第22章
教義と聖約59-62章
紹介とタイムライン
1831年8月7日の日曜日,預言者ジョセフ・スミスはミズーリ州ジャクソン郡滞在中に教義と聖約59章に記録されている啓示を受けた。この啓示の中で,主は当時到着したばかりの聖徒たちに対して望まれていることを明らかにされた。その中には安息日のふさわしい過ごし方も含まれている。また主は,御自身の戒めを守る者には霊的な祝福と同時にこの世的なものにも祝福を受けると言われた。
次の日,ジョセフ・スミスと数人の長老たちはミズーリ州インデペンデンスを離れ,オハイオに戻る準備をした。教義と聖約60章に記録されている啓示の中で,主は,旅行中福音を宣べ伝えるよう,長老たちに指示された。旅の3日目に,一行はミズーリ川で危険な目に遭った。その後8月12日と13日の2日間,預言者は教義と聖約61章と62章に記録されている二つの啓示を受けた。これらの啓示には,指示,警告,慰め,励ましが含まれている。
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1831年8月2-3日ミズーリ州ジャクソン郡の土地がシオンの確立のために奉献され,ミズーリ州インデペンデンスで神殿用地が奉献された。
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1831年8月4日ミズーリ州ジャクソン郡で教会の大会が行われた。
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1831年8月7日コールズビルの聖徒たちとオハイオからミズーリへ旅をする途中,病に陥ったポリー・ナイト(ジョセフ・ナイト・シニアの妻)は,ミズーリ州ジャクソン郡で亡くなった。
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1831年8月7日教義と聖約59章が与えられた。
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1831年8月8日教義と聖約60章が与えられた。
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1831年8月9日ジョセフ・スミスと10人の長老たちはミズーリを出て,ミズーリ川をたどりオハイオ州カートランドへ向かった。
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1831年8月27日ジョセフ・スミスがオハイオ州カートランドに到着した。
教義と聖約59章:追加の歴史的背景
1831年8月7日の日曜日に,預言者ジョセフ・スミスは,ジョセフ・ナイト・シニアの妻であり,シオンで最初に亡くなった教会員のポリー・ナイトの葬儀に出席しました。ポリーはコールズビル支部の教会員で,シオンの地を見る決心をし,オハイオ州を旅立っていました。ポリーは体調が思わしくないにもかかわらず,「旅を続けると言って聞きませんでした。」と息子のニューエルは言いました。「母の唯一の,そして最大の望みは,シオンの地を踏みしめて,そして,その地に葬られることでした。主は母の心からの望みをかなえてくださいました。母は生きてその地に立つことができたのです。」(Newel Knight’s Journal,” in Scraps of Biography: Tenth Book of the Faith Promoting Series [1883], 70; see also History of the Church, 1:199, footnote)ポリー・ナイトの葬儀の日に,ジョセフ・スミスは教義と聖約59章に記録されている,シオンの忠実な聖徒たちに永遠の祝福を約束する啓示を受けました。
1831年の夏に,ミズーリ州ジャクソン郡に定住し始めた教会員たちは,福音の律法や標準と著しく異なる行いをする境界地帯の住民たちに遭遇しました。住民の間にはギャンブル,飲酒,暴力がはびこっており,法律による裁きを避けるためにミズーリ州の境界地帯へ来た者もいました。彼らは安息日をあからさまに無視しており,このことは聖徒たちだけでなく,ミズーリ州へ来るほかの旅行者の目にも付くようになりました。あるプロテスタントの宣教師は,次のように話しました。「この地では,キリスト教の安息日が知られていないかのようです。安息日に商売,宴会,飲酒,ギャンブル,そのほか反キリスト教の行い全般が行われています。」