第16章
教義と聖約42章
紹介とタイムライン
主は,ニューヨーク州に住む聖徒たちにオハイオ州への移動を命じ,そこで主の律法を受けると約束された(教義と聖約37:3;38:32参照)。ジョセフ・スミスがオハイオ州カートランドに到着して間もなくの1831年2月9日,12人の教会の長老たちが主に命じられたとおりに集まり,ともに祈った(教義と聖約41:2-3参照)。これらの教会指導者たちが成長し続ける教会について主の指示を求めたとき,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約42:1-72に記録されている啓示を受けた。2週間後の1831年2月23日,預言者は主にさらなる指示を求めた。ジョセフが受けた追加の指示は,教義と聖約42:74-93に記録されている。73節に記録された詳細事項は,後に教義と聖約が出版されたときに預言者によって追加された。これらの啓示は,合わせて「教会の律法」として知られている(教義と聖約42章前書き)。これらの啓示の中で,主は,教会員を導く霊と俗世にかかわる律法を導入された。貧しい者を助け,教会の様々な活動を財政的に援助し,オハイオ州にやって来る他の聖徒たちを支援するためだった。これらの律法は,まだ新しい教会に導きを与え,教会員がシオンの民となるための備えをする助けにもなった。
教義と聖約42章:追加の歴史的背景
預言者ジョセフ・スミスが1831年2月の初めにオハイオ州カートランドに到着したとき,ジョセフは,預言者の導きを得られない状況に置かれたカートランドの聖徒たちが,教会の教義と方針を完全に理解していないことを知りました。彼らは,霊的な現れ,聖徒の共同体としてともに暮らす方法,教会の指導者,および聖徒の集合が行われるべき方法に関する数多くの事柄に対して疑問と誤解がありました。
カートランドで新たにバプテスマを受けた教会員の中には,回復された福音を学ぶ前に「ファミリー」と呼ばれる共同体グループに所属していた人々がいました。このグループの慣行は,初期のキリスト教徒たちが「いっさいの物を共有」した(使徒2:44-45;4:32参照)という新約聖書の記述に基づくものでした。回復された教会の会員となった後も,これらの新しい改宗者の多くは,引き続き彼らの共同生活のシステムを実践していました。そのようなグループの一つが,カートランドの村の外に位置するアイザック・モーリーの農場に住んでいました。「〔1831年〕1月中旬にジョン・ホイットマーがニューヨークから訪れると,彼らのなすことが数々の問題を引き起こしていた。例えば,ヒーマン・バセットがリーバイ・ハンコックの持っていた懐中時計を売ってしまった。理由を尋ねられたヒーマンは,『ああ,それもファミリーの所有物だと思ったんですよ』と答えた。リーバイはそうした『ファミリーとしての行動』は受け入れることができないから,これ以上耐えようとは思わないと述べている〔Levi W. Hancock, ‘Levi Hancock Journal,’ Church History Library, Salt Lake City, 81〕。」(『時満ちる時代の教会歴史生徒用資料』〔教会教育システム手引き〕95参照)
カートランドに到着した預言者ジョセフ・スミスは,この問題ある経済システムについて知りました。ニューヨーク州から来た多くの教会員が,家を離れてオハイオ州の聖徒たちに加わるために大変な犠牲を払っていることをジョセフは知っていました。また,貧しい人々を助け,オハイオ州に集まりつつあった移住者たちを援助するには,教会に金銭,物資,および土地が必要となることも分かっていました。ジョセフは,東部からの聖徒の流入と,「レーマン人に近い境の地」(教義と聖約28:9)のミズーリ州におけるシオンの確立のために計画を立て始めました。
教義と聖約41:2-3に記録されている主の指示に従って,1831年2月9日,預言者ジョセフ・スミスと12人の長老たちが集まってともに祈り,主の律法を明らかにしてくださるよう主に嘆願しました。これらの兄弟たちは特に,次の5つの事柄について主に尋ねました:(1)様々な聖徒のグループが1か所に集まるべきか,それとも当分の間は離れたままにしておくかどうか,(2)教会を治め,統制するための神の律法はどのようなものか,(3)宣教師として奉仕するように召された人々の家族をどのように世話すべきか,(4)奉献の原則に基づいて生活する聖徒はどのように非会員に対応するべきか,(5)東部から到着する聖徒を世話するためにどのような備えをするべきか(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, ed. Michael Hubbard MacKay and others [2013], 246–47, note 42)。その答えとして,預言者は教義と聖約42:1-72に記録されている啓示を受けました。これは,主が最初の3つの質問について兄弟たちに与えられた啓示による答えをまとめ合わせたものです。残りの質問に対して明らかにされた答えは,教義と聖約の内容としては出版されませんでした。
2週間後の1831年2月23日,ジョセフ・スミスと7人の長老たちは,教会の律法を実施する方法に関してさらに主に質問しました。主は,長老たちに追加の指示をお与えになりました。この指示は2月9日の啓示に加えられ,現在教義と聖約42:74-93に記録されています。教義と聖約42:73に記録された詳細事項は,後に教義と聖約の出版準備が行われていたときに預言者によって追加されました。預言者ジョセフ・スミスは,以前に記録された啓示を明確化する,または主が明らかにしてくださったさらなる見解を反映させるため,それまでの啓示に対して時折変更または追加を行ったことに留意することが大切です。これらの霊感を受けた改訂は,啓示の絶えざる本質を示しており,以前の啓示を修正または明確化するという主と主の預言者の権利と権能の一例です。
