第3章
教義と聖約3章;10章
紹介とタイムライン
1828年,マーティン・ハリスはニューヨーク州パルマイラに住む家族に見せようと,116ページのモルモン書の原稿を携えてペンシルベニア州ハーモニーを出発した。マーティンが期日になってもハーモニーに戻らなかったとき,ジョセフ・スミスはニューヨーク州マンチェスターにある彼の両親の家に赴き,そこでマーティンが原稿を紛失したことを知った。ジョセフは動揺し,翌日ハーモニーの自宅への帰途に就いた。1828年7月にハーモニーに到着した後,ジョセフは教義と聖約3章に記録された啓示を受けた。この啓示で主はジョセフを叱責し,しばらくの間翻訳する特権を失ったとジョセフに言われた。しかし主は,「あなたはまだ選ばれた者であって,再び業に召される」(教義と聖約3:10)とも言われ,ジョセフを安心させられた。さらに主は,モルモン書を明らかにした主の目的について説明し,人の悪にもかかわらず,主の業が勝利することを宣言された。
ジョセフ・スミスが悔い改めの時期(教義と聖約3:14)を過ごした後,原稿が紛失したときにモロナイがジョセフから取り去った金版が彼の手元に戻され,翻訳するための賜物がジョセフに再び与えられた。翻訳再開後の1829年4月ごろ,ジョセフは教義と聖約10章に記録されている啓示を受けた(この啓示の一部は,早くも1828年の夏には与えられていた可能性がある)。この啓示で,主はジョセフに紛失した原稿のページを翻訳しないよう命じられた。預言者は,紛失した原稿を補い,モルモン書のメッセージを維持するための霊感を受けた備えが,古代においてなされたことを知った。
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1828年6月14日マーティン・ハリスは116ページのモルモン書の原稿をペンシルベニア州ハーモニーからニューヨーク州パルマイラに持って行った。
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1828年7月ジョセフ・スミスはニューヨーク州マンチェスターに赴き,その原稿が紛失したことを知った。
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1828年7月ペンシルベニア州ハーモニーに戻ったジョセフ・スミスは,教義と聖約3章を受けた。
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1828年9月22日原稿に関する過ちの後で,金版やウリムとトンミムを失ったジョセフ・スミスは,モロナイからそれらを再び与えられた。
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1829年4月オリバー・カウドリがモルモン書の翻訳を援助するためにハーモニーに到着した。
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1829年4月教義と聖約10章が与えられた(その一部は早くも1828年の夏には与えられていた可能性がある)。
教義と聖約3章:追加の歴史的背景
預言者ジョセフ・スミスは,ニューヨーク州パルマイラに近いジョセフの両親の家に妻のエマ・ヘイル・スミスと住んでいた1827年9月に金版を手に入れました。版の窃盗未遂を含む迫害がますます増してきたため,ジョセフとエマは1827年12月にエマの両親が住んでいたペンシルベニア州ハーモニーに移り住みました。パルマイラの裕福な農場主であり事業家でもあったマーティン・ハリスは,預言者の初期の支持者であり,この引っ越しを金銭的に援助しました。
1828年2月,マーティン・ハリスはハーモニーに赴き,ジョセフが金版から写し取った古代文字の一部の写しを,預言者によるこれらの文字の翻訳とともに受け取りました。マーティンは,古代の言語と文明について幾らか知識を持っていた学者であるチャールズ・アンソン教授とサミュエル・ミッチェル(またはミッチル)博士と会うためにニューヨーク市に行きました(ジョセフ・スミス—歴史1:63-65参照)。マーティンは後に,ジョセフがモルモン書の最初の部分を翻訳した1828年4月から6月まで預言者の筆記者としての役割を務めました。この間,マーティンの妻ルーシーは,夫がジョセフを支えることと,版の翻訳作業に対するマーティンの興味と金銭的関与について疑いを持つことが多くなりました。妻の懸念を和らげるため,マーティンは翻訳済みの116ページを彼の妻とほかの家族に証拠として見せるために持ち出す許可を主に求めてくれるようジョセフに頼みました。
