以下の歴史記事から,手車隊について紹介し,イエス・キリストの福音に雄々しく従って生活し,終わりまで堪え忍ぶことの大切さを子供たちに教える。適切な箇所で視覚資料を用いる。
多くの聖徒は幌がついた荷車を荷役用の牛に引かせてソルトレーク盆地までやって来た。これらの聖徒の中には荷車や物資を買うために教会からお金を借りた人々がいた。盆地に到着すると彼らは借りたお金を返すために働いた。教会は返してもらったお金を,大平原を横断するほかの聖徒に貸し付けた。これは永代移住基金と呼ばれた。
この基金は優れた制度だったが,貧しいために借りたお金をすべて返すことができない聖徒もいた。また,これまで以上に多くの教会員がソルトレーク盆地に移住することを望んでいた。このため,教会指導者は人々を盆地まで連れてくるのにお金がかからない方法を探さなければならなかった。ブリガム・ヤング大管長は1855年にこのように記している。「もうこれまでのように荷車と荷役用の牛を買うことはできません。したがって,昔の計画に戻ることにしました。それは手車を作って荷物を載せ,人々は歩いて横断する方法です。……非常に早くとは言えないまでも,彼らは早くしかも大幅に安い費用で来ることができます。」(“Foreign Correspondence,” 813;『時満ちる時代の教会歴史』358も参照)手車を使う場合の費用は荷車の3分の1から半分に減らすことができると考えられた。
手車は,荷役用の牛ではなく人が押したり,引いたりして動かす幌がついていない小型の荷車だった。手車のほかに,各開拓者隊は10人につき2頭か3頭の畜牛と,歩くことができない人々を乗せるためにわずかな台数の荷車と荷役用の牛を用意した。手車には荷車よりも優れた点があった。道中には荷車で通るには困難であるが,歩いて通る分にはやさしい箇所がいくつかあり,また手車は荷車よりも小さくて軽かったため,早く進むことができた。また多くの荷役用の牛を抱えていたときのように,家畜の世話に苦労する必要がなかった。しかし,手車には不便な点もあった。食糧や物資を積む面積が狭く,風雨を遮るものが何もなかった。
ヨーロッパから海を渡ってやってきた聖徒の一部はアイオワ州アイオワシティーまで列車を利用し,そこで用意されていた手車に荷物を載せて大平原を横断する旅に出発した。最初の手車隊が出発したのは1856年6月9日だった。
手車隊は多くの試練に遭遇した。最初の手車隊に連れられていった6歳のアーサー・パーカーはある日,気分が悪くなって道ばたに座り込んでしまった。手車隊はこのことにだれも気づかず,その日も遅くなって野営地に着いてからようやくアーサーのいないことに気づいた。一行は手分けして探し始めたが,2日後には野営地を出発しなければならなかった。アーサーの父親は残ることにした。彼の妻は夫に赤いショールを渡して,もしアーサーが死んでいたらくるんでくるように,生きていたら,ショールを大きく振って合図をしてくれるように頼んだ。
父親が探しに出かけてから3日間,手車隊は全員でアーサーのことを気づかいアーサーのために祈った。そして3日目に,アーサーの母アン・パーカーは歩いてきた道を振り返ると,夫が赤いショールを振っているのに気づいた。アーサーの母親の喜びはこの上ないものだった。そしてその夜彼女はアーサーが行方不明になってから初めてゆっくり眠ることができた。
ブリガム・ヤングは1856年10月の総大会を控えて準備をしているときに,ウィリー手車隊とマーティン手車隊が苦境に立たされているという報告を受け取った。大会期間中に救助隊が組織されることになった。
エフライム・K・ハンクスは魚釣りの旅を終えてソルトレークへ戻る途中だった。ソルトレークへ到着する前の晩,エフライムは友人の家に泊まった。眠りかけたときに,彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。その声はこう言った。「手車隊の人々が困っています。あなたに助けてもらいたいのです。その人たちの所へ行って,助けてくれませんか。」ハンクス兄弟はこう答えた。「ええ,もちろんです。わたしが必要とされているのならば喜んで行きます。」この会話が3度繰り返された。
ブリガム・ヤングはソルトレークに向かっているウィリー手車隊とマーティン手車隊を助けに行く人々を募っていた。数日あれば準備ができるという人たちもいたが,エフライム・ハンクスは「今すぐにでも行けます」と答えた。そしていち早く手車隊のもとへ向かった。道中,彼はかつて経験したことがないほどの猛烈な吹雪に出会った。雪がひどく積もって,荷車を先に進めることができなくなった。そこで彼は荷車で行くことをあきらめ,2頭の馬をひいて,1頭に自分が乗り,もう1頭に物資を乗せて先を急いだ。夜になって彼は寝る場所を用意しながら,バッファローの毛皮を敷いて寝ることができて,夕食にバッファローの肉があったらどんなにすばらしいだろうかと考えた。そこで天父にバッファローを1頭遣わしてくださるように祈った。祈りを終えて,見ると彼のテントに向かってバッファローがやって来た。ハンクス兄弟は一発でそのバッファローを仕留めた。翌朝,彼はもう1頭のバッファローを仕留めて,肉を馬に乗せると,再び東へ向かった。
エフライム・ハンクスがマーティン隊に到着したのは,彼らが夜の準備をしているときだった。彼らはハンクス兄弟を見つけ,また持参した新鮮なバッファローの肉を見て大喜びした。隊の中の一人が以前に,物資がなくなったときにバッファローのごちそうを食べることができると預言していた。エフライム・ハンクスはその預言を成就しただけでなく,旅の間さらに何頭かのバッファローを仕留めて人々にごちそうを提供している。
