第24章
教義と聖約64-65章
紹介とタイムライン
1831年8月27日,預言者ジョセフ・スミスと数人の長老たちは,シオン,すなわちミズーリ州インディペンデンスへの旅からオハイオに戻った。ミズーリを行き来する旅の間,長老たちの中にはお互いに意見の相違がある者もいたが,ほとんどは争いの気持ちを鎮めた。9月11日,預言者は教義と聖約64章に記録されている啓示を受けた。この啓示で,主は,教会員にお互いを赦すように命じ,また,主が末日における聖徒たちに求める犠牲について教えられた。
1831年9月,ジョセフ・スミスとその家族はオハイオ州カートランドから約48キロ南東のオハイオ州ハイラムに移った。1831年10月30日,ジョセフは教義と聖約65章に記録されている啓示を受けた。この啓示の中で主は,再臨に備えて福音があらゆる国に行き渡ること,また聖徒は神の王国の発展のために祈るべきであることを教えられた。
教義と聖約64章:追加の歴史的背景
エズラ・ブースは,1831年に教会に入る前はメソジスト派の牧師でした。1831年の夏に主が教会指導者やそのほかの人々にミズーリへ行くように命じられたとき,エズラ・ブースと彼の同僚宣教師であるアイザック・モーリーは,「途中で御言葉を宣べ伝えながら」ミズーリまで歩いて行くように主から召された長老たちの中にいました(教義と聖約52:23)。エズラは,預言者ジョセフ・スミスとそのほかの教会指導者たちが舟や駅馬車でミズーリまで旅をしていることを知ったとき,これは不公平だと考えました。ミズーリに到着したとき,エズラ・ブースを含む長老たちの何人かは,その土地の様子とインディペンデンスという辺境の町における改宗者の不足に失望しました。エズラはまた,ジョセフ・スミスは預言者らしい振る舞いをしていないと感じました。なぜなら,ジョセフは「陽気で軽率,気が短く,いつも冗談を言ったりふざけたり」していたからでした(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 2: July 1831–January 1833, ed. Matthew C. Godfrey and others [2013], 60, note 332)。長老たちに与えられた啓示(教義と聖約60:8参照)に反して,エズラ・ブースとアイザック・モーリーは途中で御言葉を宣べ伝えながらではなく,舟と駅馬車でオハイオに素早く戻りました。
オハイオに到着した後,エズラ・ブースは預言者ジョセフ・スミスと教会に公然と反対するようになりました。教会の指導者たちは,1831年9月6日にエズラ・ブースに対して行動を起こし,彼の福音を宣べ伝える権能を取り消しました。その後間もなく,エズラは,預言者と教会に対して批判的な一連の手紙を書き始め,それは『オハイオ・スター』新聞に掲載されました。また,この期間中,主の命令に応じて,オハイオの何人かの兄弟たちがミズーリへの移動に備えていました。1831年9月11日,ジョセフ・スミスは教義と聖約64章に記録されている啓示を受けました。翌日,預言者とその家族はオハイオ州のカートランドからハイラムに移りました。
教義と聖約64:1-19
主はわたしたちを快く赦すことを断言するとともに,互いに赦し合うよう命じられる
教義と聖約64:1-7。「主なるわたしは,わたしの前に自分の罪を告白して赦しを求める者たち……については罪を赦す」
ミズーリに旅をして戻って来た兄弟たちの中には,あら探しや論争の罪を犯している人がいました。主は,彼らの罪を赦すことによって,大いなる思いやりと憐れみを示されました。預言者ジョセフ・スミスも罪を犯し,赦された人でした。しかし,主は,預言者を批判していた人々が「理由もなく」(教義と聖約64:6)そうしていたことを明らかにされました。「〔主〕の前に自分の罪を告白して赦しを求める者たち」の罪を赦してくださると主は述べられました(教義と聖約64:7)。
