「第31章:教義と聖約84章」『教義と聖約 生徒用資料』
「第31章」『教義と聖約 生徒用資料』
第31章
教義と聖約84章
紹介とタイムライン
1832年9月,アメリカ合衆国東部で福音を宣べ伝えていた宣教師たちは,オハイオ州カートランドに戻り,その成功について預言者ジョセフ・スミスに報告した。再会の集いの間に,預言者は主に尋ね,教義と聖約84章 に記録されている啓示を受けた。この啓示の中で,主は聖徒が神の前に行き,神が持っておられるすべてのものを受けるために,神権がどのようにして聖徒を備えることができるかを説明された。主はその御言葉に耳を傾けることの重要性について教え,モルモン書と主の戒めを軽視したことについてミズーリ州ジャクソン郡の聖徒たちを叱責された。主はまた聖徒たちに世界に福音を宣べ伝えるように命じられ,またそのための指示を与えられた。
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1832年6月下旬ジョセフ・スミスはミズーリ州インディペンデンスからオハイオ州カートランドに帰還した。
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1832年9月12日ジョセフ・スミスとエマ・スミスはオハイオ州ハイラムからカートランドに移り,ニューエル・K・ホイットニーの商店の2階に住んだ。
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1832年9月22-23日教義と聖約84章が与えられた。
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1832年10月上旬ジョセフ・スミスとニューエル・K・ホイットニーはマサチューセッツ州ボストン,ニューヨーク州オールバニ,ニューヨーク市を旅し,福音を宣べ伝え,カートランドの商店のための商品を購入した。
教義と聖約84章:追加の歴史的背景
1832年1月25日,オールバニで開催された神権者の大会の間に,何人かの長老たちがアメリカ合衆国の様々な場所で福音を宣べ伝えるように召されました(教義と聖約75章参照)。1832年9月,これらの長老たちの何人かが東部諸州での伝道から帰還しました。ジョセフ・スミスとエマ・スミスは,オハイオ州ハイラムのジョン・ジョンソンとアリス(エルサ)・ジョンソンの家から,オハイオ州カートランドのニューエル・K・ホイットニーの商店にある住居に戻ったところでした。宣教師たちがカートランドに戻ったとき,その経験を報告し,預言者ジョセフ・スミスは彼らの成功を喜びました。9月22日,預言者は長老たちと過ごしていたとき,神権について主に尋ね,啓示を受けました。翌日の9月23日,預言者は引き続き主から指示を受けました。この2日間にわたって受けた啓示は教義と聖約84章に記録されています。幾人かの人が,預言者ジョセフ・スミスが啓示を口述するのを目の当たりにしました。教義と聖約84:1には,ジョセフ・スミスが口述しているときに6人の長老たちがいたことになっていますが,啓示を受けたときの最初の手書きの原稿には,後半の啓示に10人の大祭司がいたと書かれています(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 2: July 1831–January 1833, ed. Matthew C. Godfrey and others [2013], 289–90.)。
教義と聖約84:1-32
主,新エルサレムの町に神殿が建設されることを宣言し,神権の目的について説明される
教義と聖約84:2-5。新エルサレムの都の神殿は「この時代に築かれるであろう」
預言者ジョセフ・スミスが初めてミズーリ州ジャクソン郡を訪問していた1831年7月に,主はこの地域を「聖徒の集合のために指定し,聖別した地である」ことを明らかにされました(教義と聖約57:1)。主は続けて,「それゆえ,ここは約束の地であり,シオンの町のための場所である。……今インディペンデンスと呼ばれている場所は中心の場所であ〔る〕」と言われました(教義と聖約57:2-3)。ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,間もなく,シオンの地と神殿が建てられる敷地について奉献しました。二人は以前受けた啓示をよく理解していました。その啓示の中では,主は,シオンの中心地は新エルサレムの都として知られるようになり,そこに神の聖徒が集まって神殿を建設し,イエス・キリストがいつか御自分の民を訪れる場所となることを示されていました(エテル13:6,8;教義と聖約42:9,35-36;45:66-67参照)。
