「第53章:教義と聖約133章」『教義と聖約 生徒用資料』
「第53章」『教義と聖約 生徒用資料』
第53章
教義と聖約133章
紹介とタイムライン
1931年11月1-2日の2日間にわたり,オハイオ州ハイラムで行われた,『戒めの書』の出版に焦点を当てた大会の後,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約133章に記録されている啓示を受けた。この啓示は,「地に住む者に福音を宣べ伝えることと〔イスラエルの〕集合に関して,長老たちが知りたいと望んでいたこと」(教義と聖約133章,前書き)への答えとして与えられたものである。この啓示の中で,主は教会員をはじめすべての人に,主の再臨に備えて「バビロンから出〔る〕」ように,そして「シオンの地へ行〔く〕」ように(教義と聖約133:7,9)命じられた。主はまた,主の再臨と福千年における統治に伴う幾つかの出来事についても明らかにされ,また主の回復された福音が地上を主の再臨に備えさせると教えられた。
教義と聖約133章:追加の歴史的背景
1831年11月1-2日,オハイオ州ハイラムで教会の大会が開かれました。預言者ジョセフ・スミスは,これより以前に主から啓示を数多く受けており,この大会はそうした啓示の出版に焦点を当てたものでした(本書の教義と聖約1章の「追加の歴史的背景」を参照)。預言者は恐らく,教義と聖約133章に記録されている啓示を,大会が閉会した翌日に当たる1831年11月3日に口述したと思われます。ジョセフ・スミスに関する後の歴史記録では,この啓示を受けた経緯が説明されています。「このとき,地に住む者に福音を宣べ伝えることと集合に関して,長老たちが知りたいと望んでいたことがたくさんあった。まことの光によって歩み,高い所から教えを受けるために,……わたしは主に尋ね,次のような啓示を受けた。この啓示はその重要性から,また区別のために,それ以降『教義と聖約』の書に加えられ,『付録』と呼ばれた。」(Manuscript History of the Church, vol. A-1, page 166, josephsmithpapers.org)
この啓示は,当初教義と聖約の付録とされたため,ほかの章の年代順の並びから外れています。この啓示と,「この神権時代に与えられた教義,聖約,および戒めについての主のはしがきとなっている」(教義と聖約1章,前書き)教義と聖約1章に記されている啓示は,教義と聖約に記録されている数々の啓示の前後を挟むブックエンドとなっています。教義と聖約の初期の版では,ジョセフ・スミスへの啓示は,指定されたはしがき(教義と聖約1章)と付録(教義と聖約133章)の間にまとめられています。
十二使徒定員会のジョン・A・ウイッツォー長老(1872-1952年)は,教義と聖約133章がどのようにして預言者ジョセフ・スミスが受けた啓示の付録としての役割を果たしているかを説明しています。
「『付録』〔教義と聖約133章〕は序文〔教義と聖約1章〕を補足しています。これら二つの章はともに,この書物の内容を凝縮した形に包み込んでいます。……
付録とは,書き手が,書物の中身を詳細に述べたり,強調したり,補強したり,内容をもう少しきちんと説明したりするために付け足すことが必要であると判断したものです。神から与えられた付録である第133章は,この目的にかなうものです。」(The Message of the Doctrine and Covenants, ed. G. Homer Durham [1969], 17)
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)もまた,教義と聖約133章と,その教義と聖約1章との関係について語っています。「この章の主旨は〔教義と聖約1章〕のそれと非常によく似ており,事実,概ね同一のテーマの続きとなっています。」(Church History and Modern Revelation [1953], 1:263)
教義と聖約133:1-16
主が御自分の民に再臨に備えるように命じられる
教義と聖約133:1-2。「主……は,突如神殿に来る」
旧約聖書の預言者マラキは,末日の出来事について話す中で,次のように預言しました。「あなたがたが求める所の主は,たちまちその宮に来る。」(マラキ3:1)教義と聖約133章に記録されている啓示において,救い主はこの預言を再び確認されました(教義と聖約133:2参照)。 十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,この預言における「その宮」という言葉は,幾つもの神殿を指している可能性があると教えています。「末日にこうして主が突然神殿に御姿を現されることは,大いなる恐るべき日に主が御姿を現されることとは関係がありません。なぜならそのとき主は,最後の大戦争のさなかにオリブ山の上に立たれるからです。神殿への現れは,1983年4月3日にカートランド神殿に主が戻って来られたことにより,少なくともその一部は成就しています。また主が,御自身のほかの神殿にも突然再び来られることも十分にあり得るでしょう。その神殿とはより具体的には,ミズーリ州ジャクソン郡に建てられる神殿のことです。」(Mormon Doctrine, 2nd ed. [1966], 693–94。教義と聖約84:1-5;97:15-16;110:1-4も参照)
教義と聖約133:2-3。「主はその聖なる腕を……現す」
教義と聖約133章に記されている啓示には,主が「裁きのためにのろいをもって世……のうえに降って来〔られる〕」(教義と聖約133:2)とありますが,これはイエス・キリストの再臨のことを指しています。再臨の際,救い主は,その裁きと公正な報いを「神を忘れるすべての国民」のみならず,「〔聖徒〕の中の神を敬わないすべての者」(教義と聖約133:2)のうえに注がれます。