十二使徒定員会のリチャード・G・スコット長老(1928-2015年)は,赦しを得るためには告白が必要であることを次のように説明しています。「皆さんは自分の罪をいつも主に告白する必要があります。不道徳のような重大な背罪であれば,ビショップやステーク会長に告白しなければなりません。しかし,ぜひ理解していただきたいのは,告白が悔い改めそのものではないということです。告白は,確かに欠くことのできない段階ですが,それだけでは不十分なのです。小さな過ちだけに触れた部分的な告白は,もっと重大な,隠れた罪を取り除く助けとはなりません。赦しに不可欠なのは,行ったすべてのことを,自発的に主に,また必要な場合は主に召された判士である神権指導者に,すべて打ち明けることなのです。次の言葉を覚えておいてください。『その罪を隠す者は栄えることがない,言い表わしてこれを離れる者は,あわれみをうける』〔箴言28:13〕。」(「赦しを得る」『聖徒の道』1995年7月号,82)
教義と聖約64:7。死に至る罪とはどういう意味か
「〔主〕の前に自分の罪を告白して赦しを求める者たちで,死に至る罪を犯していない者たちについては罪を赦す」と主は約束されました(教義と聖約64:7)。十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,次のように説明しています。「福音の光と真理に背を向ける者。サタンに身を委ねる者。サタンの大義に加わり,それを助け支持しする者。死に至る罪の道をたどることによってサタンの子供たちになる者。彼らには悔い改め,赦し,そしてあらゆる種類の救いという希望がありません。サタンの子供として,彼らは滅びの子なのです。」(Mormon Doctrine, 2nd ed. [1966], 737。マタイ12:31-32;ヘブル10:26-27;1ヨハネ5:16-17;アルマ5:41-42も参照)
滅びの子とは,かつて真理についての強い証を持っていながら,後に活発でなくなり,福音の原則に従った生活をやめてしまった教会員とは異なると言及することは大切です。滅びの子らは,聖霊を否定するという赦されない罪を犯してしまったのです。彼らは神に完全に背を向け,イエス・キリストの犠牲によって贖われることを断るので,彼らにとってそれは「あたかも贖いがなかったかのようで〔す〕」(モーサヤ16:5)。滅びの子は,霊の死,すなわち第二の死から贖われることができないので,彼らの罪は「死に至る」罪です(教義と聖約64:7)。
教義と聖約64:8-11。「あなたがたは互いに赦し合うべきである」
主の赦しを受けた教会の指導者と長老たちは,自らもほかの人々を赦すようにと指示されました。主は,現世における務めの間,弟子たちが「互いに機をうかがい合い,またその心の中で互いを赦さなかった」と説明されました(教義と聖約64:8)。上辺だけの赦しでは十分ではありません。主は「人の子らの心を」求められます(教義と聖約64:22)。大管長会のディーター・F・ウークトドルフ管長は,赦しを示すことがわたしたちの霊的成長にとって不可欠な理由を次のように説明しています。
「人の過ちを赦すことは,赦しを受けるための前提条件なのです。
わたしたち自身の徳のためにも,わたしたちには,人を赦し,赦しを求める勇気が必要です。人を赦す心ほど,気高く勇敢な心はほかにありません。これには自分を赦すことも含まれます。
わたしたちは皆,神の御言葉により,寛容と憐れみの心を示し,互いに赦し合うよう戒められています。こうしたキリストのような特質が,家族や結婚生活,ワードやステーク,地域社会そして国の中で大いに求められています。
わたしたちが,赦しに伴う喜びを人々に惜しみなく与えるならば,わたしたち自身の生活にもその喜びがもたらされます。口先だけの悔い改めでは不十分です。心や思いの中から辛辣な気持ちや思いを追い払い,キリストの光と愛を招き入れる必要があります。結果として,主の御霊は,神から与えられる良心の安らぎに伴う喜びで,わたしたちの魂を満たしてくれるでしょう(モーサヤ4:2-3参照)。」(「帰還可能点」『リアホナ』2007年5月号,101)
教義と聖約64:15-16。エズラ・ブースとアイザック・モーリー
エズラ・ブースとアイザック・モーリーは,同僚宣教師としてミズーリに旅をして戻って来るよう主によって割り当てを受けていました。彼らは「途中で御言葉を宣べ伝えながら」歩いて旅をしなくてはなりませんでした(教義と聖約52:23。教義と聖約42:6-8も参照)。彼らはミズーリへ旅の往路は嫌々ながらもそれに従いましたが,オハイオへの復路ではそうするのを避けました。教義と聖約64:15-16から,エズラ・ブースとアイザック・モーリーは,「彼らが律法も戒めも守らなかった」うえに「彼らは心の中で悪を求めた」ため,御霊の祝福を失ったことを学びます。