ジョセフとシドニーが神殿用地を奉献した後の数か月間に,何百人もの教会員がジャクソン郡に到着し,そこに住み始めました。1832年9月,教義と聖約84章に記録されているように,主は,聖徒たちが神殿から始めて「新エルサレムの都」を築くことに対する御自分の意思を再度お示しになりました(教義と聖約84:2)。主は,その神殿は「この時代に築かれ」なければならないと命じられました(教義と聖約84:4)。
しかし,1833年末までに,末日聖徒は敵によってジャクソン郡から追い出され,ほかの地に移り住みました。聖徒たちはシオンから追放されたのは自分たちの背きが原因であったことを学びました(教義と聖約101:1-6;105:1-6参照)。そのときは教義と聖約84:4-5で命じられた,新エルサレムの都も神殿も築かれませんでした。数年後,聖徒たちがイリノイ州ノーブーに定住した後,主は,新エルサレムの都と神殿を築くという命令を免除すると宣言されました(教義と聖約124:49-51参照)。しかし,シオンがいつの日か贖われ,新エルサレムが築かれるという主の約束は存続しています(教義と聖約100:13;105:9;136:18参照)。
教義と聖約84:5-31。「聖なる神権によるモーセの息子たち」
教義と聖約84章は,神の業についての古代とわたしたちの時代の重要な関連性に焦点を当てて,旧約聖書と新約聖書で見られる出来事やテーマについて書かれています。例えば,荒れ野で古代の幕屋がモーセとイスラエルの子供たちによって築かれたときに起きたように,新エルサレムの末日の神殿の上に雲がとどまると主は預言しておられます(出エジプト40:34-35;教義と聖約84:5参照)。この啓示は,「聖なる神権によるモーセの息子たち」について簡潔に述べており(教義と聖約84:6),また,この啓示の中でモーセのようにメルキゼデク神権を受ける人々のことを指して述べています。さらに,メルキゼデク神権はこの啓示の中で「大神権」として言及されています(教義と聖約84:19)。この聖句に続いて,主は神権についての指示を差し挟んでおられます。この指示は,神権と神権の儀式に関しての重要な真理と,アダムからモーセに至るまでの途切れることのない系統を通して神権がもたらされることを説明しています(教義と聖約84:6-30参照)。この挿入がなければ,この啓示は「聖なる神権によるモーセの息子たち……は,受け入れられるささげ物と犠牲を主の家においてささげるであろう」となっていました(教義と聖約84:6,31。教義と聖約128:24も参照)。
教義と聖約84:16-18。神権は「日の初めもなく年の終わりもない」
アダムまでさかのぼるモーセの系統によるメルキゼデク神権の権能について話された後(教義と聖約84:6-16参照),主は「神権はあらゆる時代に神の教会の中に存続」することを説明されました(教義と聖約84:17)。このことは,すべての時代において神権を通して福音の真理が教えられ,救いの儀式が施されることを意味します。預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は次のように教えています。神権は「〔経路であり〕この経路を通じて,全能者はこの世の創造の初めに御自分の栄光を現し始められました。 またこれを通じて,神は現在に至るまで人の子らに御自身を現してこられ〔ました。〕」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』108)
主はさらに,神権は「日の初めもなく年の終わりもない」ことを明らかにされました(教義と聖約84:17)。これは神権には永遠の性質があるという意味です。預言者ジョセフ・スミスは次のように説明しています。
「神権は最初アダムに与えられました。アダムは大管長の職を得,代々その鍵を持ちました。……アダムはそれを,世界が造られる前,創造の時に得ました。……アダムは聖文の中で語られている天使長ミカエルです。次に,神権はノアに授けられました。ノアはガブリエルです。ノアは神権においてアダムの次に権能を持っています。……これらの人々は,まず地上において鍵を持ち,次に天において持ちました。
神権は永遠の原則であり,日の初めもなく年の終わりもなく,これまでもこれからも神とともに永遠から永遠にわたって存在するものです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』103-104)
