「第33章:教義と聖約88:1-69」『教義と聖約 生徒用資料』
「第33章」『教義と聖約 生徒用資料』
第33章
教義と聖約88:1-69
紹介とタイムライン
1832年12月27日,ホイットニーの店の2階で開かれた神権指導者の大会中に,大会に出席していた神権指導者たちは,シオンを確立することについての主の御心を知るために祈っていた。1832年12月27日と28日に,預言者ジョセフ・スミスは,教義と聖約88:1-126に記録されている啓示を受けた。その後1833年1月3日,教義と聖約88:127-137に記録されている啓示を受けた。預言者はこの啓示のことを「パラダイスの木から摘み取られた『オリーブの葉』」(教義と聖約88章,前書き)と呼んだ。恐らくこれは,ミズーリの一部の教会員がオハイオ州カートランドの教会指導者に対して抱いていた悪感情をなくす可能性のある平和のメッセージだったからであろう(教義と聖約84:76参照)。1835年版の教義と聖約を出版するに当たり,4つの節(教義と聖約88:138-141)が追加された。
この生徒用資料では,教義と聖約88章について2章にわたって学ぶ。本章では教義と聖約88:1-69について学ぶ。ここでは,イエス・キリストは御自身のことを「万物に命を与える光であ〔る〕」(教義と聖約88:13)と宣言してから,「わたしに近づきなさい」(教義と聖約88:63)と招かれた。
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1832年6月-1833年1月ミズーリの教会指導者とオハイオの教会指導者との間で意見の相違が起こった。
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1832年12月27-28日教義と聖約88:1-126が与えられた。
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1833年1月3日教義と聖約88:127-137が与えられた。(教義と聖約88:138-141がその後1835年に付け加えられた。)
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1833年1月5日啓示により,フレデリック・G・ウィリアムズがジェシー・ガウスに代わって大神権の大管長会における顧問に召された。
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1833年1月11日ジョセフ・スミスは教義と聖約88:1-126と恐らく教義と聖約88:127-137を,「オリーブの葉」そして「平和のメッセージ」として,ミズーリにいるウィリアム・W・フェルプスに送った。
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1833年1月23日オハイオ州カートランドで預言者の塾が始まった。
教義と聖約88章:追加の歴史的背景
1832年12月27日,預言者ジョセフ・スミスはオハイオ州カートランドのニューエル・K・ホイットニーの店の2階にある「翻訳の部屋」で,7人の教会指導者とそのほかの教会員と集会を開きました。ジョセフは長老の義務とシオンを築く方法ついて,神からのさらなる指示を望んでいました。この集会,すなわち大会が始まると,預言者は啓示を受けるためには,その場に集まった一人一人が信仰を行使し,心と思いを一つにしなければならないと説明しました。ジョセフは続けて,主の御心を知るために,各々が順番に声に出して祈るように求めました。その結果与えられた啓示は,午後9時までジョセフ・スミスによって口述されて書き取られ,夜になったため終了しました。翌朝もう一度集まって祈り,残りの啓示を受けました。後の1833年1月3日,預言者はさらに啓示を受け,その啓示は12月に受けた啓示に追加されました(教義と聖約88:127-137参照)。1835年版の教義と聖約から,1832年12月27日から28日に受けた啓示に,1833年1月3日に与えられた啓示が,最後に追加された4節(教義と聖約88:138-141参照)とともに加えられました。