(in T. Edgar Lyon, “Independence, Missouri, and the Mormons, 1827–1833,” BYU Studies, vol. 13, no. 1 [1972], 16)1833年にミズーリ州西部を通過していた旅行者は,次のように話しました。「日曜日だと分かる唯一の兆候は,居酒屋の周りにいつも以上に人が集まってギャンブルをしたり騒音をたてたりしていたことです。」(Edward Ellsworth, in John Treat Irving Jr., Indian Sketches: Taken during an Expedition to the Pawnee Tribes (1833), ed. John Francis McDermott, new ed. [1955], xxii)このような環境下で,主はシオンに集まる聖徒のため行動の標準を示されました。
教義と聖約59章
主,聖徒たちに対し安息日について教えられ,忠実な者にこの世の祝福と永遠の祝福を約束される
教義と聖約59:1-4。「少なからぬ戒めを……冠として与えられる」
主の福音に従い,その栄光にひたすら目を向けてシオンの地に上って来た聖徒たちに,主は永遠の祝福を約束されました。主はまた,御自身の忠実な聖徒たちに,「少なからぬ戒めを,さらに時にかなった数々の啓示を冠として与え(る)」と約束されました(教義と聖約59:4)。十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,主の戒めは祝福であるとし,次のように説明しました。
「戒めは祝福です。……なぜならわたしたちが成長し,永遠の命を得,天なる父とともにいるために持つべき特性を開発する助けとして,天なる父がわたしたちに与えられたからです。天なる父の戒めを守ることで,わたしたちは祝福を受けることができます。……
わたしたちは神の戒めを喜び,慈しみ深い御父からその子供たちへの価値ある賜物であると認識するべきです。」(“The Blessings of Commandments,” [Brigham Young University devotional, Sept. 10, 1974], 2, 4, speeches.byu.edu)
教義と聖約59:5-8。「主なるあなたの神を愛さなければならない」
忠実な者は,祝福,戒め,啓示の冠を与えられると説明されたのち,主は,心と勢力と思いと力を尽くして神を愛すという戒めをはじめ,聖徒たちに対して幾つかの戒めを強調されました。エズラ・タフト・ベンソン大管長(1899-1994年)は,神を愛するという戒めは,わたしたちの生活全般に当てはまるとして,次のように説明しました。
「心を尽くし,思いを尽くし,精神を尽くし,体力を尽くして神を愛するということは,すべてを燃焼し尽くすということです。いい加減な努力ではだめです。肉体的に,精神的に,情緒的に,そして霊的に,わたしたちの存在すべてをかけて主を愛するのです。
この神への愛は,人生のあらゆる面に広がっていきます。わたしたちの望みは,霊的なものであれ,物質的なものであれ,主への愛に根ざしたものでなければなりません。思いや感情は主を中心としたものであるべきです。……
わたしたちは生活の中で,神を何よりも先に置かなければなりません。十戒の一番目で主が宣言されたように,主がまず最初に来なければならないのです。『わたしのほかに,なにものをも神としてはならない。』(出エジプト20:3)
神を第一にするとき,他のすべての事柄は正しい位置に落ち着くか,またはわたしたちの生活の中から消えていくかのどちらかです。主の愛は感情の欲求や時間の要求,興味,物事の優先順位をコントロールします。」(「偉大な戒め—主を愛する」『聖徒の道』1988年6月号,4参照)
わたしたちが神を心から愛するとき,わたしたちは自然と神の戒めに従い,神に仕え,わたしたち自身を愛するように隣人を愛したいと願うようになります(教義と聖約59:6参照)。わたしたちが神と隣人をほんとうに愛するのなら,盗んだり,姦淫をしたり,殺したり,「これに類すること」(教義と聖約59:6)をしたいとは思わないはずです。わたしたちが神を愛するなら,わたしたちの生活における神の御手を認識し,「すべてのことについて」(教義と聖約59:7)神に感謝し,打ち砕かれた悔い改めの心,そして悔いて従順な霊を喜んでささげるでしょう(教義と聖約59:8参照)。
教義と聖約59:8。「あなたは……打ち砕かれた心と悔いる霊の犠牲をささげなければならない」
救い主は御自身の死と復活ののち,血を流すことを救い主へのささげものとしてはいけないことをニーファイ人に教えられました。以後ニーファイ人は,打ち砕かれた心と悔いる霊の犠牲をささげることになりました(3ニーファイ9:19-20参照)。主は,この新しい犠牲について,シオンの建築を試みた聖徒たちへの啓示を含め,現代の啓示の中で何度も繰り返し述べられました(教義と聖約59:8参照。教義と聖約20:37;56:17-18;97:8も参照)。
