第12章
教義と聖約29章
紹介とタイムライン
1830年9月,ニューヨーク州フェイエットで教会の2回目の大会が開かれる前,初期の教会員の中に,シオンと神の選民の集合に関するモルモン書の預言がもうすぐ成就すると期待する人たちがいた。長老6人とほかに教会員3人が集まり,これらの預言について主に尋ねた。質問の答えとして,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約29章に記録されている啓示を受けた。主はこの啓示で,主の再臨の前における救い主の選民の集合と,イエス・キリストの贖いによって人はアダムとエバの堕落から贖われるということについてお教えになった。
教義と聖約29章:追加の歴史的背景
1830年9月にジョセフ・スミスがニューヨーク州フェイエットに引っ越したとき,ジョセフはそこの聖徒がシオンに関するモルモン書の預言の成就に興味を持っていることを知りました。これらの預言は,シオン,つまり「新エルサレム」を築くための末日におけるイスラエルの家の集合と,約束されたイエス・キリストの再臨について語ったものでした(3ニーファイ21:23-26参照。3ニーファイ16:18も参照)。長老6人とほかの教会員3人から成る一団は,シオンの出現,およびアダムとエバの背きに関するより深い理解を求めました。彼らの質問の答えとして,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約29章に記録されている啓示を受けました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, ed. Michael Hubbard MacKay and others [2013], 177–78)。
教義と聖約29章で教えられている真理は,末日におけるシオンの必要性に関して聖徒の理解を深めるとともに,ハイラム・ページの文書によって生じた教義的混乱を幾らか正した可能性もあります(本手引きの教義と聖約28章の解説を参照)。1830年6月以来,預言者ジョセフ・スミスは創世記前半の章の霊感訳に取り組んでおり,この情報によってエデンの園におけるアダムとエバの背きが明瞭になりました。教義と聖約29章はさらに,オリバー・カウドリと同僚たちがレーマン人に福音を宣べ伝える伝道に出発する前に,イスラエルの集合と救いの計画に関する重要な真理を提供しました。
教義と聖約29:1-21
イエス・キリストは再臨に備えて集合するよう御自分の民に呼びかけられる
教義と聖約29:1-2。「あなたがたの贖い主,わたしは有るという大いなる者,……イエス・キリストの声を聴きなさい」
前世での務めにおいて,エホバはモーセに,御自身は「わたしは有る」という御方であり,古代の族長アブラハム,イサク,ヤコブの神であると名乗られました(出エジプト3:13-15参照)。「わたしは有る(I AM)」という称号は「エホバ」の変形で,「わたしは存在する」という意味のヘブライ語の一人称動詞に由来しており,神の永遠かつ全能の特質を表します(教義と聖約68:6も参照)。教義と聖約29章に記録されている啓示を受ける前の夏の数か月間に,預言者ジョセフ・スミスは旧約聖書創世記の霊感訳に取りかかっていました。教義と聖約29:1-2に記録されている,イエス・キリストによる御自身の紹介は,イエスが確かに旧約聖書の神であられるという真理を裏付けています。また,これらの節は,古代イスラエルがエジプトで束縛されていたときにイエス・キリストが彼らを集め,守り,解放されたのと同様に,末日の主の子供たちも,もし主の声に聴き従うならば,主が保護下に集めてくださることを確証しています。
教義と聖約29:4-8。選民の集合
この啓示が与えられたときに預言者ジョセフ・スミスとともにいた少人数の長老たちは,この神権時代の教会員が,福音を宣言するため,また主の「選民」つまり「〔主〕の声を聴き,その心をかたくなにしない」者と神が定義された人々を集めるために選ばれたことを知りました(教義と聖約29:7)。選民は,救いの業において主を助けるように選ばれた人々でもあります(教義と聖約101:39-40;115:5;138:55-56参照)。選民の集合は,個人がイエス・キリストの福音を受け入れ,神と聖約を交わし,忠実な聖徒とともに集うときに起こります。散らされたイスラエルの家のこの集合は,神の民が「艱難と荒廃が悪人のうえに送られる日」に備えられるように起こらなければならないことです(教義と聖約29:8)。
