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第49章:教義と聖約125-128章


「第49章:教義と聖約125-128章」『教義と聖約 生徒用資料』

「第49章」『教義と聖約 生徒用資料』

第49章

教義と聖約125-128章

紹介とタイムライン

ミズーリ州の自宅から追われた聖徒の多くは,1839年の夏には,教会がイリノイ州コマースとアイオワ準州に購入した土地に,新たな入植地を築いていた。1841年3月,預言者ジョセフ・スミスは,教義と聖約125章に記されている啓示を受けた。この啓示の中で,主は,アイオワ準州における聖徒たちの集合に関して,その御心を明らかにされた。

ブリガム・ヤングは1832年4月にバプテスマを受けた後,アッパーカナダ,アメリカ合衆国北東部,イギリスの各地で伝道した。広範囲にわたるブリガムの宣教師としての奉仕のために,ブリガムとその家族は大きな犠牲を払うよう求められた。1841年7月1日,ブリガム・ヤングは,2年近く自宅を留守にした後,イギリスでの伝道から戻って来た。1841年7月9日,預言者ジョセフ・スミスはブリガム・ヤングに向けた啓示を受けた。その啓示は,教義と聖約126章に記録されている。この啓示の中で,主はブリガムに,もう「これまでのように」家族を残して伝道に出る必要はないと告げられた(教義と聖約126:1)。

1842年9月1日,預言者ジョセフ・スミスは教会員に向けて,亡くなった先祖のために行ったバプテスマの記録を保存するよう指示する手紙を書いた。この手紙は教義と聖約127章に記録されている。最近の研究によると,1842年9月7日(128章の前書きで伝えられている9月6日ではなく)に,預言者はもう1通,教会員に向けた手紙を書いており,この手紙の中で預言者は,死者のためのバプテスマを正しく執り行い,記録することについて,さらに詳しく教えた。預言者はまた,この儀式の教義上の重要性についても説明した。この手紙は教義と聖約128章に記録されている。

1840年8月15日イリノイ州ノーブーで行われたセイモア・ブランソンの葬儀で,預言者ジョセフ・スミスは,死者のためのバプテスマに関する初めての公式説教を行った。

1841年3月6-16日教義と聖約125章が与えられた。

1841年7月1日ブリガム・ヤングがイギリスでの伝道を終え,ノーブーに到着した。

1841年7月9日教義と聖約126章 が与えられた。

1841年11月8日イリノイ州ノーブーで建設が進められていた神殿の地下に設置された,死者のためのバプテスマ用の仮のバプテスマフォントが奉献された。

1842年8月不法に逮捕されてミズーリ州に送り返されるのを避けるため,預言者ジョセフ・スミスは,イリノイ州ノーブー周辺の様々な場所に身を隠した。

1842年9月1日預言者ジョセフ・スミスは,教会員に向けた手紙を口述した。その内容は教義と聖約127章に記録されている

1842年9月7日預言者ジョセフ・スミスは教会員に向けて,もう一通の手紙を口述した。その内容は教義と聖約128章に記録されている

教義と聖約125章:追加の歴史的背景

1838年10月,ミズーリ州知事のリルバーン・W・ボッグズが行政命令を発し,ミズーリ州からモルモン教徒を完全に排除せよと命じると,数千人の教会員がアイオワ準州およびイリノイ州に逃れました。預言者ジョセフ・スミスをはじめとする教会指導者たちは,イリノイ州コマース(後にノーブーと改名される)に700エーカー,またアイオワ準州リー郡に1万8,000エーカー近くの土地を購入する手はずを整えました。やがて,アイオワ準州のゼラヘムラ,ナッシュビルのほか,モントローズの既存のコミュニティー付近の小規模な入植地数か所に,教会の支部が設立されました。そして,1839年10月5日に開かれた教会の大会において,アイオワステークが設立されました。1841年3月,預言者ジョセフ・スミスは,教義と聖約125章に記されている啓示を受けます。この啓示の中で主は,ゼラへムラとナッシュビルを,アイオワ準州における教会員の主要な集合地に指定されました。1841年8月,アイオワステークという名称がゼラヘムラステークに変更されます。しかしながら,そこに集まることのできる教会員は皆,ノーブー神殿の建築に手を貸す必要があるほか,イリノイ州ノーブーでそのほかの建築プロジェクトを完遂させる必要もあったため,大勢の教会員がアイオワ準州からノーブーへ移って行きました。その後,1842年1月に,ゼラヘムラステークは解散することとなります(See “Historical context and overview of Doctrine and Covenants 125,” in Dennis L.Largey and Larry E.Dahl, eds., Doctrine and Covenants Reference Companion [2012], 840)。

地図10:イリノイ州ノーブー,1839-1846年

教義と聖約125章

主はアイオワ準州に住む教会員に,指定された場所に集まるよう指示される

教義と聖約125章。聖徒の集合

教義と聖約に記録されている幾つかの啓示から,教会員たちは,主が預言者を通じて指定された場所に集まることになっていたことが分かります(教義と聖約37:357:1-2101:20-21115:6-8参照)。集合することによって,教会員たちは,霊的な強さや福音の教えを受け,教会員同士や教会指導者と交わることによるそのほかの恩恵を得ていたのです。預言者ジョセフ・スミスが1841年3月に受けた啓示の中で,主は,アイオワ準州の教会員は「わたし​の​名​の​ため​に​数々​の​町​を​築〔く〕」ことになると述べておられます(教義と聖約125:2)。主はまた聖徒たちに,アイオワ準州のゼラヘムラかナッシュビル,「ノーブー市」,または主が指定されたステークのどれかに集まるようにと告げられました(教義と聖約125:3-4参照)。今日,教会員はどこか特定の場所に集まるようにとは命じられておらず,むしろ各会員は,それぞれが住んでいる地域のステークあるいは伝道部内の地元のワードか支部に所属することになっています。エズラ・タフト・ベンソン大管長(1899-1994年)は,次のように教えています。

