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第36章:教義と聖約93章


「第36章:教義と聖約93章」教義と聖約 生徒用資料

「第36章」教義と聖約 生徒用資料

第36章

教義と聖約93章

紹介とタイムライン

1833年5月6日に,預言者ジョセフ・スミスは,教義と聖約93章に記録されている啓示を受けた。この啓示の中で,救い主は聖徒たちに,礼拝する方法と,「〔主〕の名により父のもとに来て,……父の完全を受けられるようにする」にはどうすればよいのかを教えられた(教義と聖約93:19)。また,わたしたちがどのようにして真理と光を受けるのかを教え,預言者やほかの教会の指導者に,自らの家族を強め,守るために,家を「整え〔る〕」よう指示された(教義と聖約93:43-50参照)。

1833年2月2日ジョセフ・スミスは新約聖書の翻訳を終えた。

1833年3月8日ジョセフ・スミスは旧約聖書の翻訳を続けた。

1833年4月オハイオ州カートランドの預言者の塾が夏の休みとなった。

1833年5月4日オハイオ州カートランドに預言者の塾を設けるための資金を得るために,委員会が設置された。

1833年5月6日教義と聖約93章が与えられた。

教義と聖約93章:追加の歴史的背景

1832年12月末に受けた啓示の中で,主は聖徒たちに,「学びの家」と「神の家」を建てるように命じられました(教義と聖約88:119)。後の1833年1月,預言者ジョセフ・スミスはミズーリ州インディペンデンスにいるウィリアム・W・フェルプスに手紙を書いて,この啓示について述べ,次のように宣言しました。「主はカートランドにいるわたしたちに神の家を建て,預言者のための塾を設立するように命じられました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 2: July 1831–January 1833, ed. Matthew C. Godfrey and others [2013], 367)それから間もなく,主の指示に従い,預言者の塾の参加者はニューエル・K・ホイットニーの店の2階の小さな部屋で集会を始めました。1833年4月に夏の休みとなるまで集会は続けられました。

1833年5月4日,大祭司のグループは,預言者の塾が集会を開くための建物を建設することについて話し合いました。預言者の塾の建物を建設するのに必要な資金を得るために,ハイラム・スミス,ジェレド・カーター,レイノルズ・カフーンの3人から成る委員会が設置されました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, ed. Gerrit J. Dirkmaat and others [2014], 82.)委員会は聖徒たちに手紙を送り,建物を建てるための献金を募り,この建物の目的は,「一つの家を築き,そこで長老たちが預言者の塾と呼ばれる学校に集まって,すべてのことに備え,主が与えられる指示を受けることである」と宣言しました(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1824, 82)。後に主はこの建物は礼拝の家にもなることを明らかにされました(教義と聖約95:8-17参照)。

大祭司のグループが集会を開いた2日後の1833年5月6日,預言者ジョセフ・スミスは,神と人の性質と,神の子供たちの永遠の行く末についての重要な啓示を受けました。その特定の時に教義と聖約 93章に記録されている啓示を主がお与えになった理由は知られていませんが,ちょうど聖徒たちが主を礼拝するための神殿の建物と,教えを受けるための預言者の塾の建物を建てる準備をしていたときに,主が人の体を「神の幕屋」すなわち「神殿」にたとえ(教義と聖約93:35),神の子供たちにとって真理と光が必要であることを強調される啓示をお与えになったことは興味深いことです(教義と聖約93:28,31-32,42,53)参照)。この啓示には,大管長会の会員であるジョセフ・スミス,シドニー・リグドン,フレデリック・G・ウィリアムズと,ニューエル・K・ホイットニービショップに対する具体的な指示も含まれています。

〔地図7:オハイオ州カートランド,1830-1838年の画像〕

教義と聖約93:1-20

主はわたしたちがどのようにすれば主を知るようになり,完全な栄光を得ることができるかを教えられる

教義と聖約93:1-3。「わたしの顔を見て,わたしがいることを知るであろう」

主は,主の福音の目的と大いなる救いの計画を強調した輝かしい約束がなされた教義と聖約93章に記録された啓示をお与えになりました。自分の罪を悔い改め,主のもとに来て,主を呼び求め,主の戒めに従うすべての忠実な人たちに対して語り,「〔彼らは〕わたしの顔を見て,わたしがいることを知るであろう」と主は宣言されました(教義と聖約93:1)。