教義と聖約84:19。メルキゼデク神権は「王国の奥義の鍵,すなわち神の知識の鍵を持つ」
主は神の子供たちに福音を教え導くうえでメルキゼデク神権が果たす中心的な役割について強調しておられます。「王国の奥義の鍵,すなわち神の知識の鍵を持つ」メルキゼデク神権の力と権能によってのみ(教義と聖約84:19),男性も女性も神のことを知り,神の福音のすべてを受けて,御前に行くことができます。
預言者ジョセフ・スミスは,メルキゼデク神権は「〔経路であり〕この経路を通じて,すべての知識,教義,救いの計画,およびあらゆる重要な事項が天から明らかにされます」と教えています(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』108。教義と聖約107:18-19も参照)。主は末日において,預言者ジョセフ・スミスから今日の大管長に至るまで,御自身が選ばれ,権威を与えられた預言者たちを通して,これらの真理を明らかにしてこられました。これらの真理はまた,聖なる神権の権能によって執り行われる儀式を通して,神の子供たちに知らされます。
メルキゼデク神権の権能によって聖霊の賜物を受けたすべての教会員は,個人の啓示によって福音が真実であることを知り,天父とイエス・キリストについての知識を得ることができます(ヨハネ17:3;1ニーファイ10:17-19;教義と聖約132:24参照)。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は次のように教えています。回復された教会の会員としてわたしたちは「神を知るための偉大な権能が与えられていることに喜びを覚えるでしょう。神権を持つ男性が偉大な真理を知ることができるばかりか,神権の存在と神権につける儀式により,男性も女性もすべての教会員が神を知ることができるのです。」(Doctrines of Salvation, comp. Bruce R. McConkie [1956], 3:142–43)
教義と聖約84:20-22。神性の力は神権の儀式を通して現れる
神性の力には神のようになる力が含まれます(2 ペテロ1:3-4;教義と聖約76:53-59;93:19-22参照)。メルキゼデク神権の儀式を通して,聖約に従って生活するときに,わたしたちはどのようにすれば神のもとに戻ることができるかを学び,その力を受けることができます。十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は,神権の儀式と聖約を通してわたしたちの生活の中に神性の力が現れるための一つの方法を,次のように説明しています。
「神との聖約を守る人の生活に,天の御父は神の影響力,すなわち『神性の力』を注がれます(教義と聖約84:20)。御父がそうされるのは,わたしたちが神権の儀式を受けることを通して,選択の自由を行使してそれを受ける選びをしたからです。……
すべての儀式において,特に神殿の儀式において,わたしたちは高い所から力を授けられます。この『神性の力』は聖霊の影響力によってわたしたちにもたらされます。……
聖霊はまた,約束の聖なる御霊という役割において,聖約が正当であり有効であることを確認し,神の約束の証印を押してくださいます。」(「聖約の力」『リアホナ』2009年5月号, 21-22)
十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,神性の力が,救い主の贖いの犠牲を通して救い主からもたらされる祝福とどのように関連しているかについて次のように教えています。「イエス・キリストの贖罪を通して用意されている祝福を余すところなく受けるには,誠実な心で聖約を受けて尊び,適切な神権の権能によって執り行われる儀式を受ける必要があります。なぜなら神権の儀式によって,肉体を持つ人間に神性の力が現れるのであって,贖罪の祝福もその中に含まれるからです(教義と聖約84:20-21参照)。」(「容易に重荷に耐えられるように」『リアホナ』 2014年5月号, 88)
教義と聖約84:22。「これがなくては,だれも神……の御顔を見て,なお生きていることはできない」
