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第48章:教義と聖約124章


「第48章:教義と聖約124章」教義と聖約 生徒用資料

「第48章」教義と聖約 生徒用資料

第48章

教義と聖約124章

紹介とタイムライン

1838年冬から1839年にかけて,教会員はミズーリ州から追い出されると,イリノイ州およびアイオワ準州に避け所を見いだした。預言者ジョセフ・スミスは1839年4月に監禁を解かれた後,イリノイ州クインシーの聖徒に合流し,イリノイ州コマースに新たな集合の地を築くために助力した。その地は後にノーブーと改名された。ほぼ2年後の1841年1月19日,預言者ジョセフ・スミスは,現在教義と聖約124章に記録されている啓示を受けた。この中で主はジョセフに,「地のすべての国々」の指導者に向けて「〔御自身〕の福音……〔を〕厳粛に宣言する」ため書き記すよう命じられた(教義と聖約124:2-3)。また聖徒に,訪問者が宿泊するための家と神殿をノーブーに建てるよう指示された。主はまた,教会員それぞれに勧告を与え,神権指導者として奉仕するべく兄弟たちを任命された。

1838年-1839年冬教会員はミズーリ州から追い出され,イリノイ州とアイオワ準州に避難した。

1839年4月16日預言者ジョセフ・スミスと同僚たちは,裁判のためにミズーリ州コロンビアに移送される途中,監禁から逃れることを許された。

1839年4-5月教会員はイリノイ州コマース(後にノーブーと改名)に土地を購入し,集合の地として築いた。

1840年8月15日預言者ジョセフ・スミスは,イリノイ州ノーブーで営まれたセイモア・ブランソンの葬儀で,死者のためのバプテスマに関する最初の公式説教を行った。

1840年12月16日イリノイ州がノーブー市の公式憲章を承認した。

1841年1月19日教義と聖約124章が与えられた。

1841年4月6日ノーブー神殿の隅石が据えられた。

教義と聖約124章:追加の歴史的背景

1838年から1839年にかけての冬,ミズーリ州から暴力によって追い出された後,教会員は「東に逃れ,……ミシシッピ川沿いのアイオワ準州とイリノイ州各地で避難生活を送りました。その中で最も多くの聖徒が集まったのはイリノイ州クインシーとその周辺地区でした。」(アレックス・D・スミス「ノーブーで教会を組織する」『啓示の背景』マシュー・マクブライドとジェームズ・ゴールドバーグ編,またはhistory.lds.org)4か月以上もの間リバティーの監獄に監禁された後の1839年4月,預言者ジョセフ・スミスと同僚たちは,逃れることを許されます。預言者はクインシーに行き,そこで家族と再会しました。その後の数週間のうちに,預言者は,イリノイ州コマースとミシシッピ川対岸のアイオワ準州に広大な土地を見つけ,聖徒の入植地として購入する手はずを整えました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, ed. Mark Ashurst-McGee and others [2017], 431–32)。1839年の夏には,教会員はコマースに町を築き始めていました。預言者はこの町の名を,「程なく,ヘブライ語で『美しい』を意味する『ノーブー』……と改めました。」(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, xxviii-xxix)その後の数年間,ノーブーに住む人々は,町を築くため熱心に働きました。「そこは数戸の粗末な建物しかないまったく未開の湿地であった」ためです。「聖徒たちは土地の排水をし,家を建て」ました(『聖句ガイド』「ノーブー(イリノイ州)」の項,scriptures.lds.org)

教会員がノーブーの小さな入植地を町へと変貌させている間,預言者ジョセフ・スミスは,イリノイ州議会に市憲章の制定を願い出ました。この憲章は,教会員が地元の法律を制定し,自分たちで市職員を任命し,地元が管理する民兵を組織することにより,自らの宗教上の権利をさらに保護できるようにするものです。1840年12月,イリノイ州議会はこの市憲章を承認し,1841年2月より施行されることとなりました。預言者ジョセフ・スミスが教義と聖約124章に記録されている啓示を受けたのは,新たな教会本部となるノーブーの町を築いているさなかのことでした。1841年1月19日に与えられたこの啓示には,ノーブーに住む教会員への指示が述べられています。この指示はその後5年間にわたって,当市と教会に向けた開発の指針となりました。 (アレックス・D・スミス「ノーブーで教会を組織する」「啓示の背景」,またはhistory.lds.org参照)

