「第50章:教義と聖約129-130章」『教義と聖約 生徒用資料』
「第50章」『教義と聖約 生徒用資料』
第50章
教義と聖約129-130章
紹介とタイムライン
1843年2月9日,預言者ジョセフ・スミスはパーリー・P・プラットとそのほか数人に,天の使者と悪霊とを見分ける方法について教えた。これらの教えは教義と聖約129章に記録されている。1843年4月2日,預言者はイリノイ州レイマスにおいて教会員たちと会い,神会,イエス・キリストの再臨,神の祝福を受ける方法など,様々な福音のテーマに関する教義を教えた。これらの教えは教義と聖約130章に記録されている。
教義と聖約129章:追加の歴史的背景
預言者ジョセフ・スミスは,天の使者の訪れを幾度も受け,彼らと交わりを持ちました。教会員にあてた1842年9月7日付の手紙の中で,預言者は,天の使者たちの訪れを含む,回復の驚くべき出来事を幾つか挙げています(マシュー・マクブライド「死者のためのバプテスマに関する手紙」『啓示の背景』, マシュー・マクブライドとジェームズ・ゴールドバーグ編またはhistory.lds.org参照)。預言者は,「悪魔が光の天使として現れたときにそれを暴いた,サスケハナ〔川〕の岸辺における〔天使〕ミカエルの声」を聞いたときのことに言及しています(教義と聖約128:20参照)。預言者は,ミカエルがどのようにして悪魔を見破ったのかについては説明していませんが,1839年の夏以前のどこかの時点で,天の使者と悪魔とその使いを見分ける方法を学びました。1839年6月27日に行われた大管長会と十二使徒定員会の集会において,ウィルフォード・ウッドラフは,「神の王国の鍵」に関する,預言者ジョセフ・スミスの教えを記録しています。その鍵によって,使徒は「〔悪魔〕が光の天使であるかのように装っているときにこれを見破る」ことができたのです(“Discourse, 27 June 1839, as Reported by Wilford Woodruff,” page [85], josephsmithpapers.org)。翌年,預言者は,イギリス出身の新しい改宗者,ウィリアム・クレイトンに,同様の教えを与えています。1842年5月,預言者はノーブーで説教をし,こう教えています。「それらの鍵とは,それによって偽りの霊〔や〕人物を真実であるか見抜くことのできる特定のしるし〔や〕言葉です。これについては,神殿が完成するまで長老たちに明らかにされません。」(“Discourse, 1 May 1842, as Reported by Willard Richards,” page 94, josephsmithpapers.org)。
預言者ジョセフ・スミスが1839年に,初めて十二使徒定員会に天使と霊の現れに関して教えたとき,パーリー・P・プラットを含む数名の使徒はその場にいませんでした。プラット長老は,「恐らく……この事柄に関するジョセフ・スミスの教えを,イギリスで十二使徒とともに働いているときに学んだと思われます。」1843年2月7日に伝道からノーブーに戻った後,プラット長老は「明らかに,ジョセフ・スミスが1839年に十二使徒に教えたことを,ぜひとも本人から直接学びたいと思っている」ようでした(“Historical context and overview of Doctrine and Covenants 129,” in Dennis L.Largey and Larry E.Dahl, eds., Doctrine and Covenants Reference Companion [2012], 844)。1843年2月9日,プラット長老はそのほかの数人とともに預言者に会いました。この会合において,預言者はプラット長老と同僚たちに,天の使者と悪霊を見分けることに関して教えました。この日のことについて預言者が記した日記は,教義と聖約129章の原稿の源となっています(See “Historical context and overview of Doctrine and Covenants 129,” 844–45)。
教義と聖約129章
預言者ジョセフ・スミスは,仕える天使と悪霊について教える
教義と聖約129:1-3。「天に二種の存在者がいる」
聖文の教えによると,神は御自身の子供たちに天の使者を遣わし,「キリストの命じられる御言葉のとおりに教え導〔き〕」,「〔人〕を招いて悔い改めさせ」,御自身の業が成し遂げられるよう「道を備え」られます(モロナイ7:30-31)。回復の一環として,天使たちが預言者ジョセフ・スミスのもとを訪れ,神の御心を示し,神権の鍵を回復しました(教義と聖約13章;110章;128:20-21;ジョセフ・スミス—歴史1:30-43参照)。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,次のように教えています。「初めから,後の神権時代に至るまで,神は天使を使者として使い,御自分の子供たちに愛と関心を示されました。」(「天使の務め」『リアホナ』2008年11月号,29参照)
