第17章
教義と聖約43-45章
紹介とタイムライン
1831年2月,オハイオ州カートランドに到着したジョセフ・スミスは,改宗者の一部が過剰な宗教的情熱と偽の啓示によって惑わされていることを知った。自分を女預言者と呼んだハブル夫人として知られる女性を含め,啓示を受けたと主張する人もいた。ハブル夫人は一部の聖徒を欺いてしまっていたため,預言者ジョセフ・スミスはこの件について祈り,教義と聖約43章に記録されている啓示を受けた。主はこの啓示で,教会に啓示をもたらす神の規範を聖徒たちに思い出させる真理を提供された。
主は以前に,福音を宣言するように教会の長老たちを召された(教義と聖約42:4-8参照)。その戒めが与えられてから間もなく,主は,大会の準備をするよう長老たちに指示する,現在教義と聖約44章に記録されている啓示をお与えになった。主は長老たちに,彼らが主に対する信仰を働かせるならば,主の御霊を受け,敵に打ち勝つと約束された。
カートランドで教会が成長するにつれて,教会に対する敵意も高まった。批判者たちは新聞で教会を攻撃し,ほかにも聖徒たちを妨害しようと努めた。この反対のさなかの1831年3月に,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約45章に記録されている啓示を受けた。主はこの啓示で,末日,イエス・キリストの再臨,新エルサレム,つまりシオンについて説明された。
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1830年11月-1831年2月宣教師たちが去った後,オハイオ州カートランドの新しい改宗者たちの一部が,天から手紙や記述を受け取ったと主張した。
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1831年初頭“Painesville Telegraph”(『ペーンズビル電信』)などのオハイオ州の新聞に,聖徒たちとその信仰に関する虚偽の記事が掲載された。
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1831年2月オハイオ州で最近改宗した「ハブル夫人」が主の女預言者であると主張した。
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1831年2月教義と聖約43章が与えられた。
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1831年2月教義と聖約44章が与えられた。
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1831年3月7日教義と聖約45章が与えられた。
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1831年6月上旬オハイオ州カートランドで教会の大会が開かれた。
教義と聖約43章:追加の歴史的背景
1831年1月,オハイオ州カートランドに到着したジョン・ホイットマーは,天から奇妙で芝居がかった交信を受けたと主張する数人によって新しい改宗者の一部が欺かれていることを知りました。これらの偽の啓示は「聖書の表紙,宙を舞う羊皮紙,手の甲,そしてこのようなばかばかしくくだらない多くの物の上の記述」として現れたとされていました(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, ed. Michael Hubbard MacKay and others [2013], 256)。
ハブル夫人と呼ばれる女性が「いかにも自分が戒めや律法を啓示し,またほかの好奇心をそそるような事柄について啓示を授けるようなそぶりをした」(Joseph Smith, in Manuscript History of the Church, vol. A-1, page101, josephsmithpapers.org)とき,懸念は高まりました。当時の教会歴史家であったジョン・ホイットマーは,この女性の影響で一部の教会員が惑わされたと記述しています。「このころ,自らを主の女預言者であると呼ばわり,たくさんの啓示を受けていることを公言し,『モルモン書』が真実であること知っているというハブルという名前の女性がいました。そして彼女は,自分がキリスト教会の牧師になるべきであると信じていました。彼女はいかにも神聖なそぶりを見せたため,彼女の偽善を見破れなくて欺かれてしまった人が何人かいました。」(in The Joseph Smith Papers, Histories, Volume 2: Assigned Histories, 1831–1847, ed. Karen Lynn Davidson and others [2012], 29; spelling, capitalization, and punctuation standardized; see also The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, 257, note 95)