教義と聖約42:1-29
主,福音を宣べ伝えるよう長老たちを召し,福音の教授について教え,聖徒のための律法と戒めを明らかにされる
教義と聖約42:1-3。「耳を傾けて聞き,……律法に従いなさい」
預言者ジョセフ・スミスは,教義と聖約42章に記録されている啓示を「教会の律法」と呼びました(教義と聖約42章前書き)。これらの啓示によって,ジョセフ・スミスとニューヨーク州に住む聖徒たちがオハイオ州に移住する戒めに従うならば,聖徒に主の律法を与えるという主の以前の約束が成就されました。この律法には,律法を受けるために集まった預言者と12人の長老たちの請願への答えとして,様々な事柄に関する主の教えが含まれています。主は,主が明らかにされた真理が「〔主〕の教会を治める〔主〕の律法」となることを宣言され(教義と聖約42:59),聖徒に「耳を傾けて聞き,……〔この〕律法に従いなさい」と命じられました(教義と聖約42:2)。
大管長会のジョージ・Q・キャノン管長(1827-1901年)は,教義と聖約42章について次のように教えました。「全体的に,これは非常に重要な啓示である。この啓示によって非常に多くの事柄が明らかになり,数多くの重要な問題に対する答えがもたらされた。忠実な男女は,主が御自身のものと認められ,この啓示が下されたときのように,霊感された預言者を通して主御自身の言葉を授けられる教会の会員であることを非常に喜んだ。」(Life of Joseph Smith the Prophet [1958], 109)
教義と聖約42:4-9。主,聖徒の集合についての指示をお与えになる
ニューヨーク州の教会員がオハイオ州に移住するよう命じられた後,教会の指導者たちは,オハイオ州北東部で増加しつつあるほかの会員たちもカートランドに移住するべきかどうか疑問に思いました。主は,聖徒が「新エルサレムの都」で「一つに集められ〔る〕」時が来るが,その時はまだ来ていないことを示されました(教義と聖約42:9)。しかし,その時が実際に来たとき,聖徒たちは新エルサレムに集まることによって,彼らが「〔神〕の民となり」,主が「〔彼ら〕の神となる」であろうという,古代イスラエルに対してなされた約束を成就することになります(教義と聖約42:9。出エジプト6:7;19:5-6;黙示21:2-3も参照)。
この集合を推し進めるため,長老たちはカートランドから出て行き,「二人ずつ組んで……福音を宣べ伝え」(教義と聖約42:6),信じる人が見つかった場所ならばどこにでも教会を築き上げるようにということでした(教義と聖約42:8参照)。福音を宣べ伝える人々は「御霊の力をもって出て行き」「〔イエス・キリスト〕の名によって……神の天使のように〔主〕の言葉を宣べなければならない」とされました(教義と聖約42:6)。宣教師と天使はどちらも同様の業を行っています。預言者モルモンは,天使の務めは「キリストの御言葉を告げ知らせることによって」「人を招いて悔い改めさせること」であると説明しました(モロナイ7:31-32)。
教義と聖約42:11。「権能を持っていること……が教会員に知られ〔る〕」
オリバー・カウドリ,パーリー・P・プラット,およびそのほかの宣教師たちがオハイオを離れた後,カートランド地域の新しい改宗者たちは強力な教会の指導者を欠いたまま残されました。これらの新会員の中には,ほかの宗教や文化に由来する伝統を守り,極端で愚かしい宗教的慣行に参加した人々がいました。大管長会のジョージ・A・スミス管長(1817-1875年)は後に,そのころの一部の教会員たちは,「天使を見ることができ,メッセージが天から降って来る……そして,彼らは不自然なひずみを経験させられる」と主張したと話しました(“Historical Discourse, Deseret News, Dec. 21, 1864, 90)。
預言者ジョセフ・スミスがカートランドに到着したとき,ジョセフは「何らかの奇妙な考えや偽りの霊が〔オハイオの聖徒〕たちの間にひそかに入り込んでいる」ことに気づきました(in History of the Church, 1:146)。教義と聖約42:11に記録されているように,主は,主によって正式に,召され任命されていない人が,教会の教師,指導者,または啓示者としての役割を担うことを禁止されました。主は,主の福音を宣べ伝え,主の教会を築く権能を授けられた人々は,「教会員に知られ」,「教会の長たちによって……聖任された」人であることを明確にされました(教義と聖約42:11)。十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長(1924-2015年)は次のように説明しました:
「世界のどこにあっても,教会の中央幹部や地元の指導者の名前や顔を明らかにすることには目的があります。それは,だれから学ぶかを知ることができるようにするためです。……
これまで多くの名前が提示され,支持の挙手がなされ,多くの証人の前で聖任や任命がなされ,多くの記録がつけられ,証明書が発行され,多くの場所で多くの写真が出版されてきたため,だれが正しい権能を持っているのか欺かれる人はいないのです。」(「こうした人々を避けなさい」『聖徒の道』1985年7月号,37参照)
