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第43章:教義と聖約109-110章


「第43章:教義と聖約109-110章」教義と聖約 生徒用資料

「第43章」教義と聖約 生徒用資料

第43章

教義と聖約109-110章

紹介とタイムライン

1833年7月23日,カートランド神殿の隅石が据えられた。それから3年の間,オハイオ州カートランドの聖徒たちは,主の戒めに従って神殿を建設するために多くの犠牲を払った(教義と聖約88:11995:8-9参照)。カートランド神殿を奉献するための準備をしていたとき,預言者ジョセフ・スミスはオリバー・カウドリの助けを借りて,「啓示によって彼に与えられた」(教義と聖約109章,前書き)祈りを書き記した。預言者は,この祈りを1836年3月27日の日曜日に行われた奉献式でささげた。この祈りは教義と聖約109章に記録されており,主が「この宮を〔主〕に奉献することを受け入れて」くださり(教義と聖約109:78),「〔神殿に〕入って来るすべての者が」祝福されることと(教義と聖約109:13),「〔主〕のすべての教会員を……思い起こし……〔主〕が人手によらずに設けられた王国が,大きな山となって全地に満ちますように」(教義と聖約109:72)という主への嘆願が含まれている。

1836年4月3日,カートランド神殿で,イエス・キリストが預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに御姿を現された。預言者モーセ,エライアス,エリヤも姿を現し,大切な神権の鍵を回復した。これらの現れに関する記述は,教義と聖約110章に記録されている。

1833年6月上旬教会員はオハイオ州カートランドに神殿を建設し始めた。

1836年3月27日預言者ジョセフ・スミスが,後に教義と聖約109章に記録されるカートランド神殿のための奉献の祈りを読み上げた。

1836年3月30日イエス・キリストが,カートランド神殿での聖会に集まった人々の何人かに御姿を現された。

1836年4月3日教義と聖約110章に記録されているとおり,ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリが,カートランド神殿でイエス・キリストの姿を見て御声を聞き,モーセ,エライアス,エリヤから神権の鍵を受けた。

教義と聖約109章:追加の歴史的背景

「神の家」を建てるよう主が命じられたことを成就するために,オハイオ州カートランドの教会員は約2年半働きました(教義と聖約88:119)。1836年3月26日,「〔預言者ジョセフ・スミス〕,オリバー・カウドリ,シドニー・リグドン,そして〔預言者の〕二人の筆記者であるウォレン・A・カウドリとウォレン・パリッシュは,奉献式の準備のために神殿の屋根裏にある大管長の部屋に集まりました。オリバー・カウドリは日記に,この集会で彼は『神殿の奉献の祈りを書く助けをした』と書いています。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, ed. Brent M. Rogers and others [2017], 189)書き記された祈りは,「啓示によって〔預言者ジョセフ・スミス〕に与えられ〔まし〕た。」(教義と聖約109章,前書き)

翌朝,3月27日の日曜日,「約1000人の会衆で〔神殿〕はいっぱいになりました。」神殿の外にはまだ何百人もの人々がいました。その中には神殿建設のために犠牲を払った多くの人々もいました。預言者の提案により,「入ることができなかった人々の一部は隣にあった学校で集会を開き,それ以外の人々は2回目の奉献式を待つために家に戻りました。」奉献式は開会の祈りと賛美歌で始まり,その後「〔シドニー・〕リグドンが2時間半にわたって様々なテーマで話をしました。〔彼は〕その後,預言者かつ聖見者」として支持するために,「〔ジョセフ・スミスの〕名前を会衆に提示しました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 189; see also The Joseph Smith Papers, Journals, Volume 1: 1832–1839, ed. Dean C. Jessee and others [2008], 200, 203)20分の休憩後,預言者ジョセフ・スミスは会衆に少しの間話し,教会の指導者たちを支持する挙手を求めました。預言者は次に,奉献の祈りを読み上げました。最後に会衆のホサナ斉唱によって奉献式は終わりました。ホサナ斉唱とは,会衆が「ホサナ!ホサナ!神と小羊にホサナ,アーメン,アーメン,アーメン」と3度叫ぶことです(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 209; see also The Joseph Smith Papers, Journals, Volume 1: 1832–1839, 203–11.)。カートランド神殿の奉献式は,ほかの神殿の奉献式の規範となりました。

〔地図7:オハイオ州カートランド,1830-1838年の画像〕

教義と聖約109:1-28

預言者ジョセフ・スミスは,カートランド神殿を受け入れ,そこで礼拝する人々を祝福してくださるよう主に求める

教義と聖約109:1-5。「僕たちはあなたが命じられたとおりに行いました」

1833年6月に授けられた啓示の中で,主は,そこに神殿を建て始めていないことでオハイオ州カートランドの教会員を懲らしめられました(教義と聖約95章)。当時オハイオ地域には150人の教会員しか住んでおらず,神殿建設のような事業を管理する適任者がいませんでした。4万ドルと見積もられた建設費は超過することが見込まれ,その後3年間の聖徒たちの財源を圧迫しました。(リサ・オルセン・テイト,ブレント・ロジャース「神のための宮」『啓示の背景』マシュー・マクブライドとジェームズ・ゴールドバーグ編,またはhistory.lds.org参照。)しかし,主は,戒めを守るならば,「それを建てる力を持つ」であろうとこの聖徒たちに約束されました(教義と聖約95:11)。教会員は3年近く大きな労苦と犠牲を払って主の宮を建てました。1836年3月27日にささげられたカートランド神殿の奉献の祈りの中で,預言者ジョセフ・スミスは,聖徒たちが「ひどい艱難」と「貧し〔さ〕」にもかかわらず,神殿建設のために犠牲を払って惜しみなく自分たちの時間と「持ち物」をささげたことを認めました(教義と聖約109:5)。神殿が建てられたときカートランドに住んでいたエライザ・R・スノー姉妹は,聖徒たちの信仰と犠牲について次のように説明しています。