預言者ジョセフは次のように話しました。「そこでわたしが尋ねると,そうしてはならないという答えでした。しかし,ハリス氏はこの答えに満足せず,もう一度尋ねてほしいと願いました。わたしはそのようにしましたが,答えは以前と同じでした。それでもなお彼は満足できず,もう一度尋ねるように強く求めました。大いに懇願された末,わたしが再び主に尋ねると,特定の条件の下で原稿を持ち出してもよいという許可が与えられました。」(Manuscript History of the Church, vol. A-1, page 9, josephsmithpapers.org)ジョセフは,マーティンの妻,兄弟のプリザーブド・ハリス,父ネイサン・ハリス,母ローダ・ハリス,そして妻の姉妹であるメアリー・ハリス・コブ以外には原稿を見せないとマーティンに約束をさせました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, 25ed. Michael Hubbard MacKay and others [2013], 6, footnote)。
マーティン・ハリスは116ページの原稿を携えてニューヨーク州パルマイラの自宅へ向かいました。マーティンが旅立った翌日,エマ・スミスは息子を出産しましたが,息子は程なくして亡くなりました。エマ自身も生死の境をさまよい,ジョセフは数週間エマの枕元で看病しました。1828年7月初旬になるころにはマーティンが去ってから3週間たっていましたが,マーティンからは何の便りもありませんでした。徐々に快復しつつあったエマは,ニューヨークに行って,マーティンが連絡してこない理由を調べるようにジョセフを説得しました。ジョセフは両親の家に赴き,マーティンを呼び出しました。
マーティンが朝食時に到着すると考えた一家が食卓を調えて待っていたのに,マーティンが着いたのは昼近くであったと,預言者ジョセフ・スミスの母親ルーシー・マック・スミスは記録しています。やっとのことで到着したマーティンはテーブルに就きましたが,彼は「これから食べ始めるかのようにフォークとナイフを取ったのですが,すぐに落としてしまいました。」大丈夫かと尋ねられたマーティン・ハリスは「苦痛に満ちた声でこう言うのです。『ああ,もうおしましだ。もうおしまいだ。』
それまで心の不安を少しも見せなかったジョセフが,その言葉に椅子から跳ぶようにして立ち上がり,こう叫びました。『マーティン,原稿をなくしたのですか?誓いを破ってわたしとあなたの頭に神の罰を招こうと言うのですか。』
『ええ,なくなりました。』マーティンが答えました。『どこにあるか分からないんです。』」
自分を責める気持ちと恐れに襲われたジョセフは叫びました。「『もうだめだ。もうだめだ。どうしたらいいんだ。わたしは罪を犯してしまった。御使いからそうしないよう指示されたのに,求める権利のないことを主に求めたために,神の怒りを招いたのだ。』ジョセフはうめくように泣きながら,部屋を行ったり来たりしました。
そしてようやくジョセフはマーティンに,家に帰ってもう一度探すように言いました。
『だめだ』マーティンは答えました。『無駄だ。家中をくまなく探したんだ。わたしはベッドを引き裂き,枕を引きちぎっ〔て原稿を捜し〕たのに,それでもなかった。家にはないのだ。』
ジョセフが言いました。『そんなばかな話を妻に言わなければならないのですか。わたしにはできない。主に顔向けができないでしょう。いと高き神の天使からどんな叱責も避けられないのですよ。』」(“Lucy Mack Smith, History, 1844–1845,” book 7, pages 5–6, josephsmithpapers.org; punctuation, capitalization, spelling, and paragraphing standardized)
原稿がないままペンシルベニア州ハーモニーに戻ったジョセフ・スミスは,赦しを求めて心から主に祈りました。天使モロナイがジョセフに現れ,ジョセフが翻訳するときに使用した解訳器,つまりウリムとトンミムをジョセフに与えました。ジョセフが「原稿をマーティン・ハリスに持って行かせるよう許可を求めて主を悩ませた」ため,ウリムとトンミムはジョセフから取り去られていました(in Manuscript History of the Church, vol. A-1, page 10, josephsmithpapers.org)。モロナイが現れてウリムとトンミムを再びジョセフに与えた後,ジョセフは教義と聖約3章に記録されている啓示を受けました。
教義と聖約3章
主は,主の業がくじかれることはあり得ないと宣言し,ジョセフ・スミスを叱責された
教義と聖約3:1-3。「神の……目的がくじかれることはあり得ず」