打ち砕かれた心と悔いる霊を持つということは,わたしたちが敬虔になり,神の意志に対し従順になるということです。わたしたちが罪を嘆き,心から悔い改めを望み,神の計画と調和して生活するということです。七十人のブルース・D・ポーター長老(1952-2016年)は,救い主の生涯がそのことの模範であるとし,次のように説明しました。
「打ち砕かれた心と悔いる霊とは何でしょうか。なぜそれが犠牲と見なされるのでしょうか。
すべてについて言えることですが,救い主の生涯は,わたしたちにとって完全な模範となっています。ナザレのイエスにはまったく罪がありませんでしたが,御父の御心に従った生涯に示されるとおり,打ち砕かれた心と悔いる霊をもって生活されました。『わたしが天から下ってきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。』(ヨハネ6:38)主は弟子に言われました。『わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,……わたしに学びなさい。』(マタイ11:29)贖いに不可欠な究極の犠牲を払う時が来たとき,キリストは身を引くことなく苦い杯を飲み,完全に御父の御心に従われました。
救い主は完全に永遠の御父に従順でした。それこそが,打ち砕かれた心と悔いる霊の完全な模範です。キリストの模範は,わたしたちに,打ち砕かれた心が神の永遠の属性の一つであることを教えています。心が打ち砕かれているとき,人は神の御霊をことごとく受け入れ,自分があらゆる点で神に依存していることを認識します。そのために求められる犠牲は,いかなる形であれ高慢を捨て去ることです。熟練した陶器職人の手にあって,容易に形を変えられる粘土のように,打ち砕かれた心を持つ者は,主の手の中で形造られ,磨かれるのです。」(「打ち砕かれた心と悔いる霊」『リアホナ』2007年11月号31-32参照)
十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は,わたしたちがこの犠牲を主にささげる方法の一つとして,次のように提案しました。
「打ち砕かれた悔い改めの心,そして悔いて従順な霊を贈り物としてささげることができます。その贈り物とは自分自身,今の自分と将来の自分です。
皆さんには清くない思いやふさわしくない思いがありますか。もしもそれを捨てるなら,救い主への贈り物になります。良い習慣または性質が欠けていますか。それを取り入れ,人格の一部とするなら,主への贈り物になります。」(「あなたが改心したときには」『リアホナ』2004年5月号,12)
教義と聖約59:9-15。「あなたは,世の汚れに染まらずに自らをさらに十分に清く保つ」
死せる身における最後の時間に,救い主は御父に対し,御父の僕たちを「世から取り去る」のではなく,「彼らを悪しき者から守って下さる」(ヨハネ17:15)よう祈られました。ほぼ2千年後,ミズーリの主の聖徒たちが無法で卑俗な人々に囲まれた時,主は,聖徒たちが主の「聖日」(教義と聖約59:9)に主を礼拝し敬えば,世の罪や邪悪に染まらずにいることができると約束されました。
十二使徒定員会のクエンティン・L・クック長老は,安息日を尊ぶことは,なぜわたしたちが世に染まらずにいることの助けとなるのか,次のように説明しました。「安息日を尊ぶことは,義にかなった生活の一形態であり,家族を強め,祝福し,創造主とのつながりをもたらし,幸福を増し加えてくれます。安息日は,取るに足りない,不適切な,あるいは不道徳的なものとの関係を断つのに役立ちます。この戒めにより,わたしたちは世の中にあっても,世のものとならずに済むのです。」(「ブリストルの船のように—順風でも逆風でも,神殿にふさわしく」『リアホナ』2015年11月号,41-42)
教義と聖約59:9。「わたしの聖日に……聖式をささげなければならない」
十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,次のように説明しました。「聖餐会とは,わたしたちを神と神の無限な御力に結びつける数々の身振りや行為あるいは儀式のいずれかを指します。」(“Of Souls, Symbols, and Sacraments,” in Jeffrey R. Holland and Patricia T. Holland, On Earth As It Is in Heaven [1989], 193)わたしたちを神に近づけ,神の御力で満たすための行為には,祈り,賛美歌の歌唱,神権の祝福を授けること,あるいはそれを受けること,証の共有,聖典の学習,奉仕,聖餐を受け聖約を更新することが含まれます。