地図10:イリノイ州ノーブー,1839-1846年

教義と聖約124:1-21

主は預言者ジョセフ・スミスに,福音を「地のすべての国々に」宣言するよう命じ,教会員一人一人に勧告される

教義と聖約124:2-12,16。「すべての国々に」「厳粛に宣言する」

主は預言者ジョセフ・スミスに,「地のすべての国々」の指導者に「〔御自分〕の福音〔を〕厳粛に宣言する」よう命じられました(教義と聖約124:2-3)。主は,御自分が「訪れ,彼らの心を和らげ,それによって,……彼らが真理の光に来るように,そして異邦人がシオンをあがめるように,すなわち高めるようにしよう」と言われました(教義と聖約124:9)。預言者はこの宣言を書き記す中で,「聖霊の力によって」(教義と聖約124:4)受けるであろう霊感に従い,「彼らを恐れることなく」(教義と聖約124:7),真理を大胆に宣言するよう命じられました。主は預言者イザヤが用いた比喩的描写を引用され,地の指導者たちを草に,また彼らの栄光を「すぐに散る花」にたとえられました(教義と聖約124:7イザヤ40:6-8も参照)。「草は枯れ,〔そして〕花はしぼむ」(イザヤ40:8)のと同様に,地の指導者と王国の力と栄光もまた,主が再び来られる「刑罰の日」に,そのようになるでしょう(教義と聖約124:8詩篇103:15-16イザヤ40:5-8黙示11:15も参照)。国の指導者たちは,回復された福音を受け入れ,自国で福音が宣べ伝えられることを認めることによって,自国を救い主の再臨に備える助けをすることができます。

預言者ジョセフ・スミスはこの宣言を書き記そうと努めましたが,ノーブー神殿の建築といったほかの懸念や問題を優先せざるを得ませんでした。また,預言者が宣言を書くのを助けるよう主により命じられていたロバート・B・トンプソンが,1841年8月,予期せず亡くなりました。その結果,この宣言が書かれたのは,預言者ジョセフ・スミスがこの世を去った後のこととなります。十二使徒定員会の指示の下,パーリー・P・プラットによって書かれた宣言が,1845年に出版されました(アレックス・D・スミス「ノーブーで教会を組織する」「啓示の背景」,またはhistory.lds.org参照)。

1975年10月の総大会で,エズラ・タフト・ベンソン大管長(1899-1994年)はこの宣言を引用した後,その主旨を再度確認しました。

「すべての国々の統治者と民に対し,わたしたちは厳かに,天の神が預言の成就としてこの地上に末日の王国を設立されたことを再度宣言します。聖なる天使たちが,この世の人々と再び親しく交わりを持ったのです。神は再び天から御自身を現され,御自分の子供たちの昇栄に不可欠なすべての聖なる儀式を執り行う力とともに聖なる神権を地上に回復されました。主の教会は,いにしえに享受されていた霊的な賜物をすべて伴って,人々の中に再度確立されています。これはすべて,キリストの再臨に備えるためです。主の大いなる恐るべき日は間近に迫っています。この大いなる出来事に備えるに当たり,また迫りつつある裁きから逃れる手立てとして,霊感を受けた使者たちは,この証と警告とを携えて地上の国々へと出て行きましたし,また今も出かけて行くのです。……

……わたしたちは,主の謙遜な僕として,国々の指導者に向かい,神の御前にへりくだるよう,また神の霊感と導きを求めるよう勧めます。また,統治者と民に対しても,その悪の道を悔い改めるよう勧めます。主に心を向け,主の赦しを求め,へりくだって主の王国のもとにつながってください。ほかに道はありません。もしこのように行うならば,あなたがたの罪はぬぐい去られ,平安がもたらされてとどまるでしょう。またキリストの再臨に備えて,あなたがたは神の王国の一員となるでしょう。」(「世に与えるメッセージ」『聖徒の道』1976年2月号,60参照)

教義と聖約124:2。ノーブー,「シオンの隅石」

主はイリノイ州ノーブーの町を,ステークおよび「シオンの隅石」として指定されました(教義と聖約124:2)。隅石とは,建物全体に強度と安定をもたらすために,土台の隅に置かれる大きな石のことです。ノーブーで教会員は,神殿の儀式と聖約,永遠の結婚,死者の救い,扶助協会の組織と目的,神の属性,救いの計画に関する真理といった知識をあふれるように受けました(教義と聖約127-132章参照)。ノーブーにおいて与えられた非常に重要な教義と福音の儀式についての啓示と教えによって,後に続くすべての世代の教会員のための霊的な基が強化されました。

イリノイ州ノーブーにあるジョセフ・スミスの家の画像

イリノイ州ノーブーにあるジョセフ・スミス一家の住宅

教義と聖約124:15。「彼の心が高潔であるので,……主なるわたしは彼を愛する」

主は,ジョセフ・スミスの献身的な兄ハイラムに対し,「彼の心が高潔であるので,また彼がわたしの前に正しいことを愛するので」,御自身の是認と愛を表明されました(教義と聖約124:15)。「高潔」とも訳されるintegrityは,完全な状態を意味します。したがって,心が高潔であるとは,清さ,正直さ,潔白さにおいて欠けたところのない,あるいは完全であることを言います。ハイラム・スミスについて語られた主の言葉を引用した後で,十二使徒定員会のジョセフ・B・ワースリン長老(1917-2008年)は次のように教えています。「わたしにとって高潔さとは,結果にかかわらず常に正しく善いことを行うことです。またさらに大切な点は,単に行動においてのみならず,考えや思いにおいても,心の奥底から義にかなっているということです。つまり,高潔な人は,信用できる清廉な人であり,信頼を裏切ったり聖約を破ったりすることができません。」(「高潔な人」『聖徒の道』1990年7月号,34参照) 