「聖徒たちの人数は少なく,とても貧しい人がほとんどでした。もし神殿を神の御名のために建設するようにと,神が話され,命じられたという確信がなければ,……当時のそのような状況下で神殿を建てるという試みは,かかわるすべての教会員がばかげたことだと言ったでしょう。……

頭脳と身体を使う以外財源が殆どありませんでしたので,神を固く信頼して,男も女も,また子供までもが力を尽くして働きました。……少しのお金でもこの大いなる目的〔のために使われる〕ようにできるかぎり〔節約して〕生活を切り詰めました。彼らの力の源となっていたのは,いと高き者の指示によって建てられ,神によって受け入れられた神殿の祝福に携わるという将来の展望でした。」(in Eliza R. Snow, an Immortal [1957], 54, 57)

〔カートランド神殿の内装作業の様子の画像〕

聖徒たちは「ひどい艱難」と「貧し〔さ〕」にもかかわらず,カートランド神殿建設のために惜しみなく自分たちの時間と「持ち物」をささげた(教義と聖約109:5)。

「1835年の夏と秋に,神殿を完成させるため,男性も女性もともに助け合って働きました。男性はほとんどの場合,れんが積みを行い,牛を引き,岩石を運び,一方,女性はたいてい糸を紡ぎ,編み物をして,労働者のために衣服を織りました。女性はまた,主の宮でつるされるベールやカーテンを縫いました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 188)「子供たちまでもが,太陽に当たって光るようしっくいに混ぜる割れた皿やガラスを集めるのを手伝いました。」(リサ・オルセン・テイト,ブレント・ロジャース「神のための宮」,またはhistory.lds.org)神殿建設費用のために,多くの教会員が自分たちのできる方法で貢献しました。このように,聖徒たちは信仰と犠牲を合わせることで,救い主が「その民に御自身を現す場所」である神殿を建設しました(教義と聖約109:5)。

トーマス・S・モンソン大管長は,末日聖徒が神殿を建て,その聖い建物の中で主を礼拝するためにいつでも進んで犠牲を払ってきた理由を次のように説明しています。

「神殿の建設と神殿の参入には何がしかの犠牲がついてまわります。神殿の中で見いだされる祝福を自身と家族が得るために努力し,苦しみを経験した人は数限りなくいます。

神殿の祝福を受けるためになぜそれほど多くの人が多くのものを喜んで犠牲にするのでしょうか。神殿のもたらす永遠の祝福を理解している人は,これらの祝福を受けるためにいかなる犠牲,いかなる代価,いかなる苦労もいといません。」『聖なる神殿—世界に輝くかがり火」『リアホナ』2011年5月号,92)

Windows of Heaven, by David Lindsley

Windows of Heaven(「天の窓」)by David Lindsley教会員は3年近く大きな労苦と犠牲を払ってオハイオ州カートランドに主の宮を建てました。

教会の管理ビショップとして奉仕したH・デビッド・バートンビショップは,神殿活動を進めるために,今日末日聖徒が犠牲を払う方法について,次のように提案しています。「神殿建設への奉仕について,今日のわたしたちに与えられている機会は昔と少し違います。わたしたちに求められているのは,釘を打ち付け,石を刻み,材木を切り,コンクリートを流し込むような肉体労働ではなく,神殿建設の業が継続して進められるように忠実に什分の一を納め,すでに亡くなった方のために神聖な救いの儀式を施すことができるよう,自分自身をふさわしく保つことです。ごく簡単に言えば,神殿に早朝から深夜まで明かりがつくようにするために末日聖徒の家族として機会をとらえて奉仕することです。すでに幾つかの神殿において行われているように,週末に一晩中神殿の儀式が執り行われるような状況を作り出すこともできるでしょう。」(「機会が与えられる時代」『リアホナ』1999年1月号,11)

教義と聖約109:5。主が「その民に御自身を現す」場所

古代において,神殿は主がご自分の民に御姿を現されて,啓示をお与えになる場所でした(出エジプト19:10-1725:8,22列王上6:11-13参照)。同様に,主はオハイオ州カートランドの教会員に,彼らが「主の名によって〔主〕に一つの家を建て,それが汚されないように,何であろうと清くないものがそこに入るのを許さなければ,〔主〕の栄光はそのうえにとどまるであろう。……また,〔主〕はそこにいる」と約束されました(教義と聖約97:15-16)。この約束は,特に1836年1月から5月にかけて成就しました。このときカートランド神殿で開かれた集会中に,多くの特筆すべき霊的な現れがありました。1836年3月30日,預言者ジョセフ・スミスは,「救い主の現れを受けた人がいる一方で,ほかの人々は天使から教え導かれました」と書き留めています(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 221; spelling standardized)。

「人の子がご自分の民に御自身を現す場所を得られるように」カートランド神殿は築かれました(教義と聖約109:5)。現すとは,明らかにする,知らせるという意味です。十二使徒定員会のジョン・A・ウイッツォー長老は次のように証しています。「神殿に神が来られ,神殿の中で人が神とお会いするというのは偉大な約束です。この約束された交わりとはどういう意味でしょうか。神が時々神殿に来られ,時々心の清い者は神にお会いできるという意味でしょうか。それとも,もっと大きな出来事で,神殿に参入する心の清い者が,そこで,神の御霊によって,いつも神と驚くほど豊かに交わるという意味でしょうか。わたしにとって,あなたにとって,またわたしたちほとんどにとって,そういう意味だと思います。わたしたちは,この世の日常的な煩いから解放された思いを持って,これらの聖い宮に行き,文字どおり神の存在を感じてきました。このように,神殿はいつも神が人に現れ,人の英知を増してくださる場所なのです。神殿は啓示の場です。」(in “Temple Worship,” The Utah Genealogical and Historical Magazine, vol. 12[April 1921], 56)

