第20章
教義と聖約51-56章
紹介とタイムライン
1831年5月,ニューヨーク州コールズビルからの聖徒たちがオハイオ州に到着し,ビショップであったエドワード・パートリッジは,彼らの定住の手配をする責任を負っていた。パートリッジビショップを助けるために,主は,教義と聖約51章に記録されている啓示を預言者ジョセフ・スミスに与えられた。この啓示の中で,主は,聖徒たちの間の不動産とお金の管理をパートリッジビショップがどのように体系づけるかについて,指示を出された。
1831年6月3日から6日までの間,教会の長老たちは大会のために集まった。大会の最終日に,主はジョセフ・スミスに教義と聖約52章に記録されている啓示を与えられた。この啓示の中で,主は次の大会はミズーリで開催されると言われ,そこで聖徒たちの受け継ぎの地の場所を明らかにされると約束された。主は,特定の長老たちが二人ずつミズーリへ旅をするよう任命され,彼らがどのように旅をし,福音を宣べ伝えるべきかを指示された。主はまた,イエス・キリストに真に従う者を見分ける方法を明らかにされた。
1831年6月の大会後,数日間にわたり,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約53-56章に記録されている啓示を受けた。それらの啓示には,オハイオを生活の拠点にしていたにもかかわらず,すぐにミズーリへ移動することになった教会員に対する指示が含まれていた。これらの啓示の中で,主はシドニー・ギルバート,ニューエル・ナイト,ウィリアム・W・フェルプスに,彼らの教会における務めと才能に関する指示を与えられた。
1831年6月上旬,エズラ・セアとトーマス・B・マーシュはミズーリ州へ向けて伝道に出るよう召された(教義と聖約52:22参照)。しかし,高慢とわがままのために,エズラはトーマスとともに出発する準備ができていなかった。教義と聖約56章に記録されている啓示の中で,主はエズラ・セアの伝道の召しを取り消し,セラ・J・グリフィンをマーシュ兄弟の同僚として召された。
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1831年5月14日ニューヨーク州コールズビルからの聖徒たちがオハイオ州に到着し,オハイオ州トンプソンのリーマン・コプリーの農場に集団で住むよう招かれた。
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1831年5月20日教義と聖約51章が与えられた。
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1831年5-6月リーマン・コプリーは,彼の土地に住んでいた聖徒たちを退去させ始めた。
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1831年6月3-6日オハイオ州カートランドで教会の大会が開かれた。大会中にジョセフ・スミスは神なる父とイエス・キリストを見,この神権時代の最初の大祭司が聖任された。
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1831年6月6-15日教義と聖約52-56章が与えられた。
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1831年6月19日ジョセフ・スミス,シドニー・リグドンおよびそのほかの一行がオハイオからミズーリへの最初の旅に出た。
教義と聖約51章:追加の歴史的背景
1830年12月下旬と1831年1月初旬に,預言者ジョセフ・スミスは,聖徒たちがオハイオに集合するよう指示する主の啓示を受けました(教義と聖約37:1,3;38:32参照)。60人以上の教会員から成るコールズビル支部は,オハイオに集合するためにニューヨークをたった3つの聖徒たちによるグループの一つでした。ニューエル・ナイトを指導者とし,彼らは1831年4月中旬にニューヨーク州コールズビルを出発しました。悪天候の影響で予定より遅れ,1か月間の旅の後,彼らは5月中旬ごろオハイオに到着しました。ニューエル・ナイトによれば,彼らは到着したときに次のように告げられました。「コールズビル支部の聖徒たちは一緒にいなさい。そして,〔リーマン・〕コプリーという男がかなり広大な土地を持っていて兄弟たちを住まわせてくれるから,トンプソンという隣町に行きなさい。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, ed. Michael Hubbard MacKay and others [2013], 315; spelling and punctuation standardized)ビショップのエドワード・パートリッジは,新たに到着した聖徒たちをどのように養えばよいか指示を求め,ジョセフ・スミスは主に尋ねました。1831年5月20日,その答えとして預言者は教義と聖約51章に記録されている啓示を受けました。