教義と聖約129章に記されている指示において,預言者ジョセフ・スミスは,「天に二種の存在者がいる」と説明しています(教義と聖約129:1)。第一は「天使」であり,彼らは「骨肉の体を持つ復活した人々」(教義と聖約129:1)です。このことについて預言者は,復活した救い主が弟子たちに御姿を現わされたことに関するルカの記録を引用し,詳しく説明しています(教義と聖約129:2参照。ルカ24:36-43も参照)。天にいる第二の存在者は,「完全な者とされた正しい人々の霊」であり,「彼らは復活していないが,同じ栄光を受け継ぐ」人々です(教義と聖約129:3)。「正しい人々」という言葉は,福音の律法と儀式に従って生きる人々を指します。そうした人々は,「自らの血を流すことによってこの完全な贖罪を成し遂げられた,新しい聖約の仲保者イエスを通じて」聖められ,「完全な者とされ」ることができます(教義と聖約76:69)。このように,教義と聖約129:3にある「完全な者とされた正しい人々の霊」という言葉は,「かつては死すべき体を持っていたが,今は復活を待っている〔義にかなった〕者〔の霊〕」を指しています(『聖句ガイド』「天使」の項,scriptures.lds.org)。
預言者ジョセフ・スミスが復活した者についてのみ天使と述べているのに対し,大管長会のジョージ・Q・キャノン管長(1827-1901年)は,次のように説明しています。「広い意味で言えば,天の御父の使者として働く者はだれであろうと天使です。それは,神かもしれないし,復活した人や正しい人の霊かもしれません。」(“Editorial Thoughts,” The Juvenile Instructor, Jan. 15, 1891, 53)ですから,教義と聖約129章で述べられている天の使者に加え,神の天使には「まだ骨肉の体を得ていない」者(聖句ガイド「天使」の項,scriptures.lds.org。エテル3:6-16;モーセ5:6も参照),また身を変えられた者,すなわち死すべき体が変えられ,痛みや死を経験することのない人々も含まれます(3ニーファイ28:6-9;モルモン8:10-11;教義と聖約7:1-3参照)。
教義と聖約129:4-9。天の使者と,悪魔およびその使いとを見分ける
神にその業が成し遂げられるよう助ける天使がいるのと同様に,悪魔にも,神の業を滅ぼそうとして悪魔に従う霊たちがいます。悪魔は「実際には神の霊の子であり,かつては神の前で権威を持っていた天使」(イザヤ14:12;2ニーファイ2:17)でした(『聖句ガイド』「悪魔」の項,scriptures.lds.org。教義と聖約76:25-27も参照)。前世において,悪魔が天の御父の救いの計画を拒んだとき,「天の衆群の三分の一」,つまり神の霊の子供の三分の一が,悪魔とともに背きました(教義と聖約29:36。モーセ4:1-4;アブラハム3:27-28も参照)。「彼らは天から投げ落とされ,肉体を受けて現世の生活を体験する機会を与えられず,やがては永遠の罰の定めを受ける。悪魔は天から投げ落とされて以来,絶えずすべての人を欺いて神の業から遠ざけ,自分と同じように惨めにしようとしている(黙示12:9;2ニーファイ2:27;9:8-9)。」(『聖句ガイド』「悪魔」の項,scriptures.lds.org)モルモン書に記されているように,反キリストであったコリホルは,「天使の姿で〔彼〕に現われ」た「悪魔」によって「欺〔かれた〕」ことを認めています(アルマ30:53)。悪魔とその使いは欺くことに長けており,神から遣わされるまことの使者がまとう光を装おうとします(教義と聖約128:20;129:8参照)。
こうした理由から,預言者ジョセフ・スミスは,「いかなる働きかけでもそれが神からのものかどうかを知るための三つの大いなる鍵」について説明しています(教義と聖約129:9)。これらの鍵,すなわち指標には,悪魔やその使いが「光の天使として」(教義と聖約129:8)現れたとき,これを天の使者と見分けるために必要となる知識が含まれています。「復活した人々」は「骨肉の体を持つ」(教義と聖約129:1)ため,復活した者である天の使者は握手を求められたとき,「彼はそれに応じて,あなたはその手の感触を覚える」でしょう。これにより,その天使が神から遣わされたまことの使者であることが分かります(教義と聖約129:4-5参照)。
人々の中には,悪魔やその使いが,握手によって正体が明らかになることを知っていながら「手を差し出す」(教義と聖約129:8)のはなぜか,不思議に思う人もいることでしょう。その答えの一部は,預言者ジョセフ・スミスによる次の教えの中にあるかもしれません。「悪霊にも限界,制限,律法があり,彼らはそれによって治められているのです。」(“Try the Spirits,” Times and Seasons, Apr. 1, 1842, 745)天使と霊を治める律法を理解している人は,神から遣わされたまことの使者と,人を欺こうとする偽りの霊とを見分けることができます。
教義と聖約130章:追加の歴史的背景
1843年4月1日,預言者ジョセフ・スミスはウィリアム・クレイトン,オーソン・ハイド,J・B・バッケンストスを伴い,家族や友人を訪問するためにノーブーを離れ,20マイル(約32キロ)ほど南東にあるイリノイ州レイマスまで旅をしました。翌朝,預言者はレイマスに住む教会員たちと集会を開きます。その集会での説教において,オーソン・ハイドは,救い主の再臨について話をし,新約聖書の聖句について自らの解釈を述べました(See The Joseph Smith Papers, Journals, Volume 2: December 1841–April 1843, ed. Andrew H.Hedges and others [2011], 321, 323)。