1833年1月の何か月も前に,ミズーリの教会指導者は,オハイオの教会指導者を非難し,悪感情を表していました。1833年1月11日,ジョセフ・スミスはミズーリ州インディペンデンスにいるウィリアム・W・フェルプスに,教義と聖約88:1-126(と,恐らく127-137節の一部)に記録されている啓示を含めた手紙を送りました。そして,次のように説明しました。「わたしはあなたに,パラダイスの木から摘み取られたオリーブの葉,すなわち,わたしたちへの主の平和のメッセージを送ります。シオンにいるわたしたちの兄弟たちがたとえそうした思いでわたしたち見ているとしても,そしてそれは新しい聖約で求められていることに反するのですが,それでもわたしたちは,主がわたしたちを受け入れてくださり,国々の救いのためにカートランドに主の御名を確立してくださっていることを知って満足を覚えています。……皆さんに申し上げます。主の怒りが激しく燃えることのないように,自らを清め,またシオンに住むすべての人々を清めるように努めてください。……カートランドにいる兄弟たちは,主の恐るべきことを知っているので,あなたがたのことを大いに心配して,絶え間なくあなたたちのために祈っています。」( in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 2: July 1831–January 1833, ed. Matthew C. Godfrey and others (2013), 365, 367; capitalization, spelling, and punctuation standardized)
様々な文化においてオリーブの葉とオリーブの枝は平和の象徴とされてきました。ジョセフ・スミスは,ノアが送り出した鳩がくちばしにオリーブの葉をくわえて戻って来たことによって,地を再び歩いても安全だということを知ったように(創世8:10-11参照),ミズーリの兄弟たちも福音に生きることで,霊的に安全であるという象徴として,この啓示のことを「オリーブの葉」と呼んだのでしょう。
教義と聖約88:1-13
イエス・キリストは御自身を「万物の中にあり,万物に命を与える光」であると宣言される
教義と聖約88:1-2。「聖められた者……の名前の書」とは何でしょうか。
黙示者ヨハネとして知られる新約聖書の使徒は,神の子供たちがその行いによって裁かれる示現を見ました。その行いは天に取っておかれる書物の中に書かれています。これらの書物の一つは「命の書」(黙示20:12;教義と聖約128:6-7参照)と呼ばれており,義人の名前と行いのために取っておかれています(黙示3:5;アルマ5:58;教義と聖約132:19参照)。教義と聖約88:2で言われている「聖められた者……の名前の書」は「命の書」と同じです。
教義と聖約88:3-5。「約束の聖なる御霊」
預言者ジョセフ・スミスと1832年12月27日と28日に集まった人たちの熱心な祈りにこたえて,主は「別の慰め主,すなわち約束の聖なる御霊を〔彼らに〕遣わ〔す〕」と約束されました(教義と聖約88:3)。約束の聖なる御霊とは聖霊の別の名前であり,ヨハネ14:18,21,23と教義と聖約130:3で言われている「第二の慰め主」と混同しないようにしなければなりません。
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は次のように説明しています。「約束の聖なる御霊は第二の慰め主ではありません。約束の聖なる御霊は,すべての儀式が聖なる方法で行われたことをお認めになる聖霊のことであり,聖約が破られるときに,その結び固めを解かれる御方なのです。」(Doctrines of Salvation, comp. Bruce R. McConkie [1955], 1:55.)
その場にいた人たちは皆,以前に聖霊の賜物を受けていましたが,聖霊の現れを通して永遠の命の保証を受けることができるとそのときに約束されたのでした(エペソ1:13-14;教義と聖約76:51-54;132:7参照)。約束の聖なる御霊とは,救いに必要な儀式と聖約が適切に執り行われ,守られているという聖霊からの保証のことです。つまり,永遠の命が約束されているという御霊からの証のことです。
十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,聖霊のこの役割について次のように説明しています。
「約束の聖なる御霊とは,聖霊がお持ちの結び固めの力です。一つの儀式,誓い,あるいは聖約が,約束の聖なる御霊によって結び固められると,地上においても天においても結び固められます(教義と聖約132:7参照)。聖霊からのこの『承認の印』は,『時がたって』(モーセ 7:21),わたしたちが福音の聖約を尊ぶことへの忠実さ,誠実さ,そして堅固さを示して初めて,与えられます。しかしながら,この結び固めは不義や背きによって解かれてしまいます。
約束の聖なる御霊による清めと結び固めは,再び生まれる過程における最高の段階です。」(「あなたがたは再び生まれなければならない」『リアホナ』2007年5月号,21-22)
教義と聖約88:5-13。「これはキリストの光である」