教義と聖約51章
主はエドワード・パートリッジビショップに,聖徒たちの物質的必要を監督することに関して指示を与えられる
教義と聖約51:1-2。「わたしの律法に従って組織する」
エドワード・パートリッジビショップは,コールズビル支部の会員たちの物質的必要を満たすための最善の方法を尋ね,主は「わたしの律法に従って」組織するよう命じられました(教義と聖約51:2)。主は,教会での霊的な救いの業と物質的な救いの業を管理し,指揮する権限と責任を,御自身の僕の何人かに与えられました。業を組織するこの責任は重要であり,神は御自身の家は「秩序の家であり,混乱の家ではない」と宣言されました(教義と聖約132:8。教義と聖約88:119も参照)。この場合,パートリッジビショップは,コールズビルからの移住民の必要に応じるため,奉献の律法に従い聖徒たちを組織するよう指示を受けました。
教義と聖約51:3-6。「わたしの僕エドワード・パートリッジ……は,この民に対して彼らの受け取り分を,……平等に指定しなさい」
主は,ニューヨークから移住し,リーマン・コプリーの土地に住んでいた家族たちの間で,奉献の律法を実施するよう,エドワード・パートリッジビショップに命じられました。これらの家族は,「聖約と証書をもって」彼らの持ち物と資産を奉献することになりました(教義と聖約42:30)。パートリッジビショップは,それから「この民に対して彼らの受け取り分を……指定(する)」ことになりました(教義と聖約51:3)。つまり,各家族に資産の一部を各人の必要,入り用,事情に応じて,時には家族が奉献したものよりも多く与えるということです。ビショップは各家族に対し,彼らに与えられた受取分あるいは受け継ぎ分が,彼らの個人的管理下に置かれるということを示す証書を渡しました。残りはパートリッジビショップが保管し,教会内の貧しい者や乏しい者を助けるために使われることになりました。
財産を奉献する方法は,1833年6月にジョセフ・スミス,シドニー・リグドン,フレデリック・G・ウィリアムズおよびマーティン・ハリスにより署名され,パートリッジビショップあてに出された手紙に説明されるとおりに,次のように自由意思の原則に基づき行われることになりました。「どれほど受け取るべきか,どれほどビショップのもとに残るようにするべきかについては,各人が自分自身で判断しなければなりません。……奉献というものは,双方の合意に基づいて行われなければなりません。なぜなら,各人がどれほど所有するべきかを決定する力をビショップに与え,それぞれがビショップの判断に従うよう強制されるとすれば,王が持つ力よりも強い力をビショップに与えることになります。逆に,各人がどれほど必要かを決め,ビショップがその判断に従うよう強制されたなら,シオンに混乱を招くことになり,ビショップが奴隷のようになってしまいます。実際にビショップと教会員たちの間に調和と善意の心が存続するためには,あなたたちの間に,力のバランスあるいは均衡が取られなければならないのです。したがって,シオンのビショップに財産を奉献し,受け継ぎの分を受け取る人たちは,自分の受け取る分が〔必要である〕ということをビショップに合理的に示さなければなりません。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, ed. Gerrit J. Dirkmaat and others [2014], 153; spelling and punctuation standardized)
教義と聖約51:15-17。「多年にわたって住むかのようにこの地で行動させなさい」
リーマン・コプリーの信仰が揺るぎ,土地を奉献するという聖約を彼が破ったために,コールズビルからの聖徒たちがオハイオ州トンプソンにあった彼の農場に居住したのは,ほんの数週間だけでした。主は,彼らの滞在が「しばしの間」だけのものになると御存じであったことを,教義と聖約51:16は示しています。それでも主は聖徒たちに,そこに何年も滞在するかのように働き,生活するよう勧告されました。コールズビルからの聖徒たちのほとんどが,これらの指示に従いました。短い滞在の間に,彼らは土地を開拓し,作物を植え,家の建設に取り掛かっていましたが,リーマン・コプリーから立ち退きを要求され,すべてを残して退去することになりました。後に主は,コールズビル支部の教会員たちにミズーリへ移り,シオンの基礎を築く助けをするよう指示されました(教義と聖約54章;58:6-7参照)。
教義と聖約51:19。「忠実で,正しく,賢い管理人」
コールズビル支部からの聖徒たちは,主の命令に従い,多くの犠牲を払ってニューヨークの彼らの家を後にし,オハイオに移住しました。到着して間もないにもかかわらず,彼らはリーマン・コプリーの土地から退去させられ,再び移動するように命じられました。今回はそこから約900マイル(1,448キロ)西方のミズーリ州ジャクソン郡までの道のりでした。「だれでも忠実で,正しく,賢い管理人であると認められる者は,主の喜びに入り,永遠の命を受け継ぐであろう」(教義と聖約51:19)という約束は,この艱難の時に,聖徒たちによる主への信頼を強める助けとなったことは間違いないでしょう。