本書の教義と聖約97:15-17の解説も参照してください。

教義と聖約109:6-11。「あなたがたの聖会を召集しなさい」

教義と聖約109:6-11で言及された聖会の説明については,本書の教義と聖約88:70-76の解説を参照してください。

教義と聖約109:12-13。「入って来るすべての者が,あなたの力を感じ……ますように」

カートランド神殿が奉献されたとき,そこは「聖められ,聖別され」,主の「聖なる訪れが絶えず……あ〔る〕」場所となりました(教義と聖約109:12)。奉献の祈りの中で,預言者ジョセフ・スミスは,神殿に入って来るすべての者が主の力を感じられるよう主に懇願しました。個人が神殿にふさわしくい状態で参入し,礼拝するときはいつでも,この懇願による祝福は今日も引き続き与えられます。ハワード・W・ハンター大管長(1907-1995年)は次のように教えています。

「神殿での礼拝を通して個人に与えられる祝福について改めて強調します。 この聖なる宮居の中で与えられる清めと安らぎについても強調したいと思います。神殿は主の宮居であり,啓示と平安を受けられる場所です。わたしたちは神殿に参入するとき,人生の目的と主イエス・キリストの贖いの犠牲の意義を,より深く,より豊かに学びます。神殿での礼拝,神殿で交わす聖約,神殿結婚など,神殿で行われる事柄を地上での究極の目標とし,現世の生涯における至上の経験としましょう。……

福音を宣べ伝え,聖徒を完全な者とし,死者を贖うというわたしたちの努力はすべて,聖なる神殿に至るものです。なぜなら,神殿の儀式は絶対に必要であり,わたしたちは神殿の儀式なしに神の前に戻ることができないからです。皆さん一人一人がふさわしい状態で神殿に参入するよう,あるいは,聖なる宮居に参入して自身の儀式と聖約を受けられる日に向けて努力するようお勧めします。」(「神の御子に従う」『聖徒の道』1995年1月号,97参照)

教義と聖約109:15。「聖霊の全き」

カートランド神殿の奉献式の中で,預言者ジョセフ・スミスは,神殿で礼拝するすべての人が,「〔主〕にあって成長し,聖霊の全きを受け〔る〕」よう御父に祈りました(教義と聖約109:15)。十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は次のように教えています。「すべての儀式において,特に神殿の儀式において,わたしたちは高い所から力を授けられます。この『神性の力』は聖霊の影響力によってわたしたちにもたらされます。」(「聖約の力」『リアホナ』2009年5月号,21)末日聖徒は神殿の儀式を受け,その聖約を忠実に守るなら,個人の聖めや神性を含む,聖霊の力を通してもたらされる完全な祝福を得ます。クリストファーソン長老はさらにこう説明しています。「『聖霊の全き』〔教義と聖約109:15〕には,イエスが次のように次べられたものが含まれます。『永遠の命,すなわち日の栄えの王国の栄光について,わたしがあなたがたに与える約束である。この栄光は,長子の教会の栄光,すなわちすべての中で最も聖なる御方である神の栄光であって,神の子イエス・キリストを通じて来る。』」(教義と聖約88:4-5)。「聖約の力」23,注5)

教義と聖約109:20-21。「清くないものがあなたの宮に入るのを許され〔る〕……ということが決してありませんように」

旧約聖書の詩篇の作者は次のように宣言しています。

「主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。

手が清く,心のいさぎよい者……こそ,その人である。」(詩篇24:3-4

末日にも神の「宮」には同じ標準が保たれています(教義と聖約109:20)。十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン会長は次のように証しています。 

「どの神殿にも『聖きを主にささぐ』という言葉が刻まれています。この言葉は,神殿自体もその存在の目的もともに聖いことを意味しています。神殿に参入する人々も聖さという特質を身につけていることが求められています。……

……わたしたちの贖い主は,主の神殿を汚れから守るよう求めておられます。清くないものが聖別された宮に入ることは,決して許されないのです〔教義と聖約109:20参照。イザヤ52:11アルマ11:373ニーファイ27:19も参照〕。しかしながら,よく備えのできている人ならば,だれであっても歓迎されます。」(「神殿の祝福を受けるための個人の備え」『リアホナ』2001年7月号,37-38)

〔カートランド神殿の扉の外観の画像〕

約1000人の人々が1836年3月27日の奉献式に参加するためにカートランド神殿の扉を通った。

カートランド神殿の奉献の祈りで,預言者ジョセフ・スミスは,主が御自分の民を憐れんでくださり,「彼らが速やかに悔い改め,〔主に〕立ち返り,〔主の〕御前に恵みを得,……〔神殿の〕祝福を回復され〔る〕ように」祈りました(教義と聖約109:21)。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は次のように勧めています。「聖約を交わした人は守ってください。まだの人は聖約を交わしてください。交わした聖約を破っている人は,悔い改めて,正してください。ぶどう園の主人がまだ時間があると言われるかぎり,遅すぎることは決してないのです。まさに今この瞬間に告げる聖なる御霊の促しにどうぞ耳を傾けて,主イエス・キリストの贖いの賜物を受け入れ,喜んで主とともに働いてください。」(「ぶどう園の労働者たち」『リアホナ』2012年5月号,33)