「わたしたちはいつも,指導し,教える業にだれが召されるかを知らされ,その人を支持するか,あるいは反対するかを表明する機会を与えられます。この方法は,人によって考え出されたのではなく,啓示によって示されました〔教義と聖約42:11〕。……これによって,教会は,定員会やワード,ステーク,あるいは教会全体を支配しようとする偽り者から守られているのです。」(「教会の弱い者や純朴な者」『リアホナ』2007年11月号,6)
教義と聖約42:12-15。「『聖書』と……『モルモン書』の中にあるわたしの福音の原則を教えな〔さい〕」
主は,主の福音を教えるように召された人々は,聖文に書かれているとおりに「〔主の〕福音の原則を教えなければならない」と宣言されました(教義と聖約42:12)。この啓示が与えられた当時,増え続ける末日の啓示のほかに教会員が利用できる聖典は聖書とモルモン書しかありませんでしたが,最終的には,教義と聖約,高価な真珠,ジョセフ・スミスによる聖書の霊感訳を含むさらなる神の聖文が与えられます(教義と聖約42:15,56-58参照)。現在,教えるときに使うべき聖文は,標準聖典と呼ばれています。
ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,聖文が標準聖典と呼ばれる理由を次のように説明しました。「『標準聖典』は……福音の光が流れ出る,教義の貯水池です。それはあらゆる福音の教義を測る規準となります。ほかのすべての書籍,手引き,学習コースもこの標準聖典に記された主の言葉を土台とすべきです。」(“Cornerstones of Responsibility” [address given at the Regional Representatives’ seminar, Apr. 5, 1991], 1)
教義と聖約42:14。「御霊は信仰の祈りによってあなたがたに与えられるであろう」
霊感を受けた効果的な教え方は,神の子供たちが強められ,イエス・キリストの福音に改心する助けとなります。主は,教えるように召された人々には御霊が「信仰の祈りによって……与えられる」と約束され,御霊を受けていない人は「教えてはならない」ことを強調されました(教義と聖約42:14)。つまり,御霊がなければ,たとえ教師が効果的な教授法を用いていようと,真の福音学習は成り立たないということです。十二使徒定員会のL・トム・ペリー長老(1922-2015年)は,次のように述べました。「教師としての備えをするときにわたしたちを高め導いてくださる,神会の一員であられる聖霊を常に伴侶とできるのは,わたしたちにとって特権です。わたしたちは,『教えるときに,主の御霊により高められるよう主に請い願うなら,自信が増すであろう』という神の教えに従うことを通して自分自身を備えるべきです。わたしたちを導く御霊がともにあるとき,わたしたちは大いなる力で教えることができます。」(「力のかぎり神の御言葉を民に教える」『リアホナ』1999年7月号,8)
十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は次のように教えました。
「もしわたしたちが主の御霊の導きを受けるならば,相手の教育レベルにかかわらず,わたしたちはどんな人にでも,世界のどんな場所ででも教えることができます。主はわたしたち以上に何でも御存じなのですから,もしわたしたちが主の僕として,その御霊を受けて行動するのであれば,主があらゆる人々に一人残らず,主の救いのおとずれを伝えることをしてくださるはずなのです。
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように教えています。『人の霊に語りかける神の御霊は,天界の存在者と接して真理が与えられる場合より,はるかに効果的に分かりやすく真理を伝える力を持っている。聖霊によって真理は体の骨髄にしみ込み,忘れ去ることができないものとなる。』(Doctrines of Salvation, comp. Bruce R. McConkie, 3 vols. [1954–56], 1:47–48)」(「御霊によって教え,学ぶ」『リアホナ』1999年5月号,15-16)
教義と聖約42:18-29。「わたしの律法〔は〕わたしの聖文の中に与えられている」
教義と聖約42:18-29で,聖書とモルモン書の中に含まれている,主が古代イスラエルにお与えになった戒めまたは律法の多くを,主は再度採り上げておられます。主は聖徒たちに,主を愛する人々は主に仕え,主の戒めを守らなければならないことを思い起こさせられました(教義と聖約42:29参照)。
教義と聖約42:18。「この世でも来るべき世でも,赦しを得られない」
主が現代において再度確認された一つの律法は,「あなたは殺してはならない」という戒めです(教義と聖約42:18)。罪のない人の血を流した者,つまり殺人を犯した者は「この世でも来るべき世でも,赦しを得られ」ません(教義と聖約42:18)。それに加え,このような人は「引き渡〔され〕,その地の法律に従って処置」される必要があります(教義と聖約42:79)。
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は,殺人を犯す人は赦されないという主の警告について,次のように説明しました。「ヨハネは,罪には2種類あると言っています〔1ヨハネ5:16-17参照〕。一つは赦しを受けることができる罪です。もう一つは赦されることがないために死に至る罪です。殺人は後者に当たる罪の一つです。それは罪のない人の血を故意に流すものです。……全能者の憐れみは,イエス・キリストの贖罪を通して自分の罪を捨てるすべての人に差し伸べられ,すべての人を受け入れますが,故意に罪を犯す人は例外です。彼らはヨハネが言ったように『死に至る』のです。」(The Restoration of All Things [1945], 204–5)