教義と聖約の中の,管理人と管理人の職という言葉は,奉献の律法に関連しており,聖約のもとすべてを奉献した者に主から与えられる資産や土地に対して使われる言葉です。十二使徒定員会のクエンティン・L・クック長老は,管理人の職とは,わたしたちの個人的な責任や義務でもあるとし,次のように教えました。
「わたしたちは苦難の時代に生きています。多くの人が,神に報告する義務などないと考え,自分や他人に対して個人的な責任や管理人の職はないと思っています。多くの人が自己の欲求を満たすことを求め,自分のことを最優先し,義よりも快楽を愛しています。自分が兄弟の番人だとは考えていないのです。しかし教会では,これらの管理人の職は聖なる信託であると信じています。……
……報告の義務と管理人の職の原則は,教会の教義の中で非常に重要です。
教会においては,管理人の職は物質面での信託または責任にとどまりません。スペンサー・W・キンボール大管長はこう教えています。『わたしたちは自分の体,心,家族,財産を管理しているにすぎません。……忠実な管理人になるには,義にかなって治め,自己に属するものを世話し,貧しい人乏しい人に目を向ける必要があります。』〔「福祉活動:福音の実践」『聖徒の道』1978年2月号,119〕……
家族に対する管理人の職に関して,わたしたちは救い主に報告するときに,地上での責任について報告を求められると教えられています。二つの大切な質問は家族に関するものです。第1に伴侶との関係,第2は子供たち一人一人との関係についてです。……
どのような管理人の職を果たすときにも,わたしたちはイエス・キリストに従います。わたしたちはイエスが教えと模範を通してお命じになったことを行おうとしています。……
わたしの望みは,わたしたちが個人として,また家族として,管理人の職についてもう一度振り返ることです。わたしたちには管理人の職に対して責任と報告義務があります。わたしたちが最終的には神に報告する責任があることを踏まえながら,管理人の職について振り返……るよう,わたしは祈ります。」(「管理人の職—聖なる信頼」『リアホナ』2009年11月号,91-93参照)
教義と聖約52章:追加の歴史的背景
主の命令に従い,1831年5月末までに,パルマイラ,フェイエット,コールズビル地域からのニューヨーク州の教会員たちのほぼ全員がオハイオ州に移動しました。1831年6月3日から6日に,オハイオ州カートランドで,教会の総大会が部会に分かれて開かれました。この大会は,「わたしの教会の長老たちが手紙やそのほかの方法で,東から,西から,北から,南から呼び集められる」(教義と聖約44:1)と主が宣言された,1831年2月の啓示が成就したものと思われます。長老たちが忠実であることを示し,信仰を働かせるのであれば,主は「〔御自身の〕御霊を注ごう」と約束されました(教義と聖約44:2)。
大会の中で,「主は聖徒たちが心ゆくまで満足できるような力を発揮されました。」(Manuscript History of the Church, vol. A-1, page 118, josephsmithpapers.org)部会の間に,神を示現で見たと証する者たちもいました(see The Life of Levi Hancock, quoted in Karl Ricks Anderson, Joseph Smith’s Kirtland: Eyewitness Accounts [1989], 107–8)。ライマン・ワイトは,「病む者の癒し,悪魔の追放,未知の言語による語り,霊の識別,偉大なる力による預言」が含まれた,「五旬節の日であるかのようにはっきりとした,神の力の目に見える現れ」を見たと証しました(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, 322; spelling standardized)。教会の歴史家であるジョン・ホイットマーは,次のように記しました。「主の御霊が,並外れた形でジョセフのもとに降りられました。そして〔ジョセフは〕黙示者ヨハネが今イスラエルの十部族とともにおり,……長い離散からの帰還の準備をさせていると預言しました。」(in The Joseph Smith Papers, Histories, Volume 2: Assigned Histories, 1831–1847, ed. Karen Lynn Davidson and others [2012], 39; spelling and capitalization standardized)