古代,イスラエルの民がエジプトから脱出した後,主はモーセに,イスラエルの子らをシナイに連れて来て,主に会う備えをさせるように命じられました(出エジプト19:1-17参照)。残念なことに,民は反抗し,その罪のために,主は彼らに御自分の顔を見ることはできないと宣言されました(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕出エジプト33:20参照)。

この末日に,主の民が主の顔を見て,主を知り,「父の完全」を受けるという約束を主は更新されました(教義と聖約93:20)。末日の啓示では,神を見るということは,神御自身の時に神御自身の思いに従って与えられる約束であり(教義と聖約88:68130:3参照),生まれながらの人を克服し,メルキゼデク神権の儀式を受けて,イエス・キリストのもとに来る人だけに与えられると教えています(モーサヤ3:19教義と聖約67:10-1384:21-2393:1参照)。多くの人にとって,神の顔を見るという約束は,イエス・キリストが再臨の際に地上に戻って来られるときに成就するでしょう(教義と聖約29:1135:2138:845:44101:23参照)。義人が恵まれて主の顔を見るときに,主が確かに生きておられること(教義と聖約93:1参照),主が「まことの光」であって(教義と聖約93:2),父と〔イエス・キリスト〕が一つである」ことを知るようになります(教義と聖約93:3)。

スペンサー・W・キンボール大管長(1895-1985年)は次のように教えています。 「わたしが学んだことは,祈りの心があり,義を渇望し,罪を捨て,神の戒めに従順である人には,主はますます豊かに光を注がれ,ついには天の幕を貫いて人知の及ばないことを知る力が授けられるということです。そしてこのような高潔な人には,主の御顔を見て,主がおられることを知るという金銭では買うことのできない約束が与えられています(教義と聖約93:1参照)。」(「主に忠誠を尽くしなさい」『聖徒の道』1980年11月号,3参照)

教義と聖約93:3-5。「父とわたし〔は〕一つである」

最初の示現の際,ジョセフ・スミスは天父とイエス・キリストを別個の御方として見ました(ジョセフ・スミス—歴史1:17参照)。御父とイエス・キリストが別個の御方であるということについては,教義と聖約130:22の中で次のように明確に述べられています。「御父は人間の体と同じように触れることのできる骨肉の体を持っておられる。御子も同様である。」(信仰箇条1:1も参照)しかし,これらの啓示はまた,父なる神と御子イエス・キリストと聖霊は一つであり,一致しておられることも表しています(教義と聖約20:2893:3参照)。

十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は次のように説明しています。「御父と御子は一つであられます。同じ性質,完全さ,特質をお持ちです。御父と御子は同じことを考え,同じ言葉を話し,同じ行動をし,同じ望みを持ち,同じ業をなされます。また,同じ力,同じ思いをお持ちで,同じ真理を御存じで,同じ光と栄光の中に住んでおられます。御二方うちのどちらかを知れば,もう一人の御方を知り,御二方のうちどちらかを見れば,もう一人の御方を見,御二方のうちどちらかの声を聞けば,もう一人の御方の声を聞くことができます。御父と御子は完全に一致しておられます。」(The Promised Messiah: The First Coming of Christ [1978], 9)

イエス・キリストを信じて,この世に打ち勝つすべての神の子供たちもまた,御父と御子と「一つ」になることができます(教義と聖約35:250:40-43参照。ヨハネ17:20-233ニーファイ11:27,31-3619:20-23も参照)。

教義と聖約93:6-18。「ヨハネの記録」とは何か

新約聖書の中のヨハネによる福音書は,古代のイエス・キリストの使徒の一人である愛弟子ヨハネによって書かれました。ヨハネ書の第1章に,使徒ヨハネはバプテスマのヨハネによって書かれた記録の一部を含めました(ヨハネ1:6-34参照)。教義と聖約93章に記録されているように,主は預言者ジョセフ・スミスにバプテスマのヨハネによって書かれた部分を明らかにし,さらに「ヨハネの記録のすべて」がいつの日か明らかにされることを約束されました(教義と聖約93:18教義と聖約93:6も参照)。教義と聖約93章の中で用いられている「ヨハネ」という名前は,バプテスマのヨハネのことを指しています。

