教会歴史
教義と聖約の歴史的リソース:アマサ・M・ライマン


「教義と聖約の歴史的リソース:アマサ・M・ライマン」『教義と聖約の歴史的リソース』(2025年)

「アマサ・M・ライマン」『教義と聖約の歴史的リソース』(2025年)

アマサ・M・ライマン

(1813-1877年)

アマサ・M・ライマンの写真

アマサ・M・ライマン,写真,教会歴史図書館,PH 1700 3741。

アマサ・ライマンは1813年にニューハンプシャー州ライマンで生まれました。1832年4月に,バプテスマを受け,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員になりました。1830年代と1840年代の初めに,数回伝道に出ました。1834年,イスラエルの陣営のミズーリ州への遠征に参加しました。翌年,七十人の一員となり,オハイオ州カートランドでマリア・ルイーザ・タナーと結婚しました。1837年から1841年にかけて,ライマンはミズーリ州ファーウェストやイリノイ州ノーブーを含む,様々な場所に移り住みました。ノーブーでは,十二使徒定員会の一員,大管長会の顧問,五十人評議会の一員となりました。1847年と1848年には,ユタ準州のソルトレーク盆地に向かう荷車隊の隊長を務めました(教義と聖約136:14参照)。1851年,カリフォルニア州サンバーナーディーノに末日聖徒の入植地を築くよう任命されました。1860年から1862年まで,ヨーロッパ伝道部の伝道部会長を務めました。1867年には十二使徒定員会から除名され,1870年には破門されました。同年,シオンの教会(後に「ゴッドビー派」として知られる)の大管長になりました。

教義と聖約の中の参照聖句

教義と聖約124章136章