また大会中に,預言者ジョセフ・スミスは,数名の長老を大祭司の職に聖任しました。それは回復された教会で初めての大祭司の職への聖任でした。預言者は次のように言いました。「主がわたしたちに,なすべき業に応じた力と,参加するべき競争に応じた強さと,そして必要とするだけの恵みと助けを与えてくださることは,まったく明らかでした。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』352)
大会に出席した教会員たちは喜ばしい霊的な経験をしましたが,悪魔の現れもあったとして,ジョン・ホイットマーは次のように記録しました。「主が御自身の御霊を僕たちに注がれていたときに,悪魔が自らの力を人に知らしめようとしていました。〔そして〕悪魔はハービー・ホイットロックを金縛りにし,……ホイットロックは口が利けませんでした。」主は預言者に対し,悪魔の策略を明らかにされ,ホイットマーは次のようにも記録しました。「〔ジョセフは,〕キリストの名によりサタンに去るように命じました。このことはわたしたちに喜びと慰めをもたらしました。」in The Joseph Smith Papers, Histories, Volume 2: Assigned Histories, 1831–1847, 40–41; spelling and punctuation standardized)
大会の最終日であった6月6日,預言者ジョセフ・スミスは,教義と聖約52章に記録されている啓示を受けました。数年後に彼は,この啓示は「天の示現により」与えられたと教会の新聞に記しました(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, 327)。
教義と聖約52章
主は教会指導者たち数名に,ミズーリへ旅をするよう命じ,欺きを見抜く規範を教えられる
教義と聖約52:1-5。「あなたがたの受け継ぎの地」
教義と聖約52章に記録されている啓示が与えられたとき,聖徒たちは,聖典で預言されていたシオンの町の建設を非常に楽しみにしていました(エテル13:3-6;教義と聖約28:9;モーセ7:62参照)。1831年3月に与えられた啓示の中で,主は,受け継ぎのために聖徒たちが購入する土地の場所を明らかにされると約束されました(教義と聖約48:4-6参照)。彼らはこの土地に集合し,シオンの町すなわち新エルサレムを建設するように命じられていました。この町は,聖徒たちのための避け所,安全の地となるものでした(教義と聖約45:64-71参照)。1831年6月,主は預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンにミズーリへ行き,そこで教会の次の大会を開くよう指示されました。彼らが忠実であれば,主はそこで彼らの受け継ぎの地を明らかにすると約束されました。主は,その土地は現在「敵」の地であるが,「その時が来れば速やかに町(シオン)を築(く)」と聖徒たちに約束されました(教義と聖約52:42-43)。主が聖徒たちの敵に言及されたことは,教会員たちがミズーリ州ジャクソン郡に集合を始めるときに,地元ミズーリの住民から受けるであろう反抗心と敵意を意味していました。
教義と聖約52:9-10,33-34。使徒や預言者に明らかにされたことを教える
教義と聖約52章に記録されているように,主は預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンのほかに,宣教師としてミズーリへ旅をするよう,26人を召されました。彼らは,ほぼ900マイル(1,448キロ)をそれぞれ別のルートで旅をしながら,福音を宣べ伝え,バプテスマを施すよう指示されました。主は彼らに,「預言者たちや使徒たちが書き記したことと,信仰の祈りによって慰め主により教えられることのほかは何も語ってはならない」と言われました(教義と聖約52:9。モーサヤ18:18;25:21-22も参照)。末日の預言者たちも同じように,福音の教義を教えるときは,預言者の言葉や聖霊の導きに頼るよう,教会員たちに奨励しています。
大管長会のJ・ルベン・クラーク・ジュニア管長(1871-1961年)は,教会の宗教教育者たちに対し,次のように話しました。
「皆さんがまず関心を払うべきこと,皆さんの最も大切な,また唯一の義務は,この末日に啓示されたままに,主イエス・キリストの福音を教えることです。皆さんは自らの権威のよりどころとして,教会の標準聖典と,この末日に主の民を導くように神より召された人々の教えとを使って,この福音を教えなければなりません。皆さんは……皆さんの仕事の中に自分独自の考え方を無理やりねじ込むようなことをしてはなりません。その源が何であれ,あるいはそれがどんなに喜ばしく,道理にかなったもののように思えたとしても,そうすべきではありません。……
皆さんは……,教会の標準聖典に宣言され,主の思いと御心を教会に伝えるように権能を与えられた人々の宣べた教会の教義を,変えたり修正したりしてはなりません。」(The Charted Course of the Church in Education, rev. ed. [booklet 2004; address to Church Educational System religious educators, Aug. 8, 1938], 10)