教義と聖約109:22-23。主の僕は福音を宣べ伝える力を神殿で受ける

預言者ジョセフ・スミスがカートランド神殿の奉献の祈りの中で求めた祝福の一つは,神殿で礼拝する人が「地の果てまで」福音の真理を広めるときに,「〔神の〕力を帯び〔る〕」ようにということでした(教義と聖約109:22-23)。十二使徒定員会のジョセフ・B・ワースリン長老(1917-2008年)は次のように教えています。「主の家において,忠実な教会員は『高い所から力』を授けられます〔教義と聖約95:8〕。その力によってわたしたちは誘惑と戦い,また聖約を尊び,主の戒めに従い,家族,友人,隣人に対して,強くかつ恐れることなく福音を証することができます。」(「神聖な特質を養う」『聖徒の道』1999年1月号,29)

神殿の儀式と神殿の礼拝を通して,だれでも力と守りを受けられますが,教義と約109:22-23に記録されているジョセフが求めた祝福は,回復された福音の「きわめて大いなる栄えあるおとずれ」を宣べ伝えるために神殿から「出て行〔く〕」人に特に向けられたものでした。十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,次のように教えています。召しを受けた宣教師は「聖なる神殿の聖約と儀式を通して,力を帯びる〔教義と聖約109:22〕ことができます。神殿に参入し神殿の精神を身に受けることは,専任宣教師としての効果的な奉仕に先立ちます。」(「主の業に召される」『リアホナ』2017年5月号,70)

Landscape with Kirtland Temple, by Al Rounds

Landscape with Kirtland Temple(「カートランド神殿の景観」)by Al Roundsカートランド神殿,オハイオ州カートランド

教義と聖約109:24-28。わたしたちが神殿での「名と地位を立派に維持する」とき,どんな祝福がもたらされるか

イエス・キリストに従う人が主の名を受けるという聖約に入るなら,主のものと呼ばれます(教義と聖約18:21-24参照)。預言者ジョセフ・スミスの霊感を受けたカートランド神殿の奉献の祈りは,イエス・キリストの名を身に受ける過程が神殿の礼拝と関係することを表しています(教義と聖約109:22,26参照)。デビッド・A・ベドナー長老は次のように教えています。

「現代の啓示の中で,主は神殿のことを『わたしの名のために』建てられた家と呼んでおられます(教義と聖約105:33教義と聖約109:2-5124:39も参照)。カートランド神殿の奉献の祈りで,預言者ジョセフ・スミスは御父にこのように懇願しました。『あなたの僕たちがこの宮からあなたの力を帯びて出て行けますように。あなたの御名が彼らのうえにあり……ますように。』(教義と聖約109:22)ジョセフはまた,『この宮であなたの御名を受けた民に対して』祝福があるように祈り求めました(26節)。そして主は,カートランド神殿に現れて神殿を御自身の宮として受け入れられたとき,こう宣言されました。『見よ,わたしはこの家を受け入れた。そして,わたしの名はここにあるであろう。わたしは憐れみをもってこの家でわたしの民にわたし自身を現すであろう。』(教義と聖約110:7

これらの聖句から,バプテスマの水で始まるイエス・キリストの御名を受ける過程が主の宮で続けられ,展開されていくことが分かります。バプテスマの水の中に立つとき,わたしたちは神殿に心を向けます。聖餐を受けるときにも,神殿に心を向けます。神殿の神聖な儀式に携わり,主イエス・キリストの御名と権能を通して得られる最高の祝福を受ける準備として,救い主をいつも覚え,その戒めを守ることを誓います。こうして,聖なる神殿の儀式でイエス・キリストの御名をいっそう完全に,余すところなく受けるのです。 」(「名と地位を立派に維持する」『リアホナ』2009年5月号,98)

教義と聖約109:24-28に記録されている預言者ジョセフ・スミスが祈り求めた祝福について, ベドナー長老は次のように説明しています。

「現在サタンが猛威を振るっていることを踏まえ,イエス・キリストの御名を喜んで受けるこ と,聖なる神殿で名と地位を立派に維持する人々に約束されている守りの祝福に照らし合わせて,これらの聖句についてよく考えてください。重要なことに,聖約がもたらすこうした祝福はあらゆる世代が永遠にわたって得られるものです。これらの聖文が自分の生活や家族にとってどのような意味を持つかを繰り返し研究し,祈りの気持ちで深く考えるように勧めます。

神殿での礼拝と業を妨げたり疑わせたりする悪魔の働きに驚くことはありません。悪魔は主の宮の清さと力を忌み嫌っているからです。そして神殿の儀式と聖約によってわたしたちが受ける守りはルシフェルの邪悪なはかりごとにとって大きな障害なのです。……

わたしたちは今もこれからも,主の業に対する大きな困難に直面するでしょう。しかし,神が用意された場所を見つけた開拓者と同じように,わたしたちも勇んで進みましょう。神は守ってくださいます(「恐れず来たれ,聖徒」『賛美歌』17番参照)。今日,神殿は,儀式を受け,聖約を交わし,教化され,世の嵐を避ける聖なる場所として,世界中に建てられています。」(「名と地位を立派に維持する」『リアホナ』2009年5月号,99-100)