主は預言者イザヤの記した比喩を用いながら,御自身が「その聖なる腕をすべての国民の目の前に現す」(教義と聖約133:3。イザヤ52:10も参照)と述べられました。聖文において,腕は強さや力を象徴することがあります。「聖なる腕を……現す」とは,主が御自身の強さと力を示されることを意味しています。この預言はイエス・キリストの再臨のときに現れる力と栄光を指しているとも考えられますが,一方で,主の再臨に備えるためのイスラエルの集合という,主の大いなる末日の業を指しているとも言えます。イザヤ52:10に記されているイザヤの預言に言及し,モルモン書の預言者ニーファイは,末日に「主なる神は,イスラエルの家に属する者たちに聖約と福音をもたらし,やがて,すべての国民の目の前にその御腕を現されるのです」と教えています(1ニーファイ22:11。1ニーファイ22:8-11参照)。福音の回復を通じ,主は御自身の民を「囚われの身から再び連れ出されます。彼らはその受け継ぎの地に集められます。そして暗闇から,また暗黒から連れ戻されます。彼らは,主が自分たちの救い主,贖い主,イスラエルの力ある者であることを知るのです。」(1ニーファイ22:12)こうして,回復と,福音を宣べ伝えることを通じ,「地の果てに至るすべての者が,彼らの神の救いを見る」のです(教義と聖約133:3)。
教義と聖約133:4。「自らを清めなさい。……シオンの地に集まりなさい」
主は教会員に,御自身の再臨に備えるように命じられました。「おお,わたしの民よ,備えなさい,備えなさい。自らを聖めなさい。おお,わたしの教会の人々よ,シオンの地に集まりなさい。」(教義と聖約133:4)聖くなるとは,「イエス・キリストの贖罪を通して,罪から解放された,純粋で,清く,聖なる状態(モーセ6:59-60)」となることです(『聖句ガイド』「聖め」の項,scriptures.lds.org。教義と聖約20:30-31も参照)。聖めは,イエス・キリストを信じる信仰,悔い改め,福音の律法と儀式に従うことが必要とされる,生涯にわたる過程です。聖文は,シオンは,聖くなろうと努める「心の清い者」(教義と聖約97:21)たちの間にのみ築き上げることができると教えています。
散らされたイスラエルを集めるのを助けるというわたしたちの務めについての話の中で,十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン会長は,次のように教えています。
「キリストのもとに来るという選択は,物理的な場所の問題ではありません。個人の献身の問題なのです。人々は郷里を離れることなく『主……を知るようにな』ります〔3ニーファイ20:13〕。教会初期の時代,改宗はしばしば移住をも意味しました。しかし今日では,それぞれの国に民が集められます。主は聖徒たちに,各々の生まれた国においてシオンを打ち立てるよう命じられました〔教義と聖約6:6;11:6;12:6;14:6参照〕。聖文には,人々が『彼らの受け継ぎの地に集め戻され,彼らに約束されたすべての地に定住する』と預言されています〔2ニーファイ9:2〕。『各国はその国民のための集合場所です。』〔Bruce R.〔McConkie, in Conference Report, Mexico City Mexico Area Conference 1972, 45〕ブラジルの聖徒の集合地はブラジル,ナイジェリアの聖徒の集合地はナイジェリア,韓国の聖徒の集合地は韓国なのです。シオンは『心の清い者』です〔教義と聖約97:21〕。義にかなった聖徒がいる場所ならどこでもシオンです。各言語での出版物や,通信網の発達,集会所の建設のおかげで,ほとんどすべての会員が,居住している地域に関係なく,福音の教義,鍵,儀式,祝福を受けることができるようになっています。
霊的な安全は,わたしたちの住む場所ではなく,生き方にかかっています。各国の聖徒たちは,主の祝福に対して同等の権利を得ることができるのです。」(「散らされたイスラエルの集合」『リアホナ』2006年11月号,81)
教義と聖約133:5-14。「バビロンから出なさい」
教義と聖約133章に記録されている啓示において,主は,古代のユダヤ人がバビロン捕囚から逃れる旧約聖書の話に暗に言及しつつ,教会員にこう指示されました。「あなたがはもろもろの国民の中から,すなわちバビロンから,霊のバビロンである悪の中から出なさい。」(教義と聖約133:14。教義と聖約1:16も参照)教義と聖約133章におけるバビロンは,この世の悪を象徴しています。主はまた「〔御自分〕の教会の長老たち」に,「遠くにいるもろもろの国民に,海の島々に……諸外国に」同様の警告の声を上げるよう指示されました(教義と聖約133:8)。主は長老たちに,「もろもろの国民の中から……集まりなさい」,そして「シオンの地へ行〔きなさい〕」(教義と聖約133:7,9)とすべての人に告げるよう命じられました。バビロンを出てシオンに集まるということが今日において何を意味するかについての話の中で,十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は,次のように教えています。
「シオンとは,場所と人々の両方を指します。シオンとは,洪水が起こる前に,古代のエノクの町に与えられた名前です。……後に,エルサレムとエルサレムにある神殿はシオンの山と呼ばれました。聖文には将来の新エルサレムについての預言があり,キリストが『シオンの王』として統治され,『千年の間,地は安息を得るであろう』と書かれています(モーセ7:53,64)。……