神性の力がなくては,いかなる男性も女性も神の臨在に堪えることはできません。モーセは神を見て,顔を合わせて話しました。モーセは,もし「神の御前で変貌」しなかったら「枯れて死んでしまっていたはずだ」と言いました(モーセ1:11)。教義と聖約67章に記録されているように,主は,「神の御霊によって変えられないかぎり」人が神の顔を見て,神の臨在に堪えることはできないと教えておられます(教義と聖約67:11-12参照)。 これらの記述は変貌,つまり,様々な時代において,義人が神にお会いしても生きられるようにした一時的な変化を示しています。しかし,教義と聖約84:20-22では,聖められること,すなわち,メルキゼデク神権の儀式を通して生まれながらの性質を変化させることを教えています(教義と聖約67:10;88:68;93:1参照)。主はアダムに「清くない者は……神の前に住むことができない」と教えられました(モーセ 6:57)。神権の力を通して儀式を受け,それに伴う聖約を守ることによってのみ,わたしたちは罪から清められ,神のように聖く,汚れがない者となれるのです。預言者ジョセフ・スミスはこう教えています。「もし神がおられる所に行きたいと望むなら,神のようにならなければなりません。すなわち,神が持っておられる原則を持たなければならないのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』72)
教義と聖約84:23-25。モーセは「彼らを聖めようと熱心に努めた」
教義と聖約84:23には,イスラエルの子らが約束された神権の儀式と力を受けて神の前に行けるよう,彼らを聖めるためにモーセが熱心に努めたことが書かれています(出エジプト19:10-11も参照)。最初,イスラエルの子らは主が命じられたことをすべて行うと聖約して(出エジプト 19:7-8参照),アロンとアロンの二人の息子たちを含む幾人かは「イスラエルの神を見」ました(出エジプト24:9-10)。しかし,イスラエルの子らは心をかたくなにして,偶像を造り「悪いことをし」ました(出エジプト 32:7-8)。その結果,神の安息に入るのに必要なメルキゼデク神権による儀式と聖約を受ける特権を失いました。「この安息とは,主の完全な栄光のこと」です(教義と聖約84:24。モルモン書ヤコブ1:7;アルマ12:33-37;13:12-16;3 ニーファイ 27:19も参照)。
教義と聖約84:26-30。アロン神権は備えの福音の鍵を持っている
主はイスラエルの子らからメルキゼデク神権を取り去られましたが,彼らに「小神権」すなわち,アロン神権とその儀式を与えられました(教義と聖約107:13-14参照)。管理ビショップリックで奉仕したキース・B ・マクマリンビショップは,どのようにしてアロン神権が,救い主の完全な福音を受けることができるように神の子供たちを備えるかについて次のように説明しています:
「福音の小さい部分は,欠くことのできない,救いをもたらす真理を含み,従順と犠牲の隅石に支えられています。この真理は,性別や年齢を問わず,人に義の基本について訓練を与えてくれるものです。ここでいう真理を構成するものは,罪の赦しを受けるための悔い改め,バプテスマ,それに肉の戒めの律法への従順です。肉の戒めとは,もろもろの欲情や激情,生まれながらの,あるいはこの世的な肉体と心から生じる欲望を克服させてくれる戒めを指します。……この福音の小さい部分が,教会に入って間もない人々を育て,迷い出た人々を引き戻し,世の誘惑と欺きを認識できるように若人を助けてくれるのです。この準備がなければ福音の完全な祝福が実現することはなく,したがってその祝福を享受することもできないでしょう。
福音のこの準備の部分を執行する責任は,アロン神権者に任されています。」「ごらん!あの立派な男性を」『聖徒の道』 1998年1月号, 46-47)。
十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長(1924-2015年)は,アロン神権に備わる力について,またアロン神権によって神の子供たちはどのように福音を受け入れるように導かれるかについて説明したウィルフォード・ウッドラフ大管長の以下の話を分かち合っています。
「ウイルフォード・ウッドラフ大管長は,教会に入った後で,伝道に出たいと思いました。
こう書いています。『わたしはまだ教師だ。海の向こうに行って福音を宣べることは教師の職務ではない。だから教会幹部に伝道したいとはとても言えない。教会の職を求めていると思われるからだ。』(Leaves from My Journal, Salt Lake City: Juvenile Instructor Office, 1882, p. 8.)