主がアイザック・モーリーを赦したと宣言されたことから,彼はすぐに悔い改めたのだと思われます(教義と聖約64:16参照)。アイザックはその後,自分の農場を売るようにという主の命令に従いました(教義と聖約63:38-39;64:20参照)。それから後,彼は家族とともにミズーリに移り,そこでエドワード・パートリッジビショップの顧問を務めました。しかし,エズラ・ブースは悔い改めず,自らの疑念と批判的意見によって引き続き完全な背教への道をたどることになりました。
教義と聖約64:20-43
主はシオンを確立するための要件をお与えになる
教義と聖約64:21-22。「5年の間,カートランドの地に一つのとりでを保持したい」
一部の聖徒はミズーリに移るよう命じられましたが,フレデリック・G・ウィリアムズのように,ほかの人々はオハイオ州カートランドに留まることになりました。主は,カートランドが少なくともさらに5年間,教会の「一つのとりで」となると約束されました(教義と聖約64:21)。この約束は成就し,その期間中にカートランド神殿が建設されて奉献され,天の使者によって預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに神権の鍵が回復され,聖徒に霊的な祝福が大いに注がれました。しかし,1837年には,カートランドの教会員の間に問題が生じ,多くの人々が背教しました。ジョセフ・スミスは1838年1月にカートランドを去り,ミズーリに行きました。カートランドに残った忠実な聖徒の大半は1838年7月までにそこを去りました。
教義と聖約64:23-25。「今日と呼ばれるうちに働く」
主は,教義と聖約64章が与えられたときから再臨までの期間を指すために,「今日」という言葉を用いられました(教義と聖約64:23参照)。主の視点から見ると,今日は「各自の務めを果た」し,「神にお会いする用意をする」時期である「現世」を指しています(アルマ34:32。アルマ34:31,33-35も参照)。教義と聖約64:24では,「明日」という言葉は,悪人の滅びとイエス・キリストの再臨の時を指しています。
大管長会のヘンリー・B・アイリング管長は,「今日」主に仕えることの重要性について次のように教えています。
「聖文には,引き延ばすことの危険性がはっきりと書かれています。もう時間がないことに気づく時が来るのです。今日という宝物を与えてくださる神から,その時間をどのように使ったかを報告するように求められます。明日悔い改めよう,明日主に仕えようと思いながらもその日は決して訪れず,行うことを夢見ながらもその機会が去ってしまうなら,わたしたちは涙を流し,主も涙を流されることでしょう。『今日』という日は神からの大切な贈り物なのです。『いつかやろう』という思いは,時という機会と永遠の祝福を奪い去ってしまいます。……
贖いによってわたしたちの性質が変えられ,永遠の命を受けるに足りるほど,自分が十分に仕えたかどうかを知るのは難しいことです。また,あとどのくらい仕えたら,そのような大きな変化が起きるのかも分かりません。しかし,時間を無駄にしないかぎり,時は十分与えられていることは分かります。……
自分の置かれている状況に落胆し,今日主に仕えることはできないと感じている皆さんに,わたしは二つの約束をします。今日の状況がどんなに悪く思えても,もし皆さんが心のすべてをささげて今日主に仕えることを選ぶなら,明日はもっとよい状況になっていることでしょう。……
もう一つの約束は,今日主に仕えることを選ぶなら,主の愛を感じ,さらに主を愛するようになるということです。」(「『今日』という日」『リアホナ』2007年5月号,89-91)
教義と聖約64:23-24。「什分の一を納める者は,主の来臨の時に焼かれないであろう」
教義と聖約64章に記録された啓示の中でニューエル・K・ホイットニー,シドニー・ギルバート,アイザック・モーリー,フレデリック・G・ウィリアムズ,およびそのほかの人々に与えられた指示には,神の王国を築く助けとなるための個人の財産と労働に関する詳細が含まれていました。教義と聖約64:23の什分の一という言葉は,収入の割合ではなく,特に奉献の律法の下における,教会に対する聖徒たちのすべてのささげ物を指しています。主は,犠牲の律法と奉献の律法に従った人々は,終わりの時に悔い改めない者を滅ぼす焼き払いから免れることを約束されました。わたしたちが現在理解している什分の一の律法は,主が教義と聖約119章に記録された啓示を与えられた1838年に,さらに明らかにされました。