ハイラム・スミスは「心が高潔である」こと(教義と聖約124:15),および義を愛することの模範であり,預言者とイエス・キリストの福音を支えることにおいて揺らぐことがありませんでした。 預言者ジョセフ・スミスは,兄ハイラムについてこう述べています。「わたしは心の中で,すべての兄弟たちがわたしの愛する兄ハイラムのようであったならと祈っている。ハイラムは子羊の穏やかさとヨブの高潔さ,要するに,キリストの柔和さと謙遜さを備えている。わたしは死よりも強い愛をもってハイラムを愛している。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』486

ヒーバー・J・グラント大管長(1856-1945年)は,ハイラム・スミスについて次のように述べています。「いまだかつてこの教会に所属した人の中で,祝福師ハイラム・スミス以上に善を行いたいという望みを持った人はいませんでした。これはわたし自身の気高い母の口から聞きました。ノーブーで過ごした少女時代に知り得た人々の中でも,ハイラム・スミスは,その比類のない誠実さ,神に対する献身,そして神の預言者に対する忠誠心のどれ一つを取っても,右に出る者はいなかったと,母は称賛しました。」(in Conference Report, Oct. 1920, 84)

教義と聖約124:16-17。ジョン・C・ベネット

主は,教会の新しい改宗者であるジョン・C・ベネットを召し,預言者ジョセフ・スミスが「王たちと地の民に〔主の〕言葉を送り出す」のを助けるよう命じられました(教義と聖約124:16)。主はまた,ベネット兄弟が「行ってきたことを見た」と言われました(教義と聖約124:17)。これは恐らく,彼がノーブー市憲章の草稿を書く手伝いと,承認を受ける手伝いをしたことを指していると思われます(see Kimberly Reid, “Joseph Smith: Prophet and City Leader,” history.lds.org)。預言者ジョセフ・スミスが教義と聖約124章に記録されている啓示を受けた後,ベネット兄弟はノーブーで影響力を持つ指導者となりました。ベネット兄弟は初代市長に選ばれ,ノーブー大学の総長,またノーブー部隊の少将に任命されました(see “Bennett, John Cook,” josephsmithpapers.org)。さらに,1841年4月に開催された教会の総大会で,当時病気であったシドニー・リグドンが健康を取り戻すまで,大管長会の補佐を務めるように召されました(see “Bennett, John C.,” in Dennis L. Largey and Larry E. Dahl, eds., Doctrine and Covenants Reference Companion [2012], 53–54教義と聖約124:103-104も参照)。

残念ながら,ノーブーでのジョン・C・ベネットの名声は長くは続きませんでした。彼は「自身の政治的地位と教会での立場の双方を利用して,ジョセフ・スミスを中傷するうわさを広め,暗殺を企て,さらには女性を誘惑する霊的認可を主張しました。」(Reid, “Joseph Smith: Prophet and City Leader,” history.lds.org)。彼は「霊のうえでの妻」と称する偽りの教義を広めますが,それは「法律上正当な婚姻関係以外の性的な関係もそれが内密に保たれていることを条件として許容される」と教えるものでした(“Plural Marriage in Kirtland and Nauvoo,” note 21, topics.lds.org)。ジョン・C・ベネットは,1842年5月に教会から破門された後,「ジョセフ・スミスとモルモニズムに認める諸悪について演説する講演旅行を始め」,反モルモンの教会「歴史」を出版しました(“Bennett, John C.,” in Largey and Dahl, Doctrine and Covenants Reference Companion, 54)

教義と聖約124章に記録されている啓示の中で,主はジョン・C・ベネットに向けて,「彼は勧告を受け入れるならば」,また,主の御心を行い続けるならば,「報いを失うことはないであろう」と勧告されました(教義と聖約124:16-17参照;強調付加)。それでも,ベネットはこうした勧告を心に留めることなく,その結果,この啓示で約束された祝福を失ったのです。

ジョン・C・ベネットがなぜノーブーで指導者の地位に就き,信頼を得たのか疑問に思う人もいるかもしれません。教義と聖約124章に記録されている啓示が与えられ,大管長会の会長補佐として指名された時点では,ベネット兄弟は正しいことを行うよう努め励んでいました。

教義と聖約124:22-83

主は聖徒に,訪問者のための家と神殿をノーブーに建てるようお命じになる

教義と聖約124:22-24,56-82。ノーブーハウス

主は教会員に,御自分の名のために二つの家,すなわちノーブーハウスとノーブー神殿を建てるようお命じになりました(教義と聖約124:22-23,27参照)。ノーブーハウスは宿泊所,すなわち訪問者や旅行者が滞在し,「主の言葉……について,つくづくと考え」,また「助言も受けられる」「宿泊するための家」となるはずでした(教義と聖約124:23,61)。1842年8月29日にノーブーで開かれた大会で,ハイラム・スミスは次のように説明しています。「地の偉大な人々をもてなし,彼らに真理を教えるのに適した場所を得られるように,ノーブーハウスを完成させることが重要なのです。」(in Manuscript History of the Church, vol. D-1, pages 1387–88, josephsmithpapers.org)「〔ジョセフ〕とエマ・スミスはその宿泊所〔ノーブーハウス〕が建てられる土地を寄付しなければならなかったため,スミス一家はそこに住み,宿泊者をもてなすことになっていました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 7: September 1839–January 1841, ed. Matthew C. Godfrey and others [2018], 513教義と聖約124:56も参照)

