教会歴史
教義と聖約の歴史的リソース:エライアス・ヒグビー


「教義と聖約の歴史的リソース:エライアス・ヒグビー」『教義と聖約の歴史的リソース』(2025年)

「エライアス・ヒグビー」『教義と聖約の歴史的リソース』(2025年)

エライアス・ヒグビー

(1795-1843年)

エライアス・ヒグビーはニュージャージー州ギャロウェイで生まれました。1818年,サラ・エリザベス・ワードと結婚しました。1832年の夏,ミズーリ州ジャクソン郡でバプテスマを受けて末日聖徒イエス・キリスト教会の会員になりました。翌年,長老に聖任されました。1833年11月,彼とほかの聖徒たちはジャクソン郡からミズーリ州クレイ郡に追いやられました。1834年,オーソン・プラットによって大祭司に聖任されました。1835年には,ミズーリ,イリノイ,インディアナ,オハイオで伝道しました。しばらくの間,カートランド神殿の建設のために尽力しました。その後ミズーリに戻り,1836年から1838年にかけて二度,高等評議員を務めました。1838年,ジョン・コリルとともに教会歴史家に任命されました。その夏,ヒグビーはシオンの娘協会(ダナイト団)の総長に任命されました。1838年10月,ミズーリ州レイ郡近くのクルックト川での小競り合いにかかわりました。その後,ミズーリ州を逃れ,最終的にイリノイ州コマース(後にノーブーと改名)に居を構えました。1839年10月から1840年3月にかけて,ジョセフ・スミスとともにワシントンD.C.へ向かい,ミズーリ州における聖徒たちへの不当な扱いに対する補償を求めました。1840年にノーブー神殿建設委員会の一員となりました。1843年にノーブーで亡くなりました。

教義と聖約の中の参照聖句

教義と聖約113章