ブルース・R・マッコンキー長老は次のように説明しています。

「バプテスマのヨハネは,主の証人として主の福音を書くことになっていましたが,その記述は,恐らく,聖徒たちや世の人々が受ける備えがまだできていない真理や概念を含んでいたため,今のところまだ与えられていません。しかし,1833年5月6日に,主はジョセフ・スミスに11節にわたるバプテスマのヨハネの記述を明らかにされ,人の信仰によって受けるにふさわしくなれば,『ヨハネの記録のすべて』が明らかにされると約束しておられます(教義と聖約93:6-18)。

……使徒ヨハネは福音書を書いたときに,バプテスマのヨハネの記述を持っていました。」The Mortal Messiah: From Bethlehem to Calvary [1979], 1:426–27)

教義と聖約93:8。「初めに言葉があった。……すなわち救いの使者であり」

古代,使徒ヨハネは「初めに言があった」と証し(ヨハネ1:1),それから「言」とは「肉体となり,わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)イエス・キリストのことだと言っています。十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン会長は,「言葉」という救い主の称号について次のように説明しています。「ギリシャ語の新約聖書では,『言葉』は『ロゴス(Logos)』となっています。すなわち,『思いを表すこと』を意味します。これは主の別称でした。この用語は奇妙に思われるかもしれませんが,適切です。わたしたちは自分の思いをほかの人々に伝えるのに言葉を使います。そのように,イエスは,世の人々に対する御父の『言葉』すなわち思いを伝える御方でした。」(「わたしたちの主—キリストなるイエス」『リアホナ』2000年4月号,4)

預言者ジョセフ・スミスに明らかにされたように,バプテスマのヨハネはイエス・キリストは「御父の……独り子」(教義と聖約93:11)であって「世の光であり,世の贖い主であ〔る〕」(教義と聖約93:9)と証しています。ラッセル・M・ネルソン大管長はこれらの真理について次のように証しています。

「救いの計画が備えられたのは地の基が築かれる前のことでした。その計画には神の王国を受け継ぐ栄えある可能性が含まれていました。

この計画の中枢を成していたのはイエス・キリストの贖罪でした。イエスは前世の会議において,わたしたちの罪を贖い,肉体と霊の死の縄目を断つよう御父から予任されていました。イエスはこのように宣言しておられます。『わたしは,自分の民を贖うために世の初めから備えられた者である。……わたしによって全人類は命を得る。すなわち,わたしの名を信じる者は永遠に命を得る。』〔エテル3:14〕」(「堅固な土台」『リアホナ』2002年7月号,83)

教義と聖約93:11-17。救い主は「恵みに恵みを受け続け,ついに完全を受けられた」

〔神殿の中の少年イエス・キリストの画像〕

イエス・キリストは「最初から完全は受けず,恵みに恵みを加えられた」(教義と聖約93:12-14参照)。

教義と聖約93:16-17に記録されているように,バプテスマのヨハネは,イエス・キリストは「御父の完全な栄光を受けられた」,すなわち「天においても地においても,一切の権威を受けられた。そして,御父の栄光は彼とともにあった」と証しています。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は次のように証しています。「救い主は初めから完全を得ておられたのではありませんでした。体を得て復活された後に,天と地におけるすべての力が与えられました。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・フィールディング・スミス』289)イエス・キリストは前世では大いなるエホバであり,すべての力を持ち,万物の創造主として,御父を代表しておられました。しかし,イエスが地上にお生まれになったときには,「最初から完全は受け〔ません〕」でした(教義と聖約93:12-14参照。ピリピ2:5-7も参照)。

ロレンゾ・スノー大管長(1814-1901年)は次のように説明しています。「イエスが飼い葉おけに寝かされていた無力な幼子であったとき,御自分が神の御子であることも,かつて地球を創造したことも御存じではありませんでした。ヘロデの布告が出されたとき,そのことについて何も御存じありませんでした。幼子イエスに御自分を救う力はなく,〔ヨセフとマリヤ〕はその布告の実施からイエスを守るため,幼子を連れてエジプトに〔逃げ〕なければなりませんでした。……イエスは成長して大人になられました。その間に,御自分が何者であり,どのような目的のためにこの世におられるのかを知らされました。御自分がこの世に来る前に栄光と力を持っておられたことを知らされたのでした。」(『歴代大管長の教え—ロレンゾ・スノー』250-251参照)