この女性の行為は,教会のための「戒めと啓示を受ける」ことができるのは預言者ジョセフ・スミスのみである(教義と聖約28:2)という,数か月前にニューヨーク州フェイエットで教会に対して明らかにされた教義への挑戦でした。しかし,この以前の啓示を知らされていたニューヨーク州からの聖徒たちの何人かはまだカートランドに到着しておらず,以前の啓示はどれも公開されていませんでした。カートランドの聖徒たちは新しい改宗者であり,そのほとんどが主の教会に御心を明らかにするための主の天与の秩序を知りませんでした。このため,預言者はこの件について主に尋ね,「〔聖徒たちが〕欺かれることのないため」の啓示を受けました(教義と聖約43:6)。
教義と聖約43:1-7
主は,啓示と戒めが主に任命された預言者を通してのみ与えられることを宣言される
教義と聖約43:2-7。教会のための啓示は生ける預言者を通じて与えられる
ハブル夫人,およびオハイオ州カートランドで起こっていたほかの偽の啓示に関する預言者の質問の答として,主は聖徒たちに対し,教会の大管長のほかに「あなたがたのために戒めと啓示を受けるよう任命される者は……いない」(教義と聖約43:3)とお教えになりました。大管長会のJ・ルーベン・クラーク・ジュニア管長(1871-1961年)は,次のように教えました。
「教会の大管長は,教会全体の預言者,聖見者,および啓示者であるため,特別な霊的賜物を持っています。
ここでわたしたちが心しておかねばならないこと,知る必要のあることとは,教会の大管長,つまり管理大祭司だけが,……教会員にとって戒めとなる新たな啓示や修正のための啓示を受け,あるいは既存の教義をどのようにでも変える,権威ある聖文の解釈を施す権利を持っているということです。大管長は,唯一まことの教会,末日聖徒イエス・キリスト教会の地上におけるただ一人の神の代弁者であり,その民に向かって神の御旨と御心を宣言できるただ一人の人です。」(“When Are the Writings and Sermons of Church Leaders Entitled to the Claim of Scripture?” [address to Church Educational System religious educators, July 7, 1954], 6, emp.byui.edu/marrottr/ClarkWhenAreWritings.pdf)
教会には,啓示が与えられる秩序をつかさどる律法があります。教義と聖約43章は,個人が個人的な啓示を受けることができ,受けるべきであるとはいえども,教会全体のために啓示が与えられる方法には秩序があることを説明しています(教義と聖約43:16参照)。大管長会のジェームズ・E・ファウスト管長(1920-2007年)は,神が御自分の教会に真理を明らかにされる方法に関する5つの基本的な真理を要約しました。
「第1に,神の鍵と権能は,神御自身によってジョセフ・スミスに授けられ,教会の大管長と呼ばれるその後継者一人一人に授けられてきました。
第2に,それらの鍵と権能は決してほかの人に授けられることはなく,その権能を持つ人は『教会員に知られ』ています〔教義と聖約42:11〕。
第3に,教会に対する絶えざる啓示と指導は教会の大管長を通して与えられます。大管長が聖徒たちを誤った道に導くことは決してありません。
第4に,個々の教会員は,自分の召しや責任範囲,また自分の家族について啓示を受けることができます。しかし,自分より高い権能を持つ人のために霊的な指示を受けることはありません。
第5に,すでに確立された神権の秩序または系統を無視して,教会のために神から直接啓示を受けたと主張する人は,誤ったところから導きを受けています。またそのような人に従う人々にも,同じことが当てはまります。」(「預言の声」『聖徒の道』1996年7月号,7-8)
教義と聖約43:4。「彼は,自分に代わる別の者を任命する力のほかに何も持たないであろう」