シオンの対極にあり,敵対するのはバビロンです。バビロンの町は,もともとはバベルの塔で知られたバベルであり,後にバビロニア帝国の首都になりました。この地で最も目立つ建造物はベルまたはバアルの神殿です。バアルは,礼拝に際して行われた性倒錯のために,旧約の預言者たちから『恥ずべき者』と呼ばれた偶像です。(『聖句ガイド』「バビロン,バベル」の項参照)世俗的で,悪を礼拝し,紀元前587年にユダを征服してとりことしたバビロンは,これらなどのすべてから,退廃的な社会,霊的な囚われの象徴となっています。
このような歴史的背景のもと,主は御自身の教会の会員に語られました。『あなたがたはバビロンから出なさい。もろもろの国民の中から,天の果てから果てまで四方から集まりなさい。』(教義と聖約133:7)主は御自身の教会の長老たちに,この集合を成し遂げるために全世界へ出ていくよう呼びかけられました。このようにして始まった努力は,今も力強く続けられています。……
そして今日,主の民は世界各地に広がる末日聖徒イエス・キリスト教会のワードや支部,そしてステークに集合することで,『もろもろの国民の中から』集まっているのです。」(「シオンに来たれよ」『リアホナ』2008年11月号,37)
教義と聖約133:5。「主の器を担う者たちよ,清くありなさい」
「主の器を担う者たちよ,清くありなさい」(教義と聖約133:5)という言葉の意味に関する詳しい情報については,本書の教義と聖約38:42の解説を参照してください。
教義と聖約133:6。「あなたがたの聖会を招集し」
聖会の説明については,本書の教義と聖約88:70-76の解説を参照してください。
教義と聖約133:8-9。「わたしの教会の長老たちを……遣わしなさい」
主が古代の使徒たちに「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し〔なさい〕」(マタイ28:19)と指示されたように,主はわたしたちの神権時代の教会指導者にも,福音のメッセージを伝える宣教師を「遠くにいるもろもろの国民に,海の島々に……諸外国に」遣わすよう命じられました(教義と聖約133:8)。新約聖書の時代には,イエス・キリストの福音はまずユダヤ人に教えられ,その後異邦人に伝えられました(使徒10章;13:45-46;ローマ1:16参照)。わたしたちの神権時代において,主は教会員に「まず異邦人へ,次いでユダヤ人へと,すべての国民に呼びかけ〔る〕」(教義と聖約133:8。1ニーファイ13:42も参照)よう命じられました。「聖典で用いられている『異邦人』という言葉には幾つかの意味がある。あるときはイスラエルの血統に属さない人々を指し,あるときはユダヤ人の血統以外の人々を指す。あるいは,イスラエルの血が幾分入っていても,福音を持っていない民を指す場合もある。」(『聖句ガイド』「異邦人」の項,scriptures.lds.org)教義と聖約133章に記録されている啓示においては,「異邦人」とは福音を持っていない国民を指します。
福音を異邦人とユダヤ人の両方に宣べ伝えることにより,教会員は,この世をイエス・キリストの再臨に備えさせる手助けをすることができます。 十二使徒定員会のニール・L・アンダーセン長老は,次のように証しています。
「地上には神の神権が回復されていて,主は御自分の輝かしい再臨にこの世を備える業を始めておられます。現代は大いなる機会と重要な責任が待ち受けている時代です。皆さんの時代です。……
皆さんの伝道は,人々をキリストのみもとに導き,救い主の再臨に備える手助けをする神聖な機会となるでしょう。……
……宣教師が主の業を大いに推し進めているおかげで,この世は救い主の再臨に備えられつつあります。」(「この世を再臨に備える」『リアホナ』2011年5月号,49-51)
教義と聖約133:10-11。「花婿を迎えに出なさい」
教義と聖約133章に記されている啓示において,主は,10人のおとめのたとえ(マタイ25:1-13参照)からその言葉や比喩を引きながら,御自分の僕たちに,御自身の再臨について人々に警告するよう指示されました(教義と聖約133:10参照)。イエス・キリストの時代におけるユダヤ人の婚礼の習慣によると,花婿は夜,親しい家族や友人に付き添われて花嫁の家を訪れ,結婚の儀式を行います。その後,婚礼の一行は,祝宴が開かれる花婿の家へと移動を始めます。行列が進む途中で,ほかの招待客が合流します。婚礼の行列に加わる者たちは,たいまつやランプなど,自分用の灯りを持参することになっていました。
10人のおとめのたとえでは,10人の女性が,婚礼の宴に向かう行列に加わるために,花婿の一行が通るのを待っています。しかし「花婿の来るのがおくれたので,彼らは皆居眠りをして,寝てしま〔いました〕。」(マタイ25:5)「夜中に,『さあ,花婿だ,迎えに出なさい』と呼ぶ声」(マタイ25:6)がして,女性たちは目を覚まします。ところが,婚礼の行列に加わり,宴に出席するのに十分な量の油をランプに入れておいたのは,女性たちのうち5人だけでした。あとの5人は追加の油を買いに行かなければならず,宴から閉め出されてしまいます(マタイ25:7-12参照)。
10人のおとめのたとえの意味についての話の中で,十二使徒定員会のジェームズ・E・タルメージ長老(1862-1933年)は,次のように教えています。「花婿は主イエスです。婚礼の宴は,主が栄光のうちに来て,地上の教会を御自身の花嫁として受けられることを象徴しています。」(Jesus the Christ [1916], 578)救世主が来られる「その日も,その時も」だれも知らないので,すべての人に対して,霊的なまどろみから「目を覚まし,立ち上がり」,油断なく主の帰還に備え,待ち設けるようにと警告するのです(教義と聖約133:10-11参照)。
教義と聖約133:14-15。「振り返ってはならない」