1844年,殉教する少し前に預言者は聖徒たちに,「ノーブー神殿建設のためにさらに多くの資源と人手を差し向けることができるように」,ノーブーハウスに関する作業を中止するよう指示しました。「〔預言者ジョセフ・スミス〕が殉教した時点で,ノーブーハウスはまだ完成していませんでした。」(“Historical context and overview of Doctrine and Covenants 124,” in Largey and Dahl, Doctrine and Covenants Reference Companion, 838)残念ながら,ノーブーハウスが教会指導者の計画どおりに完成することはありませんでした。

リバーサイドマンション,イリノイ州ノーブー

ノーブーハウスの建設は開始されたが,完成することはなかった(教義と聖約124:56参照)。このリバーサイドマンションが同じ場所に建てられている。

教義と聖約124:26-28。「いと高き方が住めるように,わたしの名のために一つの家を建てなさい」

主は教会員に,ノーブーに神殿を建てるために,「地の……貴いもの」と技術をささげるよう指示されました(教義と聖約124:26-27参照)。オハイオ州カートランドで行ったのと同様に,聖徒はノーブー神殿を築くために多くの時間や労力,手段を自発的かつ忠実にささげました。ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は次のように説明しています。

「1841年,ノーブーに到着してから2年後に,預言者ジョセフ・スミスは,神の業にとって比類ない宝となる主の宮の建設を始めました。……

Joseph Smith at the Nauvoo Temple, by Gary E. Smith

Joseph Smith at the Nauvoo Temple(「ノーブー神殿でのジョセフ・スミス」)by Gary E. Smith預言者ジョセフ・スミスはノーブー神殿の建設を指示した。

「力を惜しみなく注ぎ,どのような犠牲もいとうことなく,それから5年間,男たちは石を彫り,基礎を据え,壁を築き,装飾を施しました。材木を入手するために何百人もが北へ向かい,そこで寝起きしながら大量の材木を切り出しました。その材木でいかだを組み,川を下ってノーブーへ運びました。美しいモールディング〔訳注—壁を巡って水平に取り付けた装飾〕はその材木で造りました。小銭を集めて釘を買いました。ガラスを手に入れるために払った犠牲は想像を絶します。神にささげる神殿を建てていたのですから,できるかぎり最高の建物にしようとしていたのです。」(「おお,わたしが天使であって,わたしの心の願いを遂げることができればよいものを」『リアホナ』2002年11月号,4-5参照)

1841年4月6日,預言者ジョセフ・スミスの指示の下,ノーブー神殿の隅石が据えられました。1846年4月30日と5月1日,完成した神殿が奉献されました。ジョセフ・スミスとハイラム・スミスが亡くなってからほぼ2年後,また聖徒の大半がソルトレーク盆地に向けてノーブーを去った後のことです(see Matthew S. McBride, “The First Nauvoo Temple: So Great a Cause,” Ensign, July 2002, 12)。1848年10月,火事によって神殿のかなりの部分が焼失し,1850年には竜巻によって残っていた外壁の一つが崩れ落ち,ほかの二つの壁ももろくなってしまいました。1853年には,神殿は廃虚となっていました。ゴードン・B・ヒンクレー大管長の指示の下,教会はイリノイ州ノーブーの当初神殿があった場所に新しい神殿を建て,2002年6月に奉献しました(See “The Nauvoo Temple: Destruction and Rebirth,” history.lds.org.)

イリノイ州ノーブー神殿

再建されたイリノイ州ノーブー神殿

教義と聖約124:29-36。「あなたがたの死者のためのバプテスマ」

イリノイ州ノーブーを流れるミシシッピ川

死者のためのバプテスマは,その教義が1840年8月に預言者ジョセフ・スミスによって教えられた後,ミシシッピ川で施されていた。

主は1836年1月に早くも,預言者ジョセフ・スミスにお与えになった日の栄えの王国に関する示現において,死者の救いの教義を明らかにし始められました(教義と聖約137:7-10)。4年後の「1840年8月15日,セイモア・ブランソンの葬儀で,ジョセフ・スミスが教えた原則によると,地上に住む男女は亡くなった親族の身代わりとなって,彼らに必要なバプテスマの儀式を受けることができるということでした。聖徒らは喜びにあふれてこの機会を受け入れ,すぐさまノーブー近辺の川で,亡くなった愛する人々のためにバプテスマを受け始めました。」(マシュー・マクブライド「死者のためのバプテスマに関する手紙」マクブライドとゴールドバーグ『啓示の背景』,またはhistory.lds.org

