「第45章:教義と聖約115-120章」教義と聖約 生徒用資料
「第45章」教義と聖約 生徒用資料
第45章
教義と聖約115-120章
紹介とタイムライン
1838年4月26日,ミズーリ州ファーウェストに移住して間もないころ,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約115章に記録されている啓示を受けた。その中で,主は教会の名称を明らかにされ,教会員に「立って光を放ちなさい」(教義と聖約115:5)と勧告し,聖徒たちにファーウェストに神殿を建設するよう指示された。
1838年5月19日,ファーウェストの北側の土地を調査していたとき,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約116章に記録されている啓示を受けた。その啓示で,主はミズーリ州スプリングヒルをアダム・オンダイ・アーマンであると特定された。
1838年7月8日,預言者はファーウェストで教義と聖約117-120章に記録されている啓示を受けた。教義と聖約117章に記録されている啓示で,主はニューエル・K・ホイットニーとウィリアム・マークスにオハイオ州カートランドの「事業を速やかに清算して」ファーウェストに移住するよう命じられた(教義と聖約117:1)。オリバー・グレインジャーも,カートランドの大管長会の財務を清算するように召された。教義と聖約118章に記録されている啓示で,主は預言者ジョセフ・スミスに十二使徒定員会の欠員を埋めるように指示し,十二使徒定員会の会員たちに海外での伝道に出るように命じられた。教義と聖約119-120章に記録されている啓示で,主は,什分の一の律法と什分の一基金の分配に関する指示を与えることによって,教会の著しい財政難に対応された。
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1836年夏教会員は,ファーウェストと呼ぶミズーリ州北部の地域に土地を購入し,移住し始めた。
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1836年12月ミズーリ州議会は,教会員専用の入植地としてコールドウェル郡を作った。
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1838年3月14日ジョセフ・スミスとその家族がミズーリ州ファーウェストに到着した。
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1838年4月26日教義と聖約115章が与えられた。
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1838年5月中旬ジョセフ・スミスは,聖徒の入植用地をさらに探すため,ミズーリ州ファーウェストの北の地域に調査隊を率いて行った。
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1838年5月19日教義と聖約116章が与えられた。
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1838年7月8日教義と聖約117-120章が与えられた。
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1839年4月26日十二使徒定員会の会員7人が,ファーウェスト神殿の隅のかしら石を据えることによって預言を成就した。
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1839年秋十二使徒定員会の会員はイギリスへの伝道に出発した。
教義と聖約115章:追加の歴史的背景
1833年後半,教会員はミズーリ州ジャクソン郡を追い出されたとき,大半は北部へ移動して,ミズーリ州クレイ郡に避け所を見いだしました。当初クレイ郡の住民は聖徒に友好的でした。しかし自分たちの郡に聖徒が住むのは一時的なことだと思っていました。クレイ郡にいる間に,教会員は州政府と合衆国政府にジャクソン郡の自分たちの土地を返してもらえるよう助けを求めましたが,不調に終わりました。1836年夏,クレイ郡の住民は,教会員にクレイ郡を立ち退くよう求める決議を可決しました。教会指導者はすでにミズーリ州レイ郡北部に土地を購入し,移り住む計画を立てていたので,決議に同意しました。1836年の夏と秋,教会員はファーウェストと名付けた地域を含むレイ郡北部の地域に移動し始めました。1836年12月,ミズーリ州議会は,レイ郡の人が住んでいない地域に,コールドウェル郡とデイビーズ郡という二つの新しい小さな郡を作ることを承認しました。コールドウェル郡は教会員だけ限定の場所とされました。(See Alexander L. Baugh, “From High Hopes to Despair: The Missouri Period, 1831–39,” Ensign, July 2001, 48.)
1837年初め,コールドウェル郡が創設されて間もなく,教会指導者のジョン・ホイットマーとウィリアム・W・フェルプスは,ファーウェストの町を築く計画を立てて,将来の神殿用地を選びました。1837年4月,ミズーリの高等評議会は,ホイットマー兄弟とフェルプス兄弟に計画を立てる権限があるかどうか話し合っていましたが,1837年7月に教会員がファーウェスト神殿の基礎を掘り始めたため,計画を実行に移すことを決めたようです。1837年11月,預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンはファーウェストを訪れ,ミズーリの教会指導者と評議会集会を開きました。その集会で,評議会は,主がさらなる指示を授けてくださるまで神殿建設を遅らせることを条件に,ファーウェストの町を築いて神殿を建てる計画を承認しました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, ed. Mark Ashurst-McGee and others [2017], 112–13.)
