火曜日の朝,16組のらばが荷車を引き,東に向けて出立しました。10月の末までには,同じ道を250台の荷車が救助に向かいました。」(「援助の手を差し伸べる」『聖徒の道』1997年1月号,98)
マーティン手車隊とウィリー手車隊はソルトレーク盆地に到着できるようにできる限りのことをしたが,もはや前進を続けられなくなったことを指摘する。彼らは救助を必要としていた。もし救援隊が来なかったならば,彼らは全滅していたことであろう。
ヒンクレー大管長はこの救出の様子を次のように述べている。
「……飢え,体力を使い果たし,衣服はぼろぼろになったこの惨めな状況の中で,〔手車隊〕はようやく救援隊に発見されました。西の地平線に,雪の中を推し進んで来る救援隊を見たときは,その姿が天使のように思えました。確かにそのとおりでした。悲しみに打ちひしがれていた開拓者の中には,喜びの声を上げる人もいました。そして声を上げる力もなく,ただとめどなく涙を流すだけの人々もいました。
食べ物と暖かい衣服が彼らに与えられました。しかし,苦しみはそれで終わりませんでした。生きている間ずっと,その痛みを引きずったのです。腕や足は凍傷を起こし,壊疽になった部分は切り落とされました。
手車はそこに放置されて,救援隊の荷車には生き残った人々が乗せられ,いっぱいになりました。そこから500キロあるいは800キロに及ぶ長くつらい旅は,嵐に行く手を妨げられ,遅々として進みませんでした。11月30日,苦しみにあえぐ人々を運び,104台の荷車がソルトレーク盆地に戻って来ました。彼らがやって来るという知らせは,すでに伝えられていました。その日は日曜日でした。聖徒たちは再びタバナクルに集まっていました。ブリガム・ヤングが人々を前にしてこう言いました。
『兄弟姉妹は,この集会が終わったらすぐにうちに帰ってください。
午後の大会は中止します。姉妹たちは,……その人たちに与える食事の支度をし,入浴の用意をし,十分な世話ができるように準備してください。 ……
足首まで凍傷になっている人もいるでしょうし,ひざまでこごえている人,手がこごえている人もいるでしょう。彼らを自分の子供のように迎え,わが子に対すると同じ気持ちをもって迎えてあげてください。』(ヘーフェン,Handcarts to Zion,139から引用)」(「人を救うわたしたちの使命」『聖徒の道』1992年1月号,62)
イエス・キリストの福音は救出のメッセージであることを指摘する。ゴードン・B・ヒンクレー大管長は大会の説教で手車隊の救出の物語を紹介した後,人類を救出する救い主の使命について証している。
「わたしたちは世の救い主がなされた犠牲の贖罪により,永遠の福音の偉大な計画がもたらす恵みを受け,主にあって死ぬ者は死を味わうことなく,日の栄えの永遠の栄光に進んでいく機会を授けられたのです。
主は無力なわたしたちに,助けを与え,破滅から救い,永遠の命へと導いてくださいます。
失意のとき,孤独と恐れのときに,主はわたしたちのそば近くにいて,助けと慰め,確信と信仰を授けてくださいます。キリストはわたしたちの王にして救い主,救済者,主,神であられます。」(「人を救うわたしたちの使命」『聖徒の道』1992年1月号,63)
手車隊の開拓者を救う3人の若者の絵を見せる。続いて,トーマス・S・モンソン大管長が語った以下の話を紹介する。
「エドワード・マーティン大尉とその手車隊の話を少し思い返してみたいと思います。彼らがどれほどの飢餓感に耐え,疲弊した体の芯まで凍らせる寒波をどのようにくぐり抜けて来たのか,実感として理解することはできないかもしれませんが,この話から手車隊の耐えた苦難や彼らの示した勇気,開拓者たちが持っていた信仰がさらによく理解できるでしょう。そのとき,わたしたちは目に涙を浮かべて『わたしが兄弟の守り手でしょうか』というあの質問への劇的な答えを見いだすでしょう。
『手車隊は11月3日に出発し,氷塊の浮かぶ〔スウィートウォーター〕川の川岸に到着した。この川を渡るには,人間の能力を超えた勇気と不屈さが要るように思われた。女たちは近づくこともできず,男たちでさえ泣き出す者がいた。それでも何人かは川を渡ったが,残りの者には無理な試練であった。
18歳になる3人の救援隊の青年が救いに立ち上がった。彼らは驚きの目を見張る人々の前で,この不幸な手車隊のほぼ全員を,氷に閉ざされた川の向こう岸へ運んで行った。その苦痛は並大抵のものではなかった。あまりにも長時間河の水に身をさらしたため,後年彼らは3人ともこのときのことがもとで亡くなったのである。ブリガム・ヤング大管長はこの英雄的な行為を耳にすると,子供のように泣きじゃくり,後日次のような声明を発表した。「この行いだけでも,C・アレン・ハミルトンとジョージ・W・グラントとデビッド・P・キンボールは,終わりのない神の日の栄えの王国において永遠の救いを確実に得るであろう。」』(リロイ・R・ヘーフェン,アン・W・ヘーフェン,Handcarts to Zion〔カリフォルニア州グレンデール:アーサー・H・クラーク手車隊,〔1960年〕132-133)。