イエス・キリストは天の御父の霊の子供たちの中における長子であられます(教義と聖約93:21参照)。イエスは前世ですべての知識と力を得られ,万物の創造主として,御父を表しておられました(教義と聖約38:1-3;45:176:23-24参照)。イエス・キリストの力を通して,太陽,月,星,地球は造られました(教義と聖約88:7-10参照)。この創造の力は,「真理の光」または「キリストの光」と呼ばれており,「広大な空間を満たすために神の前から発してい」ます(教義と聖約88:6-7,12)。この「万物に命を与える光」(教義と聖約88:13)は,「〔わたしたち〕の理解を活気づける」(教義と聖約88:11)霊的な力でもあります。以前の啓示の中で,聖徒たちはこの光を受けて聞き従うなら,天父と福音の聖約に導かれるということを知りました(教義と聖約50:24;84:45-48参照)。
十二使徒定員会のリチャード・G・スコット長老(1928-2015年)は次のように説明しています。「キリストの光はイエス・キリストを介して神から発せられる神聖な力または影響力です。キリストの光は万物に光と命を与えます。地上のあらゆる所にいるすべての分別ある人に,真理と偽り,正しいことと誤ったことを識別するよう促します。また,皆さんの良心を活発に働かせます〔モロナイ7:16参照〕。その影響力は背きや悪癖によって弱まり,ふさわしい悔い改めによって回復します。キリストの光は人ではありません。それは神から来る力および影響力であり,それに従う人を聖霊の導きと霊感を受ける資格のある者とします〔ヨハネ1:9;教義と聖約84:46-47参照〕。」(「良心の安らぎと心の安らぎ」『リアホナ』2004年11月号,15)
キリストの光は「万物が治められる律法」(教義と聖約88:13)であることを理解すると,神の力とその力によってすべての人にとって人生が可能になるという事実に対して感謝の気持ちが増します。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように記しています。
「このキリストの光はキリスト御自身ではなく,体があるわけではありません。わたしはこれがどんな物質で構成されているのか知りません。しかし,この神の光は神の前から出て広大な宇宙を満たしています。……
この御霊により与えられる祝福を受けなければ,人の心は活気づけられないでしょう。また同様に草木は育たず,もろもろの天体は軌道を運行しないでしょう。なぜなら,〔教義と聖約88章の〕この啓示によれば,すべてのものは,この真理の御霊,真理の光によって支配されているからです。」(Doctrines of Salvation, 1:52)
教義と聖約88:14-41
すべての神の王国は律法によって治められていると主は教えておられる
教義と聖約88:14-16。「霊と体が人を成す」
死者の復活とは人の霊が肉体と結合して,決して分離しないということです(アルマ11:44-45参照)。この贖いは,イエス・キリストとその贖罪,および死からの復活を通して,可能になります。教義と聖約88:15にある「人」という言葉は,霊と肉体が結合したときのことを表します。十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン会長は,この原則を理解すると,わたしたちの肉体と霊に対する気遣いに影響を与えるということについて次のように説明しています。
「人は二つの部分,すなわち肉体と霊〔教義と聖約88:15参照〕から成り,どちらも神から出たものです。肉体と霊について明確に理解すれば,善を求めるわたしたちの思いと行いに影響を与えるでしょう。……
霊と肉体は,互いに結合して,神聖な価値を備えた生ける人となります。確かにわたしたちは,肉体的にも,霊的にも,神の子供なのです。
……肉体はきわめて貴重な賜物なのです。それなしに,完全な喜びを得ることはできません〔教義と聖約138:17参照〕。……
これらの真理は,個人の行いにどのような影響を与えるでしょうか。……
わたしたちは肉体を自分自身の宮であると考えるでしょう〔1コリント3:16参照〕。……適切な食事を取り,健康のために運動をするでしょう。
霊の健康にも注意を払うべきではないでしょうか〔1コリント9:24-27;へブル12:9参照〕。体力を維持するために運動が必要なように,霊的な強さにも努力が必要です。……
わたしたちは何者でしょうか。神の子供です。わたしたちの可能性は無限であり,神聖なものを受け継ぎます。」(「わたしたちは神の子である」『リアホナ』1999年1月号,94-96)
教義と聖約88:17-20,25-26。地球は「すべての不義から……聖められなければならない」
イエス・キリストが山上の垂訓の中で弟子たちに教えられたとき,心の貧しい者つまり謙遜な者は神の王国を受け継ぎ,柔和な者すなわち優しくて寛大な人は地を受け継ぐと約束されました(マタイ5:3,5)。教義と聖約88:17に記録されているように,主はまた「地の貧しい者と柔和な者はそれを受け継ぐ」と言われました。旧約聖書の預言者イザヤは,末日における「柔和な者……,貧しい者」は主にあって喜びを得る者となると宣言しています(イザヤ29:18-19;2ニーファイ27:29-30参照)。