シオンが場所であると同時に霊の状態であるように(モーセ7:18-21参照),バビロンにも同じことが言えます。古代にバビロンという名で知られる都市がありましたが,教義と聖約133章に記録されている啓示において,主は邪悪な状態のことを「霊のバビロン」(教義と聖約133:14)と表現しておられます。主は「霊のバビロン」から逃れてシオンに集まる者たちに,「突如として滅びが襲うことのないために,……振り返ってはならない」(教義と聖約133:15)と警告されました。この指示は,旧約聖書にある,ロトとその家族が邪悪な町ソドムから逃れる話をほうふつとさせます。振り返ってはならないと警告されていたにもかかわらず,ロトの妻は振り返り,塩の柱となりました(創世19:17-26参照)。ロトの妻が塩になったという描写は,彼女が振り返ったということだけでなく,彼女が安全でないところにとどまり,町とその住民たちとともに滅ぼされたことを示しているのかもしれません(ルカ17:30-33参照)。 十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,ロトの妻の話から学べることについて次のように説明しています。
「ロトの妻の行動の何がそんなにいけなかったのでしょうか。歴史の研究家として,わたしはこれについて考えてきました。そして不完全ではありますが,わたしなりの答えを紹介します。ロトの妻が犯した間違いは,単に振り返ったことではなく,心に帰りたいと願ったことのように思われます。ソドムとゴモラで手に入れていたものを町の境を越える前から恋しく思っていたのでしょう。……
ロトの妻は,主に言われて後に残してきたものを惜しんで,主に恨みを抱きながら振り返ったのかもしれません。……ですから,彼女はただ振り返ったのではなく,未練があって振り返ったのです。つまり,過去への執着が将来への確信に勝っていたのです。少なくともそれが彼女の罪の一部だったようです。」(「最善はこれからだ」『リアホナ』2010年1月号,17-18)
教義と聖約133:17-35
救い主は,御自分の再臨と福千年における統治に伴う幾つかの出来事について説明される
教義と聖約133:16-17。「主の道を備え〔よ〕」
教義と聖約133:17にある「主の道を備え,その道筋をまっすぐにせよ」という言葉は,「荒野に主の道を備え,さばくに,われわれの神のために,大路をまっすぐにせよ」(イザヤ40:3)と言った,預言者イザヤの書からの引用です。イザヤの言葉はまた,バプテスマのヨハネの教導の業を述べる際にも使われています。「それは,預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち『荒野で呼ばわる者の声がする,「主の道を備えよ,その道筋をまっすぐにせよ。」』」(ルカ3:4。ヨハネ1:23も参照)バプテスマのヨハネは,悔い改めの福音と罪の赦しのためのバプテスマを説くことを通して,主の道を備え,その道筋をまっすぐにしました。このような方法によって,ヨハネは救い主の務めと教えに人々を備えさせたのです。
回復された福音もまた,救い主の再臨に向けて道を備えるために遣わされた使者です。1831年3月7日に預言者ジョセフ・スミスを通して与えられた啓示において,主は次のように教えておられます。「わたしの永遠の聖約を世に送って,世の光とし,またわたしの民……のための旗とし,さらにわたしに先立ち,わたしの前に道を備える使者とする。」(教義と聖約45:9)教会員は,悔い改め,主の戒めに従い,主の御心を行うよう努め,福音をほかの人と分かち合って,彼らが悔い改めて福音の聖約と救いの儀式を受けられるようにすることによって(教義と聖約133:16参照),「主の道を備え,その道筋をまっすぐに」(教義と聖約133:17)することができます。このような方法によって,わたしたちはイエス・キリストの再臨のために,自分自身とほかの人々を備える助けができます。
教義と聖約133:17で言及されている天使の説明については,この章にある教義と聖約133:36-39の解説を参照してください。
教義と聖約133:18-21。「小羊はシオンの山に立〔つ〕であろう。……彼はオリブの山に……立つであろう」
聖文には,イエス・キリストが,再臨のときにすべての人々の前に御姿を現すより前に,幾度か御姿を現されることについての言及があります。教義と聖約133章に記録されている啓示は,救い主が再び来られる際に御姿を現される二つの「山」について触れています。一つ目は「シオンの山」(教義と聖約133:18)で,これはミズーリ州ジャクソン郡に築かれる新エルサレムの町のことです(教義と聖約84:2参照)。二つ目は「オリブの山」(教義と聖約133:20),あるいは「東の方エルサレムの前にあるオリブ山」(ゼカリヤ14:4。ゼカリヤ14:2-5参照)で,ここは救い主が来て,ユダヤ人を敵から救い出される場所です(教義と聖約45:48-53参照)。
主はまた,教義と聖約133章に記されているとおり,「彼はシオンから声を発し,またエルサレムから語って,その声はすべての人の中で聞かれるであろう」(教義と聖約133:21)と述べ,「律法はシオンから出,主の言葉はエルサレムから出る」(イザヤ2:3)とのイザヤの預言を改めて確認されました。この預言に言及して,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように教えています。「これら二つの町,すなわちシオンの地にある町とパレスチナにある町は,福千年の間,神の王国の首都となる。」(Doctrines of Salvation, comp. Bruce R.McConkie [1956], 3:71)
「シオンの山に立ち」「オリブの山に……立つ」(教義と聖約133:18,20)ことに加え,救い主はまた「広大な大洋,すなわち大いなる深みの上に,また海の島々の上に」(教義と聖約133:20)も立たれます。救い主が再臨において幾度も御姿を現されることについての話の中で,ブルース・R・マッコンキー長老は次のように教えています。