1830年10月,オリバー・カウドリは,聖徒が集合する場所を主が示してくださる時に備えるため,レーマン人への伝道に送り出されました(教義と聖約29:8-9参照)。聖徒は後に,教会員が秩序立った方法でミズーリ州ジャクソン郡に集合することを主は意図しておられるということが分かりました(教義と聖約57:1-3;58:56参照)。しかし,その後ジャクソン郡に集まった人々は家を追われ,最終的にこの集合はミズーリ州ファーウェスト(教義と聖約115:7-8参照),イリノイ州ノーブー(教義と聖約124:25-28,55参照),そしてその後「西部」(教義と聖約136:1)へと移行しました。今日,教会員とともに集うために地理的に特定の場所に移住する必要はなくなりました。むしろ,末日聖徒は住んでいる場所にかかわらず,そこでシオンのステークを築き上げる助けをすることになっています(教義と聖約101:20-22参照)。
スペンサー・W・キンボール大管長(1895-1985年)は次のように説明しました。「イスラエルの集合は,まことの教会に加わることと,……まことの神を知ることから成っています。……したがって,回復された福音を受け入れた人,住んでいる国の聖徒たちとともに自国の言葉で主を礼拝しようと努めるようになった人はだれでも,イスラエルの集合の律法に従っているのであり,主がこの終わりの時の聖徒に約束された祝福のすべてを受け継ぐ者なのです。」(The Teachings of Spencer W. Kimball, ed. Edward L. Kimball [1982], 439)
十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン会長は,神の選民の集合が今日どのように起こるかについて教えました。
「この地上において,伝道活動はイスラエルの集合に欠かせません。……それに従い,主の僕たちは出て行って,回復を宣言しました。教会の宣教師たちは多くの国で散らされたイスラエルを探してきました。……
キリストのもとに来るという選択は,物理的な場所の問題ではありません。個人の献身の問題なのです。人々は郷里を離れることなく『主……を知るようにな』ります〔3ニーファイ20:13〕。教会初期の時代,改宗はしばしば移住をも意味しました。しかし今日では,それぞれの国に民が集められます。主は聖徒たちに,各々の生まれた国においてシオンを打ち立てるよう命じられました〔教義と聖約6:6;11:6;12:6;14:6参照〕。聖文には,人々が『彼らの受け継ぎの地に集め戻され,彼らに約束されたすべての地に定住する』と預言されています〔2 ニーファイ9:2〕。『各国はその国民のための集合場所です。』[Bruce R. McConkie, in Conference Report, Mexico City Mexico Area Conference 1972, 45]ブラジルの聖徒の集合地はブラジル,ナイジェリアの聖徒の集合地はナイジェリア,韓国の聖徒の集合地は韓国なのです。シオンは『心の清い者』です〔教義と聖約97:21〕。義にかなった聖徒がいる場所ならどこでもシオンです。各言語での出版物や,通信網の発達,集会所の建設のおかげで,ほとんどすべての会員が,居住している地域に関係なく,福音の教義,鍵,儀式,祝福を受けることができるようになっています。」(「散らされたイスラエルの集合」『リアホナ』2006年11月号,80-81)
教義と聖約29:9。高ぶる者はわらのように焼き尽くされる
主は,「高ぶる者と悪を行う者は,わらのように」なり,主が来られるときに焼き尽くされると警告されました(教義と聖約29:9)。高慢はだれでもある程度影響を受ける一般的な罪ですが,この場合「高ぶる者」とは邪悪のために主の栄光に耐えることができない人を指します。主は後の啓示で,これらの人には「偽りを言う者,魔術を使う者,姦淫を行う者,みだらな行いをする者,また偽りを好んで行う者」が挙げられ,「これらは,地上で神の激しい怒りを受ける者である」ことを明確にされました(教義と聖約76:103-104)。