教会における啓示の秩序に関する主の指示には,もしジョセフ・スミスが神の預言者でいるための特権を失ったとしても,彼は引き続き,権能を授けられた後継者として別の人を任命する力を持つという条件が含まれていました。大管長会のジョージ・Q・キャノン管長(1827-1901年)は,この特別な状況について説明しました。「主がジョセフに堕落について話されたとき,主はジョセフが彼の代わりとなる別の人を任命する権能を持ち〔教義と聖約43:4参照〕,権能によって聖任された,つまり門から入った人でなければ,だれも行動する権利を持たないと言われました〔教義と聖約43:7参照〕。わたしが読んだ啓示によって,ほかの場所からこの権能を得られる人はだれもいないことが分かるでしょう。これは聖なる神権を通じて与えられなければなりません。人はイエスの声,またはそのほか様々なことを聞いたと言うかもしれませんが,〔神権の〕鍵には神の力が伴い,権能を持つ神の僕の働きには神の祝福が追随することを見いだすでしょう。」(“Discourse by Elder Geo.Q. Cannon,” Deseret News, Dec. 15, 1869, 532)
教義と聖約43:7。「門から入って聖任を受け〔る〕」
主が主の民を導くためにだれをお選びになったかについての質問は,いずれも聖文の中で明瞭に答えられています。主はこう教えておられます。
「羊の囲いにはいるのに,門からでなく,ほかの所からのりこえて来る者は,盗人であり,強盗である。
門からはいる者は,羊の羊飼である。」(ヨハネ10:1-2)
教会員は,特殊な状況,または秘密の聖任によって起こされる指導者はいないという自信を持つことができます。主は,神権指導者が「だれか神権を持つ者によって聖任され,そして権能を持っていることと,教会の長たちによって正式に聖任されたことが教会員に知られ〔る〕」(教義と聖約42:11)と約束されたからです。
教会員は,特別な権能を持っている,または神の子供たちを導くための特別な権能または聖任を受けていると主張する人に注意すべきです。ジェームズ・E・ファウスト管長は次のように警告しました。
「時の初めから,教会の内外を問わず,地上で神の王国の鍵を持つ人の霊感を受けた言葉に従わないよう,教会員を説得しようとする一部の人々が存在します。その中には,確立された教会の秩序とは異なる方法で霊感や特殊な英知を授かったと称して,迷わそうとする人々がいます。……
預言者ジョセフは,1832年から翌年の1833年にわたる冬に,次のように説明しました。『神のまことの天使が人を聖任するためにやって来ることは二度とないだろう。なぜなら,天使は神権を確立するためにすでに一度遣わされて来て,わたしを聖任したからである。そして神権がほかの人を聖任する力とともに再び地上に設けられたので,天からの使者がやって来てその力を妨げてだれかを聖任することはない。……知っておいてほしいことがある。今後,もし天使によって聖任されたと公言する人が出てくるならば,その人はうそつきか,あるいは天使を装った悪魔に欺かれているかのいずれかである。神権が教会から取り去られることは二度とないからである』〔Orson Hyde, ‘Although Dead, Yet He Speaketh,’ Millennial Star, Nov. 20, 1846, 139〕。」(“The Prophetic Voice,” 5, 7)
教義と聖約43:8-16
互いに教え合い,教化し合うという戒め
教義と聖約43:8-11。「わたしの前に聖さを尽くして行動する義務を自ら負わなければならない」
教会員が「互いに教え合い,教化し合〔う〕」(教義と聖約43:8)ために集うとき,教会員は福音の真理を教え学ぶための神から与えられた規範に従います。福音のレッスンは,学んだ事柄を行動に移すときに聖められるよう神の子供たちを備えます。霊的な事柄の知識を単に得るだけでは十分ではありません。イエス・キリストの福音を受ける人は,「〔主〕の前に聖さを尽くして行動する義務を自ら負〔う〕」(教義と聖約43:9)という聖約を結びます。
毎年2回開かれる総大会は,福音のレッスンを受ける重要な機会を教会員に提供します。七十人のポール・V・ジョンソン長老は,総大会で伝えられるメッセージを単に聞くだけでは十分ではない理由について説明しました。「総大会のメッセージによって生活を変えていくためには,耳にする勧告に進んで従う必要があります。主は啓示で預言者ジョセフ・スミスにこのように説明されました。『……あなたがたは集まるとき,どのように……律法と戒めの要点を実行するかを知ることができるように,互いに教え合い,教化し合わなければならない。』〔教義と聖約43:8〕しかし『どのように実行するか』を知るだけでは十分ではありません。主は次の節でこのように言っておられます。『……あなたがたは,わたしの前に聖さを尽くして行動する義務を自ら負わなければならない。』〔教義と聖約43:9〕このように学んだことを進んで行動に移せば,すばらしい祝福への扉が開かれるのです。」(「総大会の祝福」『リアホナ』2005年11月号,51-52)