「教会が成長するにつれ,非常に重要となる点として,堅固かつ適切に教会を築くこと,そして,将来ステークとなる組織が成功に必要とされる基本的な要素を有しており,既存のステークが霊性面での達成という意味においてステークとしての機能を十分に保持できるように,たゆまず努力していることが挙げられます。こうしたステークは,今日のシオンにとって集合の地となるはずです。また,霊的な聖所とならなければならず,可能なかぎり多くの面で自立していなければなりません。

シオンのステークおよび地方部は,主の語られた聖なる場所の象徴です。そこには,終わりの日に,嵐の避け所として主の聖徒たちが集まることになっています。」(『歴代管長の教え—エズラ・タフト・ベンソン』273参照)

アイオワ州モントローズ,フォートデモインの案内板

アイオワ州モントローズ,フォートデモインは,1839年,ミズーリ州から逃れてきた末日聖徒たちの一部が,廃墟となっていた米軍兵舎で暮らしていた場所である。

教義と聖約126章:追加の歴史的背景

Brigham Young, America’s Moses by Kenneth A. Corbett

Brigham Young, America’s Moses(「アメリカのモーセ,ブリガム・ヤング」) by Kenneth A.Corbett.ブリガム・ヤング(1801年-1877年)の肖像画。

1832年4月5日にバプテスマを受けて以来,ブリガム・ヤングは,伝道への大いなる熱意を表明します。当時の思いを,ブリガムは後にこう語っています。「わたしの望みは,雷のように大声で国々に福音を宣べ伝えることです。その望みは,わたしの骨の中に閉じ込められた炎のように燃えています。……末日において主が行おうとしておられることを全世界に向かって叫ぶこと以外に,わたしを満足させるものは何もありません。」(『歴代大管長の教え—ブリガム・ヤング』viii参照)

教会員になってからの最初の5年間,ブリガム・ヤングは,アッパーカナダ全域と,ニューヨーク州をはじめとする東部諸州で伝道しました。また,1834年夏には,オハイオ州からミズーリ州に向かうシオンの陣営の行軍に参加しました。1835年2月14日,オハイオ州カートランドにおいて,ブリガムは十二使徒定員会の会員に聖任され,その後1840年4月14日に,イギリスで伝道していたとき,同定員会の会長となりました。1841年7月1日,イギリスでの伝道を終えたヤング会長は,当時イリノイ州ノーブーにいた妻子と再び一緒に暮らすようになります(See Leonard J.Arrington, Brigham Young: American Moses [1985], 413–14)。1841年7月9日,預言者ジョセフ・スミスは自宅にヤング会長を訪ね,教義と聖約126章に記録されている啓示を告げました。

教義と聖約126章

主はブリガム・ヤングに,もはや家族を残して伝道に出る必要はないことを告げられる

教義と聖約126章。「あなたのささげ物を,わたしは受け入れたからである」

ブリガム・ヤングは主の務めに携わっている間,しばらく家を留守にしていたため,妻のメアリー・アンと子供たちは大いに苦労しました。1839年夏,ブリガム・ヤングと十二使徒定員会のほかの会員たちがイギリスでの伝道の準備を進めているとき,地域一帯でマラリアが流行し,ブリガムをはじめ家族のほぼ全員がこれに感染しました(リサ・オルセン・テイト「あなたの家族の世話を特によくするように」『啓示の背景』マシュー・マクブライドとジェームズ・ゴールドバーグ編,または history.lds.org参照)。それでも,ブリガムの伝道の奉仕はとどまることがありませんでした。ブリガムは後にこう回想しています。「死んでもイギリスに行くんだという気持ちでした。命と救いの福音において行うように求められることは,死んでも行おうというのが,わたしの確固たる決意だったのです。」(『歴代大管長の教え—ブリガム・ヤング』6参照)

メアリー・アン・エンジェル・ヤング

メアリー・アン・エンジェルは,1834年2月18日,オハイオ州カートランドでブリガム・ヤングと結婚した。

1839年9月14日,ブリガム・ヤングはイギリスに向けてアイオワ準州モントローズを出発しました。妻のメアリー・アンは,そのわずか10日前に,4番目の子供を出産したばかりであったうえに,まだマラリアから回復していませんでした。ヤング会長が伝道している間,夫婦が離れ離れになるのは,結婚以来これで8度目でした(シオンの陣営の遠征を含む)。さらに,ヤング夫妻はその前年にミズーリ州を追われていたため,財産のほとんどを失っており,ブリガムが家族の生活費としてメリー・アンに残せたのは,わずか2ドル72セントでした。彼らの家族には,ブリガムが教会員となってから5か月ばかり後に他界した最初の妻,ミリアムとの間にもうけた娘二人も含まれていました。それでもヤング夫妻は,主が家族を養ってくださると確信していました。また使徒が伝道に出かけている間,十二使徒定員会の会員の家族には必要なものが与えられるという預言者ジョセフ・スミスの約束を信頼していました(See Arrington, Brigham Young, 74–75, 413, 420; “Historical context and overview of Doctrine and Covenants 126,” in Largey and Dahl, Doctrine and Covenants Reference Companion, 841.)。ブリガム・ヤングとその友であり同僚使徒でもあったヒーバー・C・キンボールの二人は,伝道に出発するとき,重病のためぐったりと横になっていた荷馬車の後ろから立ち上がり,同様に病に苦しむそれぞれの家族を元気づけようと,「ハレルヤ,ハレルヤ,イスラエル」と叫びました(in Orson F.Whitney, 3rd ed. [1967], 266)。夫が留守の間,メアリー・アンは家族とともにアイオワ準州モントローズからイリノイ州ノーブーへと移り住み,そこに丸太小屋を建てました。その小屋には「雨風を防ぐために,扉や窓には毛布が掛けてありました。」イギリスでの伝道から戻った後の1841年7月1日,ヤング会長はノーブーにおいて,家族のためにレンガ造りの家の建設に取りかかります。「それでも,その家に家族とともに移り住めるようになったのは,1843年5月になってからでした。」(テイトとオートン「あなたの家族の世話を特によくするように」 またはhistory.lds.org

ブリガム・ヤングは,その忠誠心に満ちた従順と献身的な奉仕の結果,すでに十分な働きをしており,そのささげ物を主は受け入れられたという主の確認を受けました(教義と聖約126:1参照)。