午前の集会の後,預言者ジョセフ・スミスとその同僚たちは,ジョセフの姉ソフロニア・スミス・マクレアリーの家で昼食を取りました。昼食の席で,預言者が,「ハイド兄弟,幾つか訂正したいことがあります」と言うと,ハイド長老は「ありがたく承ります」と謙遜に答えました。そこで,預言者はハイド長老の聖句に関する解釈を訂正しました(See The Joseph Smith Papers, Journals, Volume 2: December 1841–April 1843, 323–24; spelling standardized.)。ウィリアム・クレイトンの質問に答えて,預言者はさらに教義に関する洞察を分かち合いました(see Lyndon W.Cook, The Revelations of the Prophet Joseph Smith [1985], 289)。預言者はレイマスに住む教会員たちに,その日の午後と夜に開かれた2度にわたる別の集会においても,話をしました。その説教の中で,預言者は,自分がオーソン・ハイドに与えた訂正を繰り返し,神会の真の特質について教えました。預言者はまた,霊的な知識を得ることの重要性と,神の祝福を受けるために神の律法に従うことの必要性を教えています(see The Joseph Smith Papers, Journals, Volume 2: December 1841–April 1843, 324–26)。預言者の教えは彼の日記に記され,それが教義と聖約130章の原稿の基となっています。
教義と聖約130章
預言者ジョセフ・スミス,教義を明確にし,教える
教義と聖約130:1-3。「御父と御子」の御姿
1843年4月2日にイリノイ州レイマスで行った説教の中で,オーソン・ハイドは1ヨハネ3:2および黙示19:11を使い,イエス・キリストが再臨されるとき,「御子は戦士として白馬に乗って御姿を現わされるだろう」と教えました。ハイド長老は,教会員はこのようにして「〔救い主に〕似た者となり」,「わたしたちは同じ霊を持つのかもしれない」と述べました。そしてヨハネ14:23を引用し,「御父〔と〕御子がわたしたちの心の中に住まわれることは,わたしたちに与えられた特権である」と教えました(In The Joseph Smith Papers, Journals, Volume 2: December 1841–April 1843, 323.)。
預言者ジョセフ・スミスは,ハイド長老の誤った聖句の解釈を正し,次のように教えています。「救い主が御姿を現されるとき,わたしたちは,救い主をありのままに見るであろう。わたしたちは,救い主が〔その姿かたちにおいて〕わたしたちのような人間であるのを見るであろう。」(教義と聖約130:1)ただし救い主の体は栄光を受けた復活体です(教義と聖約130:22参照)。預言者はさらに,次のように説明しています。「ここで〔地上における死すべき者としての〕わたしたちの間にある交わり〔社会的な関係〕が,そこでも」,つまり主の御前にいるときでも「わたしたちの間にある。ただし,その交わりには,わたしたちが今享受していない永遠の栄光が伴う。」(教義と聖約130:2)
預言者ジョセフ・スミスはさらに,ヨハネ14:23に記されている約束は,「御父と御子が〔文字どおり〕〔人の〕心の中に住まわれる」ことを指すのではないと教えています(教義と聖約130:3)。こうした「昔からの諸教派の観念〔は〕誤りであ〔り〕」(教義と聖約130:3),神は霊であることを前提としたものです。預言者は,御父と御子は「人間と同じように触れることのできる骨肉の体を持っておられ」(教義と聖約130:22),従って,肉体を持つ,栄光に満ちた復活した御方であると明言しました。1839年夏に行われた十二使徒定員会の会員たちとの集会において,預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,救い主が御自分と御父が戒めを守る者のところに「行って,〔彼ら〕と一緒に住むであろう」(ヨハネ14:23)と教えられたとき,主は第二の慰め主の賜物について言及しておられたと説明しています。
「キリストを信じる信仰を持ち,自分の罪を悔い改め,罪の赦しのためのバプテスマを受けて,(按手によって)最初の慰め主である聖霊を受けたなら,その後も,その人が続けて神の前にへりくだり,飢え渇くように義を求め,神の一つ一つの言葉によって生活するようにしてください。そうすれば主は間もなくその人に,『息子よ,あなたは昇栄するであろう』と言われるでしょう。……主によって〔ことごとく〕試され,どんな困難にあっても主に仕えると決心していることが明らかになったとき,その人は自分の召しと選びとが確かなものとなったことを知るでしょう。そうすると,その人はもう一人の慰め主を受ける特権を得ます。この慰め主は,〔ヨハネ14:12-27〕に記録されているように,主が聖徒たちに約束された慰め主です。……さて,このもう一人の慰め主とはどなたでしょうか。それは主イエス・キリスト御自身にほかなりません。そして,これはすべての事柄の要点です。この最後の慰め主を受ける人はだれでも,折に触れてイエス・キリスト御自身の訪れ,もしくは現れを受けるでしょう。そして主はその人に御父をも現してくださり,御二方はその人とともに住まわれるでしょう。」(in Manuscript History of the Church, vol. C-1 addenda, pages 8–9, josephsmithpapers.org; underlining in original。ヨハネ14:16-23;教義と聖約88:68;93:1も参照)
教義と聖約130:2。「ここ……にある交わりが,そこでもわたしたちの間にある」