教義と聖約109:29-80

預言者ジョセフ・スミスは,主に「〔主〕の民〔やほかの人々〕を憐れんでくださ〔る〕」よう,また「この宮を……奉献することを受け入れてくださ〔る〕」ように祈り求める

教義と聖約109:35-39。「五旬節の日におけるごとく」

「モーセの律法の一部として,過越の祭の50日後に五旬節すなわち初穂の祭が行われた(レビ23:16)。五旬節は収穫を祝うためのものであり,『旧約聖書』では刈入れの祭あるいは七週の祭とも呼ばれた。エルサレムで使徒たちが聖霊に満たされ,異言を語ったのは,この祭が祝われていたときであった。(使徒2章教義と聖約109:36-37)。」(『聖句ガイド』「五旬節」の項,scriptures.lds.org

カートランド神殿の奉献式で,預言者ジョセフ・スミスは主に,「五旬節の日におけるごとく,それが〔そこにいた聖徒たち〕に成就しますように」と祈り求めました(教義と聖約109:36)。新約聖書の中の五旬節の日には,「舌のようなものが,炎のように分れて現れ,ひとりびとりの上にとどまっ〔た〕」姿を取って,聖霊が救い主の弟子たちに現れられました。「すると,一同は聖霊に満たされ,御霊が語らせるままに,いろいろの他国の言葉で語り出し」ました(使徒2:3-4)。「激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて」,彼らが集まっていた家いっぱいに響きわたりました(使徒2:2)。この神聖な経験を通して,初期の弟子たちは「地のはてまで,〔イエス・キリスト〕の証人となる」よう備えられました(使徒1:8)。

預言者ジョセフ・スミスは後に,カートランド神殿の奉献式の最中や,そのころ神殿で開かれたそのほかの多くの集会において,神の愛と力の力強い現れが明らかにあったことを次のように記録しています。「それはまさに五旬節であり,〔エンダウメント〕でした。この場所から全世界に向けて音が発せられるので,長く記憶されるべきものです。この日に起きたことは,神聖な歴史のページに残されて,すべての世代に語り伝えていかなければなりません。五旬節の日がそうであったように,この日もヨベルの年として,また,いと高き神の聖徒にとって喜びの時として,数えられ,祝われていくでしょう。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 221; spelling and capitalization standardized)

〔カートランド神殿の画像〕

カートランド神殿は1836年3月27日に奉献された。

ほかの教会員も,カートランド神殿での集会中に起きた霊的な現れの幾つかについて記録しています。一人の参入者は次のように書いています。「神の天使が部屋に来て,分かれた舌が炎のように幾人かの主の僕のうえにとどまり,〔そして〕彼らは異言を語り,預言しました。」またほかの人はこう書いています。「一つの柱のような雲が神殿にとどまり,太陽が雲の上で金のように光り輝くときのように明るかったのを見た人もいました。また別の二人は,その部屋の中に輝く鍵を手に持った3人の人を見ました。」オリバー・カウドリは次のように記録しています。「御霊が注がれました。わたしは大いなる雲のような神の栄光が降り,神の家にとどまり,突然吹いてきた激しい風のように部屋を満たすのを見ました。」(In The Joseph Smith Papers: Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 190–91.)

教義と聖約109:55-67。「イスラエルの散らされた残りの者……が皆,真理を知るようになり……ますように」

カートランド神殿の目的の一つは,「イスラエルの〔家の〕散らされた残りの者〔皆〕」を含む全地の人々に福音のメッセージを宣べ伝えるために,主の僕たちを備えることでした(教義と聖約109:67)。預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,大管長会の顧問とともに,次のように宣言しています。

「この終わりの時における主の業は,非常に重要であって,死すべき者の理解をほとんど超えています。その栄光は筆舌に尽くし難く,その壮大さはあらゆるものをしのいでいます。これこそ,世の創造以来今日に至るまでのすべての世代を通じて,預言者や義人たちが胸を高鳴らせてきたテーマです。今は確かに時満ちる神権時代です。天であれ地上であれ,キリスト・イエスにあるすべてのものが主にあって集められる時であり,世の初めからすべての聖なる預言者たちによって語られてきたように,万物が回復される時です。先祖に与えられた数々の約束が栄光のうちに成就し,いと高き者の大いなる,輝かしい,崇高な力が現されるでしょう。……

……終わりの時に成し遂げるべき業は非常に重要であって,預言者が述べた栄光と威光を帯びてその業が転がり進むように,聖徒たちは精力と技術と才能と能力を用いることを求められるでしょう〔ダニエル2:34-35,44-45参照〕。したがって,そのような重要で壮大な業を成し遂げるために,聖徒たちは専心することを求められるでしょう。

最後の神権時代の栄光をもたらすために,聖典の中で語られている集合の業が必要となるでしょう。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』512

預言者ジョセフ・スミスはまた次のようにも教えています。「わたしたちは,末日の栄光をもたらすために神から選ばれ,祝福された民です。末日の栄光を目にし,それに加わり,前進させるという務めを任されているのです。……また,神の聖徒たちがあらゆる国民,部族,国語の民,民族から一つに集められ,ユダヤ人が一つに集められ,また預言者たちが語ってきたように,悪人たちも滅ぼされるために一つに集められます。また神の御霊が神の民とともにとどまり,残りの国民から取り去られ,天にあるものも地にあるものも,すべてがキリストにあって一つとなるでしょう。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』513

教義と聖約109:72-76。「あなたの教会が暗黒の荒れ野から出て来て,……輝き」

カートランド神殿の奉献の祈りの中で,預言者ジョセフ・スミスは聖書の比喩を用いて,教会の末日の目的について預言しました(例えば,教義と聖約109:72ダニエル2:44-45と;教義と聖約109:74イザヤ40:4-5と;教義と聖約109:751テサロニケ4:16-17と比較してください)。

教義と聖約109:72-73の比喩について言及したゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,次のように教えています。