〔エジプトへ逃れる画像〕

ヨセフとマリアは,イエスが自分自身で御自分を守れるようになるまで,幼いイエスを守った。

ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように教えています。

「救い主はこの世に生まれる前に神であられ,その資格を失うことなく地上に降誕されました。この世に生まれて来ても前世のときとまったく同じように神であられました。しかしこの現世では,主もほかのすべての子らと同じように,少しずつ知識を得る必要があったようです。

……疑いなく,イエスは地上に来たとき,わたしたちと同じ状態に入られました。すなわちすべてのことを忘れ,恵みに恵みを加えられて成長なさらなければならなかったのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・フィールディング・スミス』 287-288参照)

恵み」とは,「神の憐れみと愛を通して授けられる助けや力」です(『聖句ガイド』「恵み」の項,scriptures.lds.org)。この世において,イエス・キリストは「ここに少し,そこにも少し」学び,成長しなければなりませんでした。イエスは日々,天父の恵み,すなわち神から助けと強さが与えられるように求め,知識と力を得ていかれ,ついには御父の栄光のすべてを受けられました。

〔バプテスマを受けるイエスの画像〕

イエス・キリストがバプテスマを受けられたとき,聖霊が降り,天からの声がこう宣言した。「これはわたしの愛する子である。」(教義と聖約93:15

教義と聖約93:19-20。主はわたしたちが御自分や御父のようになるように招いておられる

主は,日の栄えの栄光を受け継ぐ人は,「神の完全と神の恵み」を受けることを明らかにされました(教義と聖約76:94)。この「完全」とは約束された永遠の命,つまり,神の前に行き,御父と御子のようになるということです(教義と聖約76:53-62参照)。主は,御自分に関するバプテスマのヨハネの教えを明らかにされた理由をこう説明しておられます。

「わたしはこれらの言葉をあなたがたに与える。それは,あなたがたが礼拝する方法を理解して知り,また自分が礼拝するものを知ることによって,あなたがたがわたしの名により父のもとに来て,定められたときに父の完全を受けられるようにするためである。

あなたがたは,わたしの戒めを守るならば,父の完全を受け,わたしが父によって受けているように,あなたがたはわたしによって栄光を受けるからである。」(教義と聖約93:19-20

1844年4月7日,預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,ノーブーの聖徒たちに次のように教えました。

「これが永遠の命です。すなわち,唯一の,知恵あるまことの神を知ることです。そして皆さんはどのようにして自ら神々と……なるかを学ばなければなりません。……低い階級から別の階級へ,小さな能力から大きな能力へ,恵みから恵みへ,……と進んで行き,ついには死者の復活に達し,永遠の燃える火の中に住み,永遠の力をもって座に着いている人々のように,栄光のうちに座に着くことができるようになるのです。 ……

…… 〔すでにこの世を去った義人たちは〕再びよみがえり,不死不滅の栄光をもって永遠の燃える火の中に住むでしょう。もう悲しむことも,苦しむことも,死ぬこともなく,神の相続人となり,イエス・キリストと共同の相続人となるでしょう。それはどういうことでしょうか。同じ力と,同じ栄光と,同じ昇栄を受け継ぎ,ついには神の地位に達し,前に歩んだ人々と同じように,永遠の力の座に上るということです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』221-222

教義と聖約93:21-39

主は聖徒たちに,真理と光を受ける方法について教えておられる

教義と聖約93:21-22。「長子の教会」

イエス・キリストは,天の御父のすべての霊の子供たちの長子であられます。イエス・キリストは御父の長子なので,御父が持っておられるすべてのものの「相続者と定め」られています(へブル1:2)。しかし,主は天の御父の子供たちが皆,この受け継ぎを共有するようにと願っておられます。イエス・キリストの福音の儀式と聖約を受け,またそれに従うことによって,わたしたちは「キリストと共同の相続人」となり(ローマ8:17),「長子の教会」の一員となることができます(教義と聖約93:22教義と聖約76:51-54も参照)。このようにして,わたしたちも御父がお持ちのすべてを受けることができます(教義と聖約76:5584:37-38参照)。

教義と聖約93:21-28。「わたしは真理の御霊である」

イエス・キリストはエルサレムの御自分の弟子たちに,こう宣言されました。 「わたしは道であり,真理であり,命である。」(ヨハネ14:6)今日,主はこう証しておられます。「わたしは……『完全な真理,すなわちすべての真理を受け〔た〕』」ので,「わたしは真理の御霊であ〔る。〕」(教義と聖約93:26)以前に受けた教義と聖約の中に記録されいてる啓示の中で,キリストの御霊はすべての真理と光の源であると見なされています(教義と聖約84:45-4688:6-13参照)。教義と聖約93章に記録されている啓示の中で,わたしたちも戒めを守ることによって,真理と光の中で成長し,ついに「真理によって栄光を受けて,すべてのことを知るようになる」と主は説明されています(教義と聖約93:28教義と聖約50:24も参照)。これは,どうすればイエス・キリストに従う人が,イエス・キリストによってイエス・キリストのようになれるかについての一例です。