「交わり」とは,わたしたちの個人的なかかわり合いや関係のことを指しています。預言者ジョセフ・スミスが教えたところによると,忠実な教会員にとって,彼らが現世で享受する家族や友人との社会的な関係は永遠に続きますが,そこには「永遠の栄光が伴〔います〕。」(教義と聖約130:2)大管長会のヘンリー・Bアイリング管長は,家族関係の永続性について証しています。
「永遠の関係を持てるという思いと希望は,死すべき世の一部である別離と孤独という試練を乗り越えさせてくれます。末日聖徒イエス・キリスト教会において忠実な者には,永遠にわたって家族の関係を保ち,さらに発展させることができるという約束が与えられています。その確かな約束は,家族のあらゆる関係を永遠にさらに良いものへと変えてくれます。
……永遠の家族についての知識が回復されたおかげで,わたしたちはあらゆる家族関係において,より希望に満たされ,より優しくなることができます。この世での最大の喜びは家族を中心とするものであり,それは来るべき世においても同じです。わたしは次のような約束が与えられていることをとても感謝しています。すなわち,もし忠実であるなら,この世で享受する交わりと同じものを,来るべき世において,永遠の栄光のうちに,とこしえに得られるということです〔教義と聖約130:2参照〕。」(「まことの生ける教会」『リアホナ』2008年5月号,22)
教義と聖約130:4-7。「過去も現在も未来もすべてのこと……は絶えず主の前にある」
ウィリアム・クレイトンが提示した,時に関する質問への答えの中で,預言者ジョセフ・スミスは,「神の時,天使の時,預言者の時,人間の時は,彼らが住んでいる惑星によって計算される」ことを認めています(教義と聖約130:4)。この教えは,ジョセフ・スミスがその1年ほど前(1842年3月)から教会が発行する新聞Times and Seasons(『タイムズ・アンド・シーズンズ』)で発表し始めた,アブラハム書における教えを再確認するものです(see “Historical context and overview of Doctrine and Covenants 130,” in Largey and Dahl, Doctrine and Covenants Reference Companion, 846)。アブラハム書は,惑星コロブの「一回転」すなわち1日は,地球に「定められた時によれば千年」に相当すると教えています(アブラハム3:4参照)。
預言者ジョセフ・スミスはこう教えています。復活し昇栄した天使たちは「この地球のような惑星には住んでおらず,彼らは神の前で,ガラスと火の海のような球体〔惑星〕の上に住んでいる。そこでは,彼らの栄光のために,過去も現在も未来もすべてのことが明らかにされ,またそれらは絶えず主の前にある」(教義と聖約130:6-7)。時の原則が,すべての事柄に関する神の先見の明とどのように関係しているかについて,十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,次のように説明しています。
「神はわたしたちのように,時間に左右される次元に住んではおられません。さらに,『すべてのものは〔神〕とともにある』〔モーセ1:6〕ので,神の予測は,単に過去にのみ基づいたものでもありません。わたしたちには分からない方法で,神は未来を予見するというよりは,実際に目にしておられるのです。なぜならすべてのものは,同時に,神の前にあるからです。……
……神は過去,現在,未来の次元に同時に存在する生ける神であられるのに対し,わたしたちは時間そのものの限界によって働きを制限されているのです。」(“A More Determined Discipleship,” Ensign, Feb. 1979, 72–73)
教義と聖約130:5。「この地球において教え導く天使たちで,この地球に属していない者,あるいはかつて属していなかった者はだれもいない」
預言者ジョセフ・スミスは,「この地球において教え導く天使たち」は,この地球にかつて住んだ者,あるいはこれから住む者であると説明しています(教義と聖約130:5)。ジョセフ・F・スミス大管長(1838-1918年)はさらに,この地球を訪れる天使たちは,地球や教え導く相手にとって馴染みの薄い者ではないと教えています。「この地球に住む者たちに導きと恵みを施すために使者が送られてくるとき,使者は見知らぬ者ではなく,わたしたちの親族,友人,同胞,同僚といった立場の者たちの中からやって来るのです。この世を去った古代の預言者たちが,地上にいる自分の仲間である人間を訪れるのです。……同様に,この地上を去った,わたしたちの父親,母親,兄弟姉妹,友人であり,忠実で,こうした権利や特権を享受するのにふさわしい人々が,再び地上に来てその親族や友人を訪れる使命を受ける場合もあります。それは,彼らが肉体において愛するようになった人々に,神の御前より,愛や警告,または叱責や教えのメッセージをもたらすためなのです。」(Gospel Doctrine, 5th ed. [1939], 435–36)
教義と聖約130:8-9。「この地球は,聖められて不滅の状態になると……一つの『ウリムとトンミム』になる」