『手引き 第2部:教会の管理運営』では,疑問を持つ人がいるかもしれないこの戒めに関連する二つの問題について,次の助言を提供しています。
「これまでの啓示によれば,人は堕胎の罪を悔い改めて赦しを得ることができる。」(21.4.1)
「自分の命も含めて,命を取ることは間違っている。しかしながら,自殺した人がその行為について責任を問われない場合もある。このようなことは神のみが判断されることである。」(21.4.14)
教義と聖約42:22。夫婦は「結び合わなければならない。その他のものと結び合ってはならない」
七十人のL・ホイットニー・クレートン長老は次のように説明しました。「わたしが見た最高に幸せな結婚では,『ともに愛をもって生活する』という〔教義と聖約42:45〕最高に幸せな戒めの一つに従順であることがすぐに分かります。夫たちに主は命じられました。『あなたは心を尽くして妻を愛し,妻と結び合わなければならない。その他のものと結び合ってはならない。』〔教義と聖約42:22〕教会手引きには次のように書かれています。『この戒めの「結び合う」とは,だれかに完全に献身し,誠実であるという意味である。結婚した男女は互いに仕え合い,愛し合うことによって,また互いと神に対して完全に忠実であるという聖約を守ることによって,神と結び合い,互いに結び合う。……〔夫も妻も〕独身生活に終止符を打ち,生活の最優先事項として夫婦関係を築き上げる。彼らは神と互いに対して交わした聖約を守ることよりも,他の人や関心事を生活の中で優先させることはない。』〔『手引き 第2部:教会の管理運営』1.3.1〕よく見て覚えましょう。成功している夫婦の愛は,互いへの完全な献身が伴う愛です。」(「結婚—よく見て覚えましょう」『リアホナ』2013年5月号,84-85)
教義と聖約42:23。情欲の結果
教義と聖約42:23にある「情欲を抱いて」とは,他人に向けて不義な性的欲望を持つことを意味します。聖文では,ある人が別の人を情欲をもって見るとき,それはあたかも「心の中ですでに姦淫をした」ようなものであることを明確にしています(マタイ5:28。3ニーファイ12:28;教義と聖約63:16も参照)。不純な思い,言葉,または行動は,御霊を失う結果となるだけでなく,最終的には「信仰を否定する」結果へとつながります(教義と聖約42:23;63:16)。サタンは,神の子供たちの霊的な力をむしばみ,滅びに導くために性的な欲望を用います。
L・ホイットニー・クレートン長老は次のように警告しました。
「現代にもポルノグラフィーという霊的なわなが存在します。その挑発的なメッセージに誘惑された多くの人が,命取りとなるわなに入っていきます。どんなわなもそうですが,このわなも入るのは簡単で,出るのは困難です。害を受けない程度に時折ポルノグラフィーを見るくらいなら大丈夫だと,正当化する人たちがいます。『そんなに悪くない』とか,『構うもんか,大したことないよ』とか,『どんなものかと思って』と,最初は言います。でも,それは間違いです。主はこう警告されました。『情欲を抱いて女を見る者は,信仰を否定するのであり,御霊を受けることはない。もしも悔い改めなければ,彼は追い出されなければならない。』(教義と聖約42:23)……
ポルノグラフィーを見ている人は,御霊だけでなく,広い視野に立って物を見る力と判断力を失います。……主には何も隠せないことを忘れて,……罪を覆い隠そうとします(2ニーファイ27:27参照)。自尊心を保てなくなり,大切な人との間にひびが入り,結婚生活に支障が出て,無実の犠牲者が増えるにつれて,結果が身に迫ってくるようになります。これまで見ていたものに満足できなくなると,さらに過激なものを試すようになります。やがて本人は気づかなくても,あるいはその現実を否定していても,ゆっくりとポルノグラフィーへの依存度は増していきます。そして……道徳の標準が崩れ去ると,行動はさらに悪化していくのです。」(「心の清い人々は皆,幸いである」『リアホナ』2007年11月号,52)
教義と聖約42:24-26。「あなたは姦淫をしてはならない」
夫と妻の間における性的な関係は,神聖な愛の表現であり,神がその子供たちにお与えになった最も崇高な力,すなわち命を創造する力の現れです。この力を適切に用いることは,天の御父の救いの計画の中核であり,その使用をつかさどる厳しい戒めを与えておられます。十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は次のように説明しました:
「男女間の結婚は,前世の霊が現世へ入るための承認された手段です。結婚前の禁欲,結婚後の貞節は,この神聖な手段を汚れから守るのです。
生殖の力には霊的に重要な意味があります。この力を誤って用いるならば,御父の計画と現世の生活の目的が損なわれます。創造主であられる天の御父と御子は,御二方の創造の力の一部をわたしたち一人一人に委ねられました。命を生み出す力を正しく用いるための特定の指針は,御父の計画の中で非常に重要な要素となっています。その神聖な力についてどう思うか,どう用いるかによって,現世における幸福と永遠の世における行く末がほぼ決定されるのです。……