預言者ジョセフ・スミスは,わたしたちが真理と光を求めなければならない理由について次のように教えています。「神は人を,教えを受けることのできる心を持ち,天からの光に向ける注意と熱意の度合いに応じて増大する知力を持つ者として創造されたのです。人は完成に近づくほどに視野が開け,喜びが大きくなっていきます。そしてついには人生の様々な悪に打ち勝ち,罪に対する望みを一切持たなくなります。そしてその信仰は,古代の聖徒たちのように,造り主の力と栄光に包まれて,主とともに住むために引き上げられるほどの状態に到達します。しかしこれは,だれ一人として瞬時に到達したことのない状態であるとわたしたちは考えています。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』210-211

教義と聖約93:29。「英知は……創造されることも,作られることもな〔い〕」

「英知」」という言葉は,「人が霊の子供としてもうけられる前から存在していた霊の元素」を表すときにも使われます(『聖句ガイド』「英知」の項,scriptures.lds.org)。しかし,主は英知の性質についてはほとんど明らかにされていません。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように教えています。

「末日聖徒の文筆家の中で英知がいかなるものかについて説明しようと努力してきた人がいるが,それは無駄なことである。このことについては,主が断片的に啓示された以上のことは与えられていないのである。しかしわたしたちは,英知と呼ばれるものが常に実在していることを知っている。それは人間の一部として永遠に存在するものであり,創造されたものでも作られたものでもない。この英知に霊が結合して霊体を構成するのである。

人の霊は,その後,神から生まれた存在である英知と霊が結合したものとなるのである。」(The Progress of Man [1936], 11)

預言者ジョセフ・スミスは,永遠の英知の性質について次のような考察を教えています。

「採り上げたいテーマがもう一つあります。人を高めると思われるものです。……それは死者,すなわち魂,人の精神の復活に関する事柄,不滅の霊に関連する事柄です。霊はどこからやって来たのでしょうか。学者や神学博士たちは皆,神が初めに霊を創造されたと言っていますが,そうではありません。わたしの見るところでは,そのような考えは人を軽んじています。わたしはそのような教義を信じるほど愚かではありません。世界の果てに至るすべての人々よ,聞いてください。神がわたしにこのことを告げられたのです。たとえ皆さんがわたしを信じないとしても,その真理が無効となることはないでしょう。……

わたしが申し上げているのは,人の霊は不滅であるということです。霊の英知が不滅であると言いながら,それに初めがあると言うのは,道理にかなっているでしょうか。霊の英知には初めがなく,終わりもありません。……

英知は永遠であり,自立自存の原則に基づいて存在しています。英知は代々,一つの霊であり,創造されたものではありません。……

人にとって第一の原則は,神と同様,独自に存在していることです。神は御自身がもろもろの霊たちと栄光の中にいることを御覧になり,英知においてはるかに優れておられたので,ほかの者たちも御自分のように進歩する特権にあずかるように律法を定めることがふさわしいとお考えになりました。神とわたしたちとの関係において,わたしたちは知識を増さなければならない立場にあります。神は弱い英知たちに教えを授けるための律法を定める力をお持ちです。彼らが御自分のように昇栄し,栄光に栄光を加えられ,霊の世界で救いを得るために必要なあらゆる知識と力と栄光と英知を得られるようにするためです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』209-210

大管長会のマリオン・G・ロムニー管長(1897-1988年)は,永遠の英知とわたしたちの神の霊の子供としての身分との関係について次のように説明しています。「人の霊は『神のもとに生まれた息子や娘』なのです(教義と聖約76:24)。独立してに存在していた英知は,この誕生の過程を経て,それぞれの霊の存在として組織されたのです。」(「人の値」『聖徒の道』1979年2月号,19参照)