教義と聖約29:9-13。「わたしは力と大いなる栄光とをもって,……姿を現〔す〕」
救い主の現世での生涯が終わりに近づいたとき,主の弟子たちはこの世の終わりがいつ来るのか,主の再臨が近づくとどのようなしるしが与えられるのか尋ねました(マタイ24:3;教義と聖約45:15-16参照)。主が末日における主の聖徒に宣言されたのは,「その時は近〔い〕」ということです(教義と聖約29:10)。イエス・キリストが再び来られるとき,主が「エルサレムで務めに携わっていたときに〔主〕とともにいた」使徒たちが「義の衣を身にまとい,その頭に冠をかぶ〔って〕」主とともに立ちます(教義と聖約29:12)。この描写は,神の王国で使徒たちが持つ王位の権威を表します。教義と聖約29:12-13は,「わたしを愛してわたしの戒めを守ったすべての者」も冠を受け,その日救い主が身に着けておられるように衣を身に着けることを示しています。これは,神の王国において主とともに受ける永遠の受け継ぎを象徴しています(教義と聖約88:107;109:75-76,80も参照)。
教義と聖約29:14-21。人の子の再臨のしるし
主は,再臨に先立って主が「悪人に報復」される方法の一部を詳しく鮮明に描写されました(教義と聖約29:17)。悔い改めない人が被る最も重大な報いは,主の「血は彼らを清めない」ということです(教義と聖約29:17。教義と聖約88:35も参照)。終わりの時の破壊的な出来事の幾つかは,イスラエルの子らを束縛から解放するために主がエジプト人に災いを下されたとき(出エジプト8:21;9:23-25;10:22参照),または復活した主がニーファイ人に御姿を現される前にアメリカで悪人が滅ぼされたとき(3 ニーファイ8:5-7,14-16,22参照)など,歴史上ほかの時代にあった出来事に似たものとなります。「大きな忌まわしい教会」が火によって倒される(教義と聖約29:21)という預言は,聖文全体で予告されているようにシオンに戦いを挑む,連合した悪の力を指します(エゼキエル38:18-22;39:17-20;1ニーファイ14:10-17;22:13-14;2ニーファイ10:16;教義と聖約88:94参照)。主は,悔い改めまたは滅びのどちらかによって,地上から悪が取り去られなければならないことを明確にしておられます。教義と聖約29章は,悔い改めてその日に備えるようにという,すべての人に対する憐れみ深い注意と警告の役割を果たしています。
十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,主の再臨のために今準備を整えることが大切である理由を強調しました。
「兄弟姉妹の皆さん,モルモン書が教えているように,『現世は人が神にお会いする用意をする時期である。まことに,現世の生涯は,人が各自の務めを果たす時期である。』(アルマ34:32)わたしたちは備えているでしょうか。
主は近代の啓示のはしがきでこう宣言されました。『あなたがたは備えなさい。来るべきことのために備えなさい。主は近いからである。』(教義と聖約1:12)……
主の来臨の日時を知ることはできないと絶えず警告されています。……
もし主が明日来られるとしたらどうでしょうか。早すぎる死や予期せぬ主の来臨によって,明日主にお会いすることが分かったなら,わたしたちは今日何をするでしょうか。何を告白するでしょうか。どのような習慣を断ち,どのような問題を解決し,どのような赦しの手を差し伸べるでしょうか。また,どのような証をするでしょうか。……
再臨のときに起こると預言されている事柄に対して物質的および霊的な備えをする必要があります。最も怠りがちな備えは,目に見えにくく,より難しい霊的な備えです。」(「再臨への備え」『リアホナ』2004年5月号,8-9参照)
教義と聖約29:22-29
救い主は,最後の裁きを含め,福千年の後に起こる事柄について真理を明らかにされる
教義と聖約29:22。「人々が再び彼らの神を否定し始める」