教義と聖約52:14-21。「わたしはすべてのことに関して規範を与えよう」
1831年6月3日から6日に開催された大会中,教会の長老たちは,悪の現れと神の力の対比を目の当たりにしました。大会の最終日,主は,欺く者や偽り者たちと義にかなった神の僕たちを見分けるための規範を,教会の長老たちに対し明らかにされました(教義と聖約52:14-21参照)。主は,神の御霊とともに労働し,任務を果たす者たちの実の例を挙げられました。これ以前の指示(教義と聖約43:1-7;46:7-8;50:1-25参照)とともに,この啓示は,教会指導者たちと会員たちの間で,偽りの霊と極端な霊的行動や礼拝習慣についての困惑を軽減する助けとなりました。七十人のポール・E・コーリカー長老は,次のように教えました。
「1831年6月,初期の教会指導者に召しが与えられているとき,ジョセフ・スミスは『サタン〔が〕地の方々におり,出て行ってもろもろの国民を惑わす』と言われました。この世的な悪い影響と戦えるように,主はわたしたちが『欺かれないために,……すべてのことに関して規範』を与えてくださるとおっしゃいました(教義と聖約52:14)。
その規範とは,神の目的に添うためのひながたや指針,繰り返し行う手順,道です。規範に従えば,わたしたちは謙遜であり続け,感覚を研ぎ澄ませ,聖霊の声とこの世的なもので煩わせて道からそれさせる声とを見分けることができます。」(「主はわたしたちを心から愛しておられる」『リアホナ』2012月5月号,16-17参照)
教義と聖約52:33-34。「忠実なものは守られて,……祝福されるであろう」
ミズーリへ旅をしながら福音を宣べ伝えるよう召された者たちに対し,もし彼らが忠実であれば,彼らは守られ,「多くの実」(教義と聖約52:34)を祝福されるであろうと,主は約束されました。エドワード・パートリッジビショップは,家族を残してミズーリへ旅をするよう召された者たちの一人でした。パートリッジビショップの妻リディアは,「夫のエドワードがこの勧告の啓示を受けたときの状況についての記録を残しています。夫妻の子供たちは全員,はしかにかかっていました。ニューヨークから来たばかりで彼らの家に滞在していた会員たちから伝染したのです。彼女は次のように記録しています。『長女は肺炎を起こしていましたが,最悪の状態のときに,夫はミズーリへ行く一行に加わるよう啓示によって召されました。聖徒たちが集合する場所を探す旅に出るのです。不信者たちは,彼は気が狂ったに違いない,さもなければ行かないであろうと考えていました。そしてわたし自身も,試練に見舞われたと考えるのはもっともだと思いました。確かにそのとおりでした。しかし,この試練の後には,ほかの試練と同様,祝福がありました。というのも,娘が回復したのです』(Partridge, Genealogical Record, 6)。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, 330)
教義と聖約52:39-40。「貧しい者と乏しい者……を,すべてのことにおいて思い起こしなさい」
伝道に出るよう命じられなかった教会の長老たちは,教会員たちの世話をすることになり,正確には,「貧しい者と乏しい者,病気の者と苦しんでいる者を,すべてのことにおいて思い起こ(す)」よう命じられました(教義と聖約52:40)。主は,貧しい者や病気の者の世話をすることは,御自身の弟子たちの特性であると説明されました。救い主は地上で教え導いておられた間,病気の者や苦しんでいる者を癒し,慰められました。また救い主は,貧しい者や乏しい者を肉体的にも霊的にも養い,世話をされました。ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,乏しい者たちを覚えているためにわたしたちに何ができるかについて,次のように教えました。
「家族が主の前にひざまずき,貧しい人や苦しんでいる人を心に留めるとき,無意識であるものの実際に,無私の愛や尊敬の気持ち,人の必要を満たすために働きたいという望みを育んでいるのです。苦しむ隣人に助けが与えられるように神に願うとき,人は必ずその隣人を援助するために自ら行動するよう強い気持ちに駆られます。……
わたしは,先日ある著名な人が次のように話すのを聞きました。『わたしは,お祈りの言い方を変えました。「貧しい者や乏しい者を祝福してください」と言う代わりに,今では「お父様,わたしがどのように貧しい者や乏しい者を助けることができるかお示しください。そしてそれを行う決心をさせてください」と言うようになりました。』」(Teachings of Gordon B. Hinckley [1997], 457–58〔訳注—『歴代大管長の教え—ゴードン・B・ヒンクレー』第6章に一部掲載あり〕)
教義と聖約53章:追加の歴史的背景