1838年4月26日,預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンがミズーリ州ファーウェストに移住した数週間後,主はファーウェストの町と神殿を築くことについて御心を示されました。この啓示は教義と聖約115章に記録されています。
教義と聖約115章
主は,教会員にミズーリ州ファーウェストを築き,神殿を建てるように命じられる
教義と聖約115:4。「末日聖徒イエス・キリスト教会」
1830年4月6日に教会が組織されたとき,主は教会を「この終わりの時におけるキリストの教会」と呼ばれました(教義と聖約20:1)。それに応じて,教会員はしばしば,初期の回復された教会を「キリストの教会」または「イエス・キリストの教会」と呼びました。1834年5月3日,オハイオ州カートランドで開かれた教会の大会において,「長老たちは全会一致で教会の名前を『末日聖徒の教会』と変えることを決議しました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 4: April 1834–December 1835, ed. Matthew C. Godfrey and others [2016], 42)4年後,主は次のように宣言されました。「わたしの教会は,終わりの時にこのように,すなわち末日聖徒イエス・キリスト教会と呼ばれなければならない。」(教義と聖約115:4)
十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード長老は,主が明らかにされたこの名前の重要性について次のように説明しています。
「回復された教会に救い主はなぜこれほど長い名称をお与えになったのか,わたしはこれまでよく考えることがありました。確かに長い名称のようですが,どのような教会かを説明する言葉だと考えれば,とたんに,それは実に簡潔,率直で明快な言葉になります。これほど短い言葉で,これほど直接的にはっきり説明する方法がほかにあるでしょうか。
どの言葉も明快で,欠かすことができません。英語の名称の最初にあるTheは,回復された教会が世界の宗教の中で独自の位置を占めていることを示しています。
イエス・キリスト教会という言葉は,これが主の教会であることの宣言です。イエスはモルモン書の中で次のように教えていらっしゃいます。 『わたしの名で呼ばれなければ,どうしてわたしの教会であろうか。……ある人〔例えばモルモン〕の名で呼ばれれば,それはその人の教会である。しかし,わたしの名で呼ばれ,人々がわたしの福音の上に築かれていれば,それはわたしの教会である。』(3ニーファイ27:8)……
末日という言葉は,この教会はイエス・キリストが地上におられたときに設立された教会と同じ教会であり,この末日に回復されたものだということを説明しています。……
聖徒とは,教会員が主に従ってその御心を行い,戒めを守ろうと努めて,将来再び主と天の御父とともに住めるよう備えていることを意味します。聖徒とは簡単に言えば,キリストに従うことを聖約して聖く生活しようとする人を表す言葉です。
救い主が御自身の教会にお与えになった名称は,わたしたちが何者であり,何を信じているかを正しく伝えています。」(「名前の大切さ」『リアホナ』2011年11月号,80参照)
大管長会は次のように述べています。「国境,文化,言語を越えた教会の発展に伴い,救い主の御名を全世界に宣言するという責任を果たすうえで,啓示された教会の名称,すなわち『末日聖徒イエス・キリスト教会』(教義と聖約115:4)という名称を使用することがますます重要になってきています。そのため,教会員の皆さんが教会について話すときには,可能なかぎり教会の正式名称を用いてくださるようお願いします。」(大管長会の手紙,2001年2月23日付)
教義と聖約115:5。「もろもろの国民のための旗」
聖文では,standard(標準,旗)という言葉とensign(国旗,旗)という言葉は,しばしば同義語として使われます。旗とは,「人々が一つの目的の下に,あるいは帰属するグループごとに集まるための目印となるもの。古代においては,戦場での兵士の集合地点を示すために用いられた。」(『聖句ガイド』「旗」の項,scriptures.lds.org)教義と聖約115章に記録された啓示で,主は教会員に,「立って光を放ちなさい。それは,〔彼ら〕の光がもろもろの国民のための旗となるためであ〔る〕」と言われ(教義と聖約115:5),そうすることで,世界の人々を御自分の教会と回復された福音に集める助けをするよう命じられました。
元中央若い女性会長のイレイン・S・ダルトン姉妹は,「旗となる」ようにという主の命令がわたしたちにとってどのような意味であるか,次のように説明しています。「皆さんは福音に従って生活する様子を通して主の光を映し出すのです。皆さんの模範には地上で強力な善の影響力があるでしょう。『立って光を放ちなさい。それは,あなたがたの光がもろもろの国民のための旗となるためであ〔る。〕』〔教義と聖約115:5〕この召しは皆さん一人一人に向けられたものです。より高い標準に従って生活するという召しです。指導者になる,つまり品位や純潔,慎み深さ,聖さの面で先に立つ者になるという召しです。この光を人々に伝えるという召しです。今こそ『立って光を放〔つ〕』時なのです。」(「顔に表れてくる」『リアホナ』2006年5月号,109)
教義と聖約115:6。「防御のためとなり,また嵐……〔からの〕避け所となる」
1833年後半,教会員はミズーリ州ジャクソン郡,つまり,シオンの「中心の場所」(教義と聖約57:3参照)から追放されました。ジャクソン郡から追放された後,聖徒は,ミズーリのほかの移住地はシオンに戻れるまでの一時的な場所だと考えていました。教義と聖約115章に記録されている啓示の中で,主は聖徒に,ミズーリ州ファーウェストに「聖なる聖別された」町を築くように命じられました(教義と聖約115:7参照)。主はまた教会員に,「シオンの地とそのステークに」集合するべきであることを明らかにされ(教義と聖約115:6;強調付加),シオンのステークも集合地であると教えられました。「末日聖徒はインディペンデンスの『中心の場所』にいるわけでもなく,『シオンの町』を築いているわけでもありませんでしたが,ファーウェストに一つのシオンの町を神殿とともに築くよう命じられていました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 113)