預言者ジョセフ・スミスの認可と承認の下で出版された講義集Lectures on Faith(『信仰に関する講話』)によると,「理性のある聡明な人が,神を信じる信仰を働かせて命と救いを得るうえで必要な」ことの一つは,「自分の進んでいる人生の道が,〔神の〕御心にかなっているという確かな知識」です(Lectures on Faith [1985], 38)。十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,次のように付け加えています。

「明らかに,今はわたしたちの不完全さのゆえに,わたしたちの人生について神から完全かつ最終的な承認を受けることは不可能ですが,基本的な人生の旅路を承認していただくことはできます。そうした基本的な保証があれば,わたしたちは信仰をさらに育むことができます。一旦正しい進路を取るならば,わたしたちはペースに注意を向けることができます。

『人生の旅路』には,様々な特定の義務がありますが,それらには戒め(また戒めを守るうえでの助け)が伴います。これらの義務は,通常,非常に目に見えやすく,かつ馴染み深いものです。その中には,聖餐を取る,集会に出席し神殿に参入する,祈る,断食する,聖文を研究する,クリスチャンとしての奉仕を行う,家庭におけるすべての義務を果たす,伝道活動や再活発化の取り組みに参加する,系図活動を行う,什分の一やささげ物を納める,物質的な備えをすることなどが含まれます。……

わたしたちがこうした目に見えやすい義務を適切に行うとき,そこからは非常に望ましい一連の結果が生じます。そうした結果は目に見えにくいものですが,まさしく現実のものです。実際,わたしたちが個人的な,また信仰が強められるような霊的経験をするとき,それはほぼ例外なく,先ほど挙げたような義務を行う過程において起こるのです。さらに,これらの義務を行うことによって,わたしたちは聖霊を伴侶とする資格をますます増し加えるのです。」(“The Christ-Centered Life,” Ensign, Aug. 1981, 13

教義と聖約126:3。「わたし​の​言葉を​外国に​送り出し」

預言者ジョセフ・スミスが教義と聖約126章に記録されている啓示を受ける前,十二使徒定員会の会員は,概して教会のある地域から遠く離れた地域や伝道地において,地元の管理役員としての務めを果たしていました。ブリガム・ヤングとそのほかの十二使徒定員会の会員たちがイギリスでの伝道から戻ったとき,主は,当時十二使徒定員会会長であったヤング会長は,これからはもう伝道のために家族のもとを離れるよう求められることはないことを示されました(教義と聖約126:1参照)。むしろヤング会長は教会本部の近くにいて,「わたし​の​言葉を​外国に​送り出〔す〕」ように(教義と聖約126:3),つまり,伝道活動を監督するようにと,主は言われたのです。ヤング会長はその後,1842年,1843年,1844年とさらに3度,短期の伝道奉仕を行いましたが,おおむねイリノイ州ノーブーにとどまって家族とともに過ごすことができました。その地でヤング会長は,預言者ジョセフ・スミスの生涯に残された3年間を預言者とともに過ごし,預言者から学ぶという祝福に浴したのでした。

教義と聖約126:3。「あなたの家族の世話を特によくするように」

イギリスへの伝道から帰還後,ブリガム・ヤングは,「家族の世話を特によくするように」という主の戒めに従いました(教義と聖約126:3)。ブリガムは,毎日時間を割いて子供たちを教え,子供たちとともに祈りました。子供たちは,ブリガムを愛にあふれる優しい父親として記憶にとどめています。教義と聖約126章に記されている啓示が与えられたのは,ブリガムが40歳のときのことでしたが,次の記録は,彼が家族に対して行った長期に及ぶ献身を如実に示しています。

「ブリガムは23歳のとき,〔最初の妻〕ミリアム・アンジェリン・ワークスと結婚しました。この若い夫婦は,二人の娘に恵まれました。ブリガムは,椅子やテーブル,食器棚の製作や修理を行い,窓やドア,階段,暖炉の取り付けなどをして,家族を養いました。……

妻のミリアムが結核にかかった折には,ブリガムは自分の仕事に加えて,妻の仕事の多くも引き受けていたようです。そして,妻が病床に伏せる時間が次第に長くなると,ブリガムがいつも家族のために朝食を準備し,娘に洋服を着せ,家の掃除をするようになります。ブリガムは,『妻を抱いて暖炉のそばの揺り椅子に移し,夕方自分が戻るまでそこにいさせました。』そして夕食を用意し,子供たちを寝床に入れ,家事を終えました[Susa Young Gates and Leah D. Widtsoe, The Life Story of Brigham Young (1930), 5]。ブリガムは,青少年時代や結婚初期に子供の世話をしたり,家庭を管理したりした経験から,家族の共同生活や家事について多くのことを学びました。何年も後になって,ブリガムは聖徒たちに,それらの事柄について助言を与え,『家事については,町のほとんどの女性』に負けないと,冗談交じりに豪語してみせるほどでした。」〔Deseret News Weekly, Aug. 12, 1857, 4〕」(『歴代大管長の教え—ブリガム・ヤング』2参照)

イリノイ州ノーブーにあるブリガム・ヤングの自宅

イリノイ州ノーブーにあるブリガム・ヤングの自宅

家族の責任と学業,仕事,そして教会の召しのバランスを取ることを学ぶのが難しい場合もあります。大管長会は,1999年に教会員にあてた手紙の中で,次のように述べています。

「親である皆さんに,子供たちを福音の原則の中で教え育てることに最善を尽くしてくださるようお願いいたします。そのことによって子供たちは教会に活発であり続けるでしょう。家庭は義にかなった生活の基であり,ほかのどのような手段も,家庭に代わる役割を果たし得ませんし,神から与えられたこの責任を遂行するうえでの大切な役割を果たしてはくれません。

わたしたちは親の皆さんと子供たちに,家族の祈り,家庭の夕べ,福音の研究と指導,そして健全な家族活動を最優先するようお勧めします。必要とされるそのほかの事柄や活動がどれほど価値のある適切なものであったとしても,それらは,親と家族だけが全うできる天与の義務に取って代えられるものでは決してありません。」(大管長会の手紙,1999年2月11日付。『手引き 第2部—教会の管理運営』1.4.1も参照)