ジョセフ・スミスは,原稿116ページの紛失がモルモン書を世に現すという主の計画における大きなつまずきの石であると見なしていたと思われます。しかし,主は神の目的と業がくじかれたり滅ぼされたりし得るものはないと言って,主の預言者を安心させられました。神の特質の重要な属性は,先見の明を含めた神の全知です。人間やサタンがなす事柄で,神を驚かせたり,神が御自分の目的を達成することを妨げたりするものは一切ありません。「過去も現在も未来も」すべてのことが神の前にあるために,神はすべての事柄を御存じです(教義と聖約130:7。教義と聖約38:2;88:41も参照)。十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,神の業がくじかれない理由について教えました。「確かに人の成功と失敗は,世の初めから主には明らかであり,救いの計画の展開に当たって考慮に入れられました。(1ニーファイ9:6参照)主の目的は完全に果たされるのです。」(「この世に輝いている」『聖徒の道』1983年7月号,17)
教義と聖約3:2。「神は曲がった道を歩まず」,「その道は一つの永遠の環である」
「神の業と計画と目的がくじかれることはあり得ず,またそれらが無に帰することもあり得ない」(教義と聖約3:1)理由を明確にするために,主は御自身の本質について重要な詳細を提供されました。神が歩まれる道は曲がっていません。神の道は真っすぐであり,これは神が不変であられ,その道はいつになっても変わらないことを意味します。神は「右にも左にも曲がら(ない)」(教義と聖約3:2)ため,私たちは神を信頼し,神の御言葉と約束に頼ることができるのです。
十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,神の道が「一つの永遠の環」(教義と聖約3:2)であることが何を意味しているかを明確にしました。「神は律法によって,常に変わることなく,何一つ欠けるところのない完全な統治をしておられる。神の定めにより,原因が同じであれば必ず同じ結果が出てくる。また神は人を偏り見ることがなく,『変化とか回転の影とかいうものはない』御方である(ヤコブの手紙1:17;教義と聖約3:1-2)。したがって,主は『その道が一つの永遠の環である者,昨日も,今日も,またとこしえに変わることのない者』なのである(教義と聖約35:1)。」(Mormon Doctrine, 2nd ed. [1966], 545–46)
教義と聖約3:4-8,15。「あなたは人を神よりも恐れてはならなかった」
モルモン書の翻訳の原稿を持ち出す許可に関するマーティン・ハリスの粘り強い要求を無視することはジョセフ・スミスにとって困難であったに違いありません。マーティンはジョセフより20歳以上年上で,最初にジョセフを信じ,翻訳作業の援助を申し出た人の一人でした。マーティンは預言者を金銭的に支持し,翻訳作業を援助するために大半の時間を費やしました。それでもなお,主はマーティンの説得に負けたことについてジョセフを叱責され,神を恐れ,神の力による支援を信じるべきであったと説明されました。十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は,神を恐れることが何を意味し得るかを説明しました。
「聖典の中には,神を恐れるよう人類に勧告している箇所がたくさんあります。今日では,“fear”(畏れ・恐れ)という言葉は,通常『敬意』,『敬虔』,または『愛』として解釈されます。つまり,神へのおそれ(畏れ・恐れ)とは,神への愛,または神とその律法に対する敬意を意味します。これはおおむね正しい解釈かもしれませんが,『おそれ(畏れ・恐れ)』がときに『恐れ』という意味で使われることがあるのではないかと思います。預言者が,神の戒めを破ることによって神を怒らせることへの恐れについて話す場合がそうです。
わたしは,主への恐れ,またはパウロの言うような「恐れかしこ〔む〕」(へブル12:28)ということは,神に対するわたしたちの敬虔な思いの一環であるべきだと考えています。ほかの人の意見やほかの人からの圧力がどんなものであっても,わたしたちは神を愛し崇敬しているので,神の目にかなわない事柄を行うことを恐れるべきです。」(“A Sense of the Sacred” [Brigham Young University fireside, Nov. 7, 2004], 8; speeches.byu.edu)
教義と聖約3:9-11。「神は憐み深い……それゆえ,あなたが行ったこと……を悔い改めなさい」