1832年12月に与えられた啓示において,預言者ジョセフ・スミスは,次のことを学びました。「〔地球〕は日の栄えの栄光に備えられるように,すべての不義から必ず聖められなければならない。地球はその創造の目的を達した後,栄光,すなわち父なる神の臨在を冠として与えられるであろう。それによって,日の栄えの王国に属する者たちが,とこしえにいつまでも,これを所有できるようにするためである。この目的でこれは造られ,創造され〔た〕。」(教義と聖約88:18-20。教義と聖約88:25-26も参照)1843年2月18日,ジョセフ・スミスは,最終的に地球は聖められ,一つのウリムとトンミムになると教えています(see The Joseph Smith Papers, Journals, Volume 2: December 1841–April 1843, 266)。預言者は,教義と聖約130:8-9に記録されているように,1843年4月2日にこの教えを繰り返し教えています。「聖められて不滅の状態」になった地球(教義と聖約130:9)とは,救い主による福千年の統治に続いて神の日の栄えの王国となった後の,昇栄した地球を指しています。日の栄えの状態において,「この地球は……そこに住む者たちにとって一つの『ウリムとトンミム』になる」のです(教義と聖約130:9)。これは象徴的な表現です。イザヤは,将来の「水が海をおおっているように,主を知る知識が地に満ちる」(イザヤ11:9)日について述べています。ウリムとトンミムは,神の僕が啓示を受けたり,言語を翻訳をしたりするのを助ける目的で,神が備えられた道具でした(出エジプト28:30;モーサヤ8:13;教義と聖約17:1;アブラハム3:1参照)。ウリムとトンミムが神の僕に光と真理を明らかにしたように,日の栄えの状態になった地球は,神の栄光,力,知識が現れる場所となるでしょう。
十二使徒定員会のマーク・E・ピーターソン長老(1900-1984年)は,次のように証しています。
「地球は死すべき者の住み家としてのみ計画されたものではありませんでした。それどころか,はるかに偉大な未来があるのです。この地球はこのままの姿で終わることはありません。不死不滅の状態となるのです。精練の過程を経て,空のウリムとトンミムとも言うべき日の栄えの天体となるのです(教義と聖約130:9参照)。それにはさらに次の段階の神による創造の業が必要でしょう。……
地球が日の栄えの状態に変化するとき,救い主は地上におられ,御父も度々地球を訪問されます。そしてこの地球は,神の王国にあって日の栄えの栄光を受けた人々の永遠の住み家となるでしょう。
これが地球の最終的な姿です。これこそが地球創造の時に神が意図されたことでした。」(創り主,救い主『聖徒の道』1983年7月号,111参照)
日の栄えの状態になった地球に関する詳細については,本手引きの教義と聖約77:1,および教義と聖約88:17-20,25-26の解説を参照してください。
教義と聖約130:10-11。「白い石」
新約聖書の黙示録は,主が使徒ヨハネに与えられた啓示の記録です。この啓示には,厳しい試練と迫害の時代を生きた忠実な教会員に向けた希望と励ましのメッセージが含まれています。主は,世の悪に打ち勝つ者たち,すなわち神の日の栄えの王国において永遠の命を受ける者たちに,昇栄と「〔永遠の〕いのちの冠」(黙示2:7,10参照)を含む大いなる祝福を約束されました。黙示録はまた,世に「勝利を得る」者一人一人に,「白い石」が与えられると教えています(黙示2:17)。教義と聖約130章に記されている教えにおいて,預言者ジョセフ・スミスは,白い石はそれぞれが個人にとってのウリムとトンミムの役割を果たすと説明しています(教義と聖約130:10参照)。日の栄えの状態になった地球は「下位の王国,すなわち低位のすべての王国に関するすべてのこと」を明らかにし,一方,白い石は「高位の王国に関すること」を明らかにします(教義と聖約130:9-10参照)。
教義と聖約130:12-13。「難局の始まりは,サウスカロライナにある」
1832年12月25日,預言者ジョセフ・スミスは「戦争に関する啓示と預言」(教義と聖約87章,前書き)を口述しましたが,これは教義と聖約87章に記録されています。この預言は,次のように警告しています。「間もなく起こる戦争……は〔アメリカ合衆国の〕サウスカロライナの反乱で始まり,ついには多くの人の死と苦悩に終わるであろう。」(教義と聖約87:1-2)預言者は,アメリカ合衆国政府とサウスカロライナ州間の,連邦関税,すなわち輸入品に課せられる税金を巡る深刻な対立について知っていました。当時,合衆国政府は各州に,他国からの輸入品に対する高い関税を課しており,こうした税が,特に南部諸州の農民に大きな負担となっていました。1832年11月,サウスカロライナ州の政府高官たちは,連邦関税法は違憲であるとする法令を成立させ,連邦政府がサウスカロライナ州に関税法を強制しょうとするならば,合衆国を脱退すると脅しました。この危機はあわや軍事衝突を引き起こしそになりましたが,1833年2月,合衆国政府は,この問題を平和的に解決しました(ジェド・ウッドワース「平和と戦争」 『啓示の背景』マクブライドとゴールドバーグ編, または history.lds.org参照)。
危機が去り,戦争が回避されたことから,教義と聖約87章に記された預言は果たされなかったと考えた人もいたことでしょう。しかしながら,ほぼ11年後,預言者ジョセフ・スミスは,自身が1832年に受けた啓示について,再び明言しています。預言者は,救い主の再臨の前に「多くの流血を引き起こす難局〔が〕……サウスカロライナ〔州〕にあ〔り〕」,「それは恐らく」奴隷問題を巡って「起こる」であろうと主張しました(教義と聖約130:12-13)。1860年12月,奴隷に関する論争が原因となり,サウスカロライナがアメリカ合衆国から脱退(離脱)したとき,この預言の成就が始まります。4か月後,サウスカロライナのチャールストン港にあるサムター要塞にて,南北戦争の火ぶたが切って落とされたのでした。