教義と聖約93:30-32。行動するという選択の自由

前世で天での戦いは,サタンが神に背いて,「人の選択の自由を損なおうとした」(モーセ4:3)ときに起こりました。そして,サタンに従った者たちは,その選択の自由を使って悪を選び,神に背きました(教義と聖約29:36参照)。この地上において,わたしたちは自ら行動する選択の自由を持っています(教義と聖約58:26-29参照)。選択の自由と行動する能力がなければ,「存在というものはない」のです(教義と聖約93:302ニーファイ2:11-13も参照)。

神は,子供たちが選択肢が分かるように真理と光をお与えになりました。神の光を受けることを選ばない人は,たとえ神の光を拒む方が幸せになると信じたとしても「罪の宣告の下」にあります(教義と聖約93:32)。十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)はこう述べています。「あまりにも多くの人が,自由とは永遠の律法に従うか従わないかを選択すること,または,間違ったことですが,永遠の律法を変える自由のことだという誤った考えを持っています。決してそうではないのです。究極的に,自由とは永遠の選択肢の中で選ぶことですが,選択肢を変えることではありません。わたしたちは罪悪か幸福を選択することができますが,幸福を伴う罪悪を選択することはできません。」(“Insights from My Life”[Brigham Young University devotional, Oct. 26, 1976], 7, speeches.byu.edu

教義と聖約93:33-35。「分離しないように結合した霊と元素は,満ちみちる喜びを受ける」

主は最終的には霊と肉体は「分離しないように結合し」「満ちみちる喜びを受ける」ことになると教えておられます(教義と聖約93:33教義と聖約138:16-17も参照)。ジョセフ・F・スミス大管長(1838-1918年)は次のように教えています。「わたしたちの内には死の種があるので,死すべき存在と呼ばれています。しかし,わたしたちの内には永遠の命の芽もあるので,実際には不死不滅の存在なのです。人は,命と力,英知,能力を与える霊と,霊の住まいである肉体から成る二重の存在です。……この霊と肉体が結合して人間になります。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・F・スミス』88)救い主が持っておられるように満ちみちる喜びを受ける唯一の方法は,わたしたちの「霊と元素」が「分離しないように結合〔される〕」ことです(教義と聖約93:33)。

わたしたちは神の形に造られており,キリストの御霊を通して生を受けているので,わたしたちの体は「神の幕屋」すなわち「神殿」と呼ばれています(教義と聖約93:351コリント6:19-20教義と聖約88:12-13モーセ2:26-27も参照)。

十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,わたしたちの肉体の大切さについて次のように勧告しています。

「肉体は御父の幸福の計画とわたしたちの霊的な成長にとって非常に重要であるため,ルシフェルがわたしたちの体を不適切に用いるように誘惑することでわたしたちの進歩を妨げようとするのは,驚くに当たりません。……

わたしたちの肉体は実際に神の宮なのです。したがって,皆さんもわたしも,自分の宮に何を取り込み,自分の宮に何を着せ,自分の宮何を行い,自分の宮を使って何を行うか,注意深く考えなければなりません。わたしたちは教会の神殿と,宮である自分の肉体を対比することによって,数多くの重要な教訓を学ぶことができます。」(“Ye Are the Temple of God,” Ensign, Sept. 2001, 18

教義と聖約93:36。「神の栄光は英知である」

主は「神の栄光は英知である。言い換えれば,光と真理である」と教えておられます(教義と聖約93:36)。この英知とは単なる知識ではなく,神の計画に従って正しく知識を用いる知恵のことです(教義と聖約130:18-19参照)。ジョセフ・F・スミス大管長は次のように教えています。

「もしあなたが真理を愛し,福音を心から受け入れて愛しているならば,あなたの英知は増し加えられ,真理に対する理解は,ほかのどのような方法よりも拡大されます。真理はこの世の何にも増して,人々に自由を得させるものです。……真理を知って,真理の光の中を歩むならば,人の過ちを避けて通ることができます。……あらゆる迷信と不正を超越することができるでしょう。神はあなたを承認し,……祝福を与えてくださるでしょう。……

真理を学んだり,無知をなくしたりすることだけが必要なのではありません。自分自身を守り,子供たちや隣人,家庭,そして幸福を守るために必要な仕事や物事に対し,得た理解と知識を応用することが必要なのです。

書物の中から真理を探し求め,生ける預言者と教師が語る真理に耳を傾けて受け入れ,最善の知識と事実で精神を豊かにしてください。主の名によって語る人々に対して,主は無知ではなく謙遜な心を要求しておられます。英知は神の栄光です。人が無知で救われることは不可能です〔教義と聖約93:36131:6参照〕。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・F・スミス』314318