教義と聖約127章:追加の歴史的背景

預言者ジョセフ・スミスが,死者のための身代わりのバプテスマに関する教義について初めて公の場で教えたのは,1840年8月15日,イリノイ州ノーブーにおいて,ノーブー高等評議員会の会員で預言者の護衛を務めていたセイモア・ブランソン兄弟の葬儀で説教をした時のことでした。その後間もなく,教会員たちは,ミシシッピ川で死者のためのバプテスマを行うようになります(マシュー・マクブライド「死者のためのバプテスマに関する手紙マクブライドとゴールドバーグ編『啓示の背景』 またはhistory.lds.org; Susan Easton Black, “A Voice of Gladness,” Ensign, Feb. 2004, 35.)。4か月後,預言者は,イギリスで働いている十二使徒定員会の会員たちにあてた手紙の中で,この教義について知らせています。「聖徒たちには,亡くなった自分の親族のためにバプテスマを受ける特権があります。そうした親族は,もし福音を聞く恩恵に浴したならば,喜んで受け入れたであろうと聖徒が信じる人々であり,また獄にいる間に彼らに教えを説くよう任じられた者たちの助けによって,霊にあって福音を受け入れた人々です。」(Letter to Quorum of the Twelve, 15 December 1840, page 6, josephsmithpapers.org

イリノイ州ノーブーのメインストリートに建つノーブーハウス

蒸気船の船着き場であったノーブーハウスの写真。聖徒の幾人かは,この場所付近で死者のためのバプテスマを執り行った。

ノーブー神殿のバプテスマ室が完成する前,主は聖徒たちに,一時的に神殿以外の場所で死者のためのバプテスマを行うことを認め,次のように述べておられます。「この儀式はわたしの家に属するものであり,あなたがたがわたしのために家を建てることのできないほど貧しいときを除いて,わたしはこれを受け入れることはあり得ない。……わたしのために家を建てるのに十分な時間を,わたしはあなたがたに与える。そして,この期間中は,あなたがたのバプテスマを受け入れる。」(教義と聖約124:30-31)1841年11月末には,ノーブー神殿の地下に,大きな木造のバプテスマフォントが用意されました。それは,神殿の壁と上階の建設が続く間,「間に合わせの羽目板の壁で取り囲まれていました。」(see Glen M.Leonard, Nauvoo: A Place of Peace, a People of Promise [2002], 250–51

1842年5月,教会員に対する撲滅令を発令したミズーリ州の前知事,リルバーン・W・ボッグズが,暗殺未遂により負傷しました。ミズーリ州当局は,ボッグズ襲撃の立案に手を貸したとして預言者ジョセフ・スミスを告発し,ミズーリとイリノイ両州の役人たちが,当時イリノイ州ノーブーに住んでいた預言者を捕えて,裁判のためにミズーリ州に連れ戻そうとしました。ミズーリ州に戻れば死刑となる可能性が高いことを知っていた預言者は,逮捕されるのを避けるため,1842年8月初旬から同年12月にかけて,身を隠しながら暮らしました。1843年1月,ジョセフ・スミスを逮捕してミズーリ州に送還するための手続きは違法であるとの判決が下りました(See “Letter to John M.Bernhisel, 7 September 1842,” pages 2–3, josephsmithpapers.org; “Historical context and overview of Doctrine and Covenants 127,” in Largey and Dahl, Doctrine and Covenants Reference Companion, 842.)。

1842年9月1日,預言者ジョセフ・スミスは,赤レンガの店の上階の部屋(ここではよく教会の執務が行われていた)と自宅で仕事をしていました。その日のうちに,預言者は教会員に向けて手紙を書き,自分がもう一度身を隠そうと計画していることを知らせ,また死者のための身代わりのバプテスマの儀式について指示を与えました。2日後,ジョセフ・スミスはまたもや身を隠さざるを得なくなります。1842年9月4日,預言者の手紙は,ノーブー神殿近くの森で開かれた野外集会に集まった教会員の前で読み上げられました。その手紙の内容は教義と聖約127章に記されています(See “Journal, December 1841–December 1842,” pages 184189–90, josephsmithpapers.org; “Historical context and overview of Doctrine and Covenants 127,” 842.)。

ジョセフ・スミスの農場,イリノイ州ノーブー

イリノイ州ノーブーにあるジョセフ・スミスの農場。預言者とその家族は,1839-1843年までここで暮らした。

教義と聖約127章

預言者ジョセフ・スミスは「​艱難を誇りと〔し〕」,教会員たちに,死者のためのバプテスマの記録を保存するよう勧告する

教義と聖約127:1-3。「聖徒は皆,喜び楽しみ,大いに喜んでください」

1842年5月6日に起きたミズーリ州前知事リルバーン・W・ボッグズ暗殺未遂の後,預言者ジョセフ・スミスに敵対する人たちの一部は,預言者が暗殺計画に手を貸したという虚偽の主張をしました。正式な法的告訴がなされ,1842年8月初旬,ミズーリとイリノイ両州の役人は,預言者を逮捕して,裁判のためにミズーリまで連れ戻そうとします。預言者ジョセフ・スミスはこの告発を強く否定し,聖徒にあてた手紙の中で,「​彼ら​は理由​も​なく​わたし​を​追いかけ〔ている〕」と説明しています(教義と聖約127:1)。教会員にあてた1842年9月7日付けの別の手紙の中で,預言者ジョセフ・スミスはこう言っています。「ミズーリ州民は,この州〔イリノイ州〕の一部の主要な役人と一緒になって,……迫害や残虐な行為によってまたもや自らを辱めています。彼らは真理,すなわちその土地の法律,およびアメリカ合衆国憲法をほとんど意に介さず,わたしの逮捕令状を考えられないほど違法に発行しました。そのことを,彼ら自身が承知しているのです。……ですからわたしは,人々の命と,自分自身の命を日ごと守るために,ほかの土地へ逃げざるを得ないのです。」(Letter to John M.Bernhisel, 7 September 1842,” pages 2–3, josephsmithpapers.org