地を受け継ぐということは日の栄えの王国を受け継ぐという意味です。アダムとエバの堕落のときに,地球はパラダイス,すなわち,月の栄えの栄光から変化し,星の栄えの世界となりました。イエス・キリストの再臨のときに,地球は「更新されて楽園の栄光を受け」ます(信仰箇条1:10。教義と聖約101:24-25も参照)。福千年の後,地球は再び変化を遂げ,今度は日の栄えの世界として新しくなります(教義と聖約29:22-23;77:1;130:9参照)。教義と聖約88:18-20,25-26に記録されているように,日の栄えの王国に属する者たちの受け継ぎとなるために,地球は「聖められ」,「栄光……を冠として与えられ」ます(教義と聖約88:18-19)。
教義と聖約88:21-24。キリストの律法と栄光の王国
1832年2月,預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは3つの栄光の王国の示現を見て,それぞれの王国に住む者について概要を記録しました(教義と聖約76:50-112参照)。その後,教義と聖約88章に記録されている啓示を受けたとき,聖徒たちは「すべての王国に一つの律法が与えられており」(教義と聖約88:38),キリストの光は「万物が治められる律法」(教義と聖約88:13)であることを知りました。人が復活したときに受け継ぐ栄光と王国は,その人が従うことができる律法に基づいて決まります。例えば,日の栄えの栄光を受け継ぐためには,「日の栄えの王国の律法に従〔う〕」者でなければなりません(教義と聖約88:22)。十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は,日の栄えの王国の律法について次のように要約しています。「日の栄えの王国の律法とは福音の律法と聖約のことであり,それには,わたしたちが常に救い主を覚えること,また従順,犠牲,奉献,忠誠を誓うことが含まれます。」(「シオンに来たれよ」『リアホナ』2008年11月号,38。教義と聖約105:3-5も参照)
ラッセル・M・ネルソン会長は,わたしたちは日の栄えの王国の条件に従って生活することを選ぶことができると教えました。「わたしたちはそれぞれに,自分の行いと心の望みに応じて裁きを受けることになります〔教義と聖約137:9参照〕。……最終的に日の栄えの王国か,月の栄えの王国か,あるいは星の栄えの王国に行くかは偶然によって決まるのではありません。主はそれぞれについて不変の条件を定めておられます。皆さんは聖典の教えを学び, それに従った生活をすることができます〔ヨハネ14:2;1コリント15:40-41;教義と聖約76:50-119;98:18参照〕。」(「不変の原則」『聖徒の道』1994年1月号,41)
教義と聖約88:27-31。「霊の体」と「霊的な体」の違いは何か
神が御自分の子供たちのために異なる3つの栄光の王国を備えておられるように,復活した体も異なる階級の栄光を持つことを神は明らかにされました。教義と聖約88:29-31に記録されているように,人が復活すると,霊と肉体は日の栄え,月の栄え,あるいは星の栄えの「栄光の一部によって生かされ」ます。教義と聖約88:27では,復活した体を「霊的な体」と述べています。霊的な体を「天の両親〔の〕霊の息子,娘」としてすべての人が持っている霊の体と混同しないようにしなければなりません(「家族—世界への宣言」『リアホナ』2010年11月号,129。教義と聖約77:2;130:22も参照)。
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は霊的な体の性質について次のように説明しています。「死から復活した後,わたしたちの体は,霊的な体ですが触れることができ,清められた体ですが骨肉の体です。しかし,……もはや血によって生かされているのではなく,永遠の霊によって生かされていおり,不死不滅となって,決して死ぬことはありません。」(in Conference Report, Apr. 1917, 63)
教義と聖約88:32-39。律法によって治められ,守られ,完全にされ,聖められる
教義と聖約76章の預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンが受けた示現の記述によると,「滅びの子」は「贖われ〔ません〕」が,「残りの者は皆,……小羊の勝利と栄光によって,死者の復活により導き出され」ます(教義と聖約76:32,38-39)。教義と聖約88章に記録されている啓示を受けたとき,滅びの子の定めが明らかにされました。その中で主は,滅びの子は「生かされる」(教義と聖約88:32)と説明されています。これは彼らは肉体を持って復活しますが,「星の栄えの王国の律法に従えない」ので,「栄光の王国ではない王国」を受け継ぐという意味です(教義と聖約88:24)。彼らは「律法に従わず,……完全に罪の中にとどまる」(教義と聖約88:35)ので,「律法によって守られ,それによって完全にされ,聖められる」ことはありません(教義と聖約88:34)。