教義と聖約93:37-39。「光と真理はあの悪しき者を捨てる」

神の子供たちは,イエス・キリストによってアダムとエバの堕落による結果から贖われたので,「神の前に罪のない」状態で現世に生まれてきました(教義と聖約93:38)。キリストの光は「世に来るすべての人」に与えられます(教義と聖約84:46)。両親は「子供たちを光と真理の中で育てる」義務があります(教義と聖約93:40)。しかし,神の子供たちが不従順なとき,「邪悪な者が来て,……光と真理を取り去〔り〕」ます(教義と聖約93:39)。十二使徒定員会のロバート・D・ヘイルズ長老は,わたしたちが戒めを守らなかった結果やって来る暗闇について次のように述べています。

「光は闇を追い払います。光があるときに,闇は消えるか去って行かなければなりません。もっと大切なことは,光が弱まったり,去って行ったりしないかぎり,闇は光に打ち勝つことができないということです。聖霊のもたらす霊的な光があるときに,サタンの闇は去って行きます。

「愛する教会の若い男性,女性の皆さん,わたしたちは光の力と暗闇の力の間で繰り広げられている戦いに加わっています。イエス・キリストとその福音の光の側に立っていないと,暗闇の力によって破滅を迎えることになります。しかし,救い主は言われました。『わたしは光としてこの世にきた。』〔ヨハネ12:46〕『わたしに従って来る者は,やみのうちを歩くことがなく,命の光をもつであろう。』〔ヨハネ8:12〕……

この世において,暗闇は遠く離れた所にあるわけではありません。いつも近くに潜んでいて,入り込む機をうかがっているのです。『もし正しい事をしていないのでしたら,罪が門口に待ち伏せています』と主は言われました〔創世4:7〕。

それは物理法則と同じように予測可能です。戒めに従わないことによって,あるいは聖餐を受けず,祈らず,聖文を研究しないことによって,御霊の光を明滅させたり,弱めたりすると,悪魔の暗闇は必ず入り込んできます。『あの邪悪な者が来て,……不従順によって,……光と真理を取り去る』のです〔教義と聖約93:39)。」(「闇を出て,驚くべき主の光の中へ」『リアホナ』2002年7月号,78参照)

教義と聖約93:40-53

主は御自分の僕たちに子供たちを光と真理の中で育てるように命じておられる

教義と聖約93:40。「あなたがたの子供たちを光と真理の中で育てるように」

〔イエスと子供たちの画像〕

主は,「子供たちを光と真理の中で育てるように」聖徒たちに命じておられる(教義と聖約93:38-40参照)。

父なる神が御自分の子供たちのために光と真理をお与えになったのと同様,両親は「子供たちを光と真理の中で育てるように」命じられています(教義と聖約93:40)。十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は次のように教えています。

「子供に福音を押し付けたくはないと何人かの親が言うのを聞いたことがあります。子供には何を信じて何に従うかを自分で決めてほしいと言うのです。このようにすることで,子供に選択の自由を使わせていると考えているのです。このような親が忘れているのは,選択の自由を賢く使うためには,真理に関する知識,あるがままの事物の知識が必要だということです〔教義と聖約93:24参照〕。それがなければ,自分の前に置かれる選択肢を正しく理解し評価するよう若人に期待することはとうていできません。敵対者がどんな手を使って子供に忍び寄るか,親は真剣に考えてみるべきです。サタンとその手下は目に見えるものだけを追い求めるよう仕向けるわけではありません。罪を犯し自分勝手な行動を取るよう,あの手この手で執拗に誘い込むのです。

福音に対して中立の立場を取るということは,実は神とその権能の実在を否定することです。子供がはっきりと人生の選択肢を見極め,自分で考えられるよう望むのであれば,神が確かにいて何でもおできになることをわたしたちがしっかりと認識しなければなりません。」(「道徳面での鍛錬」『リアホナ』2009年11月号,107)

本書の教義と聖約68:25-28の解説および教義と聖約68:25の解説も参照してください。

教義と聖約93:41-50。「自分自身の家を整え〔なさい〕」

教義と聖約93章に記録されている啓示の終わりに,主は子供の育て方について,大管長会のそれぞれの会員とニューエル・K・ホイットニービショップを戒められました。これらの教会指導者に与えられた神聖な教えは,子供たちを義のうちに育てようとしているすべての親にとって大切な勧告の言葉です(教義と聖約93:41-50参照)。ロバート・D・ヘイルズ長老は,次のような霊感に満ちた導きを親に与えています。