イエス・キリストの再臨は,主御自身が地上に住まわれる,福千年と呼ばれる千年間の到来を告げます(教義と聖約29:11参照)。福千年の間の状態と今日の世界でわたしたちが経験する状態とを区別する,数多くの重要な変化が起こります。例えば,この期間中,「人が求めるものは何でも与えられ」(教義と聖約101:27),主がすべてのことを明らかにされます(教義と聖約101:32-34参照)。主は,福千年の間「サタンは縛られ」(教義と聖約43:31),「サタンはだれをも誘惑する力を持たない」(教義と聖約101:28)とも言われました。神の力と人々の義のため,サタンは「人の子らの心の中に決して場所を得られ」ません(教義と聖約45:55)。残念なことに,この千年の終わりには,人々は「再び彼らの神を否定し始め」(教義と聖約29:22),サタンが「しばしの間だけ」「再び解放され」ます(教義と聖約43:31)。福千年という祝福を享受した人の一部がなぜ神を否定し始めるのか,理解することは難しいかもしれません。それでもなお,神の力にあずかる者となっていながら真理を否定し,承知のうえで「故意に神に背」く人々が現れます(3ニーファイ6:18。4ニーファイ1:38;教義と聖約29:44-45;76:31も参照)。
教義と聖約29:23-25。「新しい天と新しい地」
イエス・キリストが再び来て統治されるとき,地球は変貌つまり変化します(教義と聖約63:20-21参照)。地球はアダムとエバが堕落する前の状態である「楽園の」,つまり月の栄えの状態に戻ります(信仰箇条1:10)。福千年の終わりに,地球と地球を囲む天がもう一度変えられ,このとき天と地は,日の栄えの栄光を受けた人々のための日の栄えの王国になります(教義と聖約88:19-20参照)。
教義と聖約29:26。ミカエルとはだれか
ミカエルは,前世でイエス・キリストに続く権威ある地位を占め,後に地上に住む最初の死すべき人アダムとなった,高貴な天使長でした(黙示12:7-9;教義と聖約27:11;107:54-55)。預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は次のように教えました。ミカエルすなわちアダムは「最初にもろもろの霊的な祝福を受けた者であ〔り〕,時の終わりに至るまでの子孫の救いのために用意されたもろもろの儀式の計画がアダムに知らされ,キリストについても最初にアダムに明らかにされました。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』106)
教義と聖約29:30-50
救い主は,人を堕落から贖ったことを宣言し,自分の罪からの救いを与えてくださる
教義と聖約29:31-35。「わたしにとってはすべてが霊にかかわるもの」
神は「霊的なものと物質的なものの両方についてすべてのものを創造」されました(教義と聖約29:31)。物質的なものとは,死すべき状態とこの地球の一時的な性質に関するものです。わたしたちは霊的なものと物質的なものを区別しますが,神は「わたしにとってはすべてが霊にかかわるもの」であると宣言されました(教義と聖約29:34)。教義と聖約29:34-35に記録されているとおり,主は現世の律法をアダムまたはアダムの子孫に与えたことがないと説明されました。すべての戒めは霊的なものであり,これは戒めに永遠の目的があることを意味します。
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は次のように教えました。「死すべき状態でのわたしたちの考え方,すなわちこの世的な考え方では,主が課せられた戒めの多くが現世にかかわるものであるように思えますが,主は現世の律法を与えたことがないと言われました。(教義と聖約29:34)主にとっては,すべてが霊にかかわるもの,つまりすべてが永遠のためのものです。主は現世の観点で物事をお考えにはなりません。主の計画は人の不死不滅と永遠の命をもたらすことです。そのため,主の目には,すべての戒めはわたしたちの現在の幸福に関するものであり,まさに主の永遠の救いへの段階と見なされるものなのです。」(Church History and Modern Revelation [1953], 1:307–8)
大管長会のディーター・F・ウークトドルフ管長は,わたしたちがいかに自分の行動のこの世的および霊的な側面を考慮する必要があるかについて説明しました。