教義と聖約88章の啓示は滅びの子が得られないものについて述べていますが,義人が選択の自由を行使し,「〔神の〕律法によって治められる」ならば,「律法によって守られ,それによって完全にされ,聖められる」ことも教えています(教義と聖約88:34)。
教義と聖約88:42-69
主は御自分がすべてを治めておられ,すべてを御存じであるということを明らかにされる。そして,御自分に近づくよう人々を招いておられる
教義と聖約88:42-47。神の「尊厳と力」
教義と聖約88章に記録されている啓示を研究すると,神の性質についてよく理解できるようになります。神の力の範囲は,太陽,月,星,地球,そのほかすべての惑星に影響をお与えになることができるという説明によって,劇的に表されています。「これらのどれでも,あるいは最も小さいものでも見た者は,尊厳と力をもって進む神を見た」のです(教義と聖約88:47)。
預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,1832年の夏の間に自分史の一部を書きました。そのときジョセフは,自分の家で受けた霊的な教育について思い返しました。天にある神の創造物の広大さを見たときに,どの教会に入るべきかを知りたいと望むなら,神のもとへ行って答えを求めるべきだという確信が与えられたとジョセフは言っています。「わたしは聖文を通して,神は昨日も今日も,永遠に変わらない御方であり,人を偏り見る御方でないこと,そして,まさに神なる御方だからであるということを知りました。空にある荘厳に地球を照らす太陽,天を堂々と運行する月,各々の軌道の上で輝く星,わたしが立っている地球,野の獣,空の鳥,海の魚,さらには,偉大で驚嘆すべきものを治める神の力と知性を備え,万物を創造された御方の姿形に似せられた人間が威厳と力と麗しさをもって地の表を歩くのを目にするからです。これらのことに思いをはせながら,わたしは心の中でこう叫びました。『賢人はこう言っている。「愚かな者は心のうちに『神はない』と」』〔詩篇14:1;53:1参照〕。わたしの心は叫びました。『万物は,全能で偏在する一つの力があることを証し,示しています。その御方は律法を定められ,すべてのものをその律法の定める範囲に基づいて定め,拘束します。また,永遠を満たし,過去も現在も未来も永遠から永遠にわたって存在する御方です。』これらすべてのことと,その御方が霊とまこととをもって御自分を礼拝する人を求めておられる〔ヨハネ4:23;アルマ34:38参照〕ということを深く考えたとき,わたしは主に憐れみを叫び求めました。わたしが行って,憐れんでいただける御方はほかにいなかったからです。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 2, July 1831–January 1833, 281; spelling, punctuation, and capitalization standardized)
教義と聖約88:49-61。このたとえにはどのような意味があるか
神が宇宙の御自分の創造物に対して持っておられる広大な力について述べられた後,神の光を受ける人は少しずつ神のようになり,神と一体となると主は説明されました。義人は神を理解するようになり,さらに神を見ることができます(教義と聖約88:49-50参照。教義と聖約35:2;50:24,40-43も参照)。
「あなたがたが理解できるように,わたしはこれらの王国を何にたとえようか」という御自分の質問の答えとして(教義と聖約88:46),主は,僕を畑に送り出して,彼らを訪れた一人の男のたとえをお与えになりました(教義と聖約88:51-61参照)。このたとえは,初期の教会員が神は多くの世界を創造され,そこに神の子供たちが住んでいること,そして神がその一つ一つを訪れられるということを理解する助けなりました(教義と聖約76:23-24;モーセ1:29-35参照)。十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は次のように証しています。
「主の壮大な創造の中で主が引き続き果たしておられる役目については,ほとんど明らかにされていません。しかし,王国やそこに住む人々については垣間見ることができます。……
にもかかわらず,わたしたちは一つの惑星の神を礼拝しているわけではありません。」(“Our Creator’s Cosmos” [address given at the Church Educational System Conference, Aug. 13, 2002], 4–5)