教義と聖約43:8-9は,主から受けた律法と戒めに従って行動するという個人的な責任について言及することに加えて,わたしたちが福音の教えを受け,教化されるようともに集うとき,聖徒の集まりとして自分自身を結びつけることも示唆しています。ロレンゾ・スノー大管長(1814-1901年)は次のように説明しました。
「わたしたちを一つの民として結びつけることのできる特定の原則を実行し,一つとなるために気持ちを一つに合わせなければならないこと,ある事柄を行わないかぎりこれは決して達成できないこと,それにはわたしたちの側で特別な努力が必要なことを,わたしたちは理解しなければなりません。
皆さんはともに結ばれるためにどのように努力しているでしょうか。隣人と一つとなるためにどのように努力しているでしょうか。かつて知り合いでなかった二人の人がかかわりを持つようになった場合,互いの友情,愛情,好意を確保するためにどのように努力しているでしょうか。なぜ何かを行わなければならないのでしょうか。それは一方だけが行うのではありません。一方だけでなく他方も行わなければなりません。一方が自分のことだけを行うのでは役立ちません。一方がその気持ちに応じ,自分の務めを果たすだけではだめです。心情も愛情も一つになるために,両者の行動が必要とされるのです。」(『歴代大管長の教え—ロレンゾ・スノー』179)
教義と聖約43:12-14。信仰と祈りを通じて預言者を支持する
教義と聖約43:12-14に記録されているように,主は聖徒たちに対し,信仰と祈りを通じて,および預言者の家族に物質的に必要な物を提供することによっても預言者ジョセフ・スミスを支持できると言われました。預言者は,教会の管理および霊的な業に全力を尽くしていました。預言者に物質的な支援を提供することは,聖書の霊感訳から得た教義的な理解を含む,教会員の祝福につながりました。
教義と聖約43:17-35
神の僕は再臨と福千年に備えて悔い改めを宣べ伝えなければならない
教義と聖約43:17-28。警告の声
「主の大いなる日」(教義と聖約43:17)とは,イエス・キリストの再臨と福千年の始まりを指しています。神は,救い主の再臨の時に神の子供たちが悪人とともに滅ぼされることを防ぐため,悔い改めを宣言するよう神の僕たちに命じられました。主の僕たちの声に従って悔い改める人もいれば,それを無視して拒絶する人もいるでしょう。このため,主は様々な方法,つまり主の僕たち,天使の働き,主御自身の声,そして自然の破壊的な力をも通じて悔い改めるように警告の声を上げられます。
教義と聖約43:29-33。大いなる福千年
「大いなる福千年」(教義と聖約43:30)とは,救い主の再臨によって迎え入れられる1,000年間を指しています(黙示20:4;教義と聖約29:11参照)。福千年の間は,「キリストが自ら地上を統治され」ます(信仰箇条1:10)。主は,福千年の間,義にかなった人々が主とともに統治することを彼らに保証されました(教義と聖約43:29参照)。サタンは福千年の間縛られ,その時代に生きる人々を誘惑する力を持ちません(教義と聖約43:31;101:28参照)。
ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,サタンが縛られるときに享受する祝福について考察しました。「サタンが縛られ,主が御自分の民を統治される1千年,すなわち〔大いなる〕福千年(教義と聖約43:30)が幕を開けるのです。皆さんは邪悪な敵の力が封じられるこのすばらしい時代を想像することができますか。今皆さんを取り囲むサタンの力と,それが消え失せる時の平和な状態を考えてみて下さい。今,地には争いと罪悪がありますが,やがて平和と愛の時が訪れるのです。」(「恐れることはない」『聖徒の道』1982年10月号,3参照)
教義と聖約44章:追加の歴史的背景
オハイオ州カートランドに到着してから間もなく,預言者ジョセフ・スミスは教会を導く律法について説明する,教義と聖約42章に記録された啓示を受けました。これには,長老たちは「わたしの御霊の力をもって出て行き,二人ずつ組んで……この場所から……出て行かなければならない」(教義と聖約42:6,8)という戒めが含まれていました。教義と聖約44章に記録されている啓示は,福音を宣べ伝えるために出て行く前に,ともに集まるよう教会の長老たちに命じました。