「人の子は再臨において,一度だけでなく,幾度も御姿を現わされます。祝福に満ちたわたしたちの主は,すべての天の衆群を伴い御父の王国のすべての栄光のうちに,1か所ではなく,多くの場所に来られるでしょう。主は幾つもの大陸に次々に立ち,幾つもの大群衆に次々に語り,続いてやって来る人々の中で御心を行われるでしょう。……
……主の御足はエルサレムの東にあるオリブの上に立ち,主は14万4千人の大司祭とともに,アメリカのシオンの山に来られます。それ以外にはどこでしょうか。もろもろの大洋,島々,大陸の上,シオンの地,そのほかの場所です。これが明らかに意味しているのは,主は幾度も,たくさんの場所で,たくさんの人に御姿を現されるということです。」(The Millennial Messiah: The Second Coming of the Son of Man [1982], 575, 578)
教義と聖約133:18。「十四万四千人」
教義と聖約133:18で言及されている「十四万四千人」に関する説明については,本書の教義と聖約77:11の解説を参照してください。
教義と聖約133:22-25。「主すなわち救い主が,その民のただ中に立ち」
イエス・キリストの再臨には,地球の大規模な変動と変形が伴います(教義と聖約133:22-24,41,44参照)。これは恐らく,地球が,救い主の福千年における統治への備えの中で「楽園の栄光」を受ける際に更新されることの一環なのでしょう(信仰箇条1:10参照)。教義と聖約133章に記されている啓示には,この期間に,「主……が,その民のただ中に立ち,すべての肉なるものを治める」(教義と聖約133:25)とあります。
主の福千年における統治についての話の中で,預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,次のように教えています。「イエスは1,000〔年〕にわたって聖徒たちとともに地球の住民となられるのではなく,聖徒たちを統治し,500人の兄弟たちにされたように,降って来て指示をお授けになるでしょう〔1コリント15:6参照〕。そして第一の復活にあずかる人々もまた,主とともに聖徒たちを治めるでしょう。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』257)
教義と聖約133:26-32。「北の地にいる者たち」
「北の地にいる者たち」(教義と聖約133:26)という言葉は,イスラエルの行方の知れない十部族に関連があります。古代,これら「イスラエルの北王国を成していた十部族は,紀元前721年にアッシリア(アッスリヤ)に捕囚として連れ去られた。それから彼らは『北の地』へ向かい,やがて消息を絶った。」(『聖句ガイド』「イスラエル」の項,scriptures.lds.org)。モルモン書の預言者ニーファイはこう説明しています。「エルサレムにいる人たちにとって,……行方の分からなくなっている人が大勢います。まことに,〔イスラエルの〕全部族の大半がすでに連れ去られ,海の島々のここかしこに散らされています。わたしたちは,彼らが連れ去られたことだけは知っていますが,どこにいるかはだれも知りません。」(1ニーファイ22:4)ですから,イスラエルの行方の知れない十部族は,地のあちらこちらに散らされているのです。
1836年4月3日,預言者モーセが,カートランド神殿で預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに現れ,「地の四方からのイスラエルの集合と北の地からの十部族の導きの鍵を〔彼ら〕に委ね」ました(教義と聖約110:11)。 ブルース・R・マッコンキー長老は,この聖句を引用し,イスラエルの行方の知れない十部族がどのように集められ,「北の地から」導かれるのかについて述べています。
「この任務には二つの事柄が含まれます。まず,イスラエル,すなわち十部族を含む全イスラエルが,すべての国,すべての民の中から,『地の四方から』集められます。彼らはまことの教会,イスラエルの神の羊の群れの中に集められます。この集合はおもに霊的なものですが,これは同時に,やって来た羊たちが生ける水の流れるシオンのステークに集められるという点において物質的でもあります。しかし次に,この任務では,集合の鍵を持つ者,つまり教会の大管長が指示を受けて,十部族を北の地から彼らの定められた故郷へと導きます。十部族は,教会に加わった後,主に立ち返った後,キリストを信じてその福音を受け入れた後,アブラハムの聖約を,個人としても全体としても再び受け入れた後,約束された受け継ぎの地へと導かれます。イスラエルの集合のこの部分は福千年に関するものです。なぜならこれは,十部族が出て来るために割り当てられた期間だからです。これは,王国が政治的な意味でも,宗務的な意味でも,イスラエルに回復される日なのです。……
……主が戻られた後,大路が設けられます。イザヤはこれを,汚れた者は一切通ることができない聖なる道と呼んでいます。つまりこれは,永遠の命へと続く狭くて細い道であり,そしてこの大路の上を,十部族は戻って来るのです。彼らはもう一度福音を信じ,バプテスマの祝福を受けるでしょう。それらが彼らのものだった,復活された主が彼らの中で教え導かれた時代と同じように〔3ニーファイ16:1-3参照〕。これらの祝福と神殿の祝福は,エフライム〔主の僕である,エフライムの子孫〕の手によって彼らに与えられるでしょう。そして次に,定められた時に,イスラエルを集め北の地からの十部族を導く鍵を持つ教会の大管長の指示により,少なくともイスラエル王国の代表である割り当てられた一部が,パレスチナの北の地から,古代の受け継ぎの地,アブラハム,イサク,ヤコブに永遠の受け継ぎの地として約束されたその土地へと戻るでしょう。」(A New Witness for the Articles of Faith [1985], 529–30, 642)
教義と聖約133:30-34。「主の僕たち,すなわちエフライムの子らの手により」