宣教師として教義と聖約87章に記された啓示の写しを持ち歩き,人々にこれを分かち合ったオーソン・プラット長老は,この預言を教えられた人々がどう反応したかについて述べています。
「わたしは若干19歳のときに伝道に出ました。……それ以来,これらの知らせを,地に住む人たちに告げ広めてきました。わたしは,〔南北戦争が〕開始される28年ほど前にこの大いなる戦いを予告する,書き記された啓示を携えて行ったのです。この預言は印刷され,国内やそのほかの国々に,様々な言語で大いに広まっており,。預言では,サウスカロライナのどこで戦いが始まるのか,その場所が示されていました。……
〔人々は〕わたしに何と言ったでしょうか。彼らは……わたしを嘲笑し,この啓示は,神がこの末日に与えられたその他のすべての啓示に対してと同様,つまり神の権威のないものと見なしたのです。しかし見てください。時を経て,それは現実となり,この業が神の業であることが再び立証されたのです。この業に神が介在しておられ,神が古代の預言者たちの口を通して語られたことを行っておられることのもう一つの証拠となっています。」(“Discourse by Elder Orson Pratt,” Deseret News, Apr. 20, 1870, 127)
戦争に関する預言者ジョセフ・スミスの預言についてさらに詳しい説明については,本手引きの教義と聖約87章の解説を参照してください。
教義と聖約130:14-17。「人の子が来られる」
1843年,ウィリアム・ミラーというキリスト教の説教者が,1843年春から1844年春の間にイエス・キリストの再臨が起こると予測しました。この予測は広く報じられ,主の再臨について,初期の聖徒たちの一部を含む多くの人の憶測を呼びました。教義と聖約130:14-17に記されている,預言者ジョセフ・スミスによるイリノイ州レイマスの教会員たちへの教えは,「集会に出席していただれかが,ミラーの予測について疑問や懸念を口にしたことがきっかけとなったのかもしれません。」(“Historical context and overview of Doctrine and Covenants 130,” in Largey and Dahl, Doctrine and Covenants Reference Companion, 847)預言者は,「〔彼が〕人の子が来られる時を知ろうとして非常に熱心に祈っていたとき」に受けた啓示を伝えています(教義と聖約130:14)。預言者は,「もしあなたが八十五歳になるまで生きるならば,あなたは人の子の顔を見るであろう」と「ある声が……告げるのを聞いた」と説明しています(教義と聖約130:14-15)。預言者は,主の啓示をどう解釈すればよいのか判断できなかったと明かしています(教義と聖約130:16参照)。そのような方法で預言者ジョセフ・スミスの疑問に応じることにより,主は,御自身が来られる時を明かすのを実質的に差し控えられ,預言者に「この件についてもうわたしを煩らわさないようにしなさい」と命じられました(教義と聖約130:15)。
イエス・キリストの再臨に関して,預言者ジョセフ・スミスが以前に受けた啓示は,救い主がこの世における務めの間に御自分の弟子たちに与えられた教えを反映するものでした。1831年5月の啓示はこう教えています。「しかし,その時,その日は,だれも知らず,天にいる天使たちも知らない。人の子が来るまで,彼らは知らないであろう。」(教義と聖約49:7。教義と聖約39:21も参照)同様に,ウィリアム・ミラーが予告した救い主の再臨の時が近づく少し前,預言者ジョセフ・スミスは聖徒たちに,この出来事が起こる時を知っていると主張する者たちについて警告しています。「イエス・キリストは,御自分がおいでになる正確な時を決してだれにも示しておられません〔マタイ24:36;教義と聖約49:7参照〕。聖文を開いて読んでください。主が来られる正確な時をはっきりと述べた箇所を見つけることはできないでしょう。それを告げる者は皆,偽りの教師です。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』253参照)
教義と聖約130:18-19。「わたしたちがこの世において得る英知の一切」
預言者ジョセフ・スミスは,「わたしたちがこの世において得る英知の一切は,復活の時にわたしたちとともによみがえる」(教義と聖約130:18)と教えています。十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老は,教義と聖約130:18-19にある英知の意味を次のように明らかにしています。「復活するときに,わたしたちとともによみがえるものは何かについて考えるならば,わたしたちが自分の英知を伴ってよみがえることは明らかであるようです。つまり,単なる知能だけでなく,真理を受け入れて応用する能力もまたよみがえるのです。身につけた才能や特質,技能,さらには学習能力,自制心の程度,そして労働能力もまた確かに,わたしたちとともによみがえります。」(We Will Prove Them Herewith [1982], 12)