シドニー・ギルバートは,オハイオ州カートランドにあったN.K.ホイットニー社の店において,ニューエル・K・ホイットニーのビジネスパートナーでした。シドニーと彼の家族は,カートランドで教会に加わった改宗者でした。1831年6月8日,教会の大会の2日後,シドニー・ギルバートは,彼が何をするよう主は望んでおられるのかを知りたいと思い,預言者のもとへ行きました。ジョセフは主に尋ね,教義と聖約53章に記録されている啓示を受けました。
教義と聖約53章
主は,ミズーリへ旅をし福音を宣べ伝えるよう,シドニー・ギルバートを召される
教義と聖約53:1-4。「世を捨て〔る〕」
福音を宣べ伝え,教会のために「代理人」となるようにとの主の命令に従い(教義と聖約53:4),1831年6月下旬,シドニー・ギルバートはオハイオ州カートランドを出発しました。1831年の夏にミズーリへ到着した後,彼は商店を開き,教会の代理人として,ビショップのエドワード・パートリッジが管理人の職と教会の建物のために土地を購入する手助けをしました(教義と聖約57:6,8参照)。主は,シドニーに「世を捨て〔る〕」よう命令されました(教義と聖約53:2)。彼は戒めを守り,カートランドでの商売をやめてミズーリへ旅をし,彼の商売に関する知識の賜物を,シオンの地で神の王国の建設を助けるために使うことになりました。世を捨てるようにとの主の命令は,シドニーが世の中から隔離されなければならないという意味ではありませんでした。十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード長老は,次のように説明しました。
「教会ではよく,『世にあって,世のものとならず』という言い方をします。……
恐らくわたしたちは,『世にあって,世のものとならず』という言葉を,二つの勧告に分けて考える必要があるでしょう。まず第1は『世にありなさい』,つまり積極的に世の事柄と取り組み,よく知りなさいという勧告です。分別を持ち,忍耐強くあり,様々に異なった事柄があることを理解しなければなりません。奉仕し,社会に参画して意義ある貢献をしましょう。第2は『世のものとなってはならない』という勧告です。誤った道を行ったり,正しくない事柄に譲歩したり,それを受け入れたりしないようにしましょう。
……あらゆる種類の悪がこの世に存在し,善を妨げるものが周囲を取り巻いていますが,それでもわたしたちは自分自身や子供たちをこの世から隔離すべきではありません。イエスは『天国は,パン種のようなものである』と言われました(マタイ13:33)。わたしたちはこの世を改善し,四囲を取り囲む邪悪から立ち上がろうとするすべての人々に味方するよう期待されています。」(「テレビの影響力」『聖徒の道』1989年7月号,83-84参照)
教義と聖約54章:追加の歴史的背景
1831年5月,ニューヨーク州コールズビルからの聖徒たちがオハイオ州カートランドに到着したとき,「〔リーマン・〕コプリーという男がかなり広大な土地を持っていて兄弟たちを住まわせてくれるから」と,彼らは隣町のトンプソンへ行くように勧められました。(Newel Knight, in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, 315; spelling standardized)リーマンは,土地を改良することと引き換えに,ニューヨークからの聖徒たちが彼の土地に住むことに前もって同意していました。コールズビル支部の聖徒たちは,到着して間もなく759エーカー(約307ヘクタール)の農場に作物を植え,建設を始めました。程なく預言者ジョセフ・スミスは,トンプソンに移住した者たちに奉献の律法を実行するようにと指示する教義と聖約51章に記録されている啓示を受けました。
聖徒たちがリーマンの土地に定住を始めたころ,リーマンが教会員になる前に付き合いをしていた宗教グループであるキリスト再出現信者連合会(シェーカー派)に福音を宣べ伝えるため,彼はほかの宣教師たちとオハイオ州ノースユニオンへ旅をしました(教義と聖約49章参照)。伝道は不成功に終わり,リーマンは回復された教会のメッセージについての自身の証に疑問を抱くようになりました。その後,彼はシェーカー派の指導者であるアシュベル・キッチェルに相談し,彼らはともにリーマンの農場へ行き,聖徒たちに退去を求めました。リーマンは,彼の農場を奉献するという,主と結んだ聖約を破りました。ジョセフ・ナイト・ジュニアは,次のように記録しました。短い滞在期間中,聖徒たちはリーマンの土地に改良を行ったにもかかわらず,「わたしたちは彼の〔コプリーの〕農場から退去し,60ドルの賠償を支払わなければなりませんでした。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, 335)途方に暮れたニューエル・ナイトとコールズビルからのそのほかの長老たちは,預言者の導きを求めに行きました。1831年6月10日,ジョセフは主に尋ね,教義と聖約54章に記録されている啓示を受けました。