教義と聖約88:62-69。「わたしが近くにいる間に,……わたしに呼び求め〔なさい〕」
教義と聖約88:62-63に記録されているように,主は預言者ジョセフ・スミスとその場にいた人々のことを「わたし〔の〕友」と呼ばれ,御自分に呼び求め,御自分に近づき,熱心に御自分を求めるよう,そして〔尋ね〕求め,たたくように命じられました。主はさらに,従順にこの戒めに従うことを通して,これらの人々は御霊の声が真理を告げるのを聞くことができるであろうと説明されました(教義と聖約88:66参照)。真理を受ける人は霊的な光に満たされ,ついには神のようにすべてのことを理解することができるようになります(教義と聖約88:41,67参照)。
教義と聖約88章に記録されている啓示は,神がジョセフ・スミスとほかの人々に「別の慰め主」を送るという約束から始まっています(教義と聖約88:3-4参照)。後に,これらの兄弟たちは,自らを聖める人々,すなわち,その思いを「ひたすら神に向〔け〕」,「〔自らの〕無益な思いと過度の笑いを遠くに捨ててしま〔う〕」(教義と聖約88:68-69)人々には別の約束があることを知りました。その「大いなる最後の約束」(教義と聖約88:69)とは,神が義人に「その顔を現す」ことです(教義と聖約88:68。教義と聖約50:45;67:10;93:1;130:3も参照)。
預言者ジョセフ・スミスは次のように,主イエス・キリストの現れを「別の慰め主」あるいは「最後の慰め主」と呼んでいます。「言及されている慰め主は二人の御方です。一人は聖霊で,五旬節の日に与えられたものであり,信仰,悔い改め,そしてバプテスマの後にすべての聖徒が受けます。この最初の慰め主〔とは〕聖霊です。……もう一人の慰め主は,大きな関心の的であり,恐らく今の世代にはあまり理解されていないと思われます。キリストを信じる信仰を持ち,自分の罪を悔い改め,罪の赦しのためのバプテスマを受けて,〔按手によって〕最初の慰め主である聖霊を受けたなら,次に続けて神の前にへりくだり,飢え渇くように義を求め,神の一つ一つの言葉によって生活してください。そうすれば主は間もなくその人に,『息子よ,あなたは昇栄するであろう』と言われるでしょう。主によって完全に試され,どんな困難にあっても主に仕えると決心していることが明らかになったとき,その人は自分の召しと選びとが確かなものとなったことを知るでしょう。そうすると,その人は別の慰め主を受ける特権を得ます。……さて,このもう一人の慰め主とはどなたでしょうか。それは主イエス・キリスト御自身にほかなりません。そして,これはすべての事柄の要点です。この最後の慰め主を受ける人は,イエス・キリスト御自身の訪れもしくは現れを時折受けます。そして主は御父を彼に現され,御二方は彼とともに住まうことでしょう。そして天の示現が彼に開かれ,主は直接彼を教えてくださいます。彼は神の王国の奥義に関する完全な知識を持つことが許されます。」(in Manuscript History of the Church, vol. C-1, pages 8–9 [addenda], josephsmithpapers.org; spelling, punctuation, and capitalization standardized)
教義と聖約88:62-63。「わたしに近づきなさい。 そうすれば,わたしはあなたがたに近づこう」
教義と聖約88章に記録されている啓示には,聖徒たちを現在から永遠にわたって祝福するすばらしい約束が含まれています。主は聖徒たちに,もし彼らが信仰を働かせて,主に「近づ〔く〕」ならば,主はいつでも彼らに「近づこう」と約束されました(教義と聖約88:63)。シェリー・L・デュー姉妹は中央扶助協会会長会の顧問として奉仕していたときに,どのようにすれば主に近づくことができるか次のように述べました。
「主の招きを放棄できる人はいませんし,〔教義と聖約88:63の〕主の招きに例外はありません。主に近づくかどうかはわたしたちにかかっています。主に近づき,主を求め,尋ね,扉をたたくのはわたしたちの責任です。主を知れば知るほど,つまり主の憐れみや献身,またわたしたちが自分で自分をふさわしくないと思うときでも喜んで導いてくださる姿を知るほど,主がわたしたちの願いにこたえてくださることに確信が持てるようになるのです。……
主に近づき,主を求め,尋ね,扉をたたく方法はたくさんあります。例えば,イエス・キリストの御名により天の御父にささげる祈りが少し気まぐれなものになっていれば,独りになってじっくりと,悔い改めの心をもって意味のある祈りをささげるよう決意を新たにしてください。神殿での礼拝の平安と力をまだ味わっていなければ,事情の許すかぎり頻繁に主の宮での儀式にあずかるように決心しましょう。聖文に浸ることによって御霊への感受性が増す経験をまだしていないのであれば,主の御言葉を絶えず生活に取り入れることを考えてください。こよいこそそれを始める絶好の時です。