ユタ州オグデン神殿のバプテスマフォント

死者の贖いに関する教義により,教会員はこのようなバプテスマフォントで身代わりのバプテスマを施すことが可能になった。写真はユタ州オグデン神殿のバプテスマフォント。

教義と聖約124:29-36に記録されている聖徒に向けた主の指示について,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は次のように説明しています。「主は死者のためのバプテスマを非常に重要と見なしておられるため,御自分の宮にこの目的のための場所が用意されるまでは,聖徒たちがミシシッピ川で死者のためのバプテスマを執り行うことをお認めになりました。さらに主は,そのような宮を建てるために十分な時間を与えると言われ,その間,死者のためのバプテスマを川で行うことをお認めになりました。しかし,場所が用意された後には,死者のためのバプテスマを川で行うことを一切やめるよう命じられました。死者のためのほかの儀式とおなじようにバプテスマもまた,正式に主の宮に属するものだからです。この啓示は1841年1月19日に与えられましたが,そのときから1841年10月の教会の大会までは,死者のためのバプテスマを川で行うことが認められていました。10月の大会で預言者は,川での死者のためのバプテスマを廃止する時が来たこと,また今後は神殿内で行われなければならなことを言明しました。当時神殿はまだ完成していませんでしたが,その後の6か月のうちに工事が進み,地階が囲えるようになると,そこにバプテスマフォントが作られ,奉献されました。こうして1841年11月初旬には,預言者ジョセフ・スミスの指示の下,死者のためのバプテスマが主の宮で執り行われるようになったのです。」(Church History and Modern Revelation [1949], 4:81)

教義と聖約124:28,37-42。「わたしがそこで民に儀式を示すことができるようにしなさい」

〔19世紀のノーブー神殿の写真〕

最初に建てられたノーブー神殿の写真

主の民は常に神殿を築く民でした。古代と同様,わたしたちの時代においても神殿が建てられています。そこで神聖な儀式が明らかにされ,執り行われ,また「神託」すなわち神からの啓示を受けられるようにするためです(教義と聖約124:38-40参照)。主御自身の説明によると,ノーブー神殿を建設するおもな目的は,「いと高き方が住めるように〔し〕,……いと高き〔方〕が来て,……完全な神権を再びあなたがたに回復できる」場所を用意するためでした(教義と聖約124:27-28)。預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は次のように教えています。「神の神権のすべてを得るには,イエス・キリストがそれを得られたのと同じ方法で得なければなりません。そしてそれは,すべての戒めを守り,主の宮のすべての儀式に従う方法でした。」(「『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』418)神殿における儀式をすべて受け,それに伴う聖約を守ることによって,教会員は,天の御父が神権を通して御自分の子供たちにお与えになるあらゆる祝福を受けることができます。

イリノイ州ノーブーで神殿の建設が始まると,預言者ジョセフ・スミスと大管長会の顧問たちは教会員に向けて手紙を書き,主の宮を建てる理由を次のように説明しました。「主の神殿の建設がこの地〔ノーブー〕で進められています。聖徒たちはこの場所にやって来て,主の宮の秩序に従って,また聖なる神権の力によって,自分たちの先祖の神を礼拝することになるでしょう。神殿は,神権のすべての務めが正しく行われるように建設されます。この場所で至高者から教えが授けられて,遠い地まで伝えられることになります。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』415

預言者ジョセフ・スミスは,ノーブー神殿の建設には数年を要することを理解していました。またジョセフは,自分が生きて神殿の完成を見ることはないだろうことも承知していました。十二使徒定員会のフランクリン・D・リチャーズ長老(1821-1899年)は次のように書いています。「御霊が〔ジョセフ・スミスに〕この世での彼の働きが終わりに近づいていることを告げ,ジョセフは神殿の完成を待たずに自分の地上での生涯が終わるかもしれないことを理解しました。そこで数名の選ばれた人々を呼び集め,彼らに聖なるエンダウメントの儀式を授けました。ジョセフの心に蓄えられていた神聖な宝が,彼の死とともにこの世から消え去ることのないようにするためでした。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』413-414

〔赤レンガ造りの店,イリノイ州ノーブーの画像〕

イリノイ州ノーブーにあるジョセフ・スミスの赤レンガ造りの店

1842年5月4日,預言者はノーブーにある自身のレンガ造りの店の2階を,神殿の内装に似せて整えました。預言者ジョセフ・スミスは,後に次のように記録しています。

「店の2階で一日を過ごしました。……〔神権指導者の一団〕に,神権の原則と位を教え,洗いと油注ぎとエンダウメントを行い,アロン神権に属する鍵からメルキゼデク神権の最も高い位に属する鍵を授けました。また,日の老いたる者〔アダム〕にかかわる位と,人が長子の教会のために用意されている祝福のすべてを手にし,上って行って永遠の世でエロヒム〔父なる神〕の前に住むことを可能にする,すべての計画と原則を示しました。この終わりの時代の中で初めて,古代の物事の秩序が再び地上に設けられたのは,この評議会においてでした。