十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,アダム・オンダイ・アーマンに築かれるステークのような各地のステークが,どのような点でジャクソン郡やファーウェストと同じく「シオンの地」(教義と聖約115:6)の一部であるのかを,次のように説明しています。
「シオンのステークも地の果てにまで組織されつつあります。これに関連して,次の真理を考えてみましょう。シオンのステークはシオンの一部です。シオンの一部を作らずに,シオンのステークを作ることはできません。シオンは『心の清い者』です。わたしたちはバプテスマと従順とによって清い心を得ます。ステークには地理的な境界があります。ステークの創立は聖なる都の建設に似ています。地上のすべてのステークは,その地に住む,イスラエルの行方の知れない羊が集合する場所です。……
……イスラエルは地上のすべての場所に築かれるシオンのステークに一人ずつ,あるいは一家族ずつ集められ,やがて全地が福音の実によって祝福されるのです。」(「シオンの建設」『聖徒の道』1977年9月号,402-403参照)
「シオンの地とそのステークに集合すること」は「防御のためとなり,また嵐……〔からの〕避け所となる」と主は言われました(教義と聖約115:6)。「防御」とは攻撃に対抗することや,攻撃からの守りを表し,「避け所」は安全な場所や避難所を指します。また「嵐」は騒乱や争いが起きている状態,教会の敵からの攻撃,サタンの誘惑を指します。主はまた,シオンのステークに集まる人々は,再臨の前の「激しい怒りが全地にありのままに注がれるときに」,その怒りから守られると約束されました(教義と聖約115:6)。
十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,教会のステークが忠実な末日聖徒に安全と守りを提供すると次のように断言しています。「この最後の神権時代の初期には,カートランド,ミズーリ,ノーブー,〔ユタ州ソルトレーク・シティーとその周辺地域の〕山々の頂など,合衆国の様々な場所でシオンの集合が行われました。これらの集合は,すべて将来建てられる神殿を目指していました。多くの教会員がいるほとんどの国においてステークが誕生し,神殿が建設されている今,わたしたちは一つの場所に集合するのではなく,自国のステークに集合するよう命じられています。忠実な人々はそこで,主の宮における完全な永遠の祝福にあずかることができます。自分の国で主の命令に従い,主の民の占める範囲を広げ,シオンのステークを強めるのです(教義と聖約101:21;133:9,14参照)。このようにして,シオンのステークは『防御のためとなり,また嵐と激しい怒りが全地にありのままに注がれるときに,その避け所となる〔。〕』(教義と聖約115:6)」(「再臨への備え」『リアホナ』2004年5月号,7-8)
教義と聖約115:7-16。「聖徒たち……の集まる場所として,わたしのために一つの家を建てなさい」
1837年11月6日,ミズーリ州ファーウェストでの評議会で,預言者ジョセフ・スミスと評議会のメンバーは,「啓示によって改めて指示されるまで」そこに神殿を建てるのを遅らせることを決めました (in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, ed. Brent M. Rogers and others [2017], 466)。1838年4月26日に与えられた啓示の中で,主は聖徒たちに,「ファーウェストの町を,〔主〕のために聖なる聖別された地とし」,そこに「聖徒たち……の集まる場所として,〔主〕のために一つの家を建てなさい」とお命じになりました(教義と聖約115:7-8)。
預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,主がどの神権時代にも御自分の民を集めてこられた理由を次のように説明しています。「世の様々な時代に,神の民が……集められたのはどのような目的のためだったのでしょうか。……第一の目的は,主のために宮を建て,それによって,主がその民に主の宮の儀式と主の王国の栄光を明らかにし,救いの道を教えることがおできになるようにすることでした。なぜなら,特定の儀式と原則があって,それらを教え施すには,その目的のために建てた場所,すなわち宮の中で行わなければならないからです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』416)
主はファーウェストでの神殿建設について特定の指示をお与えになりました。「来る七月四日」すなわち1838年7月4日に,「この仕事を開始し,基礎造りをし,準備工事を始め〔る〕」よう命じられました(教義と聖約115:9-11)。その後,1839年4月26日,つまり教義と聖約115章に記録された啓示が与えられた「この日から一年後」に,教会員は「〔主〕の家の土台を据える作業を再開〔する〕」ように言われました(教義と聖約115:11)。主の命令に従って,教会指導者は,1838年7月4日に開かれた式典で,ファーウェスト神殿の隅石を据えました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 115, note 559)。しかし,1838年から1839年にかけての冬に聖徒たちはミズーリから追い出されたため,神殿建設を完了することはできませんでした。
教義と聖約116章:追加の歴史的背景