預言者ジョセフ・スミスはその指示に従って行動し,1831年2月22日,まだニューヨーク州に住んでいたマーティン・ハリスあてに手紙を送りました。マーティンに「ここでの業は東西南北へと広がっています。あなたはそこにいる長老たちに対し,時間を取ることができる者は全員,可能ならば即刻こちらに向かうように知らせてください。これは主の戒めによるもので,主は彼ら全員のために偉大な業を備えておられます」と説明したとき,預言者はこの啓示を参照しました(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, 263; punctuation and spelling standardized)。
1831年の春のその後数週間のうちに,多くの聖徒たちがニューヨーク州からオハイオ州カートランドに集まりました。1831年6月には教会の4回目の大会が開かれ,多くの長老たちがこの大会の集会に参加しました。これは,このあと福音を宣べ伝えるために出て行くよう彼らを備えました。
教義と聖約44章
主は,集合するよう主の僕たちに命じられる
教義と聖約44:1-2。「彼らが集まる日にわたしの御霊を注ごう」
主は教会の長老たちに対し,ともに集まり,主への信仰を働かせるならば,彼らに主の御霊を注ぐと約束されました。十二使徒定員会のジョセフ・B・ワースリン長老(1917-2008年)は,これが教会における集会の目的の一つだと教えました。「総大会や世界中で行われる教会のほかの集会で,わたしたちは福音における兄弟姉妹とのすばらしい交わりや,神の御霊のもたらす慰めを求めてともに集まります。そして,礼拝行事で御霊を感じて,神への愛と同胞の愛で心が満たされるのです。」(「価値ある交わり」『聖徒の道』1998年1月号,37参照)
教義と聖約44:4-5。「人間の法律に従って自らを組織する」
教会はニューヨーク州では合法的に組織されていましたが,カートランドに聖徒たちが集まったため,オハイオ州でも同様の取り組みが必要になりました。これによって,教会が宗教組織として認識されることが許可され,教会が独自の土地を所有して,オハイオ州のほかの宗教グループに与えられているものと同じ特権を享受することが可能になります。主は教義と聖約44章に記録されている啓示で,敵が教会を破壊することを防ぐためにもこの手順が必要であることを明確にされました。(See Steven C. Harper, Making Sense of the Doctrine and Covenants: A Guided Tour through Modern Revelations [2008], 153.)
教義と聖約45章:追加の歴史的背景
1831年の春には,多くの改宗者たちがオハイオ州カートランドの聖徒たちとともに集まっていました。この教会の急速な成長に応じて,反対も高まりました。預言者ジョセフ・スミスは,当時聖徒たちが直面していた困難について説明しました。「教会のこの時代では,人々が御業を研究するのを,あるいは信仰を受け入れるのを妨げようとして,多くの偽りの記事,うそ,そして愚かな作り話が新聞に掲載され,四方八方に配布されました。……しかし,偏見と悪がねつ造し得たあらゆる事柄と闘った聖徒たちにとって喜ばしいことに,わたしは次の〔教義と聖約45章〕を受けました。」(in Manuscript History of the Church, vol. A-1, page 104, josephsmithpapers.org)預言者は1831年3月7日にこの啓示を受け,これは聖徒たちが末日という背景の中で直面した反対,時のしるし,およびイエス・キリストの再臨をよりよく理解するために役立ちました。
教義と聖約45:1-14
イエス・キリストは,創造主,弁護者,およびこの世の光かつ命としての御自分の役割を強調される
教義と聖約45:3-5。イエス・キリストはわたしたちのために嘆願する弁護者であられる
わたしたちは皆罪を犯しており,神の正義によると,汚れたものは一切神の御前に住むことはできません。しかし,イエス・キリストは,天の御父の子供それぞれのために救いを可能にするべく地上に来られました。救い主の贖いを通じて,わたしたちは清くされ,罪と死から救われることができます。主の功徳,憐れみ,そして恵みは,わたしたち全員に悔い改めと赦しを提供してくれます。イエス・キリストは完全に義にかなっておられ,人々の罪のために正義の要求を満たされたため,御父の前でわたしたちのために嘆願することによってわたしたちの弁護者になることがおできになります。十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン会長はこのように説明しました。
「イエスは御父に対するわたしたちの弁護者です(1ヨハネ2:1;教義と聖約29:5;32:3;45:3;110:4参照)。弁護者(advocate)という言葉は,『~に代わる声』あるいは『ほかの人のために弁じる者』という意味のラテン語から派生したものです。ほかにも仲保者(1テモテ2:5;2ニーファイ2:28;教義と聖約76:69も参照)など,聖文中には幾つか関連語があります。……