わたしが,この評議会に伝えたことは霊的な事柄であり,それを受けることができるのは,霊的な思いを抱く者だけです。また,この人々に知らされた事柄はすべて,聖徒たちに受ける備えができ,またそれらを伝えるための適切な場所が用意されたらすぐにも,終わりの時のすべての聖徒たちに,……知らされるでしょう。ですから聖徒たちはこれまでに神から建てるように命じられた,あるいはこれから命じられる,神殿とすべての家を建てるために絶えず努力しなければなりません。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』414

ジョセフ・スミスの殉教後,ノーブーを離れる決定がなされた後でさえも,教会員はノーブー神殿の建設作業を続けました。1845年12月から1846年2月にかけて建設作業が続く中,生者のためのエンダウメントが神殿内で執り行われました。ソルトレーク盆地へ向けて脱出を始める前に,何千人もの教会員がエンダウメントを受けました(See McBride, “The First Nauvoo Temple,” 12.)

教義と聖約124:45-46。「わたしの声と,わたしの……僕たちの声に聞き従〔いなさい〕」

主は教会員に,「〔彼ら〕が〔主の〕声と,〔主の〕僕たちの声に聞き従うならば,……彼らはその場所から移されることはない」と確約されました(教義と聖約124:45)。場所という言葉は実際の場所を表す場合もありますが,ここでは,主の前に立つ聖徒の霊的な状態を表すと考えられます。聖文や主の選ばれた僕によって教えられる主の言葉に「聞き従う」とき,教会員は誘惑に立ち向かい,偽りを見抜き,真理と義に確固として堅く立つことができるでしょう。つまり,「彼らはその場所から移されることはない」のです(教義と聖約124:45)。

教義と聖約124:49-54。「彼らの敵が彼らを襲って,彼らがその業を成し遂げるのを妨げるとき」

1831年7月,主は,ミズーリ州ジャクソン郡インディペンデンスがシオンとその神殿が築かれる町となることを明らかにされました(教義と聖約57:3参照)。翌年,主は,神殿を起点としてシオンの町を築くようにという,教会員に向けた指示を再確認されました(教義と聖約84:4-5参照)。ところが1833年の冬には,聖徒は敵によってミズーリ州ジャクソン郡から手荒く追い出されてしまっており,そのため,シオンの町と神殿を築くようにという主の命を果たすことができませんでした。1841年1月19日に預言者ジョセフ・スミスに与えられた啓示の中で,主は,聖徒の払った犠牲を受け入れ,シオンに町と神殿を築くようにという命令をその時点では免除されました(教義と聖約124:49参照)。

大管長会のチャールズ・W・ペンローズ管長(1832-1925年)は,教義と聖約124:49で教えられている原則について次のように説明しています。「これは過去に適用されたもので,未来にも適用されるでしょう。わたしたちはこのことを心に留めておかなければなりません。神がある命令を与え,わたしたちがそれに従わないなら,その結果として,神はその命令を取り消されると同時に,その祝福も取り消されます。神がわたしたちにあることをするよう命じられ,法律上の制限や物理的な法則による何らかの妨げによって,その命令を実行できないことが判明した場合,主はそれ以上を求ず,わたしたちのささげ物を受け入れてくださいます。そして,御自分の民が求められたことを成し遂げるのを妨げた人々のうえに,憤りと怒りとを下されるのです。」(in Conference Report, Apr. 1924, 14)しかしながら,神が教会に対し,教義と聖約124:49に述べられている原則に基づいて命令に従うことを免除しようとされる場合には,神の選ばれた預言者を通して啓示により知らされることを覚えておくべきです。

初期の聖徒はミズーリ州ジャクソン郡に町と神殿を築くようにという主の命を果たすことができませんでしたが,教義と聖約に記録されている啓示によって,将来いつの日か,その地に末日のシオンが築かれると教えられています(教義と聖約101:17-18105:13参照)。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように教えています。「しかしながら,神殿を築くことを免除されたからといって,将来いつの日か,主の町と主の宮を築くという責任がなくなったわけではありません。成し遂げる準備を主がなさったとき,主は御自分の民にお命じになり,その業は成し遂げられるでしょう。」(comp. Bruce R. McConkie [1955], 3:79Doctrines of Salvation,)