自らの命が脅かされていたにもかかわらず,預言者ジョセフ・スミスはこう書いています。「わたしが経験するように定められている数々の危難については,……わたしにとってほんのささいなことに思われます。……そして,わたしはパウロのように艱難を誇りと感じています。わたしの先祖の神は,今日までそれらのすべてからわたしを救い出してくださり,またこれから後もわたしを救い出してくださるからです。まことに,まことに,わたしはわたしのすべての敵に打ち勝つでしょう。」(教義と聖約127:2)預言者はまた,「聖徒は皆,喜び楽しみ,大いに喜んでください。イスラエルの神は聖徒たちの神であ……られるからです」と言明しています(教義と聖約127:3)。これは,教会員たちは,古代において御自分の民のために大いなる奇跡を行われ,彼らの時代においても,変わることなくそうしてくださるであろう偉大なエホバを信じることができるということを意味しています。

十二使徒定員会のロバート・D・ヘイルズ長老は,神がなぜ預言者ジョセフ・スミスに逆境を経験することを許されたのかについて説明しています。「この世のチャレンジには意味と目的があります。預言者ジョセフ・スミスについて考えてみてください。ジョセフは生涯を通じて,希望を打ち砕かれるような逆境に遭いました。病気,事故,貧困,誤解,偽りの告発,そして迫害さえ受けたのです。こう尋ねたくなるかもしれません。『主はなぜ,預言者をそのような障害から守り,無限の助けを与え,非難する者たちの口を封じられなかったのだろうか。』その答えはこうです。すなわち,さらに救い主のようになるには,各人が一定の経験を得なければならないのです。現世という学校の訓練はしばしば苦痛と試練を伴います。けれどもその教訓は,不純物を取り除いて人に祝福を与え,強めることを目的としており,決して滅ぼすことを意図しているのではありません。」(「苦難の中で信仰により得る平安と喜び」『リアホナ』2003年5月号,17参照)

教義と聖約127:4。「わたしの神殿の仕事……を継続して行い,中止しないようにしなさい」

Joseph Smith at the Nauvoo Temple by Gary E. Smith

Joseph Smith at the Nauvoo Temple(「ノーブー神殿でのジョセフ・スミス」) by Gary E.Smith.最初に建てられたノーブー神殿は,預言者ジョセフ・スミスの死後に完成した。神殿が奉献されたのは1846年5月で,聖徒の大半が西部へ出発した後のことであった。

1841年1月19日に与えられた啓示は教会員たちに,イリノイ州ノーブーに神殿を建てるよう指示するものでした(教義と聖約124:27,34,40-44参照)。1841年4月6日,預言者ジョセフ・スミスは,ノーブー神殿の4つの隅石の敷設作業を監督しました(see Manuscript History of the Church, vol. C-1, pages 1184–86, josephsmithpapers.org)。教会員にあてた1842年9月1日付の手紙の中で,預言者は,熱心に働き,神殿の建設を完遂するよう聖徒たちを鼓舞しています(教義と聖約127:4参照)。わたしたちの時代においては,ハワード・W・ハンター大管長(1907-1995年)が教会員に,神殿での礼拝に参加するよう熱心に勧め,こう述べています。

「主がわたしたちに,神殿に心を向ける民となるよう望んでおられるのは当然のことです。以前に述べたことを再度申し上げます。神殿が近くにないために,すぐにあるいは頻繁に参入できないとしても,すべての成人会員が有効な神殿推薦状を受けるふさわしさを身につけ,また推薦状を所持するなら,主はお喜びになるでしょう。神殿推薦状にふさわしくあるためには,すべき事柄と,してはいけない事柄がありますが,それらの条件はまさに,わたしたちが個人として,また家族として,幸福になるのを約束する事柄でもあるのです。

実際に,神殿に参入し,神殿を愛する民となりましょう。個人的な事情が許すかぎり,わたしたちは頻繁に,また分別を働かせ,速やかに神殿に行く必要があります。わたしたちは,亡き親族のためだけでなく,神殿での礼拝に伴う祝福を自分自身が受け,奉献され聖別された建物の中で授けられる清めと安らぎを味わうためにも参入する必要があります。神殿に参入するにつれて,わたしたちは人生の目的と主イエス・キリストの贖いの犠牲の意義を,より深く,より完全に理解するようになります。神殿における礼拝,神殿で交わす聖約,神殿結婚などを通じて,神殿を地上における最終目標,またこの世における至高の経験の場としましょう。

……預言者たちが言っているように,神殿は麗しい場所であり,啓示を授かる場所であり,平安の宿る場所です。そこは主の宮であり,聖きを主にささげる場所です。わたしたちにとって,神殿は神聖かつ重要な場所でなければなりません。」(「神殿に心を向ける民」『聖徒の道』1995年5月号,6-7参照)

教義と聖約127:5「死者のためのバプテスマ」

教義と聖約127:5および128:14に記録されているように,預言者ジョセフ・スミスは,聖徒たちが身代わりのバプテスマを行っている死者について,「あなたがたの死者」と称しており,これは,彼ら自身の亡くなった先祖を指しています。十二使徒定員会のクエンティン・L・クック長老が教えるところによると,家族歴史と神殿の儀式に参加するとき,わたしたちの第一の責任は,自分自身の先祖を見つけ,彼らのために救いの儀式を行うことです。「啓示を通して言われた最初の教えの中で主は,『あなたがたの死者のためのバプテスマ』と言われました〔教義と聖約127:5;強調付加〕。わたしたちは自分自身の先祖に対して教義上の義務を負っているのです。なぜなら,天上の日の栄えの組織は家族に基づいているからです〔『歴代大管長の教え—ジョセフ・フィールディング・スミス』68参照〕。大管長会は教会員,特に青少年やヤングシングルアダルトに,自分自身の先祖の名前や,自分のワードやステークの会員の先祖の名前を探して,家族歴史と神殿の儀式の業に努めるよう励ましています〔大管長の手紙,2012年10月8日付参照〕。わたしたちは自分の根と枝の両方に結ばれる必要があります。永遠の世界において結ばれるというのは,実にすばらしい考えです。」(「根と枝」『リアホナ』2014年5月号,45)

十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,自分の先祖の救いの業に携わる人々に与えられる祝福について,次のように述べています。