「わたしたちはこのすばらしい祈りに対する答えを目の当たりにしています。国の内外で,教会のほんとうの姿に対する認識がますます高まっています。しかし,それでも教会を中傷したり,教会に反対したり,背教してこの御業に敵対的な声を上げている人々が少なからずいます。そのような人々はいつの時代にもいました。彼らはその人生の中でこの教会に対する批判を口にしますが,程なく忘れ去られてしまいます。主の御業を行おうと努力するかぎり,このような批判はこれからも絶えずついてまわると思います。しかし,心の正直な人は,何が善で何が悪かを看破することでしょう。わたしたちは,永遠の真理で飾った旗を掲げる軍勢が行進するように,前進していきます。わたしたちには,真理と善のために戦うという大義があります。わたしたちは『十字架負い進み行 〔く〕』(「戦い進め」『賛美歌』155番)キリストの軍勢の兵士です。

この御業においては,どこへ行っても,大変な活力を目にします。この御業が組織されている所には,必ず情熱があります。これは贖い主の御業です。福音,すなわち喜びのおとずれです。わたしたちが幸せと喜びを得るためのものです。」(「主よ,あなたのすべての教会員を……思い起こしてください」『聖徒の道』1996年7月号,96)

教義と聖約110章:追加の歴史的背景

〔カートランド神殿平面図の画像〕

部屋の両端に設置された説教壇を示すカートランド神殿の主要階の図

カートランド神殿が奉献されて1週間後の1836年4月3日,復活祭の日曜日に,約1,000人が礼拝するために神殿に集まりました。午前中の集会で彼らは,十二使徒定員会の先任会員であったトーマス・B・マーシュとデビッド・W・パッテンから教えを受けました。その日の午後,預言者ジョセフ・スミスは,会衆に対して聖餐を執り行う際に十二使徒定員会の会員たちを助けました(see The Joseph Smith Papers: Journals, Volume 1: 1832–1839, 219)。集会の後半,ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリは神殿の下の階の西端の高い所にある説教壇に行き,説教壇の回りの帆布の「幕」を下ろしました(see The Joseph Smith Papers: Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 225)。預言者とオリバーは祈った後,栄光に満ちたイエス・キリストの示現を見ました。イエスは二人に話されました。その後,モーセ,エライアス,エリヤが現れ,預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに神権の鍵を委ねました。その神聖な経験の話は,預言者の日記に記録され,後に教義と聖約110章として出版されました。

教義と聖約110:1-10

救い主が栄光の中に御姿を現され,カートランド神殿を主の宮として受け入れられる

教義と聖約110:1-5。救い主がジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに御姿を現される

回復の際にその場にいた人々が目撃した天からの使者の現れ,特にイエス・キリストの現れにより,イエス・キリストの完全な福音の回復が真実であることが再確認されました。教義と聖約に記録されている啓示によって,これらの天からの訪れがどのように可能になったかが説明されています。「人は神の御霊によって変えられないかぎり,いまだかつて肉体において神を見た者はいない。」(教義と聖約67:11)このように,死すべき状態の人が栄光に満ちた御方の臨在に堪えるためには,身を変えられるか,一時的に霊的に高い水準に高められなければなりません(モーセ1:11参照)。預言者ジョセフ・スミスも,オリバーとともに救い主の示現を見ていたときに「理解の目が開かれた」と説明しています。すなわち,聖霊の助けを通して,目に見えない霊的なものが見えるようになったのです(教義と聖約110:1)。

Jesus Christ Appears to the Prophet Joseph Smith and Oliver Cowdery, by Walter Rane

Jesus Christ Appears to the Prophet Joseph Smith(「預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに御姿を現されたイエス・キリスト」)by Walter Rane.1836年4月3日,救い主は預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに御姿を現され,カートランド神殿を御自分の家として受け入れられました(教義と聖約110:1-7参照)。

復活された救い主がカートランド神殿で預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに現れたことで,主が次のように約束されたことが成就しました。「また,わたしの民が主の名によってわたしに一つの家を建て,……何であろうと清くないものがそこに入るのを許さなければ,わたしの栄光はそのうえにとどまるであろう。」(教義と聖約97:15-16

教義と聖約110:6-7。「わたしはこの家を受け入れた」

カートランド神殿の奉献式で,預言者ジョセフ・スミスは,「あなたがわたしたちに建てるようにお命じになった……この宮を受け入れてくださいますように」と主に嘆願しています(教義と聖約109:4教義と聖約109:78も参照)。イエス・キリストは,預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに現れた一週間後,次のように言われました。「すべての民の心を喜ばせなさい。……見よ,わたしはこの家を受け入れた。」(教義と聖約110:6-7

教義と聖約110:9-10。「幾千幾万の人の心が,……大いに喜ぶであろう」

イエス・キリストがカートランド神殿で預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに御姿を現されたとき,主は,エンダウメントの力と神権の鍵の授与によって「幾千幾万の人」の生活に広く影響があると宣言されました(教義と聖約110:9,16参照)。十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長(1924-2015年)は次のように説明しています。「〔1836年〕,主は『この家の名声は諸外国に広まるであろう』と預言されました(教義と聖約110:10)。当時の状況においては,それはとても起こりそうにないことでした。教会の会員は新天地の農村地域に散らばっている一握りの聖徒たちでした。しかしこれら初期の迫害,苦闘,試しにもかかわらず,現在は文字どおり世界中に教会が広がり,数万の宣教師が迎え入れられるすべての家に証を携えているのです。」(The Holy Temple [1980], 135)

ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は,カートランド神殿が後に建てられた神殿とどのように違うか次のように説明しています。