研究を通じて知識と英知を得るというのは,一般的に言われることです。しかしながら,主は以前の啓示において,「研究によって,また信仰によって学問を求め〔るよう〕」聖徒たちに命じられました(教義と聖約88:118)。イリノイ州レイマスで与えられた預言者の教えは,「信仰によって」学ぶとはどういう意味なのかを明らかにする助けとなります。神の子供たちが神に対する信仰をもち,「精励と従順によって」行動するとき,彼らは「〔より〕多くの知識と英知を得」,そして「来るべき世でそれだけ有利に」なるのです(教義と聖約130:19。教義と聖約93:26-28,36も参照)。また別の機会に,預言者ジョセフ・スミスは次のように教えています。「神は人を,教えを受けることのできる心を持ち,天からの光に向ける注意と熱意の度合いに応じて増大する知力を持つ者として創造されたのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』210)
教義と聖約130:20-21。「天において定められた不変の律法があり」
不変の律法は永遠であり,変えることができません。神が「創世の前に天において定められた」不変の律法とは,「神から祝福を受けるときは,それが基づく律法に従うことによる」というものでした(教義と聖約130:20-21)。前世における天上の会議についての話の中で,預言者ジョセフ・スミスは次のように教えています。「神は御自身がもろもろの霊たちと栄光の中にいることを御覧になり,英知においてはるかに優れておられたので,ほかの者たちも御自分のように進歩する特権にあずかるように律法を定めることがふさわしいとお考えになりました。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』210)
大管長会のディーター・F・ウークトドルフ管長は,神の律法や戒めは,御自分の子供たちを祝福したいと切に望んでおられる,愛にあふれた優しい天の御父からの賜物であると説明しています。
「天の御父は永遠の御方であり,わたしたちと比較にならないほど偉大な経験と知恵と英知を備えておられます〔イザヤ55:9参照〕。さらに,永遠の愛と哀れみに満ち,人の不死不滅と永遠の命をもたらすという神聖な一つの目的に常に心を向けておられます〔モーセ1:39参照〕。
つまり,御父は皆さんにとっての最善を御存じであるのみならず,その最善を皆さん自身が選ぶようにと望んでおられるのです。
天の御父の最大の使命は御自分の子供たちに昇栄と栄光を与えることであり,御父はそのための最善の方法を御存じであると心から信じるなら,難しそうに思える戒めでも受け入れて従うことは,道理にかなっていないでしょうか。わたしたちは,この世の闇や試練の中を導くために神が与えてくださったともしびを大切にするべきではないでしょうか。そのともしびは天の家へ帰る道を示しています。……
わたしたちの試練となっているのは,神は祝福を天の大きな雲の中に閉じ込めておられて,御自分の定めた厳しい掟にわたしたちが従わない限り,その祝福を下さらないのだと想像していることだと思います。しかし,戒めとはまったくそのようなものではありません。実際には,天の御父は絶えず祝福を注いでおられるのです。その祝福をまるで傘のように遮っているのは,わたしたちの恐れや疑いや罪なのです。
神の戒めは,その傘を閉じて,絶えず注いでいる天の祝福を受けなさいという,愛に満ちた教えであり神聖な助けなのです。」(「喜んで福音に生きる」『リアホナ』2014年11月号,121-122参照)
教義と聖約130:22。「御父は人間の体と同じように触れることのできる骨肉の体を持っておられる。御子も同様である」
イリノイ州レイマスに住む教会員に向けた結びの言葉の中で,預言者ジョセフ・スミスは,御父と御子に関するオーソン・ハイドの間違った教えにもう一度言及し,その場にいる聖徒たちに,神会の正しい属性について教えました。預言者は,父なる神とその御子イエス・キリストは,「人間の体と同じように触れることのできる骨肉の」体を持つ別個の御方であると教えています(教義と聖約130:22)。翌年,イリノイ州ノーブーで開かれた教会の総大会における説教の中で,預言者ジョセフ・スミスはこの教義についてさらに詳しく述べ,神の本質と属性を理解することの重要性について説明しました。
「神の属性を理解しなければ,人は自分自身を理解することができません。では,初めに戻りたいと思います。皆さんの思いを,もっと高い領域へと引き上げてください。人が通常望むものよりももっと高い理解へと。……
神御自身,かつては今のわたしたちのようであられました。そして今は昇栄した御方であって,かなたの天で御座に着いておられます!これは大いなる奥義です。もし今日幕が裂けて,この世界を軌道上に保ち,あらゆる世界と万物を御自身の力によって支えておられる大いなる神が御自身を現されたならば,わたしは申し上げますが,もし今日皆さんが神を目にしたならば,皆さんは神が人に似た形をしておられること,すなわち,体,形,姿がすべて皆さん自身のようであられることを知るでしょう。なぜなら,アダムは神の姿,形に,神にかたどって創造されたのであり,神から教えを受け,人が人と語り,親しく交わるように,神とともに歩き,語り,言葉を交わしたのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』40参照)