什分の一の詳細については,本書の教義と聖約119:1-4の解説を参照してください。
教義と聖約64:26-30。シドニー・ギルバートとニューエル・K・ホイットニー
シドニー・ギルバートとニューエル・K・ホイットニーは,主の業務の「代理人」として「主の用向き」を務めるよう召された共同経営者でした(教義と聖約64:29)。ミズーリ州インディペンデンスとオハイオ州カートランドにある商店は,やがて奉献の律法の原則の下で運営される主の倉として機能することになります(教義と聖約78:3参照)。主はシドニーとニューエルに,敵に対して負債を抱えないようにと警告されました(教義と聖約64:27参照)。
トーマス・S・モンソン大管長は,主の用向きを受けるすべての人はふさわしくあるべきことを次のように思い起こさせています。「わたしたちは模範となるよう求められています。今日の世で最も偉大な力は神の力であり,神の力は人を通して現れるという真理は,わたしたちを強めてくれます。……わたしたちは主の用向きを受けているなら,主の助けを受ける権利があります。その真理を決して忘れないでください。この神の助けは,言うまでもなく個人のふさわしさに基づいて与えられます。わたしたちは皆,こう尋ねる必要があります。『わたしの手は清いだろうか。わたしの心は純真だろうか。わたしはふさわしい主の僕だろうか。』」(「義の模範」『リアホナ』2008年5月号,65)
教義と聖約64:31-33。「小さなことから大いなることが生じるのである」
預言者ジョセフ・スミスとそのほかの教会指導者たちは,恐らく,オハイオで成長する教会の必要を満たし,ミズーリにシオンを築くために直面している課題に圧倒されていたでしょう。エズラ・ブースをはじめ一部の会員は,シオンの確立が期待していたほどすぐに行われなかったことで心配をしていました。しかし,主は,これまでに宣言したことのすべてが最終的に成就することを約束されました(教義と聖約64:31参照)。主は疲れた聖徒たちを,彼らが「一つの大いなる業の基を据えつつある」ことを理解できるよう助けることで励まされました(教義と聖約64:33)。そのような神の目から見た視点は,恐らく,聖徒が新たな自信とエネルギーをもって前進する助けとなったでしょう。
個人的な能力に対して弱気になったり,神の王国を築く助けをする機会について消極的になったりするのは珍しいことではありません。七十人のブルース・D・ポーター長老(1952-2016年)は次のように述べています。
「わたしたちは主の王国を築くために,家から遠く離れた所で奉仕するよう召される必要もありませんし,教会や世の中で高い地位に就く必要もありません。わたしたちは,自らの生活の中で神の御霊を得ようと努力するときに,自分自身の心の中に主の王国を築くのです。子供たちに信仰を植え付けるときに,自らの家族の中に主の王国を築きます。また,教会の組織を通して,自らの召しを尊んで大いなるものとしたり,隣人や友人と福音を分かち合ったりするときに,主の王国を築きます。
刈り入れを待つばかりの畑で働く宣教師もいれば,家庭という畑で働き自分の住むワードや地域社会で王国を強める人もいます。初期の時代から,主の教会は謙遜にまた献身的に,召しを尊んで大いなるものとする普通の人々の手によって築き上げられてきました。『まったく勤勉に』働いてさえいれば(教義と聖約107:99),どのような職に召されているかは重要ではありません。近代の啓示の中に,次のような御言葉があります。『善を行うことに疲れ果ててはならない。あなたがたは一つの大いなる業の基を据えつつあるからである。そして,小さなことから大いなることが生じるのである』(教義と聖約64:33)。」(「王国を建設する」『リアホナ』2001年7月号,97-98参照)
教義と聖約64:34-36。「主は心と進んで行う精神とを求める」