教義と聖約124:84-122

主は特定の教会員に,指示や割り当て,約束をお与えになる

教義と聖約124:84。「彼はわたしが定めた助言……の代わりに,自分の助言を確立しようと切望している」

アルモン・バビットはシオンの陣営の一員として働き,七十人第一定員会の会員に召されました。1840年10月,預言者ジョセフ・スミスは彼を,オハイオ州カートランドステークを管理するよう召しました。(See “Babbitt, Almon Whiting,” josephsmithpapers.org.)この召しを伝える手紙に,預言者は次のように書いています。「カートランドに住みたいと望む東部の兄弟たちには,そうするよう助言するのが賢明であると思われます。結果的に,あなたのステークの会員が増えることになるでしょう。しかし,彼らは信仰が未熟であるため,優しく接する必要があるでしょう。」(in Manuscript History of the Church, vol. C-1, page 1114, josephsmithpapers.org)こうした指示を受けた後,アルモンはカートランドを再建する務めに対する熱意が高じるあまりに,「カートランドへの集合を〔アメリカ合衆国東部の〕会員に奨励するにとどまらず,イギリスから移住してきた改宗者にも奨励するようになりました。また,すでにイリノイ州ノーブーに住んでいた教会員に対しても,カートランドに戻って来るよう説き伏せようとしました。こうした熱心な働きかけにより」,ノーブーを含む「そのほかのモルモン共同体を犠牲にしてまでもカートランドを築き上げようとしたのです。」(Mark Lyman Staker, Hearken, O Ye People [2009], 552)

主は,アルモン・バビットは,「わたしが定めた助言,すなわちわたしの教会の大管長会の助言の代わりに,自分の助言を確立しようと」していると指摘されました(教義と聖約124:84)。カートランドを築き上げようとするアルモン・バビットの熱意について,主は,「わたしの民が礼拝するために一つの金の子牛を掲げている」ことにたとえられました(教義と聖約124:84)。これは主の戒めに背き,アロンが作った金の子牛を拝したイスラエルの子らのことを表しています(出エジプト32:1-8参照)。教会員は神の御心よりもほかの事柄を追い求めることを優先するとき,神の勧告と戒めから離れる恐れがあります。刻んだ像や金の子牛を礼拝することに救いはないのと同様,主が御自分の選ばれた僕を通してお与えになる勧告に反する助言に従うなら,そこに救いの力はありません。アルモン・バビットは,その行いのゆえに,一時的に教会の正会員資格を剥奪されましたが,後に教会に完全に戻り,残りの生涯にわたって忠実に仕えました。

教義と聖約124:87-91,97-102。「彼がわたしの前に謙遜であって,偽りがないようにさせなさい」

教義と聖約124:87-91,97-102に記録されているように,主はハイラム・スミスに代わって教会の大管長会第二顧問に召されたウィリアム・ローに向けて語られました。主はウィリアムに,彼が「〔主〕の前に謙遜であって,偽りがないように」するならば,「彼は〔主〕の御霊,すなわち慰め主を受けるであろう。その慰め主は,すべてのことについて彼に真理を明らかに」するであろうと約束されました(教義と聖約124:97)。御霊によって真理を学ぶうえで謙遜さが大切であることについて,十二使徒定員会のリチャード・G・スコット長老(1928-2015年)は次のように教えています。「霊的な知識を得るにはへりくだることが不可欠です。へりくだるとは素直になることです。へりくだれば御霊に訓練され,聖典など主からの霊感によるものから教えを受けることができます。個人の成長と理解の種は,謙遜という肥沃な土で芽を出し,花開くのです。そしてその実こそが,この世から永遠にわたってわたしたちを導く霊的な知識なのです。」(「霊的な知識を得る」『聖徒の道』 1994年1月号,98)

ジョセフ・B・ワースリン長老は,「偽りがない」(教義と聖約124:97)とはどういう意味かを次のように説明しています。

「偽りがないということは,思いと行いの中にうそやごまかし,偽善,不正直がないことです。……偽りのない人は,汚れがなく,正直で,清い目的を持ち,その生活には,日々誠実に行動するという簡潔な習慣が表れています。……

偽りがなければ,わたしたちは正直で,誠実で,義にかなった人になります。これらはすべて神の属性であり,聖徒に求められるものです。正直な人は,公正で,自分の言葉に忠実で,正直に行動し,欺瞞や盗み,詐欺,そのほかあらゆる不正行為をしません。正直は神のものであり,不正直はサタンのものです。……

自分の心を吟味して,動機や行いが清く潔白かどうか,また不正や偽りがないかどうか確かめてみましょう。」(「偽りのない者」『聖徒の道』1988年6月号,84-85,87参照)

しばらくの間,ウィリアム・ローは大管長会において,謙遜と誠実をもって務めました。ところが1843年の冬には,回復された福音とジョセフ・スミスの預言者としての使命に対する彼の信仰は揺らいでいました。多妻結婚の原則を受け入れるのが難しかったこともその一因でした。ウィリアム・ローはその職から退けられ,ついには1844年4月18日に破門に処せられました。彼は預言者に敵意を抱くようになり,Nauvoo Expositor(『ノーブー・エクスポジター』)と呼ばれる中傷的な反モルモン新聞の出版に手を貸しました。この新聞を破棄しようとするノーブー市議会の決議が,ジョセフとハイラム・スミスの逮捕につながり,その後のカーセージの監獄での殉教に至ったのです。(See “Law, William,” in Largey and Dahl, Doctrine and Covenants Reference Companion, 358, 360.)