教義と聖約59:10。なぜ主はわたしたちに労苦を解かれて休むよう命じられるのか
主は,日々の労働の厳しさから休む日として,安息日を定められました。安息日は精神と身体を新たにする日です。大管長会のジェームス・E・ファウスト管長(1920-2007年)は,わたしたちが安息日に労働を解かれて休むことにおける祝福の幾つかについて,次のように指摘しました。「わたしがこれまで見てきた限りでは,安息日を守る農夫は,明らかに7日間働くよりも多く収穫が得られるようです。自動車の修理工は7日間働くよりも6日間のうちにより優れた製品を多く生産することができるでしょう。医師,弁護士,歯科医や科学者は,毎日を職業のために費やすよりも,安息日に休んだほうが多くの事柄を達成できるでしょう。学生たちには,できるなら,安息日に勉強することのないよう,スケジュールを調整するようにお勧めします。そうするならば,理解力が増し,限りない御霊の力により,学生や学問を追及する者たちが望んでいる知識へと導かれることでしょう。なぜならば,神が永遠の契約としてその日を聖別し,祝福されたからです(出エジプト31:16参照)。」(「主の日」『聖徒の道』1992年1月号,38参照)
安息日に現世の労働から解かれて休むという主の戒めは,怠惰になることの勧めではないということを覚えておくことが重要です。教義と聖約59:9-13の中で,主は,安息日に聖徒たちが何をすべきか指示されました。スペンサー・W・キンボール大管長(1895-1985年)は,次のように話しました。「安息日は聖なる日であり,この日には,ふさわしい事柄,聖なる事柄を行います。仕事や娯楽を控えることは大切ですが,それだけでは十分ではありません。安息日には建設的な思いと行いが求められます。もし安息日に何もせずに怠惰に時を過ごしているとすれば,その人は安息日を破っていることになります。」(『歴代大管長の教え—スペンサー・W・キンボール』170)
教義と聖約59:10。「いと高き方に礼拝をささげる」
いと高き神に礼拝をささげるとは,心をつくして主を覚え,礼拝し,主に仕えるということです。主の聖なる日に主にささげる礼拝は,わたしたちの主に対する愛情と敬虔さ,そして信仰を反映します。十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン会長は次のように教えています。
「どのような方法で安息日を聖別するのでしょうか。わたしがまだ若かったとき,安息日に行うことと行ってはならないことについて他の人々がリストにしたものを学習しました。程なくして,安息日に対する自分の行いと態度が自分と天の御父の間のしるしであると聖典から学びました。そのことを理解すると,もう行うことや行わないことのリストは不要でした。ある活動が安息日にふさわしいかどうか決断する必要がある場合,こう自問するだけでした。『自分は神にどんなしるしを差し出そうとしているだろうか。』この質問は安息日についての選びをきわめて明確にしました。……
安息日の行動が喜びと歓喜をもたらすということを,どのように確認できるでしょうか。教会に行くこと,聖餐を受けること,与えられた奉仕の召しを熱心に果たすことに加えて,他に何が安息日を喜びの日とする助けになるでしょうか。主に愛を示すために,皆さんはどのようなしるしを主に差し出しますか。」(「安息日は喜びの日」『リアホナ』2015年5月号,130)
教義と聖約59:12。「主の前にあなたの罪を告白しなけばならない」
安息日は,反省し,振り返り,主の前に罪を告白する日です。十二使徒定員会のL・トム・ペリー長老(1922-2015年)は次のように教えました。
「わたしたちはだれでも間違いを犯します。天の御父や傷つけたかもしれない相手に対して,罪や過ちを告白し,それらを捨てる必要があります。安息日はこれらの自分の聖式を主にささげる絶好の機会となります。……
メルビン・J・バラード長老は次のように勧告しました。『わたしたちはすべての末日聖徒にこの聖餐の席に着いてほしいと思っています。そこは自己を調査する場であり,自己を点検する場だからです。そこで進路を修正し,生活を正し,教会の教えや兄弟姉妹と調和していくことを学ぶのです。』」〔in Bryant S. Hinckley, Sermons and Missionary Services of Melvin Joseph Ballard (1949), 150〕(「安息日と聖餐」『リアホナ』2011年5月号,8)