預言者の母であるルーシー・マック・スミスは,マーティン・ハリスが原稿を紛失したことをジョセフが知ったとき,ジョセフは自身を責めたと記述しています。ジョセフの苦しみについて,ルーシーは次のように記しています。「ジョセフはうめくように泣きながら,部屋を行ったり来たりしました。……皆,むせび泣き,深い悲しみが家を覆っていました。でも,ジョセフの苦しみはほかのだれよりも大きかったと思います。神の命令に従わなければどうなるか,だれよりもよく知っていたからです。それから彼はどうしようもないといったふうに部屋の中を行きつ戻りつし,時折声を上げて泣いていました。説き伏せられてようやく食事をしたのは,日が沈みかけたころでした。」(“Lucy Mack Smith, History, 1844–1845,” book 7, pages 6–7, josephsmithpapers.org; punctuation, spelling, and capitalization standardized)
ジョセフ・スミスの絶望は,ペンシルベニア州ハーモニーでモロナイがジョセフを訪れ,「神は憐み深いということを覚えておきなさい。それゆえ,あなたが行ったこと……を悔い改めなさい。そうすれば,あなたはまだ選ばれた者であって,再び業に召される」(教義と聖約3:10)という啓示を主から受けるまで続きました。
七十人のリン・G・ロビンズ長老は,ジョセフの経験について次のように説明しました。
「若きジョセフ・スミスが金版を手に入れるまでには4年という期間が設けられ,ジョセフはその間に鍛錬されました。『なぜなら,あなたは主の戒めを守らなかったからである。』(in The Joseph Smith Papers, Volume 1: Joseph Smith Histories, 1832–1844, ed. Karen Lynn Davidson and others (2012), 83)後に116ページの原稿を失ったとき,ジョセフは再び鍛練されました。ジョセフは心から後悔しましたが,それでもなお主は短い間,ジョセフの権能を取り去られました。『わたしはまた,愛する者たちを懲らしめる。それは,彼らの罪が赦されるため』なのです(教義と聖約95:1)。
ジョセフはこう述べています。『天使は喜んでウリムとトンミムを返してくださいました。そして,神がわたしの忠実さと謙遜さを喜んでおられること,悔い改めて熱心に祈〔った〕……わたしを愛しておられること』を告げられました。〔『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』71;強調付加〕主はジョセフの心を変えるような教訓をお教えになりたかったので,ジョセフの胸が張り裂けるような犠牲を求められました。鍛錬の過程において,犠牲は不可欠なのです。」(「義にかなった裁き主」『リアホナ』2016年11月号,97)
現代の啓示の中でも,主が個人を懲らしめられたり,彼らに悔い改めを呼びかけられる例が数多くあります(教義と聖約19:13-15;30:1-3;64:15-17;112:1-3,10-16参照)。教義と聖約3:6-11の節は,預言者ジョセフ・スミスもジョセフ自身の誤りや弱さについて主から正されることを免れなかった証拠です。それにもかかわらず,ジョセフ・スミスは悔い改めたため,引き続き主の業を行うために主によって召されました。
十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード長老は,教会指導者たちは完全ではないといえども,教会指導者たちが霊感を受けていること,そして主が教会指導者たちを通して御業を行われることを確信できると説明しました。
「イエス・キリストの教会は常に,生ける預言者と使徒によって導かれてきました。主の僕たちは,死すべき状態で人間として不完全でありながら,霊感を受けて,わたしたちが霊的に命を危うくする障害物を避けられるように,また死すべき世を無事に通り抜けて最後の究極の目的地である天に行けるようにわたしたちを助けています。
ほぼ40年間の親しい交流の中で,わたしは,静かな霊感と深遠な啓示の両方が預言者と使徒,そのほかの中央幹部,また補助組織指導者に行動を起こさせているという個人的な証を得てきました。これらの善良な男女は,完全ではなく,間違いを犯すこともありますが,主から指示されるままに主の業を進めるためにすべてをささげてきました。……
教会指導者と会員は完全であるか,完全に近くなければならないと,非常に多くの人が考えています。彼らは,主の恵みが十分であり,死すべき者を通じて御業が成し遂げられるということを忘れているのです。……
