以下の歴史記事と準備の項に挙げられている聖文の説明に従って,ブリガム・ヤングが教会の指導者になったこと,また聖徒たちを率いてノーブーから脱出させたことについて教える。適当な箇所で視覚資料「ノーブーからの脱出」を用いる。
ジョセフ・スミスが殺された後,ノーブーの聖徒は非常に悲しみ,また悩んだ。預言者と祝福師(ハイラム・スミス)が亡くなり,十二使徒定員会のほとんどの会員は伝道に出ていた。ジョセフ・スミスは1844年6月に使徒たちに手紙を書いてノーブーへ戻るよう要請していたが,使徒たちが手紙を受け取った時にはすでに預言者は殺されていた。使徒たちは預言者の死を知らされると直ちに全員がノーブーへ戻った。ノーブー市議会は市民に対して,使徒たちが戻ってさらに指示を与えるまで,「義を行い,平和で静かな民でいるように」指示した(History of the Church,第7巻,152)。市議会議員であり,また教会の編集者,預言者の筆記者でもあったウィリアム・W・フェルプスは市民の動きを抑えていた。
大管長会においてジョセフ・スミスの第一副管長であったシドニー・リグドンは教会に対して不満を抱き,主の意向にさからってペンシルベニアへ移っていた(教義と聖約124:108-110参照)。しかしながらシドニーは預言者の死を耳にすると,ノーブーに戻ってきた。彼は大管長会にいたため,次に教会の指導者になるのは自分だと考えていた。使徒たちの全員がノーブーへ戻る前に,シドニーは自分が教会を導かなければならないことについて一部の人々を説得することに成功していた。十二使徒定員会は全員がノーブーに戻ると,シドニー・リグドンに会って話をした。シドニーは自分が教会の指導者になる理由を彼らに説明した。当時十二使徒定員会会長だったブリガム・ヤングは次のように述べて,主が彼らに何をお望みかを知りたいと言った。
「だれが教会を導こうとわたしはかまいませんが,……その前に一つだけ知っておかなければならないことがあります。それは神がこの件について何とおっしゃるかです。わたしは本件に関して神の御心を知る鍵と手段を持っています。 ……
ジョセフは亡くなる前に,自分が持っていた使徒職に属するすべての鍵と力をわたしたちの頭に授けました。この世においても次の世においてもジョセフと十二使徒の間に割って入ることのできる人はいませんし,そのような組織もありません。」(History of the Church,第7巻,230)
1844年8月8日に開かれた教会の集会において,シドニー・リグドンはなぜ自分が教会の指導者になるべきかについて1時間半にわたってとうとうと話をした。続いてブリガム・ヤングが短い話をした。彼が話している間に奇跡が起こった。ブリガム・ヤングは聴衆を前にして,突然ジョセフ・スミスのような顔立ちと声に変わったのである。この場に居合わせたジーナ・ハンティントンは次のように述べている。「ヤング会長が話していましたが,その声はジョセフ・スミスでした。ブリガム・ヤングの声ではありませんでした。ヤング会長そのものが変えられていました。……わたしは目を閉じました。わたしはジョセフ・スミスの声をよく知っていたので,思わず叫び声をあげるところでした。なぜなら彼は次の世へ行ってしまったことをわたしはよく知っていたからです。」ジョージ・Q・キャノンはこのように述べた。「ジョセフの声そのものでした。ジョセフ・スミス自身が前に立っているように人々の目に映ったことでしょう。」ウィルフォード・ウッドラフは,「もし,わたしが自分の目で彼を見ていなかったら,話していたのはジョセフ・スミスではないと言ってわたしを納得させることができた人はいないでしょう。」(『時満ちる時代の教会歴史』291-292で引用)
ノーブー郊外でジョセフ・スミスの農場を運営し,預言者としばしば顔を合わせていたコルネリウスとパーメリア・ロットは子供たちを連れてその集会に出席していた。ブリガム・ヤングが説教壇に立ったとき,11歳の娘のアルジーナ・ロットは彼をジョセフ・スミスだと思い,母のパーメリアを振り返って言った。「ママ,ジョセフ・スミスは亡くなったんじゃなかったの。」「そうよ,アルジーナ。天のお父様はこのような方法でわたしたちの次の指導者と預言者にだれがなるのかを教えて下さっているのよ。」(Descendants of Cornelius Peter Lott,10-11で引用)
その日の午後,教会員は別の集会を開いた。ブリガム・ヤングはその会で次のように述べた。「もし皆さんがリグドン副管長を指導者として選ぶのであれば,そうすればよいでしょう。しかし,皆さんに申し上げます。十二使徒定員会は全地における神の王国の鍵を持っているのです。」(History of the Church,第7巻,233)これらの鍵すなわち神権の権能を行使する権利は,ジョセフ・スミスが亡くなる前に十二使徒定員会の一人一人に授けたものである。教会員は全会一致で十二使徒を自分たちの指導者として支持した。