末日聖徒イエス・キリスト教会には,性道徳という一つの不変の標準があります。性的な関係は神の計画の中で定められた婚姻関係を結んだ男女間でのみ認められています。そのような関係は単に好奇心や性欲を満たすためのものではなく,自分中心の娯楽や遊びでもありません。相手を征服するためのものでもなく,ただ行うものでもありません。それは現世の生活において人の神聖な特質や可能性を表す最高の方法の一つであり,夫婦間の情緒的,精神的きずなを強める一つの方法です。」(「わたしたちは純潔を信じる」『リアホナ』2013年5月号,42参照)
姦淫の罪はしばしば,不純な思い,または情欲の思いから始まります。ハワード・W・ハンター大管長(1907-1995年)は,次のように警告しました。
「主はどのような形であれ配偶者以外との親密な関係を禁じられ,主の教会はそれを罪であると定めています。男性の側の不貞は,妻の胸を張り裂けさせ,妻や子供からの信用を落とします(モルモン書ヤコブ2:35参照)。
思い,言葉,行いにおいて,結婚の聖約に忠実であってください。ポルノグラフィー,妻以外の女性との戯れ,不健全な妄想などは,本人の人格をむしばみ,幸福な結婚生活を根本から揺るがします。結婚生活における一致と信頼もそのために崩れ去ります。思いを抑制せず,心の中で姦淫をする人は,悔い改めなければ御霊がなくなり,信仰を否定し,恐れを抱くようになります(教義と聖約42:23;63:16参照)。」(『歴代大管長の教え—ハワード・W・ハンター』195)
教義と聖約42:30-55
主,奉献の律法の原則を与え,死と癒しに関して聖徒たちに勧告される
教義と聖約42:30-39。奉献の律法
ニューヨーク州での最後の教会の大会が開かれていた1831年1月2日,主は次のように教えられました。「各人がそれぞれ自分の兄弟を自分自身のように尊〔ぶ〕……ようにしなさい。」(教義と聖約38:24)これは,末日のシオンを確立するために聖徒を備える必要不可欠な原則となりました。預言者ジョセフ・スミスがオハイオ州カートランドに到着した後の1831年2月4日,主「が律法を授ける日に,その律法によって彼に定められるままにすべてのことを取り計らうため」に,エドワード・パートリッジを教会の最初のビショップとして召すよう預言者に指示されました(教義と聖約41:10)。5日後の2月9日,主はジョセフに奉献の律法の基本原則を明らかにされ,貧しい人と乏しい人の世話をして,主の教会を築き上げ,シオンを築くために主の民を備える主の計画について説明されました(教義と聖約42:30-39参照)。
奉献するとは,聖なるものとすることを意味し,神聖な目的のために,確保し,ささげることです。奉献は,わたしたちの所有物,時間,資源を神にささげ,喜んでそれらを神に差し出す行為です。奉献を通じて,イエス・キリストの真の弟子たちは貧しい人や乏しい人の世話をし,この地上に神の王国を築く助けを行うことができます。奉献は「すべての者はその隣人の益を図るように努め,また神の栄光にひたすら目を向けてすべてのことをなすようにしなければならない」という原則に基づいています(教義と聖約82:19。教義と聖約38:24-25も参照)。スペンサー・W・キンボール大管長(1895-1985年)は次のように説明しました。
「奉献とは,霊的面であれ,物的面であれ,助けを必要としている人のために,また主の王国の建設のために,自分の時間と才能と財産を提供することです。……
シオンとは,主の聖約の民に対して主より与えられた名前であり,清い心を持ち,貧しい者,乏しい者,悩む者に絶えず援助の手を差し伸べる人々のことです(教義と聖約97:21参照)。……
この神権に基づく最高の社会は,愛と奉仕,労働,自立,管理という教義の上に建てられています。そしてこれらはすべて,奉献の聖約の中に包含されるものです。」(「福祉活動:福音の実践」『聖徒の道』1978年2月号,119)
教義と聖約42章に記録されている教会の律法として知られる啓示の中で,主は教会員に「破ることのできない聖約と証書をもって」(教義と聖約42:30),それぞれの財産を奉献することで貧しい人々を助けるよう指示されました。大管長会のJ・ルーベン・クラーク・ジュニア管長(1871-1961年)は,主の民がそのような犠牲を喜んで払うべき理由を次のように説明しました。「〔奉献の律法〕についてのすべての啓示の基本的な原則は,わたしたちの財産はすべて主のものであるということにあります。したがって,主はいつでも,わたしたちの財産の一部もしくはすべてを求めることが可能です。なぜなら,それは主のものだからです。……(教義と聖約104:14-17,54-57)」(in Conference Report, Oct. 1942, 55)
奉献の律法は,教義と聖約の中で頻繁に言及されています(教義と聖約38章;42章;44章;48章;51章;54章;56章;58章;70章;72章;78章;82-85章;92章;96-97章;104-106章;119-120章;136章参照)。多くの節には,聖徒がこの律法を実施する助けとなる指示が含まれています。奉献の律法の原則が変わることはありませんが,その手順は異なる状況と必要に合わせて時折変更されてきました。ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,「犠牲の律法と奉献の律法はなくなってはいません。今もなお有効です」と述べました(Teachings of Gordon B. Hinckley [1997], 639)。今日,忠実な聖徒たちは,神を愛し,また自らの金銭,時間,およびそのほかの資源をささげて神の王国を築き,貧しい人や乏しい人の苦しみを和らげる援助のために努力をするときに,奉献の律法を守っています。十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は次のように教えました。