「わたしは〔皆さん〕に,……学び,先祖を探し出し,亡くなった皆さんの親族のために主の宮で身代わりのバプテスマを行う準備をするように勧めます(教義と聖約 124:28-36参照)。ほかの人々が家族歴史を確認するのを助けるように,皆さんに切に勧めます。

皆さんが信仰をもってこの勧めに従うとき,皆さんの心は先祖に向かうでしょう。アブラハム,イサク,ヤコブに交わされた約束が,皆さんの心の中に植えられるでしょう。血統の宣言を伴う祝福師の祝福は,皆さんとこれらの先祖を結びつけ,皆さんにとっていっそう重要なものとなるでしょう。先祖に対する皆さんの愛と感謝が増します。救い主についての証と従いたいという気持ちが強くなり,不動のものとなります。わたしは約束します。 皆さんはますます強まるサタンの影響力から守られるでしょう。この聖なる御業に参加し,これを大切にするとき,青少年の時代にも生涯にわたっても守られるでしょう。」(「子孫の心は向かうであろう」『リアホナ』2011年11月号,26-27参照)

教義と聖約127:5-7,9。「すべて​の​記録を​整理して」

預言者ジョセフ・スミスが教義と聖約127章に記録されている手紙を書いた日の前日に当たる1842年8月31日,預言者は神殿の西にある森で開かれた野外集会において,ノーブー女性扶助協会の会員たちに話をしました。この集会でエライザ・R・スノーが書き留めたメモによると,預言者は,「〔自分が身を隠している間に〕死者のためのバプテスマに関して,幾つかのことが自身に明らかにされた」と述べました。預言者は姉妹たちに対し,簡潔にこう説明しています。「死者のためにバプテスマを受ける人は皆,その場に記録者がいなければなりません。そのバプテスマについて証する証人となれるようにするためです。」(in The First Fifty Years of Relief Society: Key Documents in Latter-day Saint Women’s History, ed. Jill Mulvay Derr and others [2016], 94–95)。教義と聖約に記録されている数々の啓示を通して,主は,日記や集会の議事録,そのほかの歴史記録を含め,記録を残すことの重要性を強調しておられます(教義と聖約21:147:1,3-469:8参照)。1842年9月1日付の手紙の中で,預言者ジョセフ・スミスは,記録を残すことは神殿の儀式の業における重要な部分であると教えています。神殿活動に関連する記録は,「整理して……聖なる神殿の記録保管所に収め,それらが代々覚えられるように」しなければなりませんでした(教義と聖約127:9)。

当初,追加の指示を受ける前は,「愛する人のために〔バプテスマの〕儀式の執行を急ぐあまり」,教会員は死者のためのバプテスマを正確に記録しないこともありました。さらには,身代わりを務める人が自分とは異なる性別の人のためにバプテスマを受ける場合があり,また証人がいないまま儀式が行われることもしばしばありました(マクブライド 「死者のためのバプテスマに関する手紙」『啓示の背景』またはhistory.lds.org参照)。ブリガム・ヤング大管長(1801年-1877年)はこう説明しています。

「無限の御方が御自身の有限の創造物に律法をお与えになるとき,その律法を受ける者の能力に合わせて基準をお下げになる必要があります。最初に死者のためのバプテスマの教義が与えられたとき,教会はその揺籃期にあり,神にかかわる知識すべてを最高の段階で受け取る能力がありませんでした。……

……最初に〔死者のためのバプテスマの教義〕が明らかにされたとき,その手順がすべて示されたわけではありませんでした。しかし,記録や書記,一人か二人の証人が必要であることなどが指示されたからには,そうしなければ儀式は聖徒にとって価値のないものになるでしょう。

主は,このようにいつでも,ここにも少し,そこにも少し教えることによってこの民を導いてこられました。こうして主は民の知恵を増し加えられます。そして,少し受けて感謝する者は,さらに与えられるのです。」(“Speech,” Times and Seasons, July 1, 1845, 954。マクブライド「死者のためのバプテスマに関する手紙」またはhistory.lds.orgも参照)

教義と聖約127:8。「わたしは神権に関して……多くの事柄を回復しようとしている」

イリノイ州ノーブーに神殿を建設する必要性について教えるに当たり,主はこう命じておられます。「わたしの名のためにこの家を建てて,わたしがそこで民に儀式を示すことができるようにしなさい。」(教義と聖約124:40)「主の命令にこたえて,預言者と聖徒たちは可能なかぎり速やかに行動を起こし,主の宮の建設に取りかかりました。しかし預言者は,建設には何年も要することを理解していました。また同時に,聖徒たちが神殿のすべての祝福を必要としていることも承知していました。そこで,1842年5月4日,神殿はまだ完成していませんでしたが,ジョセフ・スミスは少数の忠実な兄弟たちにエンダウメントを執行しました。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』413参照)後に預言者は聖徒たちに,永遠の結婚の教義を教え,結び固めの儀式を紹介しました(教義と聖約131:1-4132:19-25参照)。

ノーブー神殿の夕景

イリノイ州ノーブー神殿は,2002年6月,最初に建てられたノーブー神殿と同じ場所で奉献された。

教義と聖約128章:追加の歴史的背景

1842年9月3日,家族とともに自宅にいた預言者ジョセフ・スミスは,ミズーリ州とイリノイ州の保安官たちが,自分を逮捕してミズーリへ連れ戻すためにやって来ることを知ります。預言者は気づかれずに家を抜け出すことができ,その夜は結局,エドワード・ハンターの家に向かいました(See Manuscript History of the Church, vol. D-1, page 1 [addenda], josephsmithpapers.org.)。翌日,1842年9月1日付の預言者の手紙が,ノーブー神殿近くの森で開かれた野外集会に集まった教会員の前で読み上げられました(この章の「教義と聖約127章:追加の歴史的背景」参照)。9月7日,引き続きハンター兄弟の家に滞在していた預言者は,「聖徒たちに向けた長い手紙を口述し,これを次の安息日に読むよう命じました。」(“Journal, December 1841–December 1842,” page 192, josephsmithpapers.org)この手紙の内容は教義と聖約128章に記されています。