主は,この世あるいは次の世におけるシオンの地で受け継ぎを受けるために,御自分の民が喜んで主の律法に従うよう求めておられます(教義と聖約38:17-20;58:44;63:20,49;64:34;88:17-20参照)。福音のもとに集まり,この世におけるシオンの地で受け継ぎを与えられたものの,その後,神と交わした聖約を破り,「背く者」は,彼らの受け継ぎの地から「追い出され〔る〕」か「抜き取られる」でしょう(教義と聖約64:35-36。申命28:63-64も参照)。主は聖徒たちに,「心と進んで行う精神」をもって神に仕える人々は,終わりの時にシオンの祝福を享受することを思い出させられました(教義と聖約64:34)。
七十人会長会のドナルド・L・ホールストロム長老は,「心と進んで行う精神」をもって神に仕えることの重要性を次のように説明しています。
「わたしたちが心を尽くして主を愛するなら,所有するすべてのものを喜んで主にささげます。ニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は次のように述べています。『自分の意思をささげることが,実にわたしたちが持っているものの中で神の聖壇に置くことができる唯一の個人的なものです。……わたしたちが行うほかの多くのささげ物は,……実際は神から頂いたか,借りたものにすぎません。しかし,わたしたちが,自分の意思を神の御心に完全に従わせることによって,自分自身を神に従わせ始めたとき,初めて真のささげ物をしていると言えるのです』〔‘Sharing Insights from My Life,’ in Brigham Young University 1998–99 Speeches (1999), 4〕。……
『進んで行う精神』〔教義と聖約64:34〕を持つことは,最善の努力と最高の考えをもって神の知恵を求めるという意味を含みます。それは,わたしたちの最も献身的な生涯学習は,本質的に永遠のものでなければならないことを示唆しています。それは,神の言葉を聞くこととそれに従うことの間に切り離せない関係がなければならないことを意味します。
使徒ヤコブは次のように述べています。『御言を行う人になりなさい。……ただ聞くだけの者となってはいけない』(ヤコブの手紙1:22)。
わたしたちの中には,選択的に「聞き」,都合のよいことだけを『行う』人もいます。しかし,主に心と思いをささげる者にとっては,負担が軽いか重いかに違いはありません。どんなに困難な状況であっても,神の戒めに一貫して従うことによって,心と思いを奉献することを示します。」(“The Heart and a Willing Mind,” Ensign, June 2011, 31–32)
教義と聖約64:35-36。「背く者はエフライムの血統に属さない」
エフライムは,旧約聖書に書かれている,名がイスラエルに変わった預言者ヤコブの孫でした。エフライムは長子の祝福を受けました(創世48:20参照)。「エフライムの血統」(教義と聖約64:36)という言葉は,(1)エフライムの文字どおりの子孫である者,(2)イスラエルの家の者ではないが,回復された教会に入るためのバプテスマを通して,エフライムの部族の養子となった者を指します。信仰を持つ従順な教会員だけがエフライムの血統であると見なされます。背く者は,エフライムの文字どおりの子孫であっても,シオンで受け継ぎを受けることはありません(教義と聖約64:35-36参照)。
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は,エフライムの長子の特権の重要性と,エフライムの子孫が末日にほかの人々を祝福しなければならない責任について次のように説明しています。「この神権時代にエフライムは,啓示によって与えられたイスラエルの長子の特権を行使して,自らの地位に頭として立たなければなりません。したがって,まずエフライムが集められ,イスラエルの残りの支族がシオンに集められる時のために,エフライムが福音と神権の力により道を備えなければならないのです。」(Doctrines of Salvation, comp. Bruce R. McConkie [1956], 3:252)
教義と聖約65章:追加の歴史的背景