彼は主に祈りました。そして,だれにもその気持ちを話すことのないまま祭司に聖任され,アーカンソーに宣教師として送られました。
ウッドラフ兄弟と彼の同僚は,ワニのいる湿地や沼地を何百マイルも歩き,疲れ果ててしまいました。ウッドラフ兄弟は,ひざに強烈な痛みを覚え,もう歩くことができませんでした。同僚は,彼を丸太の上に座らせて,その場に残したまま家に帰ってしまいました。そこでウッドラフ兄弟は,泥の中にひざまずき助けを求めて祈りました。そして痛みが癒され,独りで伝道を続けました。
3日の後,ウッドラフ兄弟はテネシー州のメンフィスに着きました。疲れ果てて空腹となり,体は泥にまみれていました。彼は一番大きな宿屋に行って,食物と寝る場所を求めました。でもお金はありませんでした。
宿の主人は,ウッドラフ兄弟が説教者であることを知ると,彼を笑い者にしてやろうと考えました。そして,もし友達に説教をしてくれたら,食べ物をあげようと言いました。
そこでメンフィスの金持ち,上流社会の人々が大勢集まり,この泥にまみれた宣教師を見てすっかり面白がりました。
だれも歌や祈りをしてくれないので, ウッドラフ兄弟が独りで両方しました。彼はひざまずいて,主に御霊を求め,集まった人々の心が理解できるように祈りました。御霊は訪れました!ウッドラフ兄弟は大いなる力を得て説教をしました。彼は,嘲笑しようと集まった人々の隠れた悪事をあばいたのです。
説教を終えるころには,この謙遜なアロン神権者をあざける者はだれもいませんでした。それから後,彼は親切なもてなしを受けました(See Leaves from My Journal, pp. 16–18.)。
ウッドラフ兄弟は,アロン神権の導きと守りの力を受けていました。この同じ力を,〔アロン神権を持つ〕皆さんも持つことができます。……
アロン神権が小神権と呼ばれるからと言って,あまり大切な神権ではないということは決してありません。」(「アロン神権」 『聖徒の道』1982年4月号, 51-52参照)
教義と聖約84:31-32。だれがモーセの息子たちとアロンの息子たちなのか
教義と聖約84:31の中で,主は教義と聖約84:5-6から始まる「主の家にお〔ける〕」「モーセの息子たちと,アロンの息子たち」の役割について続けて述べておられます。主の家とは新エルサレムの都に建てられる末日の神殿を含んでます。モーセの息子たちとはメルキゼデク神権を持つ人たちのことです。アロンの息子たちとはアロン神権を持つ人たちです。これらの神権者は「受け入れられるささげ物と犠牲を主の家においてささげる」でしょう(教義と聖約84:31)。(末日のささげ物についての詳細はイザヤ 66:20-21;オムナイ1:26;教義と聖約13:1;128:24を参照してください。)
教義と聖約84:33-44
主,神権の誓詞と聖約について明らかにされる
教義と聖約84:33-44。神権の誓詞と聖約とは何でしょうか。
救い主は,「神権を受ける者は皆,わたしの父のこの誓詞と聖約を受け入れるのである」と宣言しておられます(教義と聖約84:40)。聖句ガイドには次のように説明されています。「誓詞とは,交わした約束に誠実かつ忠実であるという誓いの言葉である。また,聖約とは,当事者の間で交わされる厳粛な約束をいう。」(「神権の誓詞と聖約」の項,scriptures.lds.org)七十人会長会のカーロス・E・エイシー長老(1926-1999年)は,神権に伴う誓詞と聖約の神聖な性質について次のように説明しています。「イエス・キリストの福音に関連する神聖な聖約の中で,神権の誓詞と聖約以上に重要な聖約はありません。神権の誓詞と聖約は非常に神聖なものです。なぜなら,それはわたしたちが天の力を分かち合い,永遠の目標に到達することに結びついているからです。この聖約の内容について無知であってはなりません。無知のままでいては,自分の義務をどのように果たしたらよいか理解できず,約束の祝福を受けられなくなる恐れもあります。」(「神権の誓詞と誓約」『聖徒の道』1986年1月号, 45参照)
