イエス・キリストの証人になるという責任を生徒に思い起こさせ,その責任を果たすうえで聖霊の賜物がどのような助けとなるかを理解させる。
以下の聖句を読み,内容について深く考え,祈る。
使徒1 。弟子たちを40日にわたって教え導かれた後に,復活された主は天に上って行かれる。マッテヤが選ばれて,ユダが抜けて生じた十二使徒定員会の空席を満たすことになる。
使徒2 。五旬節の日に,使徒たちは聖霊に満たされ,いろいろの他国の言葉で語りだす。それを聞いていた多くの人々が改宗する。
使徒3-4 。ぺテロとヨハネ生まれながら足の利かない男を癒し,その癒しはイエス・キリストの力によって行われたことを証する。使徒たちは大いなる力を祈り求め,聖霊を通してそれを授けられる。
使徒5:12-42 。使徒たちは引き続き大いなる力をもって教えを宣べ伝え,癒しを行った。彼らは逮捕され投獄されたが,天使によって獄から解き放たれる。彼らは祭司長たちに,人ではなく神に従うと宣言する。ガマリエルはパリサイ人たちに使徒たちを殺さないように勧告する。
そのほかの読書課題:マルコ16:19-20 ;ルカ24:49-53 ジヨセフ・スミス-歴史1:21-25 。
もし「イエスの昇天」(『福音の視覚資料セット』236)の絵が入手できる場合は,レッスンの中で用いる。
「導入」を行う場合は,レッスンの開始前,生徒たちが席に着き始めている間に,二人の人にクラスに入って来るように依頼しておく(できれば,普通はあなたのクラスに出席しない人に依頼する)。クラスに入って来て,簡単に何かをしてもらい(例えば,あなたと話をする,あるいは部屋の中に何かを運び込むなど),それが終わったら退出してもらう。生徒たちに話しかけたり,彼ら自身に注意を引きつけるようなことをしてはならない。
教えるための提案:毎週の読書課題を果たし,読んだ内容について話し合いができるように準備してクラスに出席するよう生徒に奨励する。このように準備して出席することによって,「〔真理の御霊によって〕説く者と受ける者が互いに理解し合い,両者ともに教化されて,ともに喜ぶ」という主の約束を成就することができる(教義 と聖約50:22 )。
適切であれば,以下の活動または教師が考えた活動をレッスンの始めに行う。
生徒たちに,二人の人がクラスに入って来て,レッスンが始まる前に出て行ったことに気づいたかどうかを尋ねる(「準備」の項参照)。気づいていた生徒がいたら,その二人について彼らが見たことを話してもらう。その二人がだれで,どのような服を着ていて,何をしたかなどを話してもらう。その二人を見た生徒たちは証人であることを指摘する。(気づいた生徒がだれもいない場合は,二人がしたことを話し,あなたがその証人であることを説明する。)何かの出来事を目撃したり,体験したりして,そのことについてほかの人々に証をする人は「証人」である。
二人の人物を見なかった生徒たちに次の質問をする。
今日のレッスンでは,復活されたイエス・キリストの証人であった昔の使徒たちについて学ぶことを説明する。彼らが復活されたキリストを証すると,多くの人々がそれを信じ,パプテスマを受け,教会に入った。
以下の聖句について教えるときに,復活された主について証をした使徒たちが持っていた信仰と力を強調する。自分たちはどうしたらイエス・キリストの証人になることができるかについて,生徒たちと話し合う。
使徒 行伝はルカが書いたものであり,イエス・キリストの現世の生涯の後の約30年にわたる教会の重要な出来事が記録されていることを説明する。ルカは,復活された主が40日にわたり教え導かれ,天に上って行かれたことについて語っている。その後,五旬節の日に聖霊が豊かに注がれたこと,ぺテロによる教会の指導,使徒たちの初期の伝道の働き,パウロの劇的な改宗などを記録している。使徒行伝の半分は,異邦人に対するパウロの伝道に焦点を絞っている。