教義と聖約54章
主はコールズビルの聖徒たちに,オハイオを離れミズーリへ移動するよう指示される
教義と聖約54:3-6。破られた聖約は「むなしくなり,無効とな(る)」
コールズビル支部の会員たちを自分の土地から退去させるという,リーマン・コプリーによる判断は,主に自分の不動産を奉献するために交わした神聖な聖約を破るという判断でもありました。ニューヨークからの聖徒たちもまた,彼らの所有するものすべてを奉献するという聖約を交わしました(教義と聖約51章参照)。残念ながら,リーマンが聖約を破ったことで,コールズビルの聖徒たちも彼らの聖約を守ることが不可能になりました。そこで主は,聖約は「むなしくなり,無効となった」と宣言されました(教義と聖約54:4)。主はまた,聖約を破った者に対しては厳しい結果を暗示し,守った者に対しては憐れみを約束されました(教義と聖約54:5-6参照)。
十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,聖約を交わし,守ることの大切さについて,次のように教えました。
「聖約を交わす人と聖約を守る人だけが,日の栄えの王国の最高の祝福を求めることができ〔ます〕。そうです。聖約を守ることについて話すことは,死すべき状態におけるわたしたちの目的の核心について話すことなのです。
聖約とは拘束力のある霊的な契約です。わたしたちがある特定の方法,つまり,御子である主イエス・キリストの方法で生活し,考え,行動することを御父である神に立てた厳粛な約束です。それに対し,御父と御子,そして聖霊はわたしたちに,永遠の命という完全な栄光を約束しておられます。……
……召しを十分に果たしたいと心から望み,御父からすべての助けと,すべての便宜と,そしてあらゆる祝福を得たいのであれば,また,天の扉が大きく開かれて神の力を受けることを望むならば,聖約を守らなければなりません。」「聖約を守る:伝道に出ようとする人たちへのメッセージ」『リアホナ』2012年1月号,48-50)
教義と聖約54:7-10。「今去ってこの地を逃れなさい」
1か月前にニューヨークの彼らの家をたったばかりのコールズビル支部の会員たちは,また住むところをなくしました。この問題に対する答えとして,主は彼らに,また移動するよう新たな命令を与えられました。今回はミズーリまでほぼ900マイル(1,448キロ)の移動でした。この60人以上の忠実な教会員のグループにとって,この命令は困難なものでしたが,主は「わたしが来るまで,艱難の中で忍耐強くありなさい」と聖徒たちに求められ,「見よ,わたしはすぐに来る。そして,わたしの報いはわたしとともにある」と宣言されました(教義と聖約54:10)。ニューエル・ナイトに指揮され,コールズビルの聖徒たちは,主の命令に従いオハイオを出発し,1831年7月末,ミズーリ州インデペンデンスに到着しました。彼らは,シオンの地に集合した最初の末日聖徒の中の一行でした。
教義と聖約55章:追加の歴史的背景
1831年6月に預言者ジョセフ・スミスがミズーリに向けて旅の準備をしていたとき,ウィリアム・W・フェルプスはニューヨーク州カナンダイガからオハイオ州カートランドに到着しました。ウィリアムは,新聞編集者,作家,また印刷業者として働いたことがありました。1830年4月,ウィリアムはパーリー・P・プラットからモルモン書を一冊購入しました。モルモン書を読み,聖書と比べた後,彼は回復された教会に加わる決心をしました。彼は後に次のように記録しています。「1831年6月まで,わたしの体はバプテスマを受けて教会員にはなっていませんでしたが,心はモルモン書を知るようになったときから教会にありました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, 337)ウィリアムが妻と子供たちとともにカートランドに到着した後,預言者はウィリアム・フェルプスについて主の御心を尋ね,教義と聖約55章に記録されている啓示を受けました。1831年6月14日,預言者がこの啓示を受けてすぐに,ウィリアム・W・フェルプスはバプテスマを受け,長老として聖任されました。それから間もなく彼は預言者とミズーリに旅をしてそこに定着し,行うように召された業に取りかかりました。
教義と聖約55章
主は教会での召しについてウィリアム・W・フェルプスに指示される
教義と聖約55:4。「印刷の仕事,……書籍を選び,著作する仕事」
ウィリアム・W・フェルプスは,主が御自身の王国を築かれるため,御自身に従う意志を持つ者をどのように準備されるかを示した模範です。作家,編集者,出版業者としての彼の才能と経験を活かし,「印刷の仕事,……この教会の学校のために書籍を選び,著作する仕事」(教義と聖約55:4)に関し,オリバー・カウドリを助けるよう,主はウィリアムを召されました。ウィリアムは,教会のために数々の著作を行い,教会の書物を印刷し,出版しました。ミズーリで彼は,戒めの書と初の教会の新聞であった“The Evening and the Morning Star”(『イブニング・アンド・モーニング・スター』)の印刷を行いました。後に彼は,1835年版教義と聖約と教会初の賛美歌集の準備と印刷の助けをしました。彼はまた,「主のみたまは火のごと燃え」,「たたえよ,主の召したまいし」,「イスラエルの救い主」を含む,多くの末日聖徒賛美歌の歌詞を書きました。