「次のように書かれています。『日の栄えの王国の律法に従えない者は,日の栄えの栄光に堪えられないからである。』(教義と聖約88:22)犠牲の律法は日の栄えの律法です。奉献の律法も同様です。したがって,わたしたちが心の底から望む日の栄えの報いを得るためには,これら二つの律法を守ることができなければなりません。……
わたしたちは常に奉献の律法のすべてを守り,この地上に主の王国を打ち建てるためにわたしたちの時間や才能,財産をすべてささげるように求められているわけではありません。……
しかしながら,聖典に記されていることは,わたしたちが日の栄えの救いを得るためには,一度そうするように求められたときは,その律法に完全に従うことができるようでなければならない,ということを意味しているのです。つまり,そうするように求められた範囲内でその律法を実践しなければならないということなのです。」(“Obedience, Consecration, and Sacrifice,” Ensign, May 1975, 50)
教義と聖約42:32-33。管理人の職
主は,教会初期の時代に奉献の律法を実施するための規範について示されました。家族は,「教会のビショップ,ならびに……顧問」に金銭と財産を提供することによって,それらの資源を教会に奉献するように指示されました(教義と聖約42:31)。主の代理人として奉仕するビショップはその後,各家族の「事情と入り用と必要」に基づいて家族に土地と財産の一部を配分することになっていました(教義と聖約51:3。教義と聖約42:32-33も参照)。この割り当ては「管理人の職」と呼ばれています(教義と聖約42:72)。このように,各家族に財産と資源が託され,これらの家族は個人的にそれらを所有し,選択の自由をもって管理することになりました。家族は主の資源の管理人として主に報告する責任を負い,主から託されたものに対して完全に責任を負っていたのです。家族の必要と入り用を超える余剰分はビショップの元に置かれ,「持っていない人々に……与えるために」使われました(教義と聖約42:33)。
教義と聖約42:34-35,55。主の倉
主が示された規範では,奉献された金銭や資源の「残余」,つまり余剰分は倉に保管されることになっていました(教義と聖約42:34。55節も参照)。ビショップは次に,「貧しい者と乏しい者に与えるため」(教義と聖約42:34),および教会用の土地の購入,礼拝の家の建築,「新エルサレムを築く」ことなどの,ほかの目的を達成するためにこれらの資源を使います(教義と聖約42:35)。今日,倉は次のように定義されています。「ビショップが末日聖徒からささげられるものを受け取り,保管し,貧しい人に配るための施設。倉はそれぞれの状況によって規模が異なる。忠実な聖徒は,才能や技術,物品,金銭を,助けが必要な貧しい人々のためにビショップにささげる。したがって倉は,労働奉仕や金銭,食糧,その他の日用品などを資源として備えることができる。ビショップは倉の代理人であり,必要に応じて,また主の御霊に導かれるままに様々な物品や労働奉仕を割り振る(教義42:29-36;82:14-19)。」(『聖句ガイド』「倉」の項,scriptures.lds.org)
教義と聖約42:40-41。「あなたは心の中で高ぶってはならない」
モルモン書の預言者モロナイは,末の日に神の子供たちが直面する霊的な試練について語りました。これらの問題の中には,「貧しい人と乏しい人,病人と苦しんでいる人」を顧みない一方で,「非常に華やかな衣服を着〔る〕」ことによって表される高慢があります(モルモン8:36-37)。回復された教会の初期の時代に,主は聖徒たちに「あなたは心の中で高ぶってはならない」と命じ,「あなたの衣服はすべて簡素で……あるようにしなさい」と言われました(教義と聖約42:40)。この指示は,教会員として,わたしたちが華美またはぜいたくな衣服を避けるべきであることを意味しているとも言えます。
十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,衣服や外見に関するわたしたちの選択について次のように教えました。「天の御父のすべての祝福と守りを求めるために皆さんにお願いします。イエス・キリストの福音の標準を守り,気まぐれな流行をやみくもに追うことはしないでください。着る物や外見について,教会が皆さんの道徳的な選択の自由を否定することは決してありません。しかし,教会は常に標準を宣言し,原則を教え続けます。」(「若い女性の皆さんへ」『リアホナ』2005年11月号,28参照)
教義と聖約42:42。「あなたは怠惰であってはならない」
神は神の子供たちに対し,働くように命じられました(教義と聖約52:39;56:17;モーセ4:25参照)。面倒くさがったり怠けている人は怠惰の罪を犯しており,主はこれを非難しておられます。ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,働くという福音の原則の重要性について次のように証しました:
「この地上において,生産的な労働に取って代わるものはありません。それは夢を実現する過程であり,実現していないビジョンを精力的に達成するための過程なのです。
多くの人間は生来怠惰です。働くよりは遊んだり,くつろいだりする方を好みます。少しばかりの遊びやくつろぎは良いものです。しかし,男性にとっても女性にとっても,人生に違いを生み出すのは労働です。働くことを通して,心は豊かにされ,技能も生かされ,高いレベルに到達することもできるのです。わたしたちが食べる食物,着る衣服,住む家を賄うのは労働です。個人として成長し,成功を収めたいと望むなら,一つの民として世の模範になろうとするなら,熟練した技術と教育を受けた知性による労働が必要であることは否定できません。