多くの教会員が間もなくオハイオ州からミズーリ州に到着することへの期待をもって,またミズーリ州ファーウェストの「周りの他の場所が,……ステークとして定められる」という主の戒めに従って(教義と聖約115:18),1838年5月に預言者ジョセフ・スミスとほかの幾人かがファーウェストを出発して,入植地になりそうな所を探すために,デイビーズ郡北部の地域を調査しに行きました。この一環として,預言者と同僚たちはファーウェストの北約25マイル(約40キロ)を旅し,ライマン・ワイトやほかの教会員幾人が移住していたスプリングヒルと呼ばれる場所まで行きました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 163.)1838年5月19日,ジョセフ・スミスと同僚たちは「〔ワイツ・〕フェリーの近くで町を築く土地を選び,所有権を獲得するために」時間を費やしました」(in The Joseph Smith Papers, Journals, Volume 1: 1832–1839, ed. Dean C. Jessee and others [2008], 271; spelling standardized; see also JacobW. Olmstead, “Far West and Adam-ondi-Ahman,” in Revelations in Context, ed. Matthew McBride and James Goldberg [2016],237, or history.lds.org)。預言者ジョセフ・スミスは1838年5月19日の日記に,選んだ場所は,歴史的にも将来的にも重要な場所であることを主が示されたと記しています(see The Joseph Smith Papers, Journals, Volume 1: 1832–1839, 271)。この啓示は教義と聖約116章に記録されています。
教義と聖約116章
主はアダム・オンダイ・アーマンの場所を明らかにされる
教義と聖約116:1。アダム・オンダイ・アーマン
主は回復についてのほかの真理と同様に,アダム・オンダイ・アーマンについての知識を「教えに教え,訓戒に訓戒」を与えて明らかにされました(教義と聖約98:12)。1832年3月1日,預言者ジョセフ・スミスは啓示を受け,その中で主は御自分のことを「アダム・オンダイ・アーマンの基を設けたシオンの聖者である主なる神」と宣言されました(教義と聖約78:15)。記録によると,1832年3月に預言者はアーマンという言葉は「純粋な言語における神の名」であると教えています(in The Joseph Smith Papers, Revelations and Translations, Volume 1: Manuscript Revelation Books, ed. Robin Scott Jensen and others [2011], 204, 206)。1838年5月19日,預言者は「〔ミズーリ州〕スプリングヒルは,主によってアダム・オンダイ・アーマンと名付けられる」ことを知りました(教義と聖約116:1)。そして1838年7月8日,主は「アダム・オンダイ・アーマン〔は〕アダムの住んでいた地」であると断言されました(教義と聖約117:8)。
ブリガム・ヤング大管長(1801-1877年)は,アダム・オンダイ・アーマンの重要性について次のように思い起こしています。「預言者であるジョセフはわたしに,エデンの園はミズーリ州ジャクソン郡にあったと言いました。アダムはエデンの園から追い出されたとき,ミズーリ州デイビーズ郡にある,現在わたしたちがアダム・オンダイ・アーマンと呼ぶ場所に行きました。そこでアダムは一つの祭壇を築き,犠牲をささげました。」(in Matthias F. Cowley, Wilford Woodruff: History of His Life and Labors [1909], 481)
預言者ジョセフ・スミスはさらに次のように説明しています。
「わたしはアダム・オンダイ・アーマンの谷でアダムを見ました。アダムはその子孫を呼び集め,彼らに族長の祝福を授けました。主が彼らのただ中に御姿を現され,彼(アダム)は彼ら全員を祝福し,最後の世代に至るまで彼らに起こる事柄を予告しました。
アダムがその子孫に祝福を授けたのは,彼らを神のもとに導きたいと思ったからです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』105。教義と聖約107:53-57も参照)
教義と聖約116章に記録されている啓示の中で,主はアダム・オンダイ・アーマンの場所を明らかにされただけでなく,いつの日か「アダムがその民を訪れるために来る場所,すなわち預言者ダニエルによって述べられたように日の老いたる者が座する場所」であると言われました(教義と聖約116:1。ダニエル7:9-14,22も参照)。
将来起こる出来事について預言者ジョセフ・スミスは次のように教えています。「ダニエルは,その書の第7章の中で,日の老いたる者について語っています。日の老いたる者とは,最年長者,わたしたちの父祖アダム,またはミカエルのことです。アダムはその子孫を呼び集めて,人の子の来臨に備えさせるため,彼らとともに会議を開くでしょう〔ダニエル7:9-14参照〕。アダムは人類家族の父であり,すべての人の霊を管理します。そして,鍵を持っていた人は皆,この大会議においてアダムの前に立たなければなりません。……人の子がアダムの前にお立ちになり,栄光と主権がアダムに与えられます。アダムは,宇宙の鍵を持つ者として渡された自分の管理人の職をキリストに引き渡しますが,人類家族の長としての自分の立場は保ちます。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』104参照)
教義と聖約116章に記録されている啓示を受けてから数週間のうちに,ミズーリ州デイビーズ郡にあるアダム・オンダイ・アーマンの入植地にオハイオから新たな聖徒が到着し始め,活気が出てきました。「1838年6月28日,〔ジョセフ・スミス〕は,アダム・オンダイ・アーマンにシオンのステークを組織するための大会で議長を務めました。」そして,預言者ジョセフ・スミスのおじジョン・スミスがステーク会長に召されました(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 162; see also Olmstead, “Far West and Adam-ondi-Ahman,” 239, or history.lds.org)。アダム・オンダイ・アーマンの人口は,その地域から教会員が追放される1838年11月までに,1,500人ほどまで増えていたようです(see Baugh, “From High Hopes to Despair,” 50)。
アダム・オンダイ・アーマンについての詳しい情報は,本書の教義と聖約27:5-14と107:40-56の解説を参照してください。
教義と聖約117章:追加の歴史的背景