わたしたちの行う奉仕は,あまり劇的ではないかもしれません。しかし,人の心の支えとなり,凍える体に衣服を着せ,空腹な人に食物を与え,悲しむ人を慰め,人の尊い霊を高めることができます。」(「兄弟の守り手」『聖徒の道』1990年7月号,53)
わたしたちはイエス・キリストの教会の会員として救出する使命を与えられていることを強調する。「主イエス・キリストに従う者としてのわたしたちの生涯の使命は,人を救うことでなければなりません」とゴードン・B・ヒンクレー大管長は述べている(「人を救うわたしたちの使命」『聖徒の道』1992年1月号,63)。モンソン大管長が述べたようにわたしたちが行う奉仕は,物語の3人の青年たちがささげた犠牲のように劇的ではないかもしれない。しかし,わたしたちは愛し,奉仕し,教えるという,毎日の地道な努力によって家族や友人たちを救うことができる。
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助けを必要としている人々に援助の手を差し伸べるために,わたしたちは具体的にどのようなことができるでしょうか(生徒の意見を黒板に書き出す。話し合いの中で,以下の引用を紹介する)。
マーティン手車隊とウィリー手車隊が受けた苦難についてヒンクレー大管長はこのように語った。
「わたしは,この教会にこのような開拓者の歴史があることを感謝しています。山中のこのシオンに向かう途中で,雪に見舞われ,凍えたり死んでいったりする兄弟姉妹が,今はいなくなったことに,感謝しています。しかし,絶望的な環境の下にあって,助けを求めている人は大勢います。
飢えや貧困に苦しむ人,助けを必要としている人は,世界中に大勢います。……そのような人々に援助の手を差し伸べて,彼らを引き上げること,飢えている者を食べさせ,真理と正義を切望している人の霊をはぐくむことは,わたしたちに与えられている神聖かつ重大な責任です。
目的なくさまよい,麻薬や非行,不道徳な行為,そしてそれらにまつわるあらゆる罪悪に巻き込まれ,悲しみの道を歩いている若人が非常に多くいます。夫に先立たれ,親切な声や,愛に満ちた心からの気遣いを待ち望んでいる人々もいます。かつては信仰を持って熱心だったにもかかわらず,だんだんそれが冷めてきている人がいます。教会に戻ることを望んでいるのですが,どうしたらよいのかまったく分からずにいる人も大勢います。彼らは優しく差し伸べられる手を必要としています。わずかの努力があれば,その多くの人が戻って来て,主の食卓で再び恵みにあずかれるようになります。
兄弟姉妹の皆さん,わたしには今,望み,祈っていることがあります。……皆さん一人一人に,困っている人,苦しみを抱えて困難な境遇にある人を見つけ,愛の心をもって教会に導く決心をしていただきたいのです。そしてその人たちが,教会員の力強い手と優しい心によって温かく迎えられ,慰められ,支えられ,幸せの道を歩めるようにしてほしいのです。」(「援助の手を差し伸べる」『聖徒の道』1997年1月号,98-99)
生徒に以下の聖句を読んで,援助を必要としている人々を見つけるために何をすべきかについて述べた勧告を見つけるように言う。話し合いと応用を促すために質問を活用する。
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教義と聖約4:3-7;モロナイ7:45-48。これらの節に挙げられている特質は援助を必要としている人々を助けるためにどのように役立つでしょうか。
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教義と聖約18:10-16。わたしたちには人々に福音を教え,悔い改めに導くために,どのような機会を与えられているでしょうか。
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教義と聖約52:40。「貧しい者と乏しい者,病気の者と苦しんでいる者」を助けるためにわたしたちはどのようなことができるでしょうか。援助の必要な人々を助けないとなぜ救い主の弟子になれないのでしょうか。
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教義と聖約81:5-6。「弱い者を助け,垂れている手を上げ,弱くなったひざを強め」るとはどのような意味でしょうか。この戒めは物質的な必要とともに霊的な必要に対してもどのように当てはめられるでしょうか。
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教義と聖約138:58。わたしたちは神殿の儀式を通してどのように人々を助けることができるでしょうか。
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3 ニーファイ18:31-32。挫折した人々を「引き続き教え導く」ためにどのようなことができるでしょうか。