マーティン隊の人々はスイートウォーター川に到着したとき,疲れ果てていた。水深が深く,川幅が広く,そのうえひどく冷たかったため,どう考えても川を渡れそうになかった。彼らにできることは祈ることしかなかった。すると,そこへ救援隊の3人の18歳の少年が到着した。ジョージ・W・グラント,デビッド・P・キンボール,C・アレン・ハンティントンの3人は氷のような水中に飛び込むと,人々を抱えて川を渡り始めた。彼らは川岸の間を何回も往復して,ほとんど全員を対岸へ運んだ。少年たちはこの冷たい水に長い間浸かっていたのがたたり,健康を害してしまった。数年後に3人はこれが原因で命を落とした。ブリガム・ヤング大管長はこの3人の若者がどのような働きをしたかを知らされたとき,涙を流した。ヤング大管長は後に,3人の若者はこの働きだけでも日の栄えの王国へ行くだろうと語った。
ウィリー隊とマーティン隊の多くの人々は凍り付くような雪嵐のために命を落とし,またそのほかにも足が凍傷にかかった人々が大勢いた。メアリー・ゴーブルはマーティン隊の一員だった。隊に水がなくなり,何日間も雪を溶かして飲み水にする生活が続いていたときに,病床にあったメアリーの母親は10キロ近く離れた泉から新鮮な水を持ってきてくれるように頼んだ。メアリーはもう一人の女性と泉に向かったが,途中,雪の中に倒れている老人を見つけた。老人は凍え死ぬ寸前だった。二人は手を貸してあげなければこの老人は死んでしまうことがわかっていた。そこでメアリーがそのまま水をくみに行って,もう一人の女性が野営地に助けを求めに行くことにした。
メアリーは一人になると,恐ろしいインディアンのいる所へ迷い込んでしまうのではないかと心配になってきた。インディアンを気にしながら歩いているうちに,彼女は迷子になってしまい,ひざまで雪にうもれながら何時間も歩き回った。捜索隊が彼女を発見したのは真夜中近かった。捜索隊はメアリーを野営地まで連れてくると,雪でマッサージし,水の入ったバケツに足を突っ込んで彼女の凍った両脚と両足を暖めようとした。この治療は激痛が伴うものだった。こうしてメアリーの両脚は回復したが,足のつま先は手遅れだった。
メアリーの母親は一行がソルトレーク・シティーに到着した日に亡くなった。翌日,ブリガム・ヤングと医師がメアリーを見舞いに来た。メアリーは次のように記している。「ヤング兄弟がやって来てわたしたち全員と握手をしました。彼はわたしたちの足が凍傷にかかり,母が亡くなったことを知ると,涙で頬を濡らしていました。」医師はメアリーの両つま先を切除した。ブリガム・ヤングはつま先から上は回復するとメアリーに預言を残していった。しかし,両足は次第に悪化していった。医師はくるぶしから先を切除したいと言ったが,メアリーは預言者から約束を受けているため手術を拒否した。看護婦が毎日,足の包帯を取り替えにやってきた。数ヶ月後,メアリーが医師と顔を合わせると,医師は言った。「ところで,メアリー……あなたの足はひざの辺りまで腐っているのではないかな。」メアリーは足はもう良くなっていると言ったが,医師は信じようとしなかった。メアリーは靴下を脱いで,足を見せた。すると医師は彼女の足が直るなんて奇跡だと言った(“Mary Goble Pay,” 144-145参照)。
予期しなかった遅れとその他不運な状況のためにウィリー隊とマーティン隊に属していた200名以上の隊員はソルトレーク盆地を見ることなく他界した。両隊の以前にも以降にもこれほど多くの問題に遭遇した手車隊はなかった。
マーティン隊がソルトレーク・シティーに到着してから数年後,教会のあるクラスで,教師はマーティン隊があのような時期に大平原を横断したことはばかげたことだったと意見を述べた。また,物資も自分たちを守る物もない状態のマーティン隊に旅を許可した教会指導者を非難した。
すると,クラスでしばらく黙って聞いていた一人の老人が立ち上がって,そのような非難の言葉はやめて欲しいと言った。そして,このように話し始めた。「遅い時期に手車隊の出発を許可したのは間違いだったですって。確かにそのとおりかもしれません。しかしわたしはその隊にいました。妻もいました。……わたしたちはあなたの想像を絶する苦しみを経験しました。また多くの人が寒さと飢えで亡くなりました。けれどもあなたは生き残った隊員が一人でも非難めいた言葉を口にしたのを聞いたことがありますか。隊員の中で背教したり,教会を去った人は一人もいません。全員が苦しみの極限状態の中で神を知ることができ,神が生きておられることを,否定することができない知識として胸に抱きながら堪え忍んだからです。
わたしは病気と食料不足のために体が衰弱し,疲れているときに,もう一歩も足が前に進まないときに,手車を引きました。前方に砂地や丘を見つけて,あそこまでなら何とか行ける,あそこまで行ったらもうあきらめるに違いないと思いました。砂地や丘を通過するだけの力が残っていなかったからです。……砂地まで引っ張っていって到達すると,手車が押されるのです。何度も後ろを振り返って,だれが押してくれているのかを探しましたが,わたしの目にはだれも見えませんでした。神の使いがおられたのだと思います。
手車で来たのは間違いだったでしょうか。いいえ。わたしはこれまでの人生で一度たりとも間違っていると思ったことはありません。神を知るためにわたしたちが代価を払ったことは,むしろ特権でした。マーティン手車隊の一員としてここに来る特権に浴することができたことを感謝しています。」(デビッド・O・マッケイ,“Pioneer Women,” 8で引用;強調文字は原文のまま)