教義と聖約59:13-14。「あなたの断食が完全になるように」
安息日には,わたしたちはわたしたちの心を完全に主にささげるべきです。願いや思いを神のものに集中させ,食事でさえも「真心を込めて」(教義と聖約59:13)準備するようにと,主はわたしたちに命じられています。わたしたちがわたしたち自身のすべてを主に委ねることで,わたしたちの断食が完全になります。
安息日そのものが断食です。つまり現世の労働とこの世の労苦からの断食です。断食の際に食べ物や飲み物を避けるように,より完全に主を礼拝し,主に仕えるために,安息日にはわたしたちは自分の楽しみを我慢します。ラッセル・M・ネルソン大管長は,次のように教えました。「安息日に自分の『楽しみ』〔イザヤ58:13〕を追い求めないためには,自己訓練が必要です。自分が望むものを諦めなければならないかもしれません。主によって喜びを得る選択をすれば,安息日を週日のように過ごすことはないでしょう。」(「安息日は喜びの日」『リアホナ』2015年5月号,132)
教義と聖約59:16-21。「すべてのことの中に神の手を認めない者」
主は,安息日を神聖に守る者にこの世の祝福を約束され,「神はこれらのものをすべて人に与えたことを喜んで」(教義と聖約59:20)いらっしゃいます。しかし,神がわたしたちに与えられたすべてのことの中に神の手を認めず,感謝を示さなければ,わたしたちは神の感情を損ない,立腹させることになります。大管長会のディーター・F・ウークトドルフ管長は,すべてのことの中に神の手を認めることの重要性について,次のように説明しました。
「わたしたちには,自分が置かれている状況に関係なく感謝に満たされてよい理由がないでしょうか。……
人生という驚くべきつづれ織りに神の御手の業を認める人は何と幸いでしょうか。天の御父に対して感謝の念を抱くとき,理解が広がり,視界が開けます。謙遜になるように促され,同胞や神のすべての創造物を思いやる気持ちが育まれます。感謝はキリストのような属性のすべてを身につけるための促進剤なのです。感謝の心はあらゆる徳の源です。」(「どんな状況にあっても感謝する」『リアホナ』2014年5月,77参照)
教義と聖約59:23。「世における平安」
義の業を行う者は,「この世において平和を,また来るべき世において永遠の命を受ける」(教義と聖約59:23)と主は約束されます。十二使徒定員会のクエンティン・L・クック長老は,主の戒めに正しく従順であることで得られるある種の平和について,次のように説明しました。
「わたしたちは全世界の平和を心から望み,祈り求めています。しかし,義にかなった人々に約束されているそのような平和を実現する役割は,わたしたち一人一人に,そして個々の家族にあります。この平和は,救い主の使命と贖いの犠牲によって約束された賜物なのです。……
わたしが今お話ししている平和は,単なる一時的な平穏ではありません。それは永続的な深い幸福感であり,霊的な満足感です。
ヒーバー・J・グラント大管長は救い主の平安について,このように説明しています。『主の平安はわたしたちの苦しみを和らげ,打ち砕かれた心を持つ者を癒し,憎しみの情を取り除き,平安と幸福感で心を満たす隣人愛を抱かせてくれます』〔『歴代大管長の教え—ヒーバー・J・グラント』226〕。」(「個人の平安—義の報い」『リアホナ』2013年5月号,33)
教義と聖約60章:追加の歴史的背景
1831年8月の最初の週にミズーリを旅行した長老たちは,教会の大会に参加し,シオンの地と神殿用地の奉献に参列しました。務めを終え,多くの長老たちはオハイオ州カートランドへ戻ることを希望していました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 2: July 1831–January 1833, 35)。長老たちがどうするべきか尋ねた際,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約60章に記録されている啓示を受けました。
教義と聖約60章
主,オハイオに戻る旅をしながら福音を宣べ伝えるよう,長老たちに命じられる
教義と聖約60:2。「わたしが与えたタラントを隠している」
主は,福音を宣べ伝えるという責任を果たさなかった長老たちを懲らしめられました。主は御自身によるタラント(マタイ25:14-30参照)のたとえに言及され,次のように言われました。「人を恐れて,わたしが与えたタラントを隠しているからである。」(教義と聖約60:2)この啓示の中で,「タラント」とは回復された福音の知識と証のことを指します。これらの霊的な賜物には,知識と証を周りの人たちと共有する義務が伴います。
