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教義と聖約21:4-6を生徒とともに読む。この聖句は預言者に耳を傾けるわたしたちの責任についてどのようなことを教えているでしょうか。主は預言者の勧告に従うわたしたちにどのような約束を与えておられるでしょうか。
ハロルド・B・リー大管長はこのように教えた。「〔この教会の会員である〕わたしたちにとって最も安全な道は主が教会設立の日に語られた言葉に従うことです〔教義と聖約21:4-5参照〕。……信仰と忍耐を必要とするものもあるでしょう。教会の管理役員からのメッセージを快く思えないこともあるかもしれません。あなたの政治的見解や,社会観と相反するものもあるでしょう。……しかし,これらのメッセージを神の口から出た言葉として忍耐と信仰をもって従うならば,『地獄の門もあなたがたに打ち勝つことはない』という約束を主はかなえてくださるでしょう〔教義と聖約21:6〕。」(エズラ・タフト・ベンソンによる引用,「イエスの証をなすに雄々しくあれ」『聖徒の道』1982年7月号,110)
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預言者の霊感あふれる勧告を学ぶにはどうすればよいでしょうか(総大会の説教,大管長会メッセージ,その他教会機関誌の記事を研究することにより,また,教会の集会で読み上げられる大管長会からの手紙に耳を傾けることによって)。
エズラ・タフト・ベンソン大管長はある年の総大会で最後にこのように語った。「これからの6か月間,『聖徒の道』の今回の大会特集号は標準聖典とともに頻繁に参照していただきたいと思います。」(「キリストのみもとに来てキリストによって全くなれ」『聖徒の道』1988年6月号,89)
十二使徒定員会時代にハロルド・B・リー長老は総大会で同じような言葉を述べている。大会の報告は「これからの6か月間,生活や話題のうえで導きとなるものです。」(ジョン・E・ファウラーによる引用,「救いに至る知恵を得る」『聖徒の道』1993年1月号,88)
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個人としてまた家族として,総大会における預言者の説教をもっと研究し,活用するための方法にはどのようなものがあるでしょうか。
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あなたは預言者の勧告に従うことによってどのような祝福を受けてきたでしょうか。
七十人のブルース・D・ポーター長老が語った以下の物語を紹介する。
「わたしは妻と結婚したばかりのころ,ボストンに住み,大学に通っていました。わたしたちがボストンに住むようになってから間もなくして,ワードに若い夫婦が転入してきました。二人は改宗してまだ2年ほどしかたっていませんでした。……わたしは彼らのことを気にかけていました。……このため,わたしが彼らのホームティーチャーに召されたときにはうれしく思いました。彼らが福音に対する証を強められるように助けたいと思っていました。
ある日の晩,わたしはホームティーチングの同僚とともに彼らの質素なアパートを訪問しました。二人は赤ちゃんと一緒に家庭の夕べを開いていて,ちょうど終えたところでした。わたしたちも家庭の夕べを始めよう,……子供が生まれるまでには家庭の夕べを開く習慣を確立しておこうと,わたしは心に刻み込みました。その夫婦はそれぞれの家族の父方と母方の先祖の名前をたくさん集めた様子を熱心に話しながら,覚えの書を見せてくれました。わたしはそのとき,長い間自分の覚えの書を見ていないことを思い出しました。
レッスンが終わると彼らはわたしたちをついたてで仕切った裏口に案内してくれました。そこにはアイスクリームの大きな容器に入れた小麦,砂糖,粉,そのほかの食糧が積み上げられていました。完全な1年分の食糧貯蔵でした。この勧告は学生には当てはまらないのだという思いを多少なりとも抱いていたことは確かです。けれどもわたしはそのとき非常に謙遜になりました。彼らを教えに来たわたしはあらゆることについて彼らから教えられていたのです。そして,アパートの小さな一室を出ようとしたときに,ドアの近くに神殿の絵が飾られていることに気づきました。そのとき,スペンサー・W・キンボール大管長が末日聖徒のすべての家族は家庭の目立つ場所に神殿の絵を飾るように言ったことを思い出しました。我が家では神殿の絵を飾っていませんでした。 ……