使徒1 について話し合う。選んだ箇所を,生徒たちに朗読してもらう。
イエスは復活された後,40日にわたって弟子たちに現れ「神の国のことを語られ」ました(使徒1:3 )。イエスは天の御父のもとへ戻る直前に,使徒たちにあるものが間もなく与えられると約束をなさいました。何を与えると約束されたのでしょうか(使徒1:4-5 参照;ルカ24:49 も参照。使徒たちは聖霊の現れを経験していたが,聖霊の賜物はまだ授けられていなかった)。
イエスは使徒たちに,聖霊の賜物を受けた後は何をなすべきだと言われましたか(使徒1:8 参照)。この教えは,どのような点で現代の使徒たちに与えられている責任と共通しているでしょうか(教義と聖約107:23,35 参照)。イエスが復活された直後の時代に,使徒たちはこの責任をどのように果たしたでしょうか。(例えば,使徒2-5 に記録されている,力強く証を述べたことなど。)現代の使徒たちはこの責任をどのように果たしているでしょうか。
聖霊の賜物は使徒たちがイエス・キリストの証人になるという責任を果たすうえで,どのように役立っているでしょうか(ヨハネ15:26-27 ;1コリント12:3 参照)。福音を教えるためにわたしたちが行う働きの中で,聖霊はどのような役割を果たされるのでしょうか(2ニーファイ33:1 ;教義と聖約42:14 参照)。
使徒たちが天に上って行かれるイエスを見ているときに,二人の人が彼らのそばに立ちました。この二人は使徒たちに何を告げたでしょうか(使徒1:10-11 参照)。キリストの再臨は確かにあるということを証する。福千年の到来を告げ,地上を治めるために,キリストは地上に戻っておいでになる。
主が天に上って行かれた後に,ユダの裏切りによって生じていた十二使徒定員会の空席を埋めるために新たに使徒が選ばれました。マッテヤはどのようにして,新しい使徒に選ばれたでしょうか(使徒1:21-26 参照)。現代の使徒や教会のほかの指導者たちはどのようにして選ばれるでしょうか(信仰箇条1:5 参照)。
使徒2 から選んだ箇所を読み,その内容について話し合う。五旬節の祭は,過越の祭の50日後に,1)又穫を祝って行われたものであることを説明する。この祭には多くの国々からユダヤ人がエルサレムにやって来た。
救い主が天に上って行かれた1週間後の,五旬節の日に,どのような重要な出来事がありましたか(使徒2:1-4 参照。この出来事がヨハネ14:26 ;15:26 ;16:7-14 ;使徒1:5 に書かれている主の約束を成就したことを説明する)。
聖霊を授けられたとき,使徒たちはどのようなことをしましたか(使徒2:4 参照)。使徒たちが様々な国の言葉を話しているのを聞いた人々は,どのような反応をしましたか(使徒2:5-13 参照)。現代において福音を宣べ伝えるのと,この五旬節の日に使徒たちが福音を宣べ伝えたことには,どのような共通点があるでしょうか(教義と聖約90:11 ;100:5-8 参照)。
他国の言葉を語ったことで使徒たちをあざ笑った人々にぺテロは何と言ったでしょうか(使徒2:14-24,36 参照)。皆さんはぺテロのその言葉からどのような印象を受けますか。イエス・キリストとその神聖な使命に対する証を持つことは,なぜ重要なのでしょうか。自分の証を人に伝えることは,なぜ大切なのでしょうか。わたしたちが人に証を伝えるとき,聖霊はどのような助けを下さるでしょうか。
ぺテロの証はそれを聞いた人々にどのような影響を与えたでしょうか(使徒2:37 参照)。ぺテロは自分の証を信じる人々に何を教えたでしょうか(使徒2:38参照)。生徒たちに使徒2:38 を信仰箇条1:4 ;3ニーファイ27:19-20 と比較させる。福音の基本的な原則と儀式はいつの神権時代にも同じであることを指摘する。