これらはほかの多くの努力も含め,イエス・キリストとの交わりを深めてくれるものです。そして,主についての証が深まり,成熟したものになれば,わたしたちは今の生活より永遠の生活にもっと心を配るようになります。主が必要とされることを行い,主が求められる生き方をするようになるのです。」(「『あなたはわたしが考えているような方ですか』」『聖徒の道』1998年1月号,107-108)
教義と聖約88:64-65。「あなたがたにとって必要なものは何でも,与えられるであろう」
神は子供たちに,祈りを通して御自分を呼び求め,必要なものを求めるように命じておられます。救い主はこのように教えられました。「あなたがたがわたしの名によって父に求めるもので,あなたがたにとって必要なものは何でも,与えられるであろう。」(教義と聖約88:64)リチャード・G・スコット長老は次のように証しています。
「〔天父〕はいつでも皆さんの祈りを聞いてくださり,常にこたえてくださいます。……
デビッド・O・マッケイ大管長はこのように証しています。『祈りの答えは必ずしも直接的でなく,望んでいるときに,期待しているような方法で与えられるとは限らないことは確かです。けれども,答えは必ずやって来ます。願い求める人にとって最も良い時と方法で与えられます。』〔in Conference Report, Apr. 1969, 153〕時として,神は皆さんが答えを受けるまで長い間苦しむに任せられることがありますが,感謝してください。皆さんの人格が培われ,信仰が増すのです。……
強く望んでいることについて心から祈っていて,思いどおりの答えが返ってこないときは,とてもつらいものです。従順な生活を送り,大きな信仰を心から働かせたのに,どうして望んでいた結果が得られなかったのかを理解するのは難しいものです。救い主はこのように教えられました。『あなたがたがわたしの名によって父に求めるものであなたがたにとって必要なものは何でも,与えられるであろう。』〔教義と聖約88:64;強調付加。教義と聖約88:63,65も参照〕長い目で見てあなたにとって最良である,または必要であるものを,見分けることが難しいことがあります。しかし,神が皆さんの生涯で行われることは永遠の観点から見て皆さんのためになるということを受け入れると,人生が楽になります。……
聖文に記された効果的な祈りの原則を理解すれば,祈りに関する誤解は幾らか解けるでしょう。しかし,それらの原則をもってしても,答えがいつ与えられるかは確定できません。」(「祈りという天与の賜物を用いる」『リアホナ』2007年5月号,9-10参照)
教義と聖約88:67-69。「あなたがたがわたしの栄光にひたすら目を向けるならば」
目を開けて,周りの世界に焦点を当てるとき,物質的な光が見えます。教義と聖約88:67によれば,霊の目を「〔神の〕栄光にひたすら」向けるならば,霊的な光が人の体に入ってくると教えています(マタイ6:21-23;ルカ11:34-36;3ニーファイ13:22-23;教義と聖約4:5;55:1;82:19も参照)。罪に負けているとき,霊的な視力は失われます(アルマ10:25参照)。人々は「思いをくらませている」ために「神の御霊を拒〔み〕」ました(アルマ13:4。アルマ14:6;教義と聖約58:15も参照)。
預言者ジョセフ・スミスは,わたしたちが霊的な光を受けることによって,どのように神の前に帰る備えができるのか次のように説明しています。「わたしたちは次のように考えています。すなわち,神は人を,教えを受けることのできる心を持ち,天からの光に向ける注意と熱意の度合いに応じて増大する知力を持つ者として創造されたのです。人は完成に近づくほどに視野が開け,喜びが大きくなっていきます。そしてついには人生の様々な悪に打ち勝ち,罪に対する望みを一切持たなくなります。そしてその信仰は,古代の聖徒たちのように,造り主の力と栄光に包まれて,主とともに住むために引き上げられるほどの状態に到達します。しかしこれは,だれ一人として瞬時に到達したことのない状態であるとわたしたちは考えています。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』210-211)
ディーター・F・ウークトドルフ管長は,神のもとに来るときに霊的な光を得る過程が始まることを次のように教えています。「天の御父に近づくにつれ,わたしたちはいっそう聖くなります。そして,聖くなるにつれて,わたしたちは不信仰を克服し,わたしたちの魂は,御父の恵みの光に満たされます。その天からの光によって自分の生活を正すなら,暗闇から出て,さらに大きな光へと近づくことができます。このいっそう大きな光は,聖なる御霊の言い尽くせない教えへと導いてくれます。そして,天と地の間にある幕は薄くなります。」(「神の愛」『リアホナ』2009年11月号,24)