「硬貨の表と裏のように,現世にかかわる物質的なことと霊的なことは切り離せません。……
残念なことに,『物質的』なことをあまり重要でないと考えて見過ごす人がいます。霊的なことを大切にする一方で物質的なことを軽視するのです。思いを天に向けるのは大切ですが,同時に手を同胞に伸べていないとすれば,わたしたちは宗教の真髄をとらえ損ねています。……
いつものように,わたしたちは完全な模範であるイエス・キリストに規範を求めることができます。J・ルーベン・クラーク・ジュニア管長は次のように教えています。『救い主は二つの大いなる使命を帯びて地上に来られました。一つはメシヤとしての役割を果たし,堕落に対する贖罪を成し遂げ,律法を成就することでした。もう一つは,主が肉体を持つ兄弟姉妹の間で行われた,彼らを苦しみから解放する業でした。』[in Conference Report, Apr. 1937, 22]
同じように,わたしたちの霊的な進歩は,人に対して行うこの世の奉仕と不可分のものとして結びついています。
一方が他方を補って完全なものとします。一方だけで他方がないのは神の幸福の計画を模した偽物です。」(「主の道にかないて助けをなす」『リアホナ』2011年11月号,53-54参照)
教義と聖約29:35。選択の自由を持つことの意味
神はアダムを創造したとき,アダムを「自ら選択し行動する者」とされました(教義と聖約29:35)。しかしこの選択の自由には,義には祝福,罪には罪の宣告という,自らの選択の結果を受け入れる責任が伴います(教義と聖約93:28,31-32参照)。このため,神の戒めは,神が従っておられる律法にわたしたちも従い,神が享受しておられる祝福をわたしたちも享受する機会を提供します。十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長(1924-2015年)は次のように教えました。
「『あなたは自分で選ぶことができる。それはあなたに任されているからである』(モーセ3:17)という言葉によって,アダムとエバ,そしてその子孫は,現世のあらゆる危険を経験することになりました。現世にあって人は自由に物事を選択することができます。そして,その選びの一つ一つに結果が伴います。アダムの選択によって正義の律法が働き,不従順の罰としての死が必要となりました。
……負債を支払い,人を自由にするために贖い主が送られたのです。それは計画されたことでした。……
贖罪は行われました。贖罪は,悔い改めさえすれば罪と死から永久にわたしたちを解き放ってくれるのです。すべての鍵は悔い改めです。獄の扉を内側から開けるには悔い改めが必要です。その鍵はわたしたちの手の中にあります。使うか使わないかはわたしたちの自由です。
自由は何とこのうえなく貴重でしょうか。人の選択の自由は何ものにも代え難いものではないでしょうか。
ルシフェルは罪とその結果について人を欺き,わたしたちの選択を巧みに操ろうとします。ルシフェルはその手下とともに,わたしたちをふさわしくない者に,そして邪悪な状態にまで陥れようとします。しかし,すべての力を用いてもわたしたちを完全に滅ぼすことはできません。わたしたちの同意がなければできないのです。ですから,選択の自由に贖罪が伴わなければ,それは死の贈り物となっていたでしょう。」(「贖罪」『聖徒の道』1988年6月号,74-75参照)
教義と聖約29:36-43。神の計画についての新たな理解
預言者ジョセフ・スミスは聖書の霊感訳を開始し,現在高価な真珠のモーセ1章と呼ばれている箇所を口述した後,オリバー・カウドリを筆記者として,1830年の夏の間中翻訳の業を続けました。預言者による創世1-5章の翻訳は,現在モーセ2-5章として高価な真珠に収められています。これらの章には,前世におけるサタンの背き,エデンの園でアダムとエバを誘惑するサタンの試み,およびわたしたちの最初の両親が禁じられた実を食べ,園から追放される記述があります。創世記の霊感訳から得た教義的真理は,確かに,預言者が神の計画に関する同様の真理を受ける備えとなったでしょう。それは教義と聖約29:30-45に要約されています。
教義と聖約29:36-39。サタンとその使いは欺こうと努める