イリノイ州,ノーブーにあるエドワード・ハンターの自宅

イリノイ州ノーブーにあるエドワード・ハンターの自宅。1842年9月,預言者ジョセフ・スミスは,逮捕されてミズーリに連れ戻されることを避けるため,この家に滞在していた。この家で預言者は,死者のためのバプテスマに関する2通の手紙を書いたが,その内容は現在,教義と聖約127章および128章に記録されている。

教義と聖約128:1-18

預言者ジョセフ・スミスは,救いの儀式を記録する必要性について説明する

教義と聖約128:1-5。「​創世​の​前​に​……備えられた​儀式」

数えきれないほど大勢の天の御父の子供たちが,イエス・キリストについて知ることなく,また救いに不可欠なバプテスマの儀式を受けることもなく亡くなっています(2ニーファイ2:6-7アルマ9:27参照)。死者の贖いの教義の回復は,神が,現世で福音を受ける機会のないままに亡くなった人々を含め,すべての人に与えられる救いのための道を備えておられることを如実に示しています(教義と聖約128:22参照)。預言者ジョセフ・スミスは,教会員にあてた1842年9月7日付けの手紙の中で,死者のためのバプテスマの儀式は「創世の前に……備えられた」と説明しています(教義と聖約128:5)。

教義と聖約128:6-10。「あなたがたが地上で記録することは何でも天で記録され」

預言者ジョセフ・スミスは,神聖な儀式の記録を含むわたしたちの業の記録が「地上で記される」とき,同様の記録が「天で記される」と教えました(教義と聖約128:7)。これらの記録は,いつの日か死者が裁きを受けるときに開かれる書物の中に含まれるでしょう(教義と聖約138:6-7参照。黙示20:123ニーファイ27:24-26も参照)。預言者は,儀式を行い記録するために用いられる神権の力を,主がペテロに,「あなたが地上でつなぐことは何でも天でつながれ……るであろう」と明言された際に約束された結び固めの力になぞらえています(教義と聖約128:10マタイ16:18-19も参照)。預言者はまた,聖書の聖句を言い換えて,つなぐという言葉を記録するという言葉と関連付け,次のように述べました。「あなたがたが地上で記録することは何でも天で記録され,またあなたがたが地上で記録しないことは天でも記録されないということです。」(教義と聖約128:8)この神権が有するつなぐ,あるいは結び固める力によって,神の子供たちのために地上で執り行われる儀式は,天においてもつなぐ力を持つことが可能になるのです。

教義と聖約128:11。神権の鍵は主の預言者に,知識と霊的な力を与える

預言者ジョセフ・スミスは,自身に授けられた「鍵」と「聖なる神権の力」によって,自分は「人の子らの救い,すなわち死者と生者の両方の救いに関して,数々の事実を知る」資格を与えられていると説明しています(教義と聖約128:11)。それと同じ神権の鍵が,預言者ジョセフ・スミスの後に続く末日の預言者たちに委ねられており,彼らは死者の救いに関するさらに深い理解を探し出すことができるのです。

教義と聖約128:12-14。「墓に似たもの」

預言者ジョセフ・スミスは,以下のように説明しています。「水によるバプテスマの儀式,すなわち……水中に沈められ,そして水から出て来ることは,墓から出て来る死者の復活に似ています。」(教義と聖約128:12)預言者はまた,「〔死者のためのバプテスマに用いられる〕バプテスマフォントは墓に似たものとして設けられ」,そのためノーブー神殿の地下の部分,すなわち「生者がいつも集まる場所の下」に設置されるべきであり,これは「それによって,生者と死者を表すため,またすべてのことに類似するものがあるようにするため」であると説明しています(教義と聖約128:13)。

ノーブー神殿のバプテスマフォントの構想図

ノーブー神殿が建てられたとき,預言者ジョセフ・スミスは,バプテスマフォントを地下に作り,刻んで造った12頭の牛の上に設置するよう指示した。

ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は,次のように教えています。「主はわたしたちの神殿のバプテスマフォントを基礎の部分,すなわち地表の下に置かれました。これは象徴的です。死者は墓の中におり,彼らのためにバプテスマを受けるとき,わたしたちは死者のために働いているからです。さらに,バプテスマは死と復活の象徴でもあり,これは実際に,罪の生活,すなわち霊的な死から,霊的な命を得た生活への復活なのです(教義と聖約29:41-45参照)。ですから,死者が自身のために儀式を執行してもらったとき,この教義が生者に適用されるのとまったく同様に,彼らは神の御前に連れ戻されたものと見なされるのです。」(Church History and Modern Revelation, 2:332

教義と聖約128:15-18。「すべての,ことごとくの,完全な和合」

預言者ジョセフ・スミスは旧約聖書時代の預言者マラキの言葉を用いて,死者のためのバプテスマの儀式は,「先祖と子孫の間」あるいは家族の世代間「にある事項について固いつながり」(教義と聖約128:18)を作り出し,「先祖の心を子孫に,子孫の心をその先祖に向けさせる」ためのものであると教えました(教義と聖約128:17マラキ4:6も参照)。預言者はまた,使徒パウロの言葉を引いて,亡くなった先祖の「救いはわたしたちの救いにとって必要であり,不可欠〔である〕」と教え,「わたしたちなしには彼らが完全な者とされることはない……ように,わたしたちの死者なしには,わたしたちも完全な者とされることはない」ことを強調しました(教義と聖約128:15ヘブル11:40も参照)。

ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はこう教えています。「一つの家族の組織,家族の単位がなければならず,しかも家族の組織を完全にするには,どの世代も前の鎖に連なっていなければなりません。このようにして最終的に,わたしたちは子孫を管理するアダム,すなわち天使長ミカエルを長とする一つの大きな家族となるのです。」(Doctrines of Salvation, comp. Bruce R.McConkie [1955], 2:175