アダムとエバがエデンの園から追放されたとき,エホバはこのように言われたのでした。『あなたは顔に汗してパンを食べ,ついに土に帰る〔。〕』(創世3:19)」(「私は信じる」『聖徒の道』1993年3月号,5参照)
教義と聖約42:44,48。「死に定められていない者は,癒されるであろう」
人の現世での生涯の期間は,神によって支配されています。教義と聖約42:44,48は,癒しを必要とし,十分な信仰を持っており,「死に定められていない」人は癒されることを示しています(48節)。七十人のランス・B・ウィックマン長老は,次のように説明しました。「わたしたちは多くの場合『死に定められていない者』と限定している一文を見落としがちです(『または病気や障がいに』という言葉を付け加えることもできるでしょう)。熱烈な祈りをささげ,神権の祝福を施したにもかかわらず,愛する者が快復の兆しを見せなかったり,この世を離れたりすることがあっても,どうか望みを絶ってしまわないでください。できることはすべてやったのだと元気を出してください。そのような信仰,断食,祝福が無駄になることは決してありません。あらゆる手を尽くしても子供が快復しなかったという事実は,その子を愛するすべての人にとって平安と確信の基となり得ますし,そうあるべきなのです。主が,すなわち祝福を与え,すべての心からの祈りを聞かれる主が,それでもその子をみもとに呼ばれたのです。祈りをささげ,断食をし,信仰を表すこれらすべての経験は,その子のためよりも,むしろわたしたちのためであったかもしれないのです。」(「たといそうでなくても」『リアホナ』2002年11月号,30-31参照)
教義と聖約42:45-48。「わたしにあって死ぬ者は死を味わないであろう」
忠実に最後まで堪え忍ぶ人たちにとって,死は「彼らにとって甘い」ものですが,反抗的で悔い改めない人たちの場合,「彼らの死は苦い」と知ることになるでしょう(教義と聖約42:46-47)。これは,義人が肉体的な苦痛を受けないという意味ではなく,悪人が死ぬときに経験する霊的な苦痛を免れるということです。十二使徒定員会のロバート・D・ヘイルズ長老(1932-2017年)は,この原則を次のように説明しました。
「数か月前,わたしは不治の病を宣告された男性と会う機会がありました。彼は献身的な神権指導者でしたが,死すべき世の現実に直面していました。ところが彼は,主の祈りの中で示された救い主の模範に,力を見いだしていました。『だから,あなたがたはこう祈りなさい,……みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように。』(マタイ6:9-10)……
つらい試練と苦しみの中で,わたしの友人は『みこころが行われますように』という言葉を受け入れるようになりました。……
……彼がいかに生涯を通じて忠実であるように努め,神に求められたことを果たし,友人をはじめ,すべての人々と正直に交際し,家族の世話をして彼らを愛してきたか,わたしたちは話し合いました。これがほんとうの最後まで堪え忍ぶことの意味ではないでしょうか。死の直後に起きること,霊界についての神の教えについても意見を交換しました。霊界は義にかなった生活を送ってきた人々にとってパラダイスであり,幸福な場所であって,恐ろしい所ではありません。
話し合いの後,彼は奥さんと親族—子供や孫たち—を周囲に集めて,もう一度,すべての人がよみがえるという贖罪の教義を教えました。主が教えられたように,しばらくの別れの間は嘆きもあるかもしれませんが,主にあって死ぬ者には悲しみはない(黙示14:13;教義と聖約42:46参照)ということが,皆分かるようになりました。……彼は翌日の午後に,家族全員が見守る中で,安らかに息を引き取りました。これが,福音の計画を理解し,家族が永遠であることを知っているわたしたちに与えられる,平安と慰めです。」(「永遠の家族」『聖徒の道』1997年1月号,74-75)
死と同様に,人の死を悲しむことも現世の一部です。わたしたちは,家族と友人に対して強い愛情を経験することができますが,愛する人が亡くなるときには深い悲しみと心の痛みも感じます。ラッセル・M・ネルソン大管長は,愛する人の死を悲しむことは自然でふさわしいことであると説明しました。
「わたしたちは愛する人を失ったとき,その人の年齢にかかわらず,悲しみを覚えます。悲嘆は,純粋な愛の深い表現の一つです。それは,『あなたは死ぬ者を失うことで涙を流すほどに,……ともに愛をもって生活するようにしなければならない』という神の戒めを全うする自然な反応なのです(教義と聖約42:45)。
さらに,この涙の別離があるからこそ,後に起こる喜びの再会を心から感謝できるのです。人生に愛があるかぎり,死の悲しみは避けられないのです。」(「死の扉」『聖徒の道』1992年7月号,77)
教義と聖約42:56-93
主,聖徒たちにさらなる律法を与えられ,主の律法を実施する方法をお教えになる
教義と聖約42:56-58。「あなたは求めなければならない。そうすれば,……わたしの聖文が与えられるであろう」
カートランド地域の住居に落ち着いた後,預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは聖書の霊感を受けた改訂,つまり「翻訳」を続けました。教義と聖約42:56に示されているように,預言者は,一つの言語の言葉を別の言語の言葉に変換するという従来の翻訳手順には従いませんでした。むしろ,ジョセフは祈りを通して主の導きを求め,主はそれに応じて指示を与えられました。