……御父に対するわたしたちの弁護者,執り成しをされる御方,仲保者としてのイエスを理解するとき,わたしたちは,イエスがほかに比べるもののない理解力と公正と憐れみを備えられた御方であるという確信を得ます(アルマ7:12参照)。」(“Jesus the Christ—Our Master and More” [Brigham Young University fireside, Feb. 2, 1992], 4, speeches.byu.edu〔訳注—『リアホナ』2000年4月号10-11に掲載あり〕)
何よりも,救い主は御父の前でわたしたちのために嘆願され,わたしたちが無実だからではなく,主の贖いの犠牲に基づいて,主を信じる者が正義の永遠の要求から免れるよう求められます。わたしたちを罪の罰から贖うための主の根拠は,「罪を犯したことがな〔い〕……者の,苦しみと死」です(教義と聖約45:4)。
教義と聖約45:15-59
救い主は,主の死のすぐ後に起こる,そして主の再臨に先立つしるしと不思議を明らかにされる
教義と聖約45:15-59。「わたしは肉体にあってわたしの弟子たちの前に立ち,彼らに語りながら示したように,分かりやすくそれを示そう」
現世における生涯の最後の週,イエス・キリストはオリブ山で弟子たちとお会いになりました。イエスがエルサレムの神殿の破滅を預言されたとき,弟子たちはその破滅がいつ起こるか,そしてイエスがいつ地上に戻られるかについて尋ねました(ジョセフ・スミス—マタイ1:2-4参照)。その答として,主は御自分の死のすぐ後に起こる,そして主の再臨に先立つしるしと不思議を明らかにされました。教義と聖約45:16-59に記録されているように,主はこの預言を末日の主の聖徒たちに繰り返し述べられました。
教義と聖約45:16-59。再臨のしるし
イエス・キリストの再臨のしるしを知っており,主の預言者を通じて与えられる勧告に従う人は,このきわめて重要なときの難題に対処するために備えられ,「主の大いなる日が来るのを……待ち望」みます(教義と聖約45:39)。これらの人は主の再臨に不意を突かれることなく,それを心待ちにします。
聖文は,再臨のしるしと出来事を研究したいと考える人のための最良の情報源です。例えば,新約聖書の弟子たちが「あなたがまたおいでになる時や,世の終わりには,どのような前兆がありますか」(マタイ24:3)と救い主に尋ねたときに彼らに与えられた教えから多くの詳細を学ぶことができます。マタイ24:3-51にあるイエス・キリストの教えは,ジョセフ・スミス—マタイ1:4-55(『高価な真珠』内)にある預言者ジョセフ・スミスによる霊感訳を通じて大きく拡充されました。教義と聖約の幾つかの章も,末の日の出来事と,神の子供たちがそれらのためにどのように備えることができるかの説明に役立ちます(例えば,教義と聖約29章;38章;45章;63章;84章;88章;101章; 133章などが含まれます)。
主の再臨のしるしは,(1)福音の回復と,最終的に福音が世界全体に拡大していくことに関連したしるし,および(2)悪の増大と,世界にもたらされる災害と裁きに関連したしるしの二つのおもなカテゴリーに分類することができます。教義と聖約45:16-59で説明されている再臨のしるしと出来事の一部には,以下が含まれます:
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異邦人とユダヤ人が集められる(教義と聖約45:25,30,43参照)
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「戦争と戦争のうわさが聞かれ,全地が混乱〔する〕」(教義と聖約45:26)
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完全な福音が回復される(教義と聖約45:28参照)
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「荒廃をもたらす病気が地を覆う」(教義と聖約45:31)
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主の「弟子たちは聖なる場所に立ち,動かされない」(教義と聖約45:32)
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「方々に地震があり,また多くの荒廃もある」(教義と聖約45:33)