主が御自分の選んだ指導者にどのように霊感を与え,またどのように聖徒たちを促して,彼らの人間性にもかかわらず並外れた特別なことを行わせておられるかに焦点を当てることは,わたしたちがイエス・キリストの福音にしっかりつかまり,シオン号に安全にとどまるための一つの方法です。」(「神が舵を取っておられる」『リアホナ』2015年11月号,24,25)
教義と聖約3:12-13。「悪人の手」
マーティン・ハリスが5人の特定の人々のみに原稿を見せるとして交わした聖約を破ったことにより,主の厳しい叱責がもたらされ,主はマーティンを「悪人」とお呼びになりました(教義と聖約3:12)。マーティンは自分自身の知恵と判断を頼りにすることを選んだためにモルモン書の原稿のページを紛失し,ジョセフ・スミスは「しばらくの間」翻訳をする特権を失いました(教義と聖約3:14)。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は,マーティンの「悪は,この要求に対する許可が与えられる以前に,それが既に拒否されていたものの,主の御心に反して自分自身の願望を満たそうとする身勝手な望みにありました」と教えています(Church History and Modern Revelation [1953], 1:28)。
教義と聖約3:16-20。「まさしくこの目的のために……版は保存されているのである」
ニーファイ,ヤコブ,モロナイなどのモルモン書の預言者たちは,この神聖な記録を世に現すことに対する主の目的について説明しています(モルモン書のタイトルページ;2ニーファイ33:4-5;ヤコブ4:3-4;エテル8:26参照)。教義と聖約3章に記録された啓示を受けたとき,預言者ジョセフ・スミスはまだ(モルモン書の)これらの節のいずれも翻訳しておらず,16-20節は,モルモン書の目的と行く末に対する彼の理解を深めたと思われます。
教義と聖約10章:追加の歴史的背景
預言者ジョセフ・スミスは,ペンシルベニア州ハーモニーで教義と聖約10章に記録された啓示を受けましたが,その正確な時期は分かっていません。教義と聖約3章に記録された啓示を受けた後,預言者は早くも1828年7月には,この啓示の一部を受けていた可能性があります。しかし,この啓示は翌春の1829年4月に記録されたようです(教義と聖約10章の前書きを参照〔訳注—英語版の教義と聖約の前書きには1829年4月頃にジョセフ・スミスに与えられた啓示であることが言及されているが日本語にはない(2018年6月)〕)。
116ページの原稿が失われた後しばらくして,翻訳の賜物が「今再びあなたに返された」という主の保証とともに,金版およびウリムとトンミムが預言者に戻されました(教義と聖約10:3)。1829年3月には,預言者は筆記者として時折手伝った妻のエマとともにモルモン書の翻訳を再開しましたが,4月5日にオリバー・カウドリが到着し,翌日からジョセフの筆記者として奉仕し始めるまで,翻訳はなかなか進みませんでした。
オリバーの助けを得たジョセフは,原稿が失われる前に翻訳していたモーサヤ書を翻訳し始めたと思われます。モルモン書の翻訳も完成間近となったころ,ジョセフは,記録のはじめに戻り,失われた部分を再び翻訳するべきだろうかと考えました。それに対し,主は神の業を破滅させるサタンの戦略について預言者に教え,版のその部分は翻訳せずに,ニーファイの小版を翻訳するように言われました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, 38–39)小版は,おもに教えを説くこと,啓示,および預言に焦点を当てた霊的な記録でした(モルモン書ヤコブ1:4参照)。小版は失われた部分と同じ時代の記録であるが,あらゆる意味で主の福音について「もっと深い見方を与える」ものであると,主は説明されました(教義と聖約10:45)。
教義と聖約10:1-29
主はジョセフ・スミスと神の業を滅ぼすためのサタンの計画を明らかにされる
教義と聖約10:1-4。「あなたは……力……以上に急いだり,それ以上に働いたりすることのないようにしなさい」
1827年9月に版を与えられていたにもかかわらず,失われた116ページの原稿のため,預言者ジョセフ・スミスには,1829年3月ごろまでモルモン書の翻訳の進展を示す筆記済みのページがありませんでした。モルモン書の翻訳は最も重要な仕事でしたが,主は預言者に対し,神から与えられた力と手段以上に働くことを要求されませんでした。ニール・A・マックスウェル長老は,死すべき体を持つ主の僕たちがどのように御業に従事するべきかを次のように説明しました:
「主は私たちに勤勉であっても慎重であることを求めておられます。私たちは,持ち上げることができるか試してからすぐに下ろすだけのために,自らの十字架を慌ただしく持ち上げるべきではありません。私たちは人生の残りの間,それを背負い続けなければならないのです。そして歩調も非常に大切です。……