教義と聖約56章:追加の歴史的背景
エズラ・セアは,回復された福音への初期の改宗者でした。ニューヨークからオハイオ州カートランドへ移ったのち,セアは,ジョセフ・スミス・シニアとともに,ミズーリで伝道を行っていたフレデリック・G・ウィリアムズの農場に住み,働くよう指示されました。1831年6月6日,ミズーリへ旅をしながら福音を宣べ伝えるよう,主はトーマス・B・マーシュとエズラ・セアを召されました(教義と聖約52:22参照)。9日後,トーマスはミズーリへ旅するほかの長老たちと一緒に出発する準備ができていました。しかしエズラは準備ができておらず,トーマスは同僚がいないことになりました。どうすればよいか知るため,トーマスは預言者ジョセフ・スミスに尋ねました。1831年6月15日,預言者は主に尋ね,教義と聖約56章に記録されている啓示を受けました。エズラ・セアが伝道の召しを果たす妨げになったものが何であったのかは,定かではありません。しかしジョセフ・スミスへの啓示の中で,主はエズラに,「高慢とわがままを悔い改め,……以前の戒めに従わなければならない」(教義と聖約56:8)と命じられました。これは,フレデリック・G・ウィリアムズの農場での彼の義務に関する啓示の中で与えられていた戒めでした。この啓示ではまた,「〔ウィリアムズの〕土地の分配が行われない」ことが宣言されました(教義と聖約56:9)。エズラ・セアは,土地に対し負っていた借金の一部を満たすために支払いをし,農場の一部に対して法的所有権を要求したのかもしれません。エズラが自身の金銭的利益を確実にするための心配をしていたことが,トーマス・B・マーシュとともにミズーリへ伝道に出る準備ができていなかった理由かもしれません。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, 309–14, 339–40)
教義と聖約56章
主はエズラ・セアの伝道の召しを取り消し,貪欲と高慢について聖徒たちに警告される
教義と聖約56:4-7。「主なるわたしは,わたしがよいと思うままに命じ,また取り消す」
神は戒めを与えられることも,取り消されることもおできになりますが,わたしたちの自由意思を尊重されており,わたしたちが神の戒めに従うか,それとも背くか,自分で選ばせてくださいます。わたしたちが主の戒めに従わないとき,主はわたしたちに責任があるとされます。次の例が,どのように「主なるわたしは,わたしがよいと思うままに命じ,また取り消す」(教義と聖約56:4)という宣言を示しているかを考えましょう。エズラ・セアは,俗世の心配事のために伝道の召しを果たすことができませんでした。主は彼の召しを取り消され,トーマス・B・マーシュに別の同僚を与えられました(教義と聖約56:5,8参照)。主は,コールズビルからの聖徒たちに,オハイオ州トンプソンに定住するよう命じられました。しかしリーマン・コプリーが,聖徒たちを自分の農場に住まわせるという約束を破ったため,主は,ミズーリへ旅をするよう彼らに命じられました(教義と聖約54:7-8参照)。ニューエル・ナイトは,伝道に召されました(教義と聖約52:32参照)。しかし主はその召しを取り消され,続けてコールズビルからの聖徒たちの指揮を務め,ミズーリへの移住の助けをするよう命じられました(教義と聖約54章,章前書き;教義と聖約54:2,7-8参照)。セラ・グリフィンとともに福音を宣べ伝えるというニューエルへの戒めを取り消しになられた後,主は,その代わりトーマス・B・マーシュの同僚としてセラにミズーリへ行くよう命じられました(教義と聖約56:5-6参照)。
教義と聖約56:14-18。「あなたがたにはなすべきことと,悔い改めるべきことがたくさんある」
主は,聖徒たちが奉献の律法に従って生活する妨げとなり,悔い改めなければならない罪を指摘されました。主の御心に従い,主の教会と王国を主の方法によって建設しようとするのではなく,彼らは自分たちの思いに従っていたのです。
十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,次のように教えました。「心の清さは,霊の清さの表れです。彼らはバプテスマの水の中で罪の赦しを受けた者たちです。バプテスマの後,罪の赦しを維持するよう生活し,まるで火によるかのように,聖霊の力によって自分たちの霊から罪を焼き尽くした者たちです。彼らは神を恐れる,義にかなった人々であり,清くあることで,清さの主を頭とするほかの清い方々を見,ともにいる資格が与えられます。」(A New Witness for the Articles of Faith [1985], 492)