だい61しょう
モルモンだいたい
(1846年6月-1847年7月)
せいとたちがカウンシルブラッフスにいた時,がっしゅう国りくぐんのだいいが,ブリガム・ヤングに会いに来ました。その人は,アレンたいいと言いました。
アレンたいいは,500人をりくぐんにあつめたいという,だいとうりょうのことばをつたえました。ブリガム・ヤングは,だいとうりょうのことばにしたがうことをつげました。
アレンたいいのよびかけにこたえて,500人の男の人がりくぐんに入りました。かれらはモルモンだいたいとよばれました。教会いんがモルモンと言われるのは,「モルモン書」をしんじているからです。
ブリガム・ヤングは,にゅうたいする人びとに言いました。「りっぱにへいしとしてのつとめをはたしなさい。『聖書』と『モルモン書』をもって行くように。せいけつで,みなりをきちんとし,れいぎ正しくありなさい。わるいことばをつかったり,トランプであそんだりしてはいけません。神のいましめをまもりなさい。そうすれば,人をころさなくてもすみます。」
モルモンだいたいは,アレンたいいといっしょに行きました。せいとたちは,かなしそうに見おくりました。西へむかうには,男の人の力がひつようであり,行ってほしくなかったからです。しかし,へいしにはきゅうりょうがしはらわれます。そのお金はせいとたちのやくに立つはずでした。
モルモンだいたいは,南へむかいました。何人かのへいしは,かぞくをつれて行きました。たびはとてもつらいものでした。ずっと歩かなければならなかったのです。
道はとてもひどく,にぐるまがふかいすなにはまってしまうこともありました。水もなく,こかげもなくて,びょうきになる人もいました。にぐるまには,びょうきの人だけがのりました。
アレンたいいのけつだんで,びょうきのへいしと,女の人と,子どもは,コロラドにとどまることになりました。かれらはプエブロという町にのこりました。へいしたちには,ほうしゅうがしはらわれました。びょうきのへいしたちは,カウンシルブラッフスにいるかぞくにお金をおくりました。ノーブーにいるまずしい人びとや,せんきょうしにもおくりました。
一方,だいたいのへいしたちは,たびをすすめました。時どき,どこを通っているのか,分からないこともありました。すなをほってやっと見つけた水も,まずくてのめず,食べものもまんぞくにありませんでした。火をたく木もなく,しかたなく草をもやしました。
へいしたちは,食べものをもっているインディアンに会うと,それを分けてもらいました。お金はなかったので,ふくととりかえました。
モルモンだいたいは,西へ西へとすすみました。やがてけわしい山にさしかかりました。へいしたちは,にぐるまにロープをつないで,引き上げました。
ある日のこと,だいたいは野牛のむれにおそわれました。へいしたちは野牛とたたかい,やっとのことでおいはらいました。一人のへいしはきずをおって,しばらく歩くことができませんでした。
1847年1月29日,モルモンだいたいは,ついにたいへいようがんにたどりつきました。ふくはすり切れ,人びとはとてもつかれていました。しかし,長いたびがおわって,うれしそうでした。
へいしたちは,ほうしゅうをうけとりました。もうぐんたいにいるひつようはありません。かぞくのもとに帰ることができるのです。
カリフォルニアにのこった人もいましたが,ほとんどの人は,ロッキーさんみゃくをめざし,さきにカウンシルブラッフスからたどりついていたせいとといっしょになりました。