自分の力以上に速く走ることを『要求されてはいない』のです。物事を勤勉に行うにしても『賢明に秩序正しく』行うことが,むしろ『賞を得るために』必要なのです。〔モーサヤ4:27〕歩調と勤勉さのこのバランスが,わたしたちの時間,才能,選択の自由を使うことにおけるきわめて難しい課題です。……
……わたしたちの歩調が力と手段を超えると,その結果は持続的な献身ではなく衰弱することになります。そのような事柄に関する指示は,個人的な霊感の過程を通して得ることができ,また,与えられています。……
勤勉さと持続的な努力を必要とする歩調とは,一つの仕事に身を投げ出すものの,すぐに力尽きてしまい,それ故にしばらくの間役に立たなくなってしまう人たちのやり方とは違います。」(Notwithstanding My Weakness [1981], 4, 6–7)
教義と聖約10:5。「サタンに打ち勝つために……常に祈りなさい」
モルモン書の原稿を失うという苦い経験により,預言者ジョセフ・スミスは,神から与えられた導きと指示にさらにしっかりと頼るようになりました。ジョセフは,サタンとその僕たちの破滅的な影響から免れるために,「常に祈(る)」ことを気づかされました(教義と聖約10:5)。大管長会のヘンリー・B・アイリング管長は,常に祈りなさいという戒めを主がお与えになった理由の一つを次のように強調しました。
「俗事に心を砕かなければならないこの世での生活について考えるとき,なぜ主が『いつも』という言葉を使われたのか,いぶかしく思うのは,きっとわたしだけではないでしょう。いつも同じことを意識して考えていることの難しさは,だれしも経験から明らかです。神への奉仕であったとしても,常に意識して祈ることはないでしょう。では,なぜ主はわたしたちに『常に祈〔る〕』よう勧められるのでしょうか。
主がどのような意図の下に,いつも主を覚えるという聖約をお与えになったのか,また,わたしたちが打ちのめされないようにいつも祈るようにという警告をお与えになったのか,完全に理解できるほどの知恵はわたしにはありません。でも,一つだけは理解しています。それは,わたしたちに影響を与える強力な勢力と,人間が持っている性質について,主がすべて御存じだということです。……
……主はわたしたちに世の煩いがあることを御存じです。……さらに,わたしたちが直面する試練や,試練に対処する人間の能力に盛衰があることも御存じです。
主はわたしたちが過ちを犯しやすいことも御存じです。過ちを犯すのは,働きかけてくる力を過小評価し,人間的な力に頼りすぎるからです。そこで主は,『いつも主を覚え〔る〕』という聖約を授け,『常に……祈〔る〕』ように警告されました。わたしたちにとって唯一守ってくださる御方である主に頼るためです。すべきことを理解するのは難しくはありません。いつも主を覚え,常に祈るうえで困難なのは,さらに熱心に努力できるよう自らを駆り立てることなのです。危険なのは,後回しにすることや,周りに流されることです。」(「いつも救い主を覚える」『リアホナ』2005年12月号,9-10)
アイリング管長はさらに,わたしたちが一日を通して祈り続けるための一つの方法について次のように説明しました。「主はあなたの心の祈りを聞いておられます。あなたの心の中に天の御父と,御父の愛する御子に対する愛を絶えず持っていれば,あなたの祈りも常に天に届くでしょう。」(“Always,” 12)
教義と聖約10:6-19。「このように,悪魔はこの業を損なうために狡猾な計画を企ててきた」
サタンは主の御業を破滅させようとしています(マタイ4:1-11;モーセ1:12-23;4:6;ジョセフ・スミス—歴史1:15参照)。モルモン書の原稿の紛失と,預言者ジョセフ・スミスが同じ箇所を再度翻訳した場合にジョセフを陥れるための悪人の企みは,モルモン書が世に現されることを妨げるサタンの数多い試みの一部でした。(失われた116ページの原稿にまつわるサタンの計画に関してジョセフ・スミスが学んだ事柄の概要については,教義と聖約10章の見出しを読んでください。)
十二使徒定員会のリチャード・G・スコット長老(1928-2015年)は,サタンとその最終的な目的について次のように教えました。「サタンにも計画があります。狡猾で,邪悪,巧妙な,破壊の計画です。偉大な幸福の計画を無効にする,考えつくあらゆる手段を用いて天父の子供たちを囚われの状態に置くことが,その目的です。」(「偉大な幸福の計画を実践する」『リアホナ』1997年1月号,84)
教義と聖約10:20-29。「サタンは彼らの心をあおり立てて,この業に対して怒らせている」