わたしは悔い改めの気持ちに満たされて家に帰りました。そして伝道用のちらしからスイス神殿の小さな写真を見つけました。わたしはそれを切り抜くと,壁にテープで留めました。そのとき以来,我が家には常に神殿の絵が飾られています。わたしはそれを見る度に,『預言者に従う』ことの意味を教えてくれた若い改宗者の夫婦を思い出します。」(バウンティフル・ミューラーパークステーク大会における説教,1999年1月17日)
歴代の大管長は大きな愛をもって無私の奉仕を実践してきたことを指摘する。わたしたちは彼らの模範から多くのことを学べる。
預言者ジョセフ・スミスの生涯に見られた以下の出来事を紹介する。
ジョン・ライマン・スミスは家族とともに,聖徒たちによって開拓が始められて間もないころにノーブーへやって来た。家族が住む場所として見つけることができたのは,丸太作りの馬小屋しかなかった。湿気の多い地域で生活していたため,間もなく母親を除いて家族全員が熱病にかかった。ジョン・ライマン・スミスはそのときの経験を次のように語っている。
「預言者ジョセフ・スミスとお兄さんのハイラム・スミスがやって来て,わたしたち全員に癒しの儀式をしてくれました。父はずっと高い熱でうなされていました。二人が主の御名によって『あなたがたは皆再び健康を取り戻すでしょう』と言ってくれたとき,その言葉がどんなに慰めになったことでしょう。わたしたちの住む掘っ立て小屋を出るとき,ジョセフは自分の履いていた靴を父の足に履かせると,入り口の所から馬に飛び乗ってはだしのまま帰って行きました。そして次の日には父を自分の家に連れて行って,父がすっかりよくなるまで看病してくれました。」(Stories about Joseph Smith the Prophet: A Collection of Incidents Related by Friends Who Knew Him,エドウィン・P・パリー編〔1934年〕33-34で引用)
割り当てておいた一人の生徒に,空港で母親と子供を助けたスペンサー・W・キンボール長老の物語を紹介してもらう(『わたしたちの受け継ぎ』115ページ)。
生徒による発表が終わったら,ゴードン・B・ヒンクレー大管長に関する以下の物語を紹介する。
1998年に中央アメリカを襲った大ハリケーンは各地に大きな被害を与えた。教会は大量の救援物資を送った。ゴードン・B・ヒンクレー大管長はホンデュラスとニカラグアを訪れて,人々と会い,彼らを励ますべきだと感じた。後に,クリスマスディボーショナルでヒンクレー大管長はこの訪問で会った2歳の女の子について語った。彼女はこの災害で両親を亡くしていた。母親はハリケーンが襲う数か月前に亡くなっていた。そしてハリケーンに襲われたとき,父親は浸水から逃れるために,家の中に家具を積み上げていた。
ヒンクレー大管長はこのように述べている。父親は「小さなマットレスを探し出して,家具を積み重ねた上に置くと,そこに〔娘〕を乗せました。死に物狂いで娘を助けようとしていた父親は心臓発作を起こして,亡くなりました。……だれもそこに少女がいることに気がつきませんでした。そして2日後に,一人の青年が無人と化した家を何げなく見上げると,まだ生きている少女を発見したのでした。青年は彼女を優しく下ろすと,ビショップとビショップの妻のもとへ連れて行き,彼らに預けました。わたしたちがその女の子に会ったのはそのビショップの家でした。 ……
このクリスマスの時期に,これらの悲惨な状態に置かれている人々の間ではクリスマスプレゼントを贈り合うこともままならないでしょう。しかし,わたしはこの幼くして孤児となった女の子が小さなキャンデーのような,何か甘くておいしいものをプレゼントにもらったら,どんなにすばらしいだろうかと思います。わたしはぜひそのようなことが現実に起こることを期待しています。
あらゆる地に住む人々に神の祝福があって,……彼らの心が開かれ,助けを必要とする人々に手を差し伸べることができますように。」(Church News,1998年12月12日付け,4)