シドニー・リグドンは自分よりも十二使徒の方が大きな権能をもっていることを認めようとせず,引き続き教会の指導者としての地位を得ようと画策したが,1844年9月に破門された。シドニー・リグドンは自分の教会を組織したが,数年間で破綻した。
聖徒たちはブリガム・ヤングの変貌の奇跡によって,預言者の死後,教会を導く力と権能は十二使徒定員会に与えられていることを知った。3年半後に,十二使徒定員会の先任使徒であり会長であるブリガム・ヤングは大管長として任命された。今日,預言者が亡くなると,十二使徒定員会が教会を導く。そして先任使徒(最も長く使徒職にある人)が新しい大管長として任命される。
ジョセフ・スミスは1842年に聖徒たちに向かってこのように述べた。「あなたがたの中の一部の人々は生きながらえて,ロッキー山脈のただ中へ行き,定住地を築き,聖徒が力強い民となるのを目にするでしょう。」(History of the Church,第5巻,85)聖徒は1844年の春に西部へ移動するための準備を始めた。十二使徒は教会の管理役員としての支持を受けると直ちにこの計画の具体化に向けて動き始めた。十二使徒は当初,1846年4月に聖徒たちを出発させることを計画していた。そのころにはノーブー神殿が完成し,会員たちが出発する前にエンダウメントと結び固めを行うことができると考えたからである。しかしながら,ブリガム・ヤングほか8人の使徒が硬貨を偽造した罪の濡れ衣を着せられ,また一部の聖徒は連邦の軍隊が聖徒の西部への移動を認めず,皆殺しにするという偽りのうわさを耳にしていた。これらが重なって,聖徒たちは一刻も早くイリノイを去りたいと考えるようになった。
最初のグループがノーブーを発ったのは1846年2月の初旬だった。使徒たちは2月の中旬に出発した。教会指導者は冬の終わりと春にほかのグループを出発させる計画だったが,多くの聖徒は,使徒たちが去った後もノーブーに残ることを嫌って予定よりも早く,よく準備できていないまま出発してしまった。
最初のグループに加わらなかった教会員は,西部への移動に必要な物を買うために,持っていた財産をノーブーで売ろうとしていた。周辺の地域からやってきた人々は非常に安い値段で資産を買いたたいていた。ある女性は20エーカー(約8万平方メートル,2万4,500坪)の土地付きの家を10ドルなら買うと言われた。彼女はとても安すぎると考えたが,買い手は彼女が売りたがっているのを知っていたため,それ以上は払おうとしなかった。多くの聖徒は土地や家具を馬,荷車,家畜に換えた。家畜を買うために,ノーブーから160キロも離れた地方へ行った人もいる。
ノーブーのすべての家は荷車を作る作業場になった。最初のグループでは,5人家族が出発するために頑丈な荷車を1台,荷役用の牛を2頭か3頭,小麦粉を450キロ,男性一人につきマスケット銃またはライフル銃を一丁,塩11キロ,石けん9キロ,釣り針と釣り糸を4組か5組が必要だった。5人以上の家族ではさらに多くの物資が必要とされた。
最初に出発した開拓者グループはソルトレーク盆地までの旅路の前半で非常な苦労をした。アイオワ州を横断するための約500キロを進むのに131日を要した。1年後に出発したグループはアイオワからグレートソルトレーク盆地までの全行程1,700キロをわずか111日で踏破している。
一部の教会員は夏が過ぎてもまだノーブーにいた。作物を収穫し,財産を売却したかった人々や,東部から着いたばかりで開拓者隊の出発に間に合わなかった移住者であった。これらの移住者のほとんどはノーブーまで到着するのにほとんどのお金を使い果たしていた。
1846年9月,約800名のモルモン敵対者は6門の大砲を手にして,ノーブーに残っていた人々を攻撃し始めた。数日間にわたる戦闘の末,モルモン敵対者は聖徒たちを力ずくでノーブーから追放した。5人の男性とその家族だけは教会員の財産を売却するために残るのを許された。そのほかの人々は衣類も物資も持たずに一斉に放り出された。ほとんどの人はミシシッピ川を渡って,アイオワ側で野営した。多くは貧しかったために移動するための物資を買うことができなかった。病気で動けない人々もいた。雨露をしのぐための毛布か木の枝を手にし,食べ物はとうもろこししか手に持っていない人がほとんどだった。
ある日のこと,奇跡が起きた。数千羽のうずらと呼ばれる小さな鳥が野営地に飛んできた。うずらは至る所にいた。飢えや病気で弱っている人でさえも容易にうずらを捕らえることができた。こうして飢えた聖徒たちはおいしいうずらの肉を口にすることができたのである。
ブリガム・ヤングはこれらの野営地にいる人々のことを知ったとき,救援隊に荷車と物資を持たせて,冬の間をアイオワで過ごすために全域に散らばっていた野営地に彼らを移した。