ヤコブ,すなわちイスラエルの12人の息子のうちの一人は,ヨセフという名でした。兄たちに奴隷としてエジプトに売られたヨセフです。ヨセフには,エフライムとマナセという二人の息子がいました。エフライムは弟でしたが,兄のマナセの代わりに,ヤコブから長子の祝福を受けました(創世46:20;48:13-20参照)。「終わりの時における彼らの特権……は,〔まず〕世の人々に回復された福音の教えを伝え,散乱したイスラエルを集める……ことである(申命33:13-17;教義と聖約64:36;133:26-34。」(Bible Dictionary, “Ephraim”〔訳注—『聖句ガイド』「エフライム」の項参照〕)多くの末日聖徒が,祝福師の祝福を受けることを通じて,自分たちはエフライムの部族であり,イスラエルの集合を助ける責任があることを学んでいます。
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように教えています。「主は,この終わりの時に,地上で御自分の業を始めるために,エフライムの子孫を召し出されました。……鍵はエフライムとともにあります。ほかの部族を祝福し,彼らが受けるべき祝福を与える力を授けられるのはエフライムです。」(Doctrines of Salvation, 2:250–51。教義と聖約113:5-6も参照)
旧約聖書の話には,エフライムが行う末日の業があらかじめ示されています。ヨセフの兄たちがヨセフをエジプトに売ってから何年もたったとき,カナンの地は深刻な干ばつに見舞われました。ヤコブは生き延びるのに必要な食料を買わせるため,息子たちをエジプトに送りました(創世41:56-42:3参照)。ヨセフはエジプトのつかさとなり,民への穀物の分配を監督していました。この聖書に記された話のある時点で,ヨセフは自分がだれであるかを兄たちに明かしました。兄たちの「驚き恐れた」反応(創世45:3)を見ると,ヨセフは次のように言って彼らを安心させます。「わたしをここに売ったのを嘆くことも,悔むこともいりません。神は命を救うために,あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。……神は,あなたがたのすえを地に残すため,また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために,わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。」(創世45:5,7)終わりの日に,ヨセフの息子であるエフライムの子孫を中心としたヨセフの子孫たちは,再びイスラエルのほかの部族の人々に救いをもたらす手助けをするでしょう(ジョセフ・スミス訳創世48:10-11〔『聖句ガイド』内〕;2ニーファイ3:4-8,11-15参照)。
教義と聖約133:35。「また,ユダの部族の者たちも……聖なる状態に聖められ」
「イスラエルの聖者」を拒んだため,ユダの部族は繰り返し散らされ,民として虐げられ,「すべての国民の中であざけられ,笑いぐさとなり,憎まれ」てきました(1ニーファイ19:14。3ニーファイ16:9も参照)。カートランド神殿の奉献の祈りの中で,預言者ジョセフ・スミスは次のように主に嘆願しました。「何とぞ,ヤコブの子らを憐れんで,この時点からエルサレムが贖われ始めるようにしてくださいますように。束縛のくびきがダビデの家から取り除かれ始めますように。ユダの子らが,その先祖であるアブラハムにあなたが与えられた土地に帰り始めますように。」(教義と聖約109:62-64)この預言的な祈りは徐々に成就しつつあります。完全な福音がユダの子孫に教えられ,やがて,多くのユダヤ人が「神の御子キリスト……を信じるようになる」でしょう(2ニーファイ25:16。3ニーファイ20:30-31も参照)。救い主とその福音を受け入れるとき,「ユダの部族の者たちも,苦しみを受けた後,主の前で聖なる状態に聖められ,日夜とこしえにいつまでも主の前に住む」でしょう(教義と聖約133:35。教義と聖約45:51-53も参照)。
教義と聖約133:36-56
主は回復された福音が全世界に宣べ伝えられることを明らかにし,御自分の再臨について説明される
教義と聖約133:36-39。「わたしは,永遠の福音を携え〔た〕天使を遣わした」
使徒ヨハネは,終わりの日についての示現の中で,「もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見〔まし〕た。彼は地に住む者,すなわち,あらゆる国民,部族,国語,民族に宣べ伝えるために,永遠の福音をたずさえて」いました(黙示14:6)。教義と聖約133章に記録されている啓示において,主はヨハネの示現あるいは預言が成就したことを断言しておられます。「わたしは,永遠の福音を携えて天のただ中を飛ぶ天使を遣わした。この天使はすでにある人々に現れて,それを人間に委ねた。」(教義と聖約133:36)ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は黙示14:6を引用した後,次のように教えています。「この御使いはすでに地を訪れています。その名はモロナイです。」(「この道を歩み続け,信仰を保つ」『リアホナ』1996年1月号,76)天使モロナイは,預言者ジョセフ・スミスに現れて「イエス・キリストの完全な福音」が載っている古代の記録を渡し,預言者はこの記録からモルモン書を翻訳しました(教義と聖約20:6-12参照)。
福音を宣べ伝えイスラエルを集める業においてモルモン書が果たす役割について語った中で,ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように教えています。
「モルモン書は集合の幕開けを宣言するものであり,集合をもたらす神の道具です。モルモン書なしにイスラエルの集合はありません。