世代をつなぐ過程は死者のためのバプテスマの儀式から始まりますが,亡くなった先祖たちは,代理人によるそのほかの救いの儀式を受けることも必要となります。同じく神殿で執り行われる必要のあるこうした救いの儀式には,確認と聖霊の賜物を受けること,男性のメルキゼデク神権への聖任,神殿のエンダウメント,家族の結び固めなどがあります。教会員が亡くなった先祖のためにエンダウメントと結び固めの儀式を執り行うようになったのは,拠点を新たにユタ州に移してからのことでした(see Richard O.Cowan, “The Unfolding Restoration of Temple Work,” Ensign, Dec. 2001, 39)。十二使徒定員会のL・クック長老はこう説明しています。「家族を結びつけるというこの重要な教義は,ここにも少し,そこにも少しと明らかにされました。身代わりの儀式は永遠の家族を結びつけ,根を枝に結びつける業の中心です。」(「根と枝」45)

教義と聖約128:19-25

預言者ジョセフ・スミスは回復された福音を喜び,死者のためのバプテスマを行うことが,どのように教会員をイエス・キリストの再臨に備えさせるのかを説明する

教義と聖約128:19-23。すべてのものの回復

教義と聖約128章に記されている手紙を書いたとき,預言者ジョセフ・スミスは身を隠しており,不法に追われていましたが,その手紙の最後は,福音の回復がもたらす祝福に関する注目すべき要約で締めくくられています。わたしたちには「悪魔……を暴いた……ミカエル」(教義と聖約128:20)についての詳細も,天使ラファエル(教義と聖約128:21参照)がだれを指すのかも分かりませんが,預言者の言葉は,死者のための贖いの輝かしい教義を特に強調しています。

ノーブーの森に置かれた長椅子と説教壇

聖徒から成る大規模なグループは,イリノイ州ノーブーの数か所で,木々の木陰で開かれる野外集会に集まった。

教義と聖約128:22。「獄にいる者たちは解放されるのです」

聖文の中ではよく,霊界の一部であり,救いの儀式を受けなかった者たちが住むことになる場所について,獄あるいは暗闇の場所と称されています(イザヤ24:221ペテロ3:19アルマ40:13-14教義と聖約38:5138:18,22,30参照)。預言者ジョセフ・スミスは,死者のための身代わりのバプテスマの儀式は,「わたしたちが死者を獄から贖えるように〔し〕,……獄にいる者たちは解放される」と言明しています(教義と聖約128:22)。十二使徒定員会のクエンティン・L・クック長老は教会員たちに,わたしたちが神殿で行う儀式が,先祖にどのような影響を及ぼすかについて考えるよう勧めています。

「幕の向こう側で,霊の獄の束縛から解放してくれる救いの儀式を待っている人たちのことを考えてください。 とは,『閉じ込められた,または捕らわれた状態』を言い表しています〔Merriam-Webster’s Collegiate Dictionary, 11th ed. (2003), ‘prison’〕。……

ある忠実な姉妹が,ソルトレーク神殿における特別な霊的経験について語ってくれました。確認の部屋にいるとき,身代わりの確認の儀式の言葉が宣言された後,姉妹はこのような言葉を聞きました。『獄にいる者は解放される。』彼女は,バプテスマと確認の儀式を待っている人たちのために急がなければならないと強く感じました。そこで,家へ帰るとすぐに聖典を開き,先ほど聞いた聖句を探しました。そして,教義と聖約128章にあるジョセフ・スミスの宣言を見つけました〔教義と聖約128:22教義と聖約138:42も参照〕。」(「根と枝」46)同様の言葉が,イザヤ61:1にある,メシヤに関するイザヤの預言にも見られます。

教義と聖約128:24。「義をもってささげ物を」

福音の回復の目的の一つは,天の御父の子供たちをイエス・キリストの再臨に備えさせることです。預言者ジョセフ・スミスは,旧約聖書時代の預言者マラキによって書かれた言葉についてさらに詳しく述べ,「〔主の〕来られる日に……堪えられる」者たちは,主に「義をもってささげ物を」することを示しました。そのささげ物とは,「〔彼らの〕死者の記録を載せた……書」,つまり救いの儀式が,彼らの亡くなった先祖のために行われたことを示す記録のことです(教義と聖約128:24マラキ3:2-3も参照)。七十人のアレン・F・パッカー長老教義と聖約128:24を引用した後,次のように教えています。

「この家族の記録の『書』は,教会のファミリーツリーデータベースに保存されている名前と儀式の記録を使って用意されることになります。

わたしはこのデータベースを調べ,記録を追加しています。愛する家族全員の名前を記録の書に載せたいからです。皆さんも同じではないでしょうか。……

家族歴史とは,系図とそれに関するきまりごと,名前や日付や地名以上のものであり,過去に目を向けること以上のものです。わたしたち自身の歴史を記すとき,家族歴史には現在も含まれます。子孫を通して未来の歴史を作るときには,未来が含まれます。……

聖餐を受け,集会に出席し,聖文を読み,個人の祈りを行うのと同じように,家族歴史と神殿活動は,わたしたち個人の日常的な礼拝の一部であるべきです。預言者の勧めに対する青少年やそのほかの人々の反応は,わたしたちを鼓舞してきましたし,この業は,あらゆる年齢層のすべての会員がを行うことができ,また行うべきであることを証明しています。

……この業は今では非常に簡単に行えるようになっていて,あとはこの業を優先する会員が増えさえすればよいのです。今でも時間と犠牲は必要ですが,だれでも行うことができ,ほんの数年前と比べても簡単になっています。

会員を支援するために,教会は記録を集め,ツールを提供して,この業の多くを各家庭やワード,そして神殿で行えるようにしました。ほとんどの障害が取り除かれています。これまでの認識がどうであれ,今の家族歴史活動は以前とは違います。

それでも,教会が取り除くことのできない障害が一つあります。それは,この業を行うことに対する個人のためらいです。必要なのは決意とわずかばかりの努力です。長時間の作業は必要ありません。ほんの少し時間を使って継続的に取り組みさえすれば,この業を行う喜びが湧いてきます。決意をして一歩を踏み出し,方法を学び,周囲の人に支援を求めてください。彼らは喜んで助けてくれるでしょう。皆さんが探し出して神殿に持って行く名前が,家族の記録の『書』となるのです〔教義と聖約128:24〕。」(「家族の記録の書」『リアホナ』2014年11月号,100-101参照)