1838年7月8日,預言者ジョセフ・スミスはミズーリ州ファーウェストで5つの啓示を口述しました。これらは,教義と聖約117-120章に記録されているものと,フレデリック・G・ウィリアムズとウィリアム・W・フェルプスに向けた公表されなかった啓示一つです。教義と聖約117章に記録されている啓示は,その日の預言者ジョセフ・スミスの日記に記録された最後の啓示で,ウィリアム・マークス,ニューエル・K・ホイットニー,オリバー・グレインジャーに向けたものでした。
1838年1月,預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンがオハイオ州カートランドから逃れた後,ウィリアム・マークスがカートランドの教会を監督し,そこでの預言者とシドニー・リグドンの事業を清算するよう任命されました。ニューエル・K・ホイットニーは「カートランドで教会の物質面の運営を監督するビショップ」として残りました。しかしマークス兄弟とホイットニービショップは,忠実な聖徒はミズーリに移住するようにと指示した1838年1月12日の啓示に従い,「教会の事業を速やかに清算して,ミズーリに移住」すべきことは理解していたようでした(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 191; see also The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 500–502)。ところが,聖徒の大規模なグループがミズーリに向けてオハイオ州カートランドを立ち去った1838年7月6日まで,マークス兄弟とホイットニービショップはまだカートランドに住んでいました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 191)。
オリバー・グレインジャーはカートランドの高等評議会の一員で,教会の財務代理人でした。グレインジャーはカートランドからミズーリ州ファーウェストに旅し,1838年7月8日までには到着しました。教義と聖約117章に記録された啓示でグレインジャー兄弟に関する部分は,彼が預言者ジョセフ・スミスとミズーリのほかの教会指導者に伝えた情報に対する答えとして与えられたのかもしれません (in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 191)。
教義と聖約117章
主はウィリアム・マークスとニューエル・K・ホイットニーにオハイオ州カートランドを去るように命じ,オリバー・グレインジャーにそこでの大管長会の事業を清算するよう指示される
教義と聖約117:1-9。「一滴のしずくにすぎないものをむさぼって,もっと重要なことをなおざりにする」
教義と聖約117章に記録されている叱責は,ウィリアム・マークスとニューエル・K・ホイットニーが,命じられたことに従わず,オハイオ州カートランドの事業をまだ清算せず,ミズーリに移っていなかったことを主が不快に思われたことを示しています(教義と聖約117:1)。彼らがどのくらい速やかに「事業を……清算して」カートランドを去るべきだったのか明確ではありませんが,この啓示から二人が主の命令に従順でなかったことが分かります。
主はウィリアム・マークスとニューエル・K・ホイットニーに,主に従うことを妨げている「すべてのむさぼりの欲望を悔い改め〔る〕」ようお命じになりました(教義と聖約117:4参照)。「聖典でいう貪欲とは,人をうらやんだり,何かを過度に欲しがったりすることである。」(『聖句ガイド』「貪欲;むさぼり」の項,scriptures.lds.org)主は二人に「すべての罪とすべてのむさぼりの欲望を悔い改め〔る〕」ように言われた後,「わたしにとって財産とは何であろうか」とお尋ねになりました(教義と聖約117:4)。二人の財産とそのほかの所有物は,主が彼らに用意されているものに比べると,「一滴のしずくにすぎないもの」であることが強調されています(教義と聖約117:8。教義と聖約117:6-7;モーセ1:27-33も参照)。主はマークス兄弟とホイットニービショップに,「カートランドの財産を……処分しなさい」と言われました(教義と聖約117:5)。主は次のようにお尋ねになり,ミズーリで二人を待っているものについて指摘されました。「わたしは寂しい所に芽を出させ,花を咲かせ,また豊かに実を結ばせないであろうか〔。〕……アダム・オンダイ・アーマンの山々とオラハ・シネハの平原,すなわちアダムの住んでいた地に十分な余地がないのであろうか。」(教義と聖約117:7-8)このことに関して,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は次のように書いています。「オラハ・シネハの平原,すなわちアダムが住んだ場所は,アダム・オンダイ・アーマンの一部,またはその近辺であったに違いありません。」(Church History and Modern Revelation [1946], 3:125)
主はその後,ウィリアム・マークスとニューエル・K・ホイットニーに,重要でないことにとらわれて,「もっと重要なこと」すなわちミズーリの聖徒に仕え,主の王国を築き上げることを「なおざりにする」ことがないよう勧告されました(教義と聖約117:8)。この啓示を受けて間もなく,マークス兄弟とホイットニービショップは主の懲らしめの勧告に信仰をもってこたえ,オハイオ州カートランドを去って,ミズーリへ行きました(see Olmstead, “Far West and Adam-ondi-Ahman,” 240, or history.lds.org)。
教義と聖約117:11。「わたしの僕ニューエル・K・ホイットニーは,ニコライ派……〔を〕恥じなさい」
黙示2:6,15に記録されているように,主はニコライ派〔訳注—聖書ではニコライ宗〕の業と教義を憎んでいると言われました。ニコライ派は「性的な罪を犯すことを認めるよう主張した小アジヤの無律法主義の宗派」でした(Bible Dictionary, “Nicolaitans”)。無律法主義者とは,神の恵みによって戒めに従わなくてもよくなったと主張した自由放任のキリスト教徒でした。ブルース・R・マッコンキー長老は,黙示録で言及されたニコライ派について次のように説明しています。「世の方法に従って生活を続けながら,教会での自らの立場を守ろうとしている教会員のことです。……この名称は,教会の記録に名を残すことを望みながら,福音のために真心から自分自身をささげようとしない人を指すのに使われるようになりました。」(Doctrinal New Testament Commentary, 3:446)ニューエル・K・ホイットニーに対する「ニコライ派と彼らのすべての秘密の忌まわしい行い〔を〕……恥じなさい」という訓戒は(教義と聖約117:11),福音に自らを進んでささげようとしないオハイオ州カートランドの特定の離反者とかかわらないように気をつけなさいという警告です。