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「しるしと不思議〔が〕……上は天に,下は地に示される」(教義と聖約45:40)
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「太陽は暗くなり,月は血に変わ〔る〕」(教義と聖約45:42)
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主が「力と大いなる栄光とをまとって,すべての聖なる天使たちとともに」来られる(教義と聖約45:44)
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「眠っていた聖徒たち〔が〕……出て来る」(教義と聖約45:45)
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主がオリブ山に御姿を現され,ユダヤ人と話される(教義と聖約45:48,51-53参照)
教義と聖約45:32。「わたしの弟子たちは聖なる場所に立〔つ〕」
教義と聖約45章に記録されている啓示の目的の一つは,イエス・キリストの再臨に備えるよう天の御父の子供たちを助けることでした。悪人は苦しみ滅ぼされますが,主の弟子たちは「聖なる場所に立ち,動かされない」(教義と聖約45:32)ならば平安と祝福を見いだします。
中央若い女性会長会の顧問として奉仕したアン・M・ディブ姉妹は,どのように聖なる場所に立つことができるかについて説明しました。「エズラ・タフト・ベンソン大管長はこう述べています。『聖なる場所には,「防御のため……避け所となるため」〔教義と聖約115:6〕の場所である神殿,礼拝堂,家庭,シオンのステークが含まれています。』〔‘Prepare Yourself for the Great Day of the Lord,’ New Era, May 1982, 50〕これらに加え,わたしたちは自分たちそれぞれの場所を,さらに見いだすことができます。場所という言葉を聞くと,物理的な環境や地理的な地点を考えがちですが,英語の場所(place)という言葉には『個々の状況,立場,精神状態』という意味も含まれています。〔Merriam-Webster Online, ‘place,’ merriam-webster.com/dictionary/place〕聖なる場所には,「時」も含まれます。それは,聖霊が証してくださる時や,天の御父の愛を感じる時,祈りの答えを受ける時などです。さらには,勇気を出して正しいことを擁護する時,特にだれ一人そのような立場を取ろうとしない状況でそのような勇敢な行動をするときはいつでも,皆さんは聖なる場所を作り出しているのです。」(「あなたにとっての聖なる場所」『リアホナ』2013年5月号,115)
教義と聖約45:35。約束が果たされる
再臨のしるしの多くには災害や恐ろしい出来事が含まれていますが,救い主は,これらのしるしが「与えられた約束が果たされる」(教義と聖約45:35)ことの兆候としての役割を果たすと説明して,主に従う人々を落ち着かせられました。これらの約束は,福千年が迎え入れられるときに義人を待つ祝福を指しているのかもしれません。
教義と聖約45:56-59。賢い者は真理を受け入れ,導き手として聖なる御霊を受ける
10人のおとめのたとえは,元々イエスがオリブ山で弟子たちにお教えになったときに与えられたものです(マタイ25:1-13参照)。教義と聖約は,このたとえの解釈を幾つか提供し,賢い者に約束された祝福には主の福千年における地上での統治の間,主とともにいるという約束が含まれます(教義と聖約45:56-59参照)。賢い者とは,「真理を受け入れ,自分の導き手として聖なる御霊を受け,そして欺かれなかった者」であると説明されています(教義と聖約45:57)。
十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,教会員全員に聖なる御霊を導き手として受ける機会があると説明しました。「『自分の導き手として聖なる御霊を受け〔る〕』ことは可能であって(教義と聖約45:57),霊的に成長し,ますます邪悪になる世の中を生き抜くうえで欠かせません。末日聖徒であるわたしたちは時々,生活の中で聖霊の影響力を認識することが珍しい,あるいは例外的な出来事であるかのように語ったり振る舞ったりすることがあります。しかし,聖約の約束がいつも主の御霊を受けられるという約束であるのを覚えていなければなりません。この天の祝福は,バプテスマと確認と『聖霊を受けなさい』という指示を受けたすべての教会員に当てはまるものです。」(「いつも主の御霊を受けられるように」『リアホナ』2006年5月号,30)