十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,父なる神が肉体を持っておられることに関する預言者の教えに言及し,次のように教えています。「この教えは,わたしたちが霊的成長を遂げているために神を完全に理解できると主張しているという意味ではありません。また,わたしたちの不完全な肉体と,栄光に包まれた不死不滅の御方の体を同一視しているわけでもありません。しかしわたしたちは,神が御自身と神会の別の御二方について啓示された基本的な教えを理解することはできます。そしてこの知識は,人生の目的と,現世の後に復活体をもって迎えることになる永遠の行く末を理解するうえで不可欠のものです。」(「背教と回復」『聖徒の道』1995年7月号,92)
教義と聖約130:22-23。「聖霊は……霊の御方であられる」
聖霊は「霊の御方」(教義と聖約130:22)であられるという預言者ジョセフ・スミスの記述は,聖霊は御父や御子とは別個の御方であられることを示しています。一方で,「この御三方は目的と教えにおいて完全に一致,調和し,一つであられ」ます(『聖句ガイド』「神,神会」の項,scriptures.lds.org)。十二使徒定員会のゲーリー・E・スティーブンソン長老は,次のように教えています。「これは,肉体をお持ちの父なる神やイエス・キリストとは異なり,聖霊は霊の体をお持ちだということを意味しています。この真理は,聖霊に与えられている聞き慣れたほかの名前についても明確にしてくれています。聖なる御霊,神の御霊,主の御霊,約束の聖なる御霊,慰め主などです。」(「聖霊はどのように助けてくださるでしょうか」『リアホナ』2017年5月号,118)「霊の御方」(教義と聖約130:22)であられる聖霊は,1度に1か所にしか存在することができません。しかしながら,聖霊の影響と力は同時にあらゆる場所に現れることができます。
預言者ジョセフ・スミスは,もし聖霊が霊でなければ,「聖霊はわたしたちの内にとどまり得ない」(教義と聖約130:22)と説明しています。十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,聖霊がわたしたちの内にとどまるとはどういう意味かを次のように明らかにしています。「一人の御方である聖霊が,実際に人の体に住まわれることはありません。しかし神会の一員であるこの御方は,その促し,御霊のささやきを通して人の心の内に宿るという意味において,人の中に住まわれるのです。聖なる御霊が人の内にある霊に語りかけられるとき,そのことによって聖霊は人の中に住まわれています。なぜならその後その人が広める真理は,聖霊からもたらされたものだからです。」(Doctrinal New Testament Commentary [1973], 1:738)
教義と聖約130:23。「長くとどまられることはない」
新約聖書に登場するローマの百卒長コルネリオ(使徒10章参照)を例に引き,預言者ジョセフ・スミスは,バプテスマを受けていない人,あるいは聖霊の賜物を受けていない人に対して,聖霊がどのように影響を及ぼし得るか,また,それでいて「長くとどまられることはない」ことについて説明しています。「聖霊と聖霊の賜物には違いがあります。コルネリオはバプテスマを受ける前に聖霊を受けました。それは福音が真実であることを確信するために与えられた神の力でした。しかし,コルネリオはバプテスマを受けるまで聖霊の賜物を授かることはできませんでした。もしコルネリオがこのしるし,すなわち儀式を受けなかったならば,神の真理を確信させた聖霊は,彼を離れていたことでしょう〔使徒10:1-48参照〕。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』97)
また,聖霊は,聖霊の賜物を受けながらも,その後聖霊を伴侶とする状態から身を引く者のもとに「長くとどまられることは〔ありません〕」(教義と聖約130:23)。十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は教会員に,自らの選択が,聖霊を伴侶とするという祝福を享受する能力にどのように影響を及ぼすかについて考えるよう勧めています。
「わたしたちは自分が『主の御霊から身を引いて,祝福と繁栄と守りを得るための知恵の道に導く御霊を自分の内に宿さないように』していないかどうか吟味するよう努めるべきです(モーサヤ2:36)。……
標準は明らかです。もし何かを思ったり,見たり,聞いたり,行ったりすることが自分を聖霊から遠ざけるならば,それを思ったり,見たり,聞いたり,行ったりするのをやめるべきです。例えば,もし娯楽を目的としたものがわたしたちを聖なる御霊から遠ざけるならば,そのような娯楽は確かにわたしたちにふさわしくありません。御霊は低俗なものや下品なもの,みだらなものに耐えることができないので,明らかにそのような事柄はわたしたちにふさわしくありません。避けるべきだと分かっている活動にかかわるとき,主の御霊を遠ざけます。ですからそのような事柄は確かにわたしたちにふさわしくありません。
わたしたちは死すべき世に住む堕落した者たちであって,毎日,毎時間,毎分,毎秒,聖霊とともにいることができないのは分かっています。それでも聖霊に,ほとんどの時間とまではいかなくても,多くの時間をともにいていただくことはできます。そして確かに,御霊を受けている時間を,受けていない時間よりも多くすることができるのです。これまで以上に主の御霊の影響力の中に浸されるようになるとともに,わたしたちは,導きを受けるときにそれを認識するように努め,また聖霊から身を引かせるような影響力や出来事についても認識するように努めるべきです。」(「いつも主の御霊を受けられるように」『リアホナ』2006年5月号,30参照)