約3,000人がぺテロの言葉を信じ,バプテスマを受けました。これらの人々はイエス・キリストの福音に帰依したことを,どのようにして示しましたか(使徒2:41-47 参照。生徒の答を黒板に書き上げる)。彼らの模範から,わたしたちは何を学ぶことができるでしょうか。
使徒3-4 から選んだ箇所を読み,その内容について話し合う。一人の生徒に使徒3:1-11 を朗読させるとよい。
ぺテロとヨハネには,神殿の門の所にいた足の不自由な人にあげるお金はありませんでしたが,彼にあげることのできるものとして,何を持っていましたか。その人は何の力によって癒されましたか(使徒3:6,12-13,16 ;4:10 参照)。皆さんは自分自身の生活の中で,イエス・キリストの癒しの力をどのように感じてきましたか。
ぺテロはこの奇跡を,イエス・キリストについて証するための機会として用いました(使徒3:12-26 ;4:5-12 )。わたしたちには,キリストについて証するどのような機会があるでしょうか。皆さんはイエス・キリストの証人として証をする中で(あるいは,ほかの人々が証するのを聞いて),これまでどのような祝福を受けてきましたか。
祭司たちやサドカイ人たちはぺテロの説教に対してどのように反応しましたか(使徒4:1-3 参照。彼らはぺテロとヨハネを逮捕させた)。群集はその説教に対してどのように反応しましたか(使徒4:4 参照)。この二つのグループが同じ説教に対してこのように大きく異なる反応を見せたのはなぜだと思いますか。教会の指導者の言葉に対する反応は,わたしたちの心の状態についてどのようなことを明らかにしているでしょうか。
使徒たちに癒された人がそばに立っていたために,祭司たちやサドカイ人たちは奇跡があったことを否定できませんでした(使徒4:13-14,16 )。ぺテロとヨハネを投獄する理由を見つけることができなかった彼らは,その代わりに何をしたでしょうか(使徒4:15-18 参照。ユダヤ人の宗教指導者たちは,十字架の刑の後,イエスとその教えが忘れ去られることを望んでいたことを指摘する。使徒たちがイエス・キリストの福音をその後も宣べ伝えるのを見て,ユダヤ人の指導者たちは彼らの働きを阻止しようとした)。
ぺテロとヨハネは,福音を教えるのをやめるようにとの祭司たちやサドカイ人たちの要求に対してどのようにこたえたでしょうか(使徒4:19-20 参照)。イエス・キリストの証人になるという点において,同様の勇気を求められるような状況が,皆さんの生活の中に何かあるでしょうか。
ぺテロとヨハネは釈放された後,教会員たちのところへ帰って,彼らとともに祈りました(使徒4:23-30 )。彼らはその祈りの中で何を求めたでしょうか(使徒4:29-30 参照)。この祈りと,それに続く使徒たちの行動の結果,どのようなことが起きたでしょうか(使徒4:31-35 ;5:12-16 参照)。
聖霊の賜物を受けた後,使徒たちが力強いイエス・キリストの証人となったことを説明する。使徒たちはキリストの証人になるという特別な召しがあるが,教会の各会員にも,キリストを証する責任がある。いつ,どのようにキリストを証するかについて,わたしたちは聖霊の助けを受けることができるという証をする。御霊の勧めに従うときに,わたしたちの信仰は強められ,御霊に対する感覚も鋭くなり,主イエス・キリストの証人としての力をさらに高めることができる。
以下の資料はレッスンの概要を補足するためのものである。この中の幾つかをレッスンに取り入れてもよい。
使徒2:1-4 の記録に匹敵する御霊の現れが,1836年3月27日のカートランド神殿の奉献においても見られたことを説明する。一人の生徒に教義と聖約109:36-37 を朗読してもらう。この箇所には御霊が注がれることを求めて預言者ジョセフ・スミスのささげた奉献の祈りの一部が記されている。次にもう一人の生徒に,ジョセフ・スミスの祈りが聞き届けられたことを示す,下記の説明を読んでもらう。