ルシフェルの背き,および「天の衆群の三分の一」が神ではなくルシフェルに従う選択をしたという事実からも明らかなように(教義と聖約29:36),選択の自由の原則は前世でも機能していました。この現世で,サタンと彼に従う者たちは,神の子供たちを誘惑し欺くことによって,御父の救いの計画に対抗しようと力を尽くしています。しかし,わたしたちが天の御父の戒めに従うために選択の自由を働かせるとき,彼らの力は制限されます。大管長会のジェームズ・E・ファウスト管長(1920-2007年)は,次のように説明しました。
「サタンの力を恐れて萎縮する必要はありません。わたしたちが許さなければ,サタンはわたしたちに対して力を振るうことはできません。サタンの真の姿は臆病者です。わたしたちに確固とした心構えがあれば退却します。使徒ヤコブはこう勧告しています。『そういうわけだから,神に従いなさい。そして,悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば,彼はあなたがたから逃げ去るであろう。』(ヤコブの手紙4:7)ニーファイも,サタンは義人の『心を支配する力を持たない』と言っています〔1ニーファイ22:26〕。
コメディアンなどが『わたしにそれをさせたのは悪魔だ』と言って,自分の間違いを正当化するのを聞いたことがあります。わたしは,いかにサタンとはいえ,人間を意のままに動かせるとは思いません。確かにサタンは誘惑したり欺いたりしますが,わたしたちが許さないかぎり,わたしたちを動かすことはできません。
サタンに抵抗する力は,わたしたちが思っている以上に強いものかもしれません。ジョセフ・スミスはこう教えています。『肉体を持つ者は,肉体を持たない者を支配する力を持ちます。悪魔はわたしたちが許さないかぎり,わたしたちを支配することはできません。わたしたちが神から来るものに背いた瞬間に,悪魔は力を得るのです。』[Teachings of the Prophet Joseph Smith, sel. Joseph Fielding Smith (1976), 181]またこうも教えました。『邪悪な霊にも活動の範囲があり,限界があり,支配を受けている律法があります。』[in History of the Church 4:576]ですから,サタンとその使いたちは何でもできるというわけではないのです。……
……サタンの業は,福音の聖約と儀式に従ってキリストのもとに来るすべての人の働きによって打ち砕かれます。主の謙遜な弟子は決して悪魔にだまされません。サタンが人を支え,高め,祝福することはありません。捕らえた人々に恥を被らせ,惨めな状態にほうっておきます。しかし神の御霊は人を支え,高める力を与えます。」(「主に仕え,悪魔に立ち向かう」『聖徒の道』1995年11月号,9-10参照)
教義と聖約29:41-42。「第一の死」および「最後の死」とは何か
アダムとエバは禁じられた実を食べてエデンの園から追放されたとき,霊的な死を経験しました。神にごく近い場所から離されたことを意味します。これは教義と聖約29:41で「第一の死」と呼ばれ,現世で神の子供全員に及びます。「最後の死」(教義と聖約29:41)も霊的な死ですが,これは,滅びの子と呼ばれる者のみが経験するもので,彼らは神のもとから永遠に追放されるという永遠に続く罰を受けるのです(ヒラマン14:15-18;教義と聖約76:34-37,44参照)。悔い改めるよりも神に反抗することを選択したため,「霊的な堕落からの贖いを受けることができ」ません(教義と聖約29:44)。
アダムとエバは「〔神〕の独り子の名を信じる信仰による悔い改めと贖い」(教義と聖約29:42)について学ぶ機会を得るまでは,現世での死を経験しないと神はお定めになりました。
ダリン・H・オークス長老は,霊的な死について,および霊的な死を克服する方法について詳しく説明しました。
「アダムとエバは誘惑に身を委ねたために『主の御前から絶たれ』ました(ヒラマン14:16)。聖典ではこの別離を霊的な死と呼んでいます(ヒラマン14:16;教義と聖約29:41参照)。
わたしたちの救い主の贖罪はこの霊的な死に打ち勝つものです。……この贖罪の結果,『人は自分の罪のゆえに罰せられ,アダムの背きのゆえには罰せられない』のです(信仰箇条1:2)。