教義と聖約117:12-15。「わたしの僕オリバー・グレインジャーを,わたしは覚えている」
オリバー・グレインジャーは1832年から1833年のどこかの時点でニューヨークで教会に加わりました。1833年,妻のリディアとオハイオ州カートランドに移住しました。以降,グレインジャー兄弟は何度か宣教師として召され,その後1837年にカートランドの高等評議会の一員となりました。預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンが1838年1月にカートランドを去った後も,カートランドにとどまっていたようです。しかし数か月後,ミズーリ州ファーウェストに向けて旅し,1839年7月8日までには到着しました。教義と聖約117章に記録されている啓示が与えられた日です。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 624.)つまりこの啓示は,預言者にカートランドの教会の状況について伝えた「グレインジャー〔兄弟〕の情報に対する答えとして与えられたものかもしれません。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 191)この啓示でオリバー・グレインジャーは,カートランドに戻り,大管長会の財務代理人として引き続き務めるように求められました(教義と聖約117:1)。
主はオリバー・グレインジャーをミズーリに送り返されたとき,オリバーの「名前は代々とこしえにいつまでも,神聖に覚えられるであろう」,そして,「彼は倒れるとき,再び起き上がるであろう。彼の犠牲は彼が増し加えるものよりも〔主〕にとって神聖だからである」と約束されました(教義と聖約117:12-13)。ボイド・K・パッカー会長は,オリバー・グレインジャーについて,また主がオリバーにお与えになった約束について次のように話しています。
「オリバー・グレインジャーは,ごく普通の男性でした。しかし『極寒にさらされて視力を失い』,ほとんど目が見えませんでした(History of the Church, 4:408)。大管長会は彼について『最も高潔で,徳が高く,要するに,神の人である』と記しています (History of the Church, 3:350)。
聖徒たちがオハイオ州カートランドから追放され,同じ光景がインディペンデンス,ファーウェスト,ノーブーで繰り返されたとき,オリバーはたとえわずかな金額ででも聖徒たちの財産を売却するために後に残りました。うまく事が運ぶ見込みはあまりなく,実際,芳しい成果は得られませんでした。……
主がオリバーに期待されたのは,完全になることでも,恐らく成功することでもなかったと思います。『彼は倒れるとき,再び起き上がるであろう。 彼の犠牲は彼が増し加えるものよりもわたしにとって神聖だからである,と主は言う。』(教義と聖約117:13)
わたしたちは,いつも成功を期待できるとは限りませんが,全力を尽くすべきです。……
今日,わたしたちは次の預言を成就しています。『〔オリバー・グレインジャー〕の名前は代々とこしえにいつまでも,神聖に覚えられるであろう……。』(教義と聖約117:12)彼は世の中から見れば,偉大な人物ではありませんでした。しかし,主はこう言われました。『だれもわたしの僕オリバー・グレインジャーを軽んじることなく,……祝福がいつまでもとこしえに彼のうえにあるようにしなさい。』(教義と聖約117:15)
だれであっても普通の末日聖徒が示す信仰の力を過小評価しないようにしましょう。」(「これらの最も小さい者」『リアホナ』2004年11月号,86,88)
教義と聖約118章:追加の歴史的背景
十二使徒定員会の最初の会員の4人ジョン・F・ボイントン,ルーク・ジョンソン,ライマン・ジョンソン,ウィリアム・E・マクレランは,1838年7月までには,背罪や背教のゆえに,破門されるか,その職を剥奪されていました。このことは教会員にとって大変悲しいことでした。1838年7月8日の日曜日,指導者会で,「おお,主よ,十二使徒会についてのあなたの御心をわたしたちにお示しください」という願いに応じて,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約118章に記録されている啓示を受けました(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 176–78.)。ジョン・テーラー,ジョン・E・ページ,ウィルフォード・ウッドラフ,ウィラード・リチャーズが十二使徒定員会の空席を埋めるように指名されました。
教義と聖約118章
主は4人の新しい使徒を召し,十二使徒定員会の会員を海外への伝道に出るように召される
教義と聖約118:4-5。「来年の春,彼らは大海を越えて行き」
以前に与えられた啓示の中で,ミズーリ州ファーウェストの教会員は,1839年4月26日に「〔ファーウェスト神殿〕の土台を据える作業を再開」するよう命じられていました(教義と聖約115:11)。後にウィルフォード・ウッドラフ大管長(1807-1898年)は,「これは『神殿の隅石を据える』ようにという命令であったと説明」しています(『歴代大管長の教え—ウィルフォード・ウッドラフ』139参照)。さらに,教義と聖約118章に記録されている啓示の中で,主は預言者ジョセフ・スミスに指示をお与えになり,十二使徒定員会の会員は,1839年4月26日にファーウェスト神殿の建設用地から海外の伝道に出発するように命じられました(教義と聖約118:4-5参照)。1839年4月までにほとんどの教会員はミズーリから追放されていましたが,その月に十二使徒定員会の7人はファーウェストに戻りました。1839年4月26日,ファーウェストに戻った7人の十二使徒は,ファーウェスト神殿の隅のかしら石を据え,秋にイギリスへ伝道に出るに先立ち,ミズーリに残っていた数人の聖徒に正式に別れを告げました。このようにして主の命令を果たしたのです(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 180, note 73; see also Cowley, Wilford Woodruff: History of His Life and Labors, 101–2)。