モルモン書には完全な福音があります。モルモン書なしには,イエス・キリストの贖罪についてほとんど分からなかったでしょう。贖罪について教えてくれるので,モルモン書はわたしたちが悔い改め,聖約を交わし,守り,救いと昇栄の儀式にふさわしくなる助けとなります。モルモン書は,わたしたちを神殿に導きます。そこでわたしたちは永遠の命にふさわしくなることができます。」(「モルモン書,イスラエルの集合,そして再臨」『リアホナ』2014年7月号,29)
モルモン書に記されているように,天使モロナイは完全な福音の回復を助けました。 ブルース・R・マッコンキー長老はこう説明しています。「天使モロナイはメッセージを,すなわち,御言葉をもたらしました。一方,ほかの天使たちは鍵と神権,力をもたらしました。そして結局のところ,完全な永遠の福音は,人が日の栄えの天において完全な救いを得るために必要なすべての真理と力から成るのです。」(Doctrinal New Testament Commentary [1973], 3:530)つまり教義と成約133:36で言及されている天使は,モロナイを含め,イエス・キリストの福音の回復を手助けした多くの天使たちを合わせて表しているとも考えられます。
教義と聖約133:40-45。「あなたを待ち望む者のために,あなたがどれほど大いなるものを備えてくださったか」
教義と聖約133:40-45に記されている主の御言葉は,古代の預言者イザヤの教えを繰り返しています。イザヤは,主の民は,主の再臨のため,また主が再び来られるときに彼らのものとなる救いのために祈るだろうと教えました(イザヤ64:1-4参照)。「物を溶かす燃える火」,「水を沸き立たせる火」,「山々が……崩れ落ちる」(教義と聖約133:41,44。イザヤ64:2-3も参照)といった比喩表現は,救い主が栄光のうちに来られるとき,地球に起こるすさまじい変化を表しているのかもしれません。そのとき,「全地の面に住んでいるすべての朽ちるものが焼き尽くされる。元素から成るものは酷熱に溶かされる。」地球は火によって清められ,「万物が新しくな〔る〕。」(教義と聖約101:24-25)教義と聖約133:43にある「恐るべきこと」という言葉は,恐らくは主がイスラエルの子らをエジプトから救い出したときに行われたものにも似た,力ある業と不思議に関連があります(出エジプト34:10;申命10:21-22参照)。悪人にとって,こうして神の力が示されることは,「恐るべき」あるいは震え上がるようなことに思えるかもしれません。イエス・キリストの再臨は,悪人にとって「恐るべき日」である一方,義人にとっては祝福された日となります(マラキ4:5参照)。再び来られるとき,救い主は,「喜んで義を行い,〔主〕の道にあって〔主〕を覚えている者を……迎えてくださいます。」(教義と聖約133:44)そして「〔主〕を待ち望〔んだ〕」者は,「だれも聞いた者も,耳にした者も,目で見た者も」ない「大いなるもの」を経験します(教義と聖約133:45)。この「大いなるもの」には,イエス・キリストの福千年における統治,日の栄えの栄光,昇栄が含まれます。
主を待ち望むとは,主が来られるまでただ時を過ごすという意味ではありません。これは,油断なく主の再臨を待ち設け,再臨に備えるという意味です。ジェフリー・R・ホランド長老は,忠実にイエス・キリストの再臨に備えるために,わたしたちに何ができるかについて述べています。
「わたしたちはしるしを待ち設け,時節の意味を読まなければなりません。できるかぎり忠実に生活し,福音をすべての人に分かち合うことで,すべての人に祝福と守りをもたらさなければなりません。しかし〔再臨〕やそれに付随するほかの出来事が未来のどこかで起きるからといって,わたしたちは無力のまま立ちつくしていることはできませんし,そうしてはならないのです。わたしたちは生きることをやめるわけにはいきません。まさに,今まで以上に精いっぱい生きなければなりません。何と言っても,これは時満ちる神権時代なのですから。……
神は皆さんが前進を続け,いつも喜びに満たされるだけの強い信仰と決意を持ち,神への深い信頼を持つことを期待しておられます。実際に神は(随分厳しく聞こえますが)皆さんが単に将来と向き合うことのないよう望んでおられます。将来を受け入れ,形造り,様々な機会を大切にして,喜びとするよう望まれているのです。
神は今までと同じように,皆さんの祈りにこたえ,夢をかなえたいと願っておられます。しかし皆さんが祈り,夢を描かなければ,そうおできにはなれません。つまり皆さんが信じなければ,それは不可能なのです。」(“Terror, Triumph, and a Wedding Feast” [Brigham Young University fireside, Sept. 12, 2004], 2–3, speeches.byu.edu)
教義と聖約133:46-51。「主の装いは赤く」
教義と聖約133:46-51に記されている主の言葉は,イザヤの教えを再確認しています。イザヤは,イエス・キリストが再び来られるとき,「〔キリストの〕装い」,つまり服は「赤く」,これは「ひとりで酒ぶねを踏〔まれた〕」ためであると預言しました(イザヤ63:2-3。黙示19:13も参照)。古代の酒ぶね,つまりぶどう酒を造るための容器は,中にぶどうを詰めた巨大な樽のようなものでした。ぶどうの汁を搾り取る際には,数人が樽の中に立ってぶどうを踏みつぶしました。ぶどうから出た汁によって,作業をする人の足や衣服は深い赤色に染まります。救い主が再臨の際に身に着けておられる赤い服には,幾つかの意味があります。赤い服は,イエス・キリストの再臨の際,「悪人たちが,ちょうどぶどうの木になった実のように罪悪が熟して『神の激しい怒りの……酒ぶね』〔黙示14:19〕の中で踏まれるとき,悪人に下される神の裁きと滅亡」を表しています(New Testament Student Manual [Church Educational System manual, 2014], 556)。