救い主はわたしたちをアダムの罪から贖ってくださいましたが,ではわたしたち自身の罪の結果についてはどうなるのでしょうか。『すべての人は罪を犯した』ので(ローマ3:23),わたしたちはすべて霊的に死んでいる状態にあります。ですからここでも,わたしたちが命を得る唯一の望みは救い主なのです。……
わたしたちが救い主に対してその祝福を求めるためには,救い主が定められた条件に従う必要があります。……
この救い主が与えておられる条件について,信仰箇条の第3条には次のように書かれています。『わたしたちは,キリストの贖罪により,全人類は福音の律法と儀式に従うことによって救われ得ると信じる。』」(「世の光にしてまた世の生命」『聖徒の道』1988年1月号,69-70参照)
教義と聖約29:46-50。「幼い子供たちは,わたしの独り子によって世の初めから贖われている」
教義と聖約29:46-50は,「知識のある者」と,福音を「理解する能力のない者」がいると説明しています。知識がある者は悔い改めるように命じられていますが(教義と聖約29:49参照),幼い子供たち(および「理解する能力のない」人たち)は責任を問われず,したがって罪を犯すことができません。幼い子供たちは,「責任を負うようになるまで」サタンに誘惑されることは不可能です(教義と聖約29:47)。
主の「幼い子供たちは,……世の初めから贖われている」という宣言は(教義と聖約29:46),イエス・キリストの贖いを含む神の救いの計画が,わたしたちが前世にいたときから知らされ,理解されていたという事実を指しています。主の贖いの犠牲による無条件の祝福の一つは,幼い子供が贖われることです。これは,幼い子供が神の前に責任を負うようになるまで,つまり自分の行いに責任を持つようになる時までは,彼らの過ちにイエス・キリストの贖いが適用されることを意味します。主は後に,責任を負う年齢を「八歳」と定義されました(教義と聖約68:27)。
十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,子供が「責任を負うようになる」(教義と聖約29:47;強調付加)という言葉の重要性について説明しました。「責任を負える状態というのは,生涯の特定の時期に子供に突然開花するものではありません。子供は何年もかかって徐々に責任を負えるようになります。したがって,責任を負うようになるというのは,特定の年月がたてば到達するゴールではなく,一つの過程なのです。……しかし順当に成長する者であれば,現実に責任を負うようになり,生活に罪が入り込む時がやって来ます。それは8歳,すなわちバプテスマを受ける年齢です。(教義と聖約68:27)」(「幼な子の救い」『聖徒の道』1978年3月号,9参照)
預言者モルモンは,息子モロナイへの書簡でこの原則を教えました。
「幼い子供たちは,世の初めからキリストによって生きている。……
幼い子供たちにバプテスマが必要であると言う者は,キリストの憐れみを否定し,キリストの贖罪とキリストの贖いの力を軽んじる者である。」(モロナイ8:12,20)
預言者ジョセフ・スミスは次のように教えました。「『子供たちにバプテスマを施しなさい,あるいは水を注ぎなさい。さもなければ,子供たちは地獄で苦しみを受ける』という教義は,真実の教義ではありませんし,聖文で裏付けられていませんし,神の性質に一致していません。すべての子供たちはイエス・キリストの血によって贖われており,この世を去ると直ちに,アブラハムの懐に迎えられるのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』95)
十二使徒定員会のクエンティン・L・クック長老は,神の憐れみ深い救いの計画の普遍的性質について説明しました。「預言者ジョセフに明らかにされたすばらしい教義によって,この世の生涯でキリストについて聞くことのない人や,責任を負う年齢に達する前に亡くなった子供,理解する能力のない人をも含む全人類のための救いの計画が示されました。〔教義と聖約29:46-50;137:7-10参照〕」(「御父の計画—すべての子供たちを救う壮大なもの」『リアホナ』2009年5月号,36参照)