預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,わたしたちの「最も偉大で最も重要な義務は福音を宣べ伝えること」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』330)であると教えました。ディーター・F・ウークトドルフ管長は,わたしたちがこの責任を果たす方法について,次のように説明しました。
「愛する若い友人の皆さん,『口を開〔きなさい〕』〔教義と聖約60:2〕という今日のわたしたちへの主の呼びかけには,『手を使って』メールやブログで福音を全世界に伝えることも恐らく含まれるでしょう。でも,忘れないでください。もちろん,すべてのことは時間と場所をわきまえて行わなければなりません。
……現代の科学技術のおかげで,わたしたちは神の子供たちのための偉大な計画に対する感謝と喜びの気持ちを,職場の周りだけでなく世界中に表現することができます。たった一言の証が,だれかの生活を永遠に変えるような出来事を引き起こすかもしれないのです。
福音を宣べ伝える一番良い方法は模範です。信じていることに従って生活するならば,人は気づきます。イエス・キリストの面影がわたしたちの生活の中で輝きを放つならば,わたしたちが喜びに満ちていて,平安に暮らしているならば,人はその理由を知りたくなります。伝道活動についてこれまでに語られた説教の中で最も偉大なものの中に,アッシジの聖フランシスコが言ったとされる次の言葉があります。『すべての行いを通して福音を宣べ伝えなさい。必要であれば言葉を使いなさい』〔in William Fay and Linda Evans Shepherd, Share Jesus without Fear (1999), 22〕。」(「ダマスコに行く途中でとどまる」『リアホナ』2011年5月号,76-77参照)
教義と聖約60:8。「悪人の集まり」
教義と聖約60:8や他の啓示(教義と聖約61:33;62:5も参照)で使われている「悪人の集まり」という言葉は,これらの場所にいるすべての人が必ずしも甚だしい邪悪を行っていたという意味ではありません。むしろこの言葉は,回復されたイエス・キリストの福音の知識と理解を持たない人々を意味すると思われます。福音の原則の知識がなく,救いの儀式を受けていない人々は,神と聖約を交わさずに生活していたのです。このために主は,会衆や地域の人々に福音を宣べ伝え,彼らに悔い改め,救いの儀式を受けるよう勧めるため,宣教師たちを召されました。
教義と聖約60:13-14。「あなたは時間を無駄に過ごしてはなら(ない)」
主は,オハイオ州へ戻る旅路でも福音を宣べ伝えるよう長老たちに命じられ,「時間を無駄に過ごしてはなら〔ない〕」(教義と聖約60:13)と警告されました。十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード長老は,わたしたちがどのように時間を無駄に過ごすことがあるか,またその危険性について次のように説明しました。
「サタンがあなたの能力を低下させ,霊的な力を弱める方法の一つは,あまり意味のないことをするのに多くの時間を費やさせることです。例えば,何時間も続けて座ってテレビやビデオを見たり,昼も夜もビデオゲームをしたり,ネットサーフィンをしたり,長い時間をスポーツやゲームそのほかのレクリエーション活動に費やすことです。
誤解しないでください。……ゲーム,スポーツ,レクリエーション活動やテレビでさえも,リラックスして充電するのに役に立ちます。特にストレスを感じている時や,スケジュールが詰まっている時がそうです。緊張を解き,気晴らしをする助けになる活動は必要です。……
しかしバランスが壊れてしまうとどうでしょうか。……
わたしたちが時間を無駄に過ごすことによる破壊的な影響の一つは,最も重要なことに集中できなくなることです。ただ座って,人生はどうにでもなれと思う人が多すぎます。バランスのよく取れた人間になるための特質を開発するには,時間がかかるのです。……
……ですから,人生において自分の最善を尽くし,神のみもとに帰ることができるよう導いてくれるものに心を向けてください。すべてのものを適度なバランスに保ってください。」(“Be Strong in the Lord,” Ensign, July 2004, 13–14)
教義と聖約61章:追加の歴史的背景