サタンは,預言者ジョセフ・スミスを迫害し,モルモン書を破滅させるため,腐敗した人々に影響を及ぼしました。サタンは悪人を欺き,へつらい,「偽りを言う」のも善いことを滅ぼすのも「何ら罪ではない」と告げました(教義と聖約10:25)。預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,次のように教えました。「悪魔は人を欺く大きな力を持っています。悪魔は物事をすっかりねじ曲げてしまうので,神の御心を行っている人々を見る人は,ぽかんと口を開けてしまうのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』,72)
今日も,神の業に対して怒りをかき立てられている人々がいます。十二使徒定員会のニール・L・アンダーセン長老は,教会員たちに次のように忠告しました。
「この世の影響を受けない人はだれもいません。主の勧告のおかげで,わたしたちは常に用心深くいられます。……
救い主に従って行くにつれ,必ず,難しい問題が立ちはだかります。信仰をもって対処するとき,わたしたちを精錬するこれらの経験は生ける救い主へのさらなる深い帰依へと導いてくれます。しかし,この世の方法で対処すると,同じ経験でも視界が曇り,わたしたちの決意が揺らぐこともあります。わたしたちが愛し称賛する人たちの中にも,細くて狭い道からそれ,『もはやイエスと行動を共にしな〔い〕』人が出てきます。〔ヨハネ6:66〕……
時には主の教会に対して少数の人が怒りを抱き,弱い人がどうにか保っている信仰を奪おうとするのを見て驚くことがあるでしょうか。はい,あります。しかし,そのことが教会の発展や行く末を妨げることもなく,主イエス・キリストの弟子として歩むわたしたち一人一人の霊的な進歩を遅らせることもありません。」「決して主を離れず」『リアホナ』2010年11月号,39,41)
教義と聖約10:30-70
ジョセフ・スミスは御業を破滅させるためのサタンの取り組みを阻止する神の計画について知る
教義と聖約10:30-37。「それらの言葉を再び翻訳してはならない」
主は,邪悪な者たちが盗まれた原稿の文言を改ざんして出版することを望んでいたのを御存じでした。その改ざんされた出版物は,もし預言者ジョセフ・スミスが失われた部分を再び翻訳して出版した場合,どのようなものであっても内容が矛盾するものとなっていたでしょう。そのため,主は版のその部分を再度翻訳しないようジョセフに命じられました。預言者の敵が116ページの原稿を出版することはなく,原稿が発見されることもありませんでした。後に,モルモン書の初版が出版されたとき,ジョセフ・スミスは教義と聖約10章の一部を引用した序文を加え,「〔ジョセフ〕が翻訳して書き取らせたものとは反対の意味に読まれてしまう」言葉を出版するという悪人たちの計画を公にしました(教義と聖約10:11)。
教義と聖約10:38-45。「わたしの知恵が悪魔の狡猾さに勝っている」
失われた116ページのモルモン書の原稿は,ニーファイの大版を預言者ジョセフ・スミスが翻訳したのものであり,そこにはリーハイの書が含まれており(1ニーファイ1:16;19:1参照),モーサヤ書の初めの部分が含まれていた可能性もあります。原稿が失われた後,預言者が版のこれらの部分を再び翻訳することはありませんでしたが,モルモンによる大版を短くまとめたものの残りの部分を翻訳し続けました。しかし主は,リーハイの書と同じ時代の記録であるニーファイの小版に刻まれた内容を翻訳するようジョセフに指示されました(教義と聖約10:41参照)。
モルモン書の預言者ニーファイがもう一組の版を造るようにという主の命令の説明をしたとき,ニーファイは「主はある賢明な目的のために,わたしにこの版を造るように命じられたが,その目的はわたしには分からない。しかし,主は初めからすべてのことを御存じである。したがって,……御自身のすべての業を成就するために,ある方法を備えておられる。」と書き記しました(1ニーファイ9:5-6。1ニーファイ19:1-5;2ニーファイ5:29-33;モルモンの言葉1:6-7も参照)。
十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,ニーファイの二つ目の版がどのような点で神の限りない知恵を示す例なのか,そしてそれが今日のわたしたちをどのように祝福しているかについて次のように説明しました。