教義と聖約124:91-96。「わたしの僕ハイラムが,……祝福師という神権の職に就くためである」

1833年12月,ジョセフ・スミス・シニアは最初の大祝福師として召され,1840年9月に亡くなるまでその職を務めました(see Encyclopedia of Mormonism, “Patriarch to the Church” [1992], 3:1065教義と聖約107:39-56も参照)。亡くなる少し前,ジョセフ・スミス・シニアは,「〔ハイラム・スミスの〕頭に両手を置き,」「〔彼の〕頭に祝福師の力を結び固め〔ました〕。〔それによってハイラムが〕人々を祝福できるように〔するため〕です。」(Lucy Mack Smith, “Lucy Mack Smith, History, 1844–1845,” book 18, page 5,josephsmithpapers.org)1841年1月19日,主はハイラム・スミスを,「祝福によって,また権利によって,彼の父親により任命された祝福師という……職」に召し,また,「わたしの民のすべての頭に授ける祝福師の祝福の鍵を持〔つ〕」ようにされました(教義と聖約124:91-92)。こうしてハイラムを大祝福師に任じられたのです。

教会歴史の大半において,ステーク祝福師のほかに大祝福師が存在していました。大祝福師は中央幹部として支持され,ステーク祝福師と会うことができない教会員に祝福師の祝福を授ける責任を担っていました。この職は当初,スミス家に属する会員が保持していました(see Encyclopedia of Mormonism, “Patriarch to the Church” [1992], 3:1065–66)。「ステーク祝福師の人数が大幅に増加し,全世界で祝福師の祝福を授けられるようになったため」,1979年に大祝福師の職はなくなりました(see “The Sustaining of Church Officers,” Ensign, Nov. 1979, 18)

Joseph and Hyrum Smith, by Kenneth A. Corbett

Joseph and Hyrum Smith(「ジョセフ・スミスとハイラム・スミス」)by Kenneth A. Corbettハイラム・スミスは,預言者,聖見者,啓示者として弟ジョセフとともに立つよう,主によって召された(教義と聖約124:91-96参照)。

主はまたハイラム・スミスを,弟ジョセフと同様に,「教会のために預言者,聖見者,啓示者」として召されました(教義と聖約124:94-95参照)。ハイラム・スミス独自の召しについて,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように説明しています。教義と聖約124:91-93に記録されているハイラムに向けた祝福は,「祝福師の神権の鍵を持つ男性の職と召しにかかわるものです。

しかしながら,主はハイラム・スミスに,もう一つ重要で特別な誉れをお与えになりました。ジョセフ・スミスと同様に,この時満ちる神権時代の権能の鍵を持つ者とされたのです。……

これはハイラム・スミスに与えられた特別な祝福でした。この祝福を受けることにより,ハイラムは,かつてこの鍵が授けられていたオリバー・カウドリのいた地位に就いたのです。主が天から神権および神権の鍵を明らかにされたとき,オリバー・カウドリは常にジョセフ・スミスとともに天の御使いたちの前に立ち,ジョセフ・スミスと同様に,これらのすべての権能を受ける者となりました。そのことを忘れてはいけません。ジョセフ・スミスは教会の第一の長老として,オリバー・カウドリは第二の長老として,双方が共同してその権能を保持していたのです。

こうして,証人に関する律法を完全に満たしていました。すべての神権時代で最も大いなる神権時代の冒頭に,権能と鍵と長の職とを携えて立つ二人の証人がいたからです。しかし,背きによりオリバー・カウドリがこのすばらしく気高い祝福を失ったとき,ハイラム・スミスが主の啓示によって選ばれ,代わってその地位に就きました。」(Doctrines of Salvation, 3:165–66)

教義と聖約124:123-145

主は,神権指導者の地位において奉仕すべき人々を指名される

教義と聖約124:143。「奉仕の業とわたしの聖徒たちの完成のためである」

主は御自分の教会を管理するという目的のために,また「奉仕の業と〔主の〕聖徒たちの完成のため」に,神権の「職」を定め,御自分の僕たちに「その鍵」を託されました(教義と聖約124:143エペソ4:11-12も参照)。ジョン・テーラー大管長(1808-1887年)は,神権の職を務める人々が,どのように主の業を管理し,教会員が完全になるよう助けるかについて,次のように説明しています。

「主は主の教会に使徒や預言者,大祭司,七十人,長老などを置かれました。何のためでしょうか。……こうした様々な役職は,聖徒たちを完全な者にするためのものです。ほかにどんな理由があるでしょうか。奉仕の業のため,すなわち人がふさわしくなって知識を得,完全な英知と知恵と光を得,永遠の真理の原則を宣言することを学んで,新しいもの古いものを問わず,人の幸福を増すよう意図されたあらゆるものを神の宝の倉から取り出すためです。……

……神は皆さんの中から,大管長や使徒,預言者,大祭司,七十人,ビショップ,そのほかの権能を持つ人々を聖任されました。彼らは主からの召しを受けた,主によって力と導きを受けている人々です。そして主の影響の下で主の律法を教え,命の原則を説き,昇栄と永遠の栄光の道にあって人々を導くために特別に組織され,任命されるのです。」(『歴代大管長の教え—ジョン・テーラー』131-132参照)