「カートランド神殿は神殿建設の歴史の中で特異な位置を占めています。それはほかの神殿とは異なります。カートランド神殿は主として権能の鍵の回復のために建設されました。これらの鍵が回復されて全き福音の儀式が明らかになるのです。……

カートランド神殿には死者の救いための設備はありませんでした。備えのための神殿だったため,バプテスマフォントはありませんでした。後に明らかにされたエンダウメントの儀式のための設備もありませんでした。しかしながら,それは神殿であり,その建設の目的を十分に果たしました。

カートランド神殿は奉献されたすぐ後に,その使命を果たしました。」(Doctrines of Salvation, comp. Bruce R. McConkie [1955], 2:242)

教義と聖約110:11-16

モーセ,エライアス,エリヤが神権の鍵を預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに委ねる

教義と聖約110:11-16。神権の鍵が預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに委ねられる

1836年4月3日のカートランド神殿でのイエス・キリストの示現に続いて,3人の古代の預言者,すなわちモーセ,エライアス,エリヤが預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリを訪れ,特定の神権の鍵を二人に委ねました。ラッセル・M・ネルソン大管長は,時満ちる神権時代における「万物の回復」(教義と聖約27:6)の一部として,これらの鍵がジョセフとオリバーに委ねられたことについて,次のように説明しています。

「神権の権能は多くの神権時代にありました。アダム,ノア,エノク,アブラハム,モーセ,時の中間,ヤレド人,ニーファイ人,そのほかの神権時代です。過去の神権時代は皆,それぞれ背教で終わり,期間が限られていました。また,地球上の狭い地域に限られていました。それに比べて,現在の神権時代,すなわち時満ちる神権時代は,時間や場所の限界がありません。地球規模で,すべてをつなぐ完全無欠の結束をもたらし,アダムの時代から現代に至るまでの神権時代と鍵,力,栄光を一つに統合するものです〔教義と聖約128:18参照〕。

アロン神権は,1829年5月15日にバプテスマのヨハネにより回復され,メルキゼデク神権はその後間もなく,ペテロ,ヤコブ,ヨハネにより回復されました〔ジョセフ・スミス—歴史1:72教義と聖約27:8,12参照〕。さらに,天の使者によりそれぞれの神権の鍵が与えられました。モロナイはモルモン書の鍵を持っていました〔教義と聖約27:5参照〕。モーセはイスラエルの集合と十部族の導きの鍵を持っていました〔教義と聖約110:11参照〕。エライアスは万物の回復をもたらす鍵を授けました〔教義と聖約27:6参照〕。アブラハムの聖約も含まれています〔教義と聖約110:12参照〕。そして,エリヤは結び固めの権能の鍵を授けました〔教義と聖約27:9110:13-16参照〕。

皆さんは鍵について御存じです。皆さんのポケットの中には,家や車の鍵があるかもしれません。他方,神権の鍵は触れることも見ることもできません。それは神権の権能の『スイッチ』を入れます。地上だけでなく天でも結ぶ力を与える鍵さえあります〔マタイ16:1918:18教義と聖約124:93127:7128:8,10132:46参照〕。

ジョセフ・スミスは十二使徒の全員に神権の鍵を授けました。鍵は代々の指導者に受け継がれてきました。今日,〔教会の大管長〕は,『創造の初めからいずれの時であっても神権時代を受けたすべての者』 〔教義と聖約112:31教義と聖約128:18も参照〕が持っていた,すべての回復された鍵に関する権能を持っています。」(「個人の神権の責任」『リアホナ』2003年11月号,45)

教義と聖約110:11。モーセとイスラエルの集合

預言者モーセは,預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリにイスラエルの集合の鍵を委ねました(教義と聖約110:11参照)。預言者ジョセフは以前に,自分が「この教会で戒めと啓示を受けるために任命され」「全教会を管理し,モーセのようである」と告げられていました(教義と聖約28:2107:91)。また,「モーセがイスラエルの子らを導いたように〔教会員〕を導く」ことになると言われました(教義と聖約103:16)。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように説明しています。「モーセはイスラエルの集合の鍵を持っていました。彼はイスラエルの民をエジプトからカナンの地へ導きました。この神権時代にあって,現代における集合のために地上に訪れてこれらの鍵を回復するのは彼の使命でした。」(Church History and Modern Revelation [1953], 2:48)カートランド神殿でモーセが預言者ジョセフ・スミスにイスラエルの集合の鍵を委ねてから間もなく,預言者はイスラエルの集合を助けるために世界に宣教師を送り出して,これらの鍵を行使し始めました。これらの宣教師の中には,1837年にイギリスに旅をして,2,000人近くにバプテスマを施したヒーバー・C・キンボール,オーソン・ハイド,そのほかの宣教師がいました。

教義と聖約110:12。エライアスと「アブラハムの福音の神権時代」

1836年4月3日のカートランド神殿での示現の間,預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリは,エライアスの訪れも受けて,「アブラハムの福音の神権時代」(教義と聖約110:12)に関連する神権の鍵を委ねられました。エライアスという称号は先駆ける者,すなわち,道を備えるために遣わされた者,また,回復する者として遣わされた者に与えられるものです(『聖書ガイド』「エライアス」scriptures.lds.org参照)。

artwork by Gary E. Smith, depicting Moses, Elias, and Elijah appearing in the Kirtland Temple(カートランド神殿に現れたモーセ,エライアス,エリヤを描いた作品)

1836年4月3日,モーセ,エライアス,エリヤがカートランド神殿で預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに現れた(教義と聖約110:11-13)。(Artwork by Gary E. Smith.

ブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,カートランド神殿に現れたエライアスの使命について次のように説明しています。「エライアスが携えてきたのは『アブラハムの福音』です。それは偉大なアブラハムの契約であり,忠実な者たちが永遠に増し加えられるという約束です。日の栄えの結婚を通して彼らの子孫が浜の真砂のように,また空の星のように増えるのです。エライアスは,アブラハム,イサク,ヤコブが古代において受けた約束を授けました。今の世の人々とその子孫によってあらゆる世代の人々が祝福を受けるという約束です。わたしたちは今,受けたいと思うすべての人々にこのアブラハム,イサク,ヤコブの祝福を差し上げています。」(「王国の鍵」『聖徒の道』1983年7月号,38)

教義と聖約110:13-15。エリヤと結び固めの力

預言者エリヤが「父の心をその子供たちに向けさせ,子供たちの心をその父に向けさせる」(マラキ4:5-6参照)ために地上に戻って来るという旧約聖書の預言は,1836年4月3日にエリヤがカートランド神殿に現れたことによって成就しました。大管長会のジェームズ・E・ファウスト管長(1920-2007年)は次のように教えています。

「カートランド神殿での偉大な示現の中で,預言者エリヤが預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに現れて,神殿の業の鍵と結び固めの力をジョセフ・スミスの手に委ねました〔教義と聖約110:13-14,16参照〕。この出来事により,エリヤが送られ『先祖の心を子孫に,子孫の心を先祖に向けさせ,全地がのろいをもって打たれることのないようにする』というマラキの預言が成就しました〔教義と聖約110:14-15参照〕。

この聖句はどういう意味でしょうか。心を先祖に向けるというのは,亡くなった先祖の名前を探し出し,先祖に代わって神殿で救いの儀式を行うことなのです。それによりわたしたちと,最終的には父アダム,母エバにまで連綿としてつながる先祖の間に,断ち切ることのできないきずなが築かれるのです。……

イエス・キリストの福音は,日の栄えの家族の組織が『完全なもの』すなわち『親子が次の世代の親子と結ばれ,時の終わりに至るまで伸びていく組織』であることを教えています(Joseph Fielding Smith, Doctrines of Salvation, comp. Bruce R. McConkie [1955], 2:175)。」(「自分という驚くべき存在」『リアホナ』2003年11月号,55)

ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように教えています。

「エリヤは先祖の心を子孫に,子孫の心を先祖に向けさせるために訪れました。

この出来事によって,世代間に生まれる自然な愛が豊かに育まれることになりました。この回復に付随するのがエリヤの霊と呼ばれているものです。言葉を換えれば,家族が神聖な起源を有していることを証する聖霊の現れです。」(「新たな収穫の時」『聖徒の道』1998年7月号,38)

わたしたちの心が先祖に向かうとき,わたしたちは先祖の身代わりの救いの儀式や彼らとの結び固めの儀式を行うために必要な情報を見つけたいと望むようになります。そうすることによって,預言者ジョセフ・スミスが次のように説明しているように,わたしたちはシオンの山において救う者となります。

「〔エリヤの来訪〕の目的は何でしょうか。 あるいはどのようにして果たされるのでしょうか。鍵が渡され,エリヤの霊が来て,福音が確立され,神の聖徒たちが集められ,シオンが築き上げられ,聖徒たちが救う者としてシオンの山に登らなければなりません〔オバデヤ1:21参照〕。

しかし彼らはどのようにしてシオンの山において救う者となるのでしょうか。神殿を建て,バプテスマフォントを築き,亡くなったすべての先祖のために行ってあらゆる儀式を受け,バプテスマ,確認,洗い,油注ぎ,聖任と結び固めの力をその頭に受けることによってです。そして先祖が第一の復活に出て来て,ともに栄光の座に上げられるように,彼らを贖うのです。ここに先祖の心を子孫に,子孫の心を先祖につなぐ鎖があり,これによってエリヤの使命が果たされるのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス」473

自分の先祖をはじめ,亡くなった人々の救いの業を行うにあたり,わたしたちは主の手の内で使われる道具となることができます。十二使徒定員会のリチャード・G・スコット長老(1928-2015年)は,死者の贖いの業に携わるために何ができるか考えるよう,わたしたち一人一人に次のように勧めています。

「わたしは,エリヤの霊が世界中にいる数多くの御父の子供たちの心に触れていることを証します。それによって,死者のための業が,前例がないほどの速さで進捗しています。

しかし,皆さんの方はどうでしょうか。自分自身の先祖の業について祈ったことがあるでしょうか。人生の中で大して重要でないことはわきに置いてください。永遠の結果をもたらすことを実行しようと決意してください。恐らく皆さんは,先祖を探し出そうという促しを受けたことがあることでしょう。でも自分は系図の専門家ではないと感じているのかもしれません。専門家である必要はありません。この業は,幕のかなたへ行って自分ではもうどうすることもできない人々を助けたいという愛と真心からの願いから始まるのです。あたりを見回してください。皆さんの周りには,皆さんの成功を願って助けてくれる人が必ず存在します。

この業は霊的な業であって,幕の両側で膨大な協力が求められている業です。また,どちらの側にいようと助けは与えられます。皆さんが世界のどこにいようとも,祈りと信仰と決意と勤勉さとにより,そして幾らかの犠牲を払うことにより,大きく貢献できるのです。今から始めましょう。わたしは皆さんに約束します。必ず主の助けがあって,皆さんは道を見いだせます。そして,それに従うことですばらしい気持ちを味わうことでしょう。」(「死者を贖う喜び」『リアホナ』2012年11月号,95)