「大管長会はすべての両親に,次のように呼びかけました。『子供たちを福音の原則の中で教え育てることに全力を尽くしてくださるようお願いいたします。そのことによって子供たちは教会に活発であり続けるでしょう。家庭は義にかなった生活の基であり,ほかのどのような手段も,家庭に代わる役割を果たし得ませんし,神から与えられたこの責任を遂行するうえでの大切な役割を果たしてはくれません。』

……大管長会が教えているように,福音の原則の中で子供を教え育てるならば,両親は破壊的な要素から家族を守ることができます。大管長会はさらに次のように勧めています。『家族の祈り,家庭の夕べ,福音の研究と指導,そして健全な家族活動を最優先するようお勧めします。必要とされるそのほかの事柄や活動がどれほど価値のある適切なものであったとしても,それらは,親と家族だけが全うできる天与の義務に取って代えられるものでは決してありません。』(大管長会の手紙,1999年2月11日付。cited in Church News, 27 Feb. 1999, 3

主御自身と教義による助けがあれば,家族は,様々なチャレンジに隠れた悪の力をすべて察知し,克服することができます。家族に必要なものが何であれ,預言者の勧告に従うときに,家族を強めることができるのです。

家族を強める鍵は,主の御霊を家庭に招くことです。家族の目標は, 細くて狭い道を歩いて行くことです。」(「家族を強めること—わたしたちに託された神聖な義務『リアホナ』1999年7月号,37-38)

ニューエル・K・ホイットニーにお与えになった勧告の中で,主は「家族を整える必要がある。また,家族の者に,家庭でもっと勤勉に家庭のことに携わ〔る〕……必要がある」と勧められました(教義と聖約93:50)。デビッド・A・ベドナー長老は,この聖句を使って,親が主の御霊に満たされた家庭を作る方法について次のように述べています。

「愛する人に愛を伝えることで,家庭でもっと勤勉に家庭のことに携われるようになります。飾り立てた言葉や長々しい言葉は必要ありません。真心を込めて,頻繁に愛を表現するだけでよいのです。……

家庭でもっと勤勉に家庭のことに携わるもう一つの方法は,聖霊の証を通して真実であると知っている事柄について,愛する人に証することです。証するには,言葉数を多くし巧みな表現を使う必要はありません。……偉大な幸福の計画について,また回復について純粋な証を,自分の家庭という囲いの中で述べることができますし,そうすべきです。……

一回一回の家族の祈り,一回一回の家族の聖文学習,一回一回の家庭の夕べが,心のキャンバスに描かれた1本の線なのです。……一見取るに足りないことを一貫して行うことで,意義深い霊的な実が得られるのです。『それゆえ,善を行うことに疲れ果ててはならない。 あなたがたは一つの大いなる業の基を据えつつあるからである。そして,小さなことから大いなることが生じるのである。』(教義と聖約64:33)一貫性とは,個人の生活の中に大いなる業の基を据え,家庭でもっと勤勉に家庭のことに携わるために重要な原則なのです。……

主の助けを求め,主の力の内にあるならば,言葉と行いのギャップ,愛を表現することと常に行動で愛を示すことのギャップ,証を述べることと確固として証に生きることとのギャップを,少しずつ埋められます。わたしたちは,家庭でもっと勤勉に家庭のことに携われるようになります。そのために,さらに忠実にイエス・キリストの回復された福音を学び,福音に生き,福音を愛するのです。」(「家庭でもっと勤勉に家庭のことに携わる」『リアホナ』2009年11月号,17,19-20)

教義と聖約93:51-53。「急ぎなさい」

主はシドニー・リグドン,預言者ジョセフ・スミス,フレデリック・G・ウィリアムズに「急ぎなさい」,そして福音を宣べ伝えるように指示をお与えになりました(教義と聖約93:51-52参照)。主はまた,預言者に「聖文を急いで翻訳〔する〕」ように指示されました(教義と聖約93:53)。これは預言者による聖書の霊感訳のことを指しています。主の勧告に忠実であることを表すために,ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,この啓示が与えられたちょうど2か月後の1833年7月2日に,聖書の翻訳を終えました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 166)。