ジョセフとエマ・スミスは,主がアイザックに農場を売却するよう命じられたとき,アイザック・モーリーの所有地に住んでいました(教義と聖約63:65;64:20参照)。1831年9月12日,預言者ジョセフ・スミスは,多くの新しい教会員が住んでいたオハイオ州ハイラムに家族を移し,ジョン・ジョンソンとアリス(エルサ)・ジョンソンやその家族と一緒に暮らすようにしました。1831年10月30日,ジョンソンの家で教会の礼拝行事が開かれました。同じ日に,預言者は教義と聖約65章に記録されている啓示を受けました。
預言者ジョセフ・スミスは,この啓示が与えられる6か月以上前に,マタイの前半の章の霊感訳を完成させていました。しかし,ウィリアム・E・マクレランは,この啓示は,「御国がきますように」と主が祈られた,マタイ6:10のテーマに言及したものだと書いています(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 2: July 1831–January 1833, 92)。
教義と聖約65章
主,福音が全地に満ちると宣言される
教義と聖約65:2。「神の王国の鍵は地上の人にゆだねられて〔いる〕」
1832年3月15日,主は,預言者ジョセフ・スミスに「王国の鍵を……授けた」と宣言されました(教義と聖約81:2)。これらの鍵は,「教会の鍵」(教義と聖約42:69)とも呼ばれ,地上の主の教会の実務を統括し管理する権限と権能から成り立っています。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,神の王国の鍵の重要性について次のように教えています。
「わたしはここであなたがたに,神権とその鍵について少々話そうと思う。主は今日,この最後の福音の神権時代に,この神権の鍵をわたしたちに授けられた。
わたしたちはこの聖なるメルキぜデク神権を保持している。そして,この神の能力と権威は人類の救いのために働くようこの世の人に委託されたのである。
また,わたしたちはこの世における神の王国の鍵も保持している。今日,神の王国とはこの末日聖徒イエス・キリスト教会のことである。
これらの鍵とは管理する権能であり,この地上において神に属する事柄すべてについて指示を与え,管理する能力と権威である。そしてこれを保持する者はほかの神権者が神権の職に仕える方法をすべて管理し統治する能力を備えている。わたしたちは全員神権を持つことができるが,その神権は鍵を保持している者によって指示されたり権能を与えられたりする範囲においてのみ行使できる。
この神権と多くの鍵はペテロ,ヤコブ,ヨハネによって,またモーセ,エライジャ,そのほか古代の預言者によって,ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに授与された。これら神権の鍵は十二使徒評議員会の会員にそれぞれ与えられている。しかし鍵は管理する権能であるから,この地上では神の先任使徒,すなわち大管長によってのみ完全に行使されうるのである。
さて,今明確に述べると,わたしたちは聖なる神権を持ち,神の王国の鍵はここにある。それはこの末日聖徒イエス・キリスト教会においてのみ見いだされる。」(「永遠の鍵と管理する権能」『聖徒の道』1973年3月号,114)
教義と聖約65:2。「全地に満ちるまで」
旧約聖書のダニエル2章には,預言者ダニエルが解釈したネブカデネザル王の見た夢の話が含まれています。教義と聖約65章の啓示は,ネブカデネザル王の夢が,末日における神の王国の成長と行く末についての預言であったことを示しています。
1834年4月,ウィルフォード・ウッドラフは,オハイオ州カートランドで行われた神権会に参加しました。そこでは,預言者ジョセフ・スミスが神の王国の行く末について預言しました。ウッドラフ大管長は,後にその集会で起きたことについて次のように話しています。「預言者は神権を持つすべての者を,当時教会がその地に所有していた丸太造りの小さな塾に呼び集めました。それは小さな家で,恐らく14フィート〔約4メートル〕四方だったでしょう。それでもその建物には,当時カートランドの町にいた末日聖徒イエス・キリスト教会の神権者が全員集まっていました。……わたしたちが集まると,預言者はイスラエルの長老たちに,この業について証を述べるように言いました。……証が終わると,預言者は言いました。『兄弟の皆さん,今夜わたしは皆さんの証に大変教化され,教えられました。しかし主の御前で皆さんに申し上げたい。皆さんはこの教会と王国の行く末について,母親のひざにいる幼子ほどしか知っていません。皆さんはまだ理解していません。』わたしはとても驚きました。ジョセフはこう言ったのです。『今夜ここで皆さんが見ているのは,わずか一握りの神権者だけですが,この教会は南北アメリカを満たし,世界を満たすでしょう。』」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』137)
ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,福音に関するダニエルの預言がどのように成就され続けているかを次のように説明しています。
「この教会は,世界中に広がる一つの大きな家族に発展してきました。……ダニエルが示現の中で見たとおりに,主の約束が成就しています。あたかも人手によらずに山から切り出された石が全地に満ちるまで転がり進むように,福音が地の果てまで転がり進むであろうという約束です(ダニエル2:31-45;教義と聖約65:2参照)。大きな奇跡がわたしたちの目の前で起きているのです。……
……教会が組織された1830年には,会員はたった6人しかいませんでした。ほとんど無名の村に住む,わずかばかりの信者でした。今日,この教会は北アメリカで4番目か5番目に大きな教会となりました。どの主要都市でも集会が開かれています。シオンのステークは合衆国,カナダ,メキシコの各州,そして中央アメリカ,南アメリカ全土に広がっています。
イギリスやヨーロッパでも集会が行われ,毎年,大勢の人が教会に加入しています。この業はバルト海諸国へ及び,その南方のブルガリアやアルバニア,その周辺地域にも広がっています。ロシアの広大な国土にも到達しています。さらにはモンゴル,アジア諸国に達し,太平洋諸国,オーストラリア,ニュージーランド,そしてインド,インドネシアへと広がっています。アフリカ諸国の多くでも御業は進展しています。……
しかしながら,この業はまだ始まったばかりです。今後も成長と発展を続け,全地に広がるでしょう。」(「山から切り出された石」『リアホナ』2007年11月号,83-84)
教義と聖約65:3。「小羊の婚宴を備え,花婿のために用意をせよ」
「小羊の婚宴」や「花婿」と述べられた主の言葉は(教義と聖約65:3),新約聖書において主と使徒たちが用いた比喩へのさりげない言及です(マタイ22:2-14;25:1-13;黙示19:7-9参照)。イエス・キリストは神の小羊であり花婿で,教会は主の花嫁です(黙示19:7-9参照)。主の再臨の時に,義にかなった聖徒たちは喜ぶでしょう。主とその民の喜びの再会は,お祝いの婚宴に象徴されます。花婿の到来と小羊の婚宴に備えて準備するようにという主の招きを果たすに当たり,聖徒たちは地の四方から義人を探し出し,悔い改めてバプテスマを受けるよう招かなければなりません。この招きに耳を傾け,主と聖約を交わして守る者は,「光り輝く,汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は,聖徒たちの正しい行いである」(黙示19:8)。また,それらの人々は主の来臨の時に主を歓迎する喜びに満ち,主とともに喜ぶでしょう。
教義と聖約65:6。神の王国と天の王国
教義と聖約65:6に記された嘆願,すなわち祈りは,地上の神の教会と天の神聖な組織との間の重要なつながりを示しています。十二使徒定員会のジェームズ・E・タルメージ長老(1862-1933年)は次のように説明しています。
「『神の国』すなわち『神の王国』とは,この地上に神の権能によって建てられた『教会』のことであって,この組織は国の俗事を支配する権利を主張するものでは決してない。教会の有する権能は,福音を宣べ伝え,生者,死者を問わず全人類の救いのために福音の儀式を執り行う,聖なる神権の権能である。一方『天国』すなわち『天の王国』とは,俗事と霊の両面にかかわる一切のことを支配し,統治する,神が定められた組織であって,正当な権能を持つ王国の頭,王の王であるイエス・キリストが来て統治されるときに初めて地上に建てられるのである。……
神の王国は,将来地上に来る天の王国のために備えさせるため,すでに人類の中に建てられている。そして,キリストが王として統治されるときに,これらは一つとなるに違いない。」(『キリスト・イエス』759)