主は神権を得て,忠実にその召しを尊んで大いなるものとする人は,聖霊によって聖められ,モーセとアロンの権能を受け,アブラハムの子孫,すなわち,神により選ばれた者となると約束されました(教義と聖約84:33-34参照)。アブラハムの子孫,すなわちアブラハムの子となるということは,アブラハムに約束された祝福を受け継ぐ者となるということです(アブラハム 2:9-11;教義と聖約132:28-31参照)。
「これら二つの神権」を得ることに忠実であることは(教義と聖約84:33),アロン神権またはメルキゼデク神権の儀式を受けてそれに伴う聖約を忠実に守り続けることによって得られる力と祝福を得るということです。預言者ジョセフ・スミスは,人は「すべての戒めを守り,主の宮のすべての儀式に従う」ことによって,神権のすべてを得ることができると教えています(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』418)。ですから,神権の誓詞と聖約の祝福は,神権者に限られたものではありません。神の偉大な祝福は,神殿で互いに結び固められた男女にもたらされます。七十人のポール・B・パイパー長老は次のように教えています。
「神権のすべての祝福は,夫婦としてともに受けるものであって,そうでなければまったく受けることができません。
興味深いことに,主は神権の誓詞と聖約の中で,得ると受け入れるという動詞を使っておられ,聖任するという動詞は使っておられません。男女がともにアロン神権とメルキゼデク神権の両方の祝福と力を得,それを受け入れるのは,神殿においてです。」(「死すべき世—その明らかにされた現実」『リアホナ』2016年1月号, 47)
十二使徒定員会会長のラッセル・M・ネルソン会長も,祝福は神権を通してすべての教会員が受けることができることを次のように強調しています。
「いつの日か,ネルソン姉妹とわたしは,家族とともに永遠に主のもとで暮らすでしょう。わたしたちは,『わたしの父が持っておられるすべてが,〔あなた〕に与えられるであろう』と主が約束されている,神殿で交わした聖約と神権の誓詞と聖約に終わりまで忠実であるでしょう(教義と聖約84:38)。
忠実な姉妹たちは神権の祝福を分かち合います。『わたしの父が持っておられるすべて』という言葉について考えてみてください。……それは,いかなるこの世の報酬や成功も,主を愛して主の戒めを守り(モロナイ4:3参照),最後まで堪え忍ぶ人々に(教義と聖約14:7参照)主が与えられる恵みを補うことはできないということなのです。」(“Identity, Priority, and Blessings,” Ensign, Aug. 2001, 10)
教義と聖約84:36。「わたしの僕たちを受け入れる者は,わたしを受け入れる」
主は御自分の僕たちを受け入れる人は御自分を受け入れることになると教えておられます(教義と聖約84:36参照)。主の僕たちを受け入れるということは,神権の鍵を持つ人たちに従うという意味です。神権の鍵を持つ人とは,預言者や使徒をはじめ,ステーク会長,ビショップ,定員会会長などのそのほか神権指導者が含まれます。もしわたしたちが主と主の僕たちを受け入れるならば,天父を受け入れることになり,天父が持っておられるすべてを授けてくださいます(教義と聖約93:26-28参照)。主の僕たちと彼らが持つ神権の鍵を受け入れるということが,天父が持っておられるすべてを受けるための必要な一歩であることから,サタンはわたしたちの神権に対する信仰と,神権の鍵や神権の鍵を持っている人々に対する信仰を弱めようとします。大管長会のヘンリー・B・アイリング管長は次のように警告しています。「サタンは,神権の鍵に対する信仰を弱めようと常に神の聖徒を誘惑します。例えば,サタンは神権の鍵を保持する人の不完全さを指摘します。このようにして,サタンは信仰を弱め,主と人とをつなぐ鍵の系統からわたしたち切り離し,家族とともに主と天の御父のもとへ帰るのを妨げようとします。」(「信仰と鍵」 『リアホナ』2004年11月号, 28)