「モルモン書の中で少なくとも6回,『ある賢明な目的のために』という言葉が,ニーファイの小版の作成,記録,保存に関連して用いられています(1ニーファイ9:5;〔モルモンの言葉〕1:7;アルマ37:2,12,14,18参照)。その賢明な目的,その最も明白な目的は,預言者ジョセフ・スミスによって翻訳されたモルモン書の最初の部分,将来紛失する116ページの原稿を補うことであったことをわたしたちは知っています(教義と聖約3章;10章参照)。
しかし,それ以上の『より賢明な目的』があることに気づきました。あるいは,より正確に言うと,その中に『より賢明な目的』があるのです。より賢明な目的を示唆する鍵が教義と聖約10:45にあります。短くまとめられた大版の翻訳として始められたものに小版からの内容を翻訳して挿入するための手順についてジョセフ・スミスに指示を与えるに当たり,主はこう述べておられます。『見よ,ニーファイの〔小〕版には,わたしの福音についてもっと深い見方を与える多くの事柄が刻まれている。』(強調付加)
ですから,これは明らかに,モルモン書という最終的な製品の開発における代用物ではなかったのです。116ページの原稿を渡してくれたら,印刷済みの142ページ(訳注—英文は142ページ,日本文は189ページ)を渡すという交換条件ではありませんでした。そうではありません。失われたもの以上を受け取ったのです。そうなることは初めから知らされていました。116ページで何が失われたのか正確には分かりません。しかし,小版で与えられたものは,イエスはキリストであると証した3人の偉大な証人〔ニーファイ,ヤコブ,イザヤ〕の個人的な宣言,モルモン書の教義に関する3人の偉大な声明であることをわたしたちは知っています。」(“For a Wise Purpose,” Ensign, Jan. 1996, 13–14)
教義と聖約10:46-52。ニーファイ人の弟子たちの祈りに答える
ニーファイ人の預言者と弟子たちの数人が,彼らの記録が保存され,その記録によって福音が最終的にレーマン人とその子孫にもたらされるように祈りました(2ニーファイ26:15;エノス1:13,16-17;モーサヤ12:8;3ニーファイ5:14;モルモン8:25-26;9:34-37参照)。これらの預言者たちの祈りは,末日におけるモルモン書の出現によって答えられました。
教義と聖約10:53-56,67。「わたしの教会」
教義と聖約10:53-56には,主が地上に御自分の教会を再び設立する準備をされていたという,主からの最も早い示唆の一つが記載されています(教義と聖約5:14;6:1;11:16も参照)。主は,御自身の教会に属するものは「恐れる必要がない。このような者は天の王国を受け継ぐからである」と約束されました(教義と聖約10:55)。主の回復された教会の会員であることが救いを保証すると思い込んでいる人もいます。この点に関する主の教義を理解するには,主の教会に属することが何を意味するのかを理解しなければなりません。主は,教会に属する者とは,単にバプテスマを受けて,名前が教会の記録に載せられている人ではなく,「悔い改めてわたしのもとに来る」人であると言われました(教義と聖約10:67)。また,主の教会の会員で最後まで堪え忍ぶ者に対しては,地獄の門も彼らに打ち勝つことがないと言われました(教義と聖約10:69参照)。
教義と聖約10:57-70。「わたしの教義の真の要点を明るみに出す」
教義と聖約10章に記録された啓示を通じて,イエス・キリストは神の御子,わたしたちの主,そして世の贖い主としての御自身の神性について証しておられます(教義と聖約10:57,70参照)。主は,モルモン書の出現とイエス・キリストの教会の回復を通じて,「〔主の〕教義の真の要点」を明るみに出すと約束されました(教義と聖約10:62)。モルモン書を通じて主の教義を明らかにするという主の目的の一つは,神の子供たちが争いを避け,神の御言葉を「曲げて」,つまりゆがめて聖文を誤って解釈する傾向を避けることができるように,神の子供たちを助けることです(教義と聖約10:63参照)。
モルモン書が「〔主〕の教義の真の要点を明るみに出」して(教義と聖約10:62)争いがないようにするであろうという主の宣言は,末日に現されるヨセフの腰から出た者が書き記すものに関する,エジプトのヨセフによって与えられた預言の成就です(2ニーファイ3:12参照)。大背教の時代,神権は地上から取り去られ,多くの分かりやすくて貴い真理も聖書から取り去られて隠されました(1ニーファイ13:26-29参照)。その結果,この世は,神の御言葉を理解して応用するために必要である完全な真理と神の啓示が取り去られたままとなりました。光と真理の欠如は,神の教義を巡る意見の不一致と争いを引き起こし,サタンが人の心をあおり立てて争うことを許しました。末の日におけるモルモン書の出現は,完全な神の真理を新たに確立し,明確にし,あらためて証しています。