1831年8月9日,預言者ジョセフ・スミスと10人の長老たちはミズーリ州インデペンデンスを出て,ミズーリ川をカヌーでたどりセントルイスへ向かいました。川の中には倒れた木が多くあり,航行は困難でした。旅を始めたころは,一行の中に対立があり,一時的に調和が乱れました。旅行3日目に,沈んでいた木が原因でジョセフ・スミスとシドニー・リグドンが乗っていたカヌーが転覆しかかりました。預言者の勧めにより,一行はマクイルウェインズ・ベンドと呼ばれるミズーリ州の岸で野宿をしました。野宿の準備をするために川から上がった後,ウィリアム・W・フェルプスは,白昼に「最も恐ろしい力を持った滅す者が水の面を進んで行く」のを見ました(Manuscript History of the Church, vol. A-1, page 142, josephsmithpapers.org)。その晩一行は自分たちの直面する困難について話し合い,敵対する感情を解決し,互いに許し合いました。次の朝,預言者は教義と聖約61章に記録されている啓示を受けました。
教義と聖約61章
主,オハイオ州へ旅をするジョセフ・スミスと長老たちに警告と指示を与えられる
教義と聖約61:3。「川の両岸に住む者たちが不信仰で滅びつつあるときに,……水の上を速く進んで行くこと」
長老たちがミズーリ川の「水の上を速く」進んだ時,川の両岸に住む「不信仰で滅びつつある」(教義と聖約61:3)人々に福音を宣べ伝えることができませんでした。同じように,わたしたちが生活の中を忙しく「速く進んで行く」ために,周りにいる人々の要求を顧みないことがあるかもしれません。トーマス・S・モンソン大管長は次のように教えました。
「皆さんはこれまでに何度,人が困っているのを目の当たりにして心を痛めたことがあるでしょうか。助けの手を差し伸べようと思ったことが,幾度あったでしょうか。にもかかわらず,日々の生活に追われて『きっとだれかが助けてくれる』と思い,人任せにしてしまったことが,幾度あったでしょうか。
わたしたちは日常生活の忙しさに埋没しています。でも,少し立ち止まって自分が何をしているかをよく顧みてみると,それほど重要でもないことに没頭していることが分かるでしょう。つまり,大きな目で見れば,ほんとうは大して重要ではないことに大半の時間を費やし,もっと重要なことをないがしろにしていることが往々にしてあるのです。」(「今日われ善きことせしか」『リアホナ』2009年11月号,85参照)
教義と聖約61:4-19。「終わりのときには,……水をのろった」
教義と聖約61:4-19の主の言葉は,末日聖徒が水の上を旅したり,泳いだりすることを禁止しているのではありません。末の日において水の上がのろわれていると説明することで,黙示録の中で使徒ヨハネがイエス・キリストの再臨に先立って水に起こる破壊について述べた節を参照したのかもしれません(黙示8:8-11;16:2-6参照)。教義と聖約61章で主は,ミズーリ川を指して「これらの水」の危険性を特に言及されました(教義と聖約61:5,18参照)。この啓示が与えられた時,ミズーリ川の危険には,水上を航行することの困難性による事故と,汚染された水により広まることの多い病気であるコレラの感染が含まれていました(see “The Way of Journeying for the Saints of Christ,” Evening and Morning Star, Dec. 1832, 105)。
教義と聖約62章:追加の歴史的背景
1831年8月13日,オハイオ州カートランドへ旅をしていた預言者ジョセフ・スミスと長老たちは,ミズーリ州チャリトンでハイラム・スミス,ジョン・マードック,ハービー・ホイットロックとデビッド・ホイットマーに会いました。これらの長老たちがまだミズーリ州インデペンデンスに到着していなかった一つの理由は,旅の途中で福音を宣べ伝えていたことです。もう一つは,ジョン・マードックが病気になり,旅の予定が遅れたことです。ジョセフ・スミスは,「長老たちに出会い,喜びのあいさつを交わしたのち」,教義と聖約62章に記録されている啓示を受けたと話しました(in Manuscript History of the Church, vol. A-1, page 145, josephsmithpapers.org)。
教義と聖約62章
主,ミズーリ州インディペンデンスへ旅する長老の一行の忠実さを称賛される
教義と聖約62:3。「あなたがたは祝福されている。あなたがたが宣べた証は,……天で記録されているからである」