教義と聖約84:40。「神権を受ける者は皆,……この誓詞と聖約を受け入れるのである」
ヘンリー・B・アイリング管長は,神権の誓詞と聖約に入る際に神権者が持つべき自信について次のように語っています。
「わたしたちが誓詞と聖約に伴う可能性へのふさわしさを十分に身につけると,神のあらゆる賜物の中で最も大いなる賜物,永遠の命を受けます。これがメルキゼデク神権の目的です。神権を受けるときに交わす聖約を守り,神殿の儀式において聖約を更新することにより,わたしたちはエロヒム,すなわち天の御父からその栄光のすべてを受け,御父が生きておられるごとくに生きるようになる,と誓詞によって約束されています。そして,永遠に増し加えられる約束とともに家族が永遠に結ばれるという祝福を受けます。……
皆さんに誓詞と聖約が提示されたという事実は,神が皆さんの力と能力を知ったうえで皆さんを選んでくださったことの証拠です。神は霊界で皆さんとともにおられたときから皆さんを御存じです。皆さんの長所を予知しておられる神は,イエス・キリストのまことの教会を見いだし神権を授かることを皆さんにお許しになりました。神の信頼を受けているという証拠があるのですから,皆さんは自信を持つことができます。」(「信仰と神権の誓詞と聖約」『リアホナ』2008年5月号,61-62)
教義と聖約84:41-42。「だれでもこの聖約を……破〔る〕……者は,……赦しを受けることはない」
主は,神権の誓詞と聖約を破り,「これから完全に離れてしまう者は,この世でも来るべき世でも,罪の赦しを受けることはない」と警告されました(教義と聖約84:41)。聖約から完全に離れてしまい,悔い改めない者は,必ずしも滅びの子になるわけではありませんが,忠実な者に約束された昇栄の祝福を失うことになるでしょう(see Joseph Fielding Smith, Doctrines of Salvation, 3:141–42)。
教義と聖約84:45-59
主,全世界が暗闇の下にある理由を説明され,聖徒たちに悔い改めるよう忠告される
教義と聖約84:45-48。「御霊は世に来るすべての人に光を与え〔る〕」
地上に来る人は皆,キリストの光とも言われる「イエス・キリストの御霊」によって啓発され(教義と聖約84:45-46参照),影響を受けます。この光に心を留める者は,すべての真理と光の源であられる父なる神のもとに導かれます(教義と聖約84:47参照)。
十二使徒定員会のリチャード・G・スコット長老は,すべての人々が神のもとに来るのに助けとなるキリストの光の幾つかの役割について,次のように説明しています。「キリストの光はイエス・キリストを介して神から発せられる神聖な力または影響力です〔『聖句ガイド』「光;キリストの光」の項参照〕。キリストの光は万物に光と命を与えます。地上のあらゆる所にいるすべての分別ある人に,真理と偽り,正しいことと誤ったことを識別するよう促します。また,皆さんの良心を活発に働かせます〔モロナイ7:16参照〕。その影響力は背きや悪癖によって弱まり,ふさわしい悔い改めによって回復します。キリストの光は人ではありません。それは神から来る力および影響力であり,それに従う人を聖霊の導きと霊感を受ける資格のある者とします〔ヨハネ1:9;教義と聖約84:46-47参照〕。」(「良心の安らぎと心の安らぎ」『リアホナ』2004年11月号, 15)
イエス・キリストの御霊,すなわちキリストの光についての詳しい情報は,本書の教義と聖約88:5-13の解説を参照してください。
教義と聖約84:49-59。「新しい聖約,すなわち『モルモン書』……を思い起こし〔なさい〕」