主は,聖徒が「〔主の聖文〕すべてを受ける」ときに「すべての人に教えなければならない」とも言われました(教義と聖約42:57-58。教義と聖約42:15も参照)。預言者ジョセフ・スミス,シドニー・リグドン,およびフレデリック・G・ウィリアムズからミズーリ州の教会指導者たちへの1833年7月2日付けの手紙には,「わたしたちは今日,聖文の翻訳を終了しました。そのことにわたしたちは天の御父に感謝をささげました」と書き記されていました(in History of the Church, 1:368)。1979年以降の末日聖徒版欽定訳聖書の学習ヘルプには,聖書のジョセフ・スミス訳から何百もの節が含まれています。それ以来,聖書のジョセフ・スミス訳からの抜粋は,数多くの言語で聖典の学習ヘルプから教会員が利用できるようにもなり,聖文を「すべての国民,部族,国語の民,民族に」教えるようにという(教義と聖約42:58)主の戒めを果たすために役立っています。
教義と聖約42:60-62,65。「啓示の上に啓示……を受け〔る〕……であろう」
主は,主の律法に従う者はますます多くの神の啓示と知識を得て,「数々の奥義……を知ること」にさえもなると約束されました(教義と聖約42:61)。デビッド・A・ベドナー長老は次のように教えました。
「啓示の霊は,正しい神権の権能によって救いの儀式,すなわち罪の赦しのために水に沈めるバプテスマと聖霊の賜物を授かるための按手を受け,『聖霊を受けなさい』という神権の命令を,信仰をもって果たすすべての人に与えられます。この祝福は教会の管理役員に限定されてはいません。これは責任を負える年齢に達し,神聖な聖約を交わしたすべての男女や子供の生活の中で働くはずのものです。心からの望みとふさわしさは生活に啓示の霊を招きます。……
……ほとんどの場合,啓示は時間をかけて少しずつもたらされ,わたしたちの望み,ふさわしさ,準備の度合いに応じて与えられます。天の御父からのそのようなメッセージは少しずつ,優しく『天からの露のように〔わたしたち〕の心に滴る』ものです(教義と聖約121:45)。……
教会の歴史にも,わたしたちの生活にも,『教えに教え,訓戒に訓戒を加えて』啓示を受けるという主の規範の例はたくさんあります〔2ニーファイ28:30〕。例えば,回復された福音の基本的な真理は聖なる森で預言者ジョセフ・スミスに一度に伝えられたのではありませんでした。それらの貴い宝は,状況が整ったとき,時宜にかなっているときに明らかにされました。」(「啓示の霊」『リアホナ』2011年,5月号,87-88)
ダリン・H・オークス長老は,今もなお絶えざる啓示の探求において,継続的な啓示と常時与えられる啓示との違いを理解しなければならないと教えました。
「主は御自身の時に,御自身の方法に従って,御霊を通して語られることを知る必要があります。……
……わたしたちは導きを求めて継続的に祈りますが,啓示が常時与えられることを期待するべきではありません。わたしたちは啓示が継続的に与えられると考えています。これは,わたしたちが導きを求め,知恵と愛に満ちておられる主が与えようとされるときはいつでも,継続的に啓示が与えられると期待できるということです。」(「主御自身の時に,主御自身の方法に従って」『リアホナ』2013年8月号,24,29)
教義と聖約42:74-93。主の律法が教会を治める
教義と聖約42:1-72に記録されている啓示が与えられた後,教会の指導者たちは,神の律法に背いた教会員に対処する方法について,さらに疑問を持ちました。2週間後の1831年2月23日,教義と聖約42:74-93に記録された啓示が与えられました。主は,教義と聖約42章にあるとおり,教会の「律法」は「教会を治める」ためにあると宣言されました(教義と聖約42:59)。さらに,教会員は「教会のすべての戒めと聖約を守るように努めなければならない」とも言われました(教義と聖約42:78)。
教義と聖約42:88。「もしあなたの兄弟または姉妹があなたに対して罪を犯すならば」
デビッド・A・ベドナー長老は,だれかがわたしたちを傷つけるときにどのように対応すべきかについて説明しました。
「だれもが時には,何らかの形で,教会のだれかから傷つくようなことをされたり,言われたりすることでしょう。そのような出来事はだれにでも必ず起こり得ます。しかも一度限りではありません。悪気はないのかもしれませんが,それでもなお,配慮と思いやりに欠けるかもしれません。
あなたもわたしも,他人の思いや行動をコントロールすることはできません。しかしながら,どのように受け止めて行動するかを決めるのは自分なのです。あなたもわたしも,選択の自由を授けられた,自分から作用する存在であり,傷つかないことを選ぶことができるのです。……
興味深いことに,『あなたがたも完全な者となりなさい』〔マタイ5:48〕との勧告は,不当な扱いや攻撃に対してどのように反応するべきかという教えのすぐ後に与えられています〔マタイ5:43-44,46参照〕。このことから,聖徒を完全な者へと導くための厳しい要求には,わたしたちを試すための課題が含まれていることがはっきりと分かります。もしもある人が気分を害することを言ったり行ったりした場合,わたしたちの最初の責任は,腹を立てないことであり,次にその人と個人的に,率直に,直接話し合うことです。そのような対処の仕方は,御霊の導きを招き,誤解を解消してほんとうの意図を理解できるようにしてくれます。」(「何ものも彼らをつまずかすことはできません」『リアホナ』2006年11月号,91-92参照)