預言者ジョセフ・スミスは,カートランド神殿の奉献が行われた日の夕方の集会で,次のように話した。「ジョージ・A ・スミス兄弟が立ち上がって預言し始めたとき,突風のような音が聞こえてきて,神殿の中に満ちた。すべての会衆が見えざる力に促されて,一斉に立ち上がった。多くの人々が異言を語り,預言を始めた。ほかの人々は輝かしい示現を見た。そしてわたしは,神殿が天使たちでいっぱいなのを見て,そのことを会衆に告げた。付近の人々は(神殿の中で異様な音がするのを聞き,その上に炎の柱のような明るい光がとどまっているのを目にして)一斉に駆けつけて来た。そしてそこで起きている事柄を見て驚いた。」(History of the Church 『教会歴史』2:428)
使徒4:32-5:11 について話し合う。当時の教会員たちが「いっさいの物を共有にしていた」ことを説明する(使徒2:44 参照;使徒4:32,34-37 も参照)。彼らは,すべての人の必要が満たされるように,自分たちが持つすべてのものをささげた。(これを,エノクの町〔モーセ7:18 〕,リーハイの子孫〔4ニーファイ1:1-3 〕,この神権時代の初期の教会員たち〔教義と聖約42:30-34 〕の例と比較するとよい。)
バルナバはこの財産奉献制度にどのようにこたえたでしょうか(使徒4:36-37 参照)。アナニヤとサッピラはこの制度をどのようにして踏みにじったでしょうか(使徒5:1-2 参照)。アナニヤとサッピラの行動について,ぺテロは彼らに何と言ったでしょうか(使徒5:3-4,8-9 参照)。わたしたちはどうしたら,神に正直であることができるでしょうか。
わたしたちは今正式な奉献制度の下には生活していませんが,神に対して何をささげ,人々と何を分かち合うように求められているでしょうか(幾つかの実例について,オムナイ1:26 ;モーサヤ4:16 ;教義と聖約4:2 ;119:4 参照)。わたしたちは時として「代金をごまかし,一部だけを持って」来るようなことをしていないでしょうか。あるとすれば,それはどのような場合でしょうか。
ニール・A ・マックスウェル長老は次のように述べている。
「アナニヤと妻サッピラは,ほかの点では申し分のない教会員であったにもかかわらず,全部をささげずに一部を『ごまかし』たとあります(使徒5:1-11 )。ある人たちはイエスを銀貨30枚で売り渡そうとは決してしませんが,主にすべてをささげようともしないのです!
残念なことですが,ささげるという言葉を聞くと,わたしたちはすぐ財産やお金のことだけを考えます。しかし,わたしたちが『ごまか』すのは財産やお金とは限りません。お金や時間をささげても,最上のものを隠している人もいます。公には才能をささげているように見えるものの,特定のプライドを内に残したままの人もいます。また,神の王座にひざまずくことは躊躇するのに,仲間内では追従をよしとする人たちもいます。教会の召しを受けても,この世での役割を果たすことの方に心を奪われている人たちもいるのです。」(「心に決めなさい」『聖徒の道』 1993年1月号,73)
わたしたちはどうしたら,「代金をごまかし,一部だけを持って」来るような傾向を克服できるでしょうか。持っているすべてのものを主にささげることによって,わたしたちはどのような祝福にあずかることができるでしょうか。
若い生徒を教える教師は,このレッスンの中で「質問による訓練」の方法を使うとよい(この方法については『教師,その大いなる召し』単元F 「19.質問による教え方」163-164に具体的に書かれている)。例えば,「はい」か「いいえ」で答えられる質問をすることによって,生徒たちにレッスンの主題を当てさせるという方法もできる。