ウッドラフ大管長は,その日の経験について次のように述べています。
「〔1838年に〕啓示が与えられたとき,末日聖徒のほとんどが住んでいたミズーリ州ファーウェストでは,すべてが安らかで穏やかでした。しかしその成就の時が来る前に,神の聖徒たちはボッグズ知事の命令の下,ミズーリ州からイリノイ州へと追い出されました。そしてミズーリの人々は,もしジョセフ・スミスのほかの啓示がすべて成就するとしても,その啓示が成就することはないと誓いました。啓示では,十二使徒が大海を渡って伝道に行くために聖徒たちに別れを告げる日付と場所が述べられており,ミズーリの暴徒を率いる者たちは,それが成就することはないだろうと宣言していたのです。……
わたしたちは啓示で求められていたことを果たそうと決意して,……ファーウェストに向かって出発しました。……
1839年4月26日の朝,この日に果たされるとされていた啓示が成就することはないという敵の脅しにもかかわらず,また知事の命令によって1万人の聖徒が州から追い出されていたにもかかわらず,……わたしたちはファーウェストの町にある神殿用地に進みました。そして評議会を開き,与えられた啓示を成就して命令を果たし,この評議会でほかに多くの事柄を成し遂げました。……
神の啓示を成就して命令を果たすのを見るために,神殿用地にとどまっていたわずかに残った聖徒に別れを告げて,わたしたちはファーウェストとミズーリ州に背を向けてイリノイ州に戻りました。わたしたちに向かって舌を鳴らす犬もなく〔出エジプト11:7参照〕,『なぜそのようにするのか』と言う人もありませんでした。」(『歴代大管長の教え—ウィルフォード・ウッドラフ』139-141)
教義と聖約119-120章:追加の歴史的背景
1838年7月8日に預言者ジョセフ・スミスが受けた5つの啓示のうちの2つには,教会の財政に関して必要なことが述べられています。以前に預言者は,経済問題に関するほかの啓示を受けていました。1831年,主は奉献の律法についての原則を明らかにされました(教義と聖約42:30-36参照)。後に,主は,教会の印刷事業と商取引を管理するために,共同商会が設立される必要があることを明らかにされました(教義と聖約78:1-16;104章参照)。預言者ジョセフ・スミスをはじめとする人たちは,金融機関の設立やほかの事業によって,教会の財政状態を改善しようとしましたが,ほとんどの努力は失敗に終わりました。この失敗が,1837年の合衆国の景気後退と相まって,教会は負債に圧迫され苦しんでいました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 184)。
1837年後半,オハイオ州のニューエル・K・ホイットニービショップとミズーリ州のエドワード・パートリッジビショップは,教会員に什分の一を納めるように求め始めました。当時教会員は,什分の一とは自発的に教会にささげるあらゆるものを指すと思っていました(スティーブン・C・ハーパー 「わたしの民の納める什分の一」マクブライドとゴールドバーグ 『啓示の背景』,または history.lds.org)。オハイオ州カートランドで,ビショップリックは「教会の負債を減らし,ミズーリ州における聖徒たちの共同体を築くのを助けるために,全地の教会員に『什分の一を倉に携えてくる』ように呼びかけ始めました。この全体への要請には推奨される献金額は盛り込まれていませんでしたが,1837年12月に〔ミズーリの教会指導者から成る〕委員会は,その年に教会が必要とする額に基づいた割合に従って,純資産から一定の割合を毎年献金するようすべての家長に求める提案をしました。1838年の教会の見込み支出額を賄うために,委員会は2パーセントの『什分の一』を提案しました。委員会はこのようなプログラムによって『奉献の律法をある程度実現できる』と考えました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 184–85; spelling standardized)
教会員がミズーリ州ファーウェストと周辺の地域に集まり始めたとき,教会も指導者たちもまだ多額の負債を負っていました。教義と聖約119章に記録されている啓示は,「主よ,あなたは什分の一として,あなたの民の財産のうちのどれほどをお求めになるか,あなたの僕にお示しください」という願いに応じて,1838年7月8日の指導者会の間に与えられました(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 186; spelling standardized)。教義と聖約120章に記録された啓示は,「『前の第百十九章の啓示の中で述べられた什分の一として納められた財産の配分』に関して与えられました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 190; spelling standardized)
教義と聖約119章
主は什分の一の律法を啓示される
教義と聖約119:1-4。「これは……とこしえに彼らにとっての永続的な律法となる」
主は,教会員が納めるべき什分の一の額について,預言者ジョセフ・スミスの質問に対して二つの部分から成る答えをお与えになりました。第1に,主は次のように言われました。「わたしは,彼らの剰余の財産をすべてシオンにおけるわたしの教会のビショップの手にゆだねることを求める。」(教義と聖約119:1)それから主はそのようにする目的を説明されました(教義と聖約119:2参照)。このようにして,教会員は自分たちの必要を満たした後,財産や所有物をビショップに差し出しました。教義と聖約119章に記録されている啓示を受けたすぐ後に開かれた評議会集会で,「剰余の財産」とは「〔所有者が〕『自分にとって都合のよい使い方』ができない土地や家畜などの財産」と定義されました(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 187, note 121)。