救い主が赤い服を着ていることはまた,「酒ぶねでぶどうを踏んで汁を搾るように,ゲツセマネで主の体から主の贖いの血が搾り取られたときの救い主の苦しみを想起させます。」(New Testament Student Manual563)十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,ゲツセマネでの救い主の苦しみについての話の中で,再臨の際に救い主が身にまとわれている赤い衣は,自分たちのために主が流された血を義人に思い起こさせると教えています。
「ゲツセマネであらゆる毛穴から血を流された〔救い主〕の衣は,深紅に染まったに違いありません。
その主が力と栄光のうちに来られる再臨のときに,怒りを表す酒ぶねを踏む者の象徴として,また主がわたしたちのためにゲツセマネやカルバリの丘でどれほど苦しまれたかを思い起こさせるために,『赤い装い』(教義と聖約133:48参照)で来られたとしても,不思議ではありません。」(「わたしが勝利を得たと同様に勝利を得なさい」『聖徒の道』1987年7月号,80参照)
教義と聖約133:52-53。「主は彼らのあらゆる苦難を自分の苦難とした」
「〔主の〕報復の日」(教義と聖約133:51),すなわちイエス・キリストの再臨に際して悪人が滅びる日が,「〔主の〕贖われた者の年」の始まりとなります(教義と聖約133:52)。これらの言葉は,古代イスラエルで祝われていた「ヨベルの年を指しているのかもしれません。」ヨベルの年には,束縛され,奴隷となっていたすべてのイスラエル人が贖われた,すなわち自由の身となりました(Donald W.Parry, Jay A.Parry, and Tina M.Peterson, Understanding Isaiah [1998], 555。出エジプト21:2;レビ25:9-10,39-40も参照)。同様に,主の再臨の際,「わたしたちは,敵や抑圧者のすべてのかせから自由になります。」(Parry, Parry, and Peterson, Understanding Isaiah, 555)その日,義人は,「主がその慈しみとその愛にあふれた優しさによって彼らに授けたすべてのものについて,とこしえにいつまでも」(教義と聖約133:52)主をほめたたえるでしょう。彼らは,「主〔が〕彼らのあらゆる苦難を自分の苦難と〔され〕た」こと,また現世の試練の間,「その愛によって,またその哀れみによって,主〔が〕彼らを贖い,また……彼らを負い,彼らを担〔われ〕た」ことを思い起こすでしょう(教義と聖約133:53。アルマ7:11-13も参照)。
救い主の贖いの犠牲についての話の中で,十二使徒定員会のデビッド・A・べドナー長老は次のように証しています。「救い主はわたしたちの罪悪のためだけでなく,実に頻繁にわたしたちを悩ます不平等や不公平,苦痛,苦悶,情緒的な苦悩のためにも苦しまれました。皆さんやわたしが現世の旅で経験する肉体的な痛み,心痛,精神的な苦しみ,病や弱さのうち,先に救い主が経験なさらなかったものは一つもありません。……そして主は究極の代価を払いその重荷を負われたので,わたしたちの人生の実に様々な局面で,わたしたちの気持ちを完全に理解し,憐れみの腕を伸べることがおできになるのです。主は手を差し伸べ,心に触れ,助けることがおできになり,文字どおりわたしたちに駆け寄って,自分では決して得られないほどの強さを与え,自分自身の力だけに頼ったのでは決してなし得ないことを行えるように助けてくださるのです。」(「贖罪と現世の旅」『リアホナ』2012年4月号,19)
教義と聖約133:57-74
イエス・キリストの再臨に世を備えさせるために福音が宣べ伝えられる
教義と聖約133:57-59。「地の弱い者によって,主は……もろもろの国民を打ってえり分けるであろう」
「地の弱い者」の説明と「主は御霊の力によりもろもろの国民を打ってえり分けるであろう」(教義と聖約133:59)という言葉の意味については,本書の教義と聖約35:13の解説を参照してください。
教義と聖約133:62-64。「根も枝も残さない」
「悔い改めて主の前に自らを聖める者には,永遠の命が与えられ」(教義と聖約133:62)ます。聖文はこれを「神のあらゆる賜物の中で最も大いなるものである」(教義と聖約14:7)と教えています。 大管長会のヘンリー・B・アイリング管長は,永遠の命を受けることの意味を次のように説明しています。「その賜物は,父なる神とその愛子のもとで家族として永遠に住むというものです。日の栄えという神の最高の王国においてのみ,家族生活の愛のきずなが続きます。」(「永遠の家族の愛にあずかる希望」『リアホナ』2016年8月号,4)
この永遠の命の賜物を受ける者たちとは対照的に,主の声に従うことを拒む者たちは,「〔主の聖約の〕民の中から絶たれる」(教義と聖約133:63)でしょう。不従順や悪事によって主の民から「絶たれる」,あるいは引き離される者たちは「わらのようにな〔り〕,やがて来る日が彼らを焼き尽くして,根も枝も残さない,と万軍の主は言〔われます〕。」(教義と聖約133:64。マラキ4:1も参照) 七十人のセオドア・M・バートン長老(1907-1989年)は,マラキ4:1の「根も枝も残さない」という言葉の意味について説明しています。「この言葉は次のことを意味しています。イエス・キリストの福音を拒む邪悪で冷淡な人は,家族の受け継ぎ,すなわち族長制度における血統を失い,根(先祖)も枝(子供や子孫)も持ちません。そのような人は,復活した後に日の栄えの王国に入る者とは認められず,それよりも劣る祝福に甘んじなければなりません。」(in Conference Report, Oct. 1967, 81)