主は,まだシオンに到着していない長老たちを,彼らが旅の途中に共有した忠実な証のために称賛されました。預言者ジョセフ・スミスとともに旅をし,福音を宣べ伝えなかったために主によって懲らしめられた一部の長老たちとは違い(教義と聖約60:2-3参照),この宣教師の一行は,勤勉にそして成功のうちに福音を宣べ,シオンへ旅をしながら教会を強化しました。これらの忠実な宣教師たちの中には,リーバイ・ハンコック,ゼベディー・コルトリン,シメオン・カーター,ソロモン・ハンコックがいました。旅の途中,彼らは100人以上の人々にバプテスマを施しました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 2: July 1831–January 1833, ed. Matthew C. Godfrey and others [2013], 46)。主は,彼らの証は「天使たちが見るために天で記録されている」(教義と聖約62:3)として,これらの宣教師たちの忠実さを祝福されました。さらに主は,これらの宣教師たちの罪は赦されたと宣言されました。
イエス・キリストの贖罪を通して赦しは可能となりますが,わたしたちが悔い改め,主の戒めに従って生活をし,福音を宣べ,人々が救い主のもとに来るように助けることは,わたしたちの罪の赦しを受ける助けになります。スペンサー・W・キンボール大管長(1895-1985年)は,次のように教えました。「わたしたちの罪は,わたしたちが自らの身と霊をキリストに委ね,確固として世の人々に証を述べるとき,いっそう速やかに赦される,と主は言っておられる。そしてわたしたちは皆,罪の赦しを得るために必要な特別の助けを求めている。」(「隣人を警むる責任あり」『聖徒の道』1977年11月号,559参照)
教義と聖約62:5-8。「判断力と御霊の指示」
何度も,長老たちの様々な一行は,どのように旅をするべきか,どの道筋を取るべきか,どのような方法で旅行すべきか,全員一緒に旅をすべきか,あるいは2人ずつかなどを尋ねました。これに対し救い主は毎回,「それはわたしにとっては問題ではない」(教義と聖約60:5;61:22;62:5)と言われました。
十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,この応対について次のように教えました。
「そのようなことは『わたしにとっては問題ではない』とされる主の言葉に,あなたたちは最初驚くかもしれません。疑いもなく,救い主はこれらの宣教師が行っていたことに関心を持っておられないとは言われませんでした。むしろ,救い主は第一のことを第一にし,正しいことに焦点を当てることの大切さを強調されました。……彼らは信仰を持って正しい判断を行い,御霊の指示に従って行動し,彼らの課題のために最良の旅の方法を判断するように求められていたのです。最も重要なことは,彼らが行うように命じられていた業であり,どのようにたどり着くかも大事ですが,最重要項目ではありませんでした。……
わたしたちが下さなければならない難しい判断は,義であるか邪悪であるか,あるいは魅力的であるか否かというような判断であることは滅多にありません。通常,最も難しい判断は,義である二つのものから一つを選ぶことです。この聖典の話〔教義と聖約62:7-9に言及〕では,宣教師たちの旅の選択肢として,馬,ラバおよび馬車も同様に効果的であったかもしれません。同じように,あなたたちやわたしも,人生のあらゆる段階で,好ましい機会や,選ぶことのできる選択肢が2つ以上見つかるときがあるかもしれません。わたしたちが重要な決断を行う時には,この聖典の規範を思い出すべきです。わたしたちが人生で最重要であること—例えば,使徒としての献身,聖約の尊重,戒めの順守など—を優先するなら,わたしたちが天の家へ戻るための道筋をたどるにあたり,霊感や確かな判断力によって祝福されることでしょう。」(“A Reservoir of Living Water,” [Brigham Young University fireside, Feb. 4, 2007], 5–6, speeches.byu.edu)
ダリン・H・オークス長老は,天の御父が多くの事柄についてわたしたちに判断を委ねられる理由について,次のように説明しました。
「主の導きを受けたいと願うことは力となりますが,天の御父は,わたしたちに個人的な選択についての多くの決断を委ねられるということを理解していなければなりません。個人的な判断は,この世でわたしたちが経験すべき成長の源の一つです。……
創造主がわたしたちの中に授けてくださった推論する能力によって,心の中で物事をよく考えることが必要です。それから導きを求めてお祈りをし,答えが得られれば実行することです。導きが得られないときは,自分の最良の判断により実行するべきです。」(「強さが堕落を招くとき」『聖徒の道』1995年5月号,12-15参照)