預言者の質問に対する主の二つ目の答えとして,聖徒は「毎年彼らの得る全利益の十分の一を納める」よう求められました(教義と聖約119:4)。この啓示が与えられて以来,主はこの戒めについてさらに明確に示してこられました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 188, note 126)。1970年,大管長会は「正しい什分の一とは何か」を説明して次のように答えました。「わたしたちの知るかぎり,最も簡潔な声明は,主御自身による声明です。すなわち,教会員は『毎年彼らの得る全利益の十分の一』を納めるべきです。この全利益は,収入を意味すると解釈されます。これ以外の声明を出すことは,いかなる人といえども認められません。」(1970年3月19日付けの大管長会からの手紙)
「毎年〔その人が〕得る全利益の十分の一を納める」という戒めは,将来取って代わられる低い律法ではなく,「とこしえに〔主の民〕にとっての永続的な律法」です(教義と聖約119:4)。
教義と聖約119:5-6。「またこの律法によってわたしのためにシオンの地を聖め」
ミズーリ州ジャクソン郡に集まった教会員の中には,財産を主が求められたように奉献しない人もいました。1833年,聖徒がジャクソン郡にある自分たちの家から追い出され後,主は彼らに「彼らの中には,あつれきや争い,ねたみ,対立,およびみだらなむさぼりの欲望があった」ため,「彼らは〔シオンの地にある〕その受け継ぎを汚したのである」と言われました(教義と聖約101:6)。教義と聖約119章に記録されている啓示の中で,主は,什分の一という「この律法を守らな〔い〕」者は「〔聖徒たち〕の中に住むにふさわしいと認められ〔ず〕」,また聖徒たちは「この律法によって」「〔主〕のためにシオンの地を聖め〔る〕」よう教えられました(教義と聖約119:5-6)。
ジョセフ・F・スミス大管長(1838-1918年)は,什分の一を納めることは試しであると次のように教えています。「この(什分の一の)原則によって,この教会の民の忠実さが試されます。この原則によって,神の王国を支持する人と反対する人とが分かります。この原則によって,だれが神の御心を行い,神の戒めを守り,シオンの地を神の前に清めることに心を向けているか,また,だれがこの原則に反対し,シオンの祝福を拒んでいるかが分かることでしょう。この原則は非常に重要なものです。なぜならば,わたしたちはこの原則によって忠実であるかどうかが分かるからです。この点で,神を信じる信仰,罪の悔い改め,罪の赦しのためのバプテスマ,そして聖霊の賜物を授けるための按手と同様にこの律法は基本的な律法であると言うことができます。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・F・スミス』276)
十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,什分の一を納めることでわたしたちは精錬されると教えています。「什分の一を正直に納めるという行為は,義務をはるかに超えたものです。それは個人の聖めという過程における重要な一歩です。」(「天の窓」『リアホナ』2013年11月号,20)聖められる者はシオンの地に住むに「ふさわしいと認められ」ます(教義と聖約119:5)。
教義と聖約120章
主はだれが什分の一基金を管理するべきかを啓示される
教義と聖約120章。「評議会によって,また彼らへのわたし自身の声によって,……配分される」
1830年4月6日に教会が組織されてから,ビショップ,共同商会の会員,大管長会,ステーク会長会,高等評議会はすべて,教会に納められた基金の管理に異なる時期に携わってきました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 189)。教義と聖約120章に記録されている啓示の中で,主は,「わたしの教会の大管長会と,ビショップとその評議会,ならびにわたしの高等評議会により構成される評議会」が,主からの霊感の下に皆ともに行動し,納められた基金を管理,配分するべきであることを明確にされました(教義と聖約120:1)。「ビショップとその評議会」とは,教会の管理ビショップリックであり,「わたしの高等評議会」とは十二使徒定員会のことです(教義と聖約120:1。see also The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 189)。
十二使徒定員会のロバート・D・ヘイルズ長老は,教会で什分の一基金がどのように管理されているかを次のように説明しています。
「啓示によれば,ビショップが聖任された目的は『主の倉を管理〔し〕,……教会の基金を受け取る』ためです〔教義と聖約72:10〕。ビショップと書記は,什分の一の完納者であること,収入の範囲内でつつましく生活する習慣を身に付けていることが求められます。この地元の指導者たちは,ワード・支部の会員から什分の一基金を受け取ってから数時間以内に,教会本部に直接送金します。〔訳注—会員直接献金制度下にある日本では,会員が郵便振替により直接管理本部へ送金することになっていますが,事情によりビショップ・支部会長が献金を受け取った場合は,速やかに郵便振替により管理本部へ送金します。〕
そして,主が明らかにされたように,什分の一の使い方は大管長会,十二使徒定員会,管理ビショップリックで構成される評議会が決定します。主はこの評議会を『わたし自身の声によって』導くと,明確に述べておられます〔教義と聖約120:1〕。この評議会は『什分の一配分評議会』と呼ばれます。
この評議会が主の御声に耳を傾ける様子をつぶさに見るのは,すばらしいことです。各評議員は評議会の決議に注意を払い,すべての決議に参加します。評議員全員が一致するまで何一つ決定しません。什分の一基金はすべて,福祉を含む教会の諸目的のために使われます。つまり,貧しい人や困っている人への援助,神殿,集会所の建設や維持管理,教育,教科課程など,一言で言えば主の業のために使われるのです。……
世界中の教会員の皆さんに対して,また教会員以外の人に対しても,わたしは『什分の一配分評議会』について証します。わたしは教会の管理ビショップとして,そして現在は十二使徒定員会の一員として17年間この評議会の席に着いてきました。この教会の什分の一基金はただ一つの例外もなく主の意図されたとおりに用いられています。」(「什分の一—永遠の祝福を伴う信仰の試し」『リアホナ』2002年11月号,28参照)