教義と聖約45:60-75
主は新エルサレム,つまりシオンについて説明される
教義と聖約45:60-61。「『新約聖書』が翻訳されるまで」
1830年6月にニューヨーク州で預言者ジョセフ・スミスが開始した聖書の霊感訳は,ジョセフがオハイオ州カートランドに到着した後も継続されました。翻訳が開始されて以来,預言者は旧約聖書に専念しました。教義と聖約45章の啓示が与えられた1831年3月7日には,翻訳は創世記19:35まで進んでいました。その後,主はジョセフ・スミスに新約聖書の翻訳を開始するよう指示されました(教義と聖約45:60-61参照)。預言者とシドニー・リグドンは,その翌日にマタイによる福音書の翻訳作業を始めました。「原稿の1ページ目には1831年3月8日という日付があり,それに続いて『神の力によって翻訳された新約聖書の翻訳』と記されています。この注釈は,行っている業について幹部の兄弟たちがどのように感じていたかを表しています。」(Robert J. Matthews, A Plainer Translation: Joseph Smith’s Translation of the Bible, A History and Commentary [1985], 73)
教義と聖約45:62-71。聖徒たちは新エルサレムを築くように命じられる
教義と聖約45:62-71に記録されているように,主は聖徒たちに,主の再臨の前に増加すると預言された問題と災害に備える方法をお教えになりました。具体的に,聖徒たちはともに集まり,エノクの町のパターンに従ってシオンの町を確立するように言われました(モーセ7:18-20参照)。その町は「新エルサレム」と呼ばれ,「平和の地,避け所の都,……安全の地」(教義と聖約45:66)となります。シオンという言葉は,わずかに異なるものを意味するために使われる場合があります。この言葉は時折シオンの民を指し,その民を「心の清い者」と説明しています(教義と聖約97:21)。ほかにも,シオンは世界各地にある教会とそのステーク全体を指します(教義と聖約82:14参照)。シオンという言葉は,特定の地理上の場所を指すこともあります。この啓示では,シオンは聖徒たちが確立し,集合する物理的な町を指しています。
預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,末日のシオンについて次のように述べました。
「シオンを築き上げることは,あらゆる時代の神の民が関心を寄せてきた大義であり,預言者たち,祭司たち,王たちが,特別な喜びをもって語ってきたテーマです。彼らはわたしたちが生きている時代を,喜びに満ちた期待をもって待ち望み,すばらしい喜びに満ちた期待に胸を高鳴らせながら,このわたしたちの時代について歌い,書き記し,預言しました。しかし彼らはわたしたちの時代の出来事を見ることなく世を去って行きました。わたしたちは,末日の栄光をもたらすために神に選ばれている恵まれた民です。末日の栄光を見て,それに加わり,その前進に貢献するという務めを任されているのです。
聖徒たちが集まる場所はどこもシオンです。すべての義にかなった人が,その子供たちのための安全の地としてシオンを築き上げるでしょう。
将来,聖徒たちが集まるための〔シオンの〕ステークが,あちらこちらにあるでしょう。……その場所で皆さんの子孫は祝福を受け,皆さんは友人たちのただ中にあって祝福を受けるでしょう。福音の網はあらゆる種類の人を集めるのです。
……わたしたちはシオンを築き上げることを最大の目標としなければなりません。……だれもシオンとそのステーク以外では平安を得られない時が,すぐに来ようとしています。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』186)
ブリガム・ヤング大管長(1801-1877年)は,末日のシオンを確立する重要性に聖徒たちを注目させました。
「わたしたちの人生の目的は,神のシオンを築き,イスラエルの家を集合させ,……理解力の中に知識と知恵の宝を蓄え,自らの心を清くし,人々を主が来られるときのために備えさせることでなければなりません。……
わたしたちのこの世における本分は,神のシオンを築き,確立すること以外にありません。それは神の御心と律法によって果たされる必要があります〔教義と聖約105:5参照〕。エノクが昔のシオンを築き完成させた型と方式によらなければなりません。エノクが築いたシオンは天に取り去られ……ました。……わたしたちも忠実さをもって,シオンが天から地上に戻って来たときに,それを迎え,またその訪れの輝きと栄光に堪えられるように,自らを備えなければなりません。」(『歴代大管長の教え—ブリガム・ヤング』123-124)