主はキリストの御霊から来る光と罪のある暗闇の状態を比較して,主のもとに来ることを選ばない人は,暗闇の下に残され,罪の束縛の下にあることを宣言されました(教義と聖約84:45-46,49-50参照)。主はシオンの聖徒に,「不信仰のために」,また主が与えてくださったものを軽々しく扱ったために,彼らの思いは「暗くなる」ことがあったと警告されました(教義と聖約84:54)。何かを軽々しく扱うというのは,それを無視する,あるいは敬意も注意も払わずに扱うということです。シオンの聖徒はモルモン書と,主が彼らに与えた「以前の戒め」を軽々しく扱ったために,罪の宣告の下にありました(教義と聖約84:57)。以前の戒めとは,預言者ジョセフ・スミスを通して与えられた以前の啓示や聖書の教えと考えられます。モルモン書に関する忠告と訓戒について,エズラ・タフト・ベンソン大管長(1899-1994年)は教会員に対して次のような勧告を与えています。
「兄弟姉妹の皆さん,皆さん個人にとって,また教会全体にとって,モルモン書がいかに重要かをぜひとも真剣に考えてください。
もう10年以上も前になりますが,わたしはモルモン書について次のように述べました。
『永遠の結果は,この書物に対するわたしたちの態度に懸かっているのでしょうか。そのとおりです。祝福を受けるか,罰を受けるか,それに懸かっているのです。
末日聖徒はすべて,生涯この書物を学び続けるべきです。さもなければ,自らの魂を危険にさらし,生涯にわたって霊的かつ知的一致をもたらすものをなおざりにしていることになります。』〔「モルモン経は神のみ言葉」『聖徒の道』1975年8月号,368参照〕…
今日この点について再度強調します。主がわたしたちに授けてくださったこの偉大な,かつすばらしい賜物を軽々しく取り扱うことによって,罰や裁きを受けてのろいの下に置かれることのないようにしましょう。むしろ, 心にその言葉を蓄えることによってもたらされる約束を勝ち得ようではありませんか。」(「モルモン経—私たちの宗教のかなめ石」『聖徒の道』1987年1月号,7参照)
トーマス・S・モンソン大管長は,モルモン書を定期的に研究することによって教会員が受ける祝福について,次のように教えています:。「主の業における愛する同僚の皆さん,モルモン書を毎日よく祈って研究し,深く考えるよう,皆さん一人一人に切に願います。そうするときに,御霊の声を聞くことができ,誘惑に屈せず,疑念と恐れに打ち勝ち,生活の中で天の助けを受けることができます。そのことを心を込めて証します。」(「モルモン書の力」『リアホナ』 2017年5月号, 87)
教義と聖約84:60-120
主,聖徒たちに福音を全世界に携えていくよう命じられ,宣べ伝えるように召された人たちに指示を与えられる
教義と聖約84:60-62。福音を全世界に宣べ伝える責任
古代の主の使徒たちに与えられた責任のように(マタイ28:19-20;マルコ16:15-18参照),主はこの神権時代の聖徒たちに全世界に福音を宣べ伝えるように指示されました。主は聖徒たちに,もし自分で行けない場所があるなら,何か別の方法で証を送り,「すべての造られたもの」に回復された福音が宣言されるように命じられました(教義と聖約84:62)。十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,通信と技術分野における御霊に導かれた革新を駆使して,全世界の人々に福音のメッセージを送るよう,教会員に勧めています。
「主は御自身の業を速めておられます。この時満ちる神権時代に,通信の分野でこのように強力な技術革新や発明がなされているのは偶然ではありません。ソーシャルメディアのチャンネルは,非常に大勢の個人や家族に,実際的な影響を及ぼすことのできる世界規模のツールです。そしてキリストの弟子であるわたしたちが,霊感により開発されたこれらのツールを適切かつ効果的に使って,永遠の父なる神について,その子供たちのための幸福の計画について,世の救い主であられる御子イエス・キリストについて証する時が来ているとわたしは確信しています。末日における福音の回復が現実のものであることを宣言し,主の業を成就させる時が来ているのです。……
これまでこの神権時代で,ソーシャルメディアを通して行われてきた福音のメッセージを広める業は,良いスタートを切ってはいますが,まだ小さなしずくでしかありません。わたしは今,このしずくを洪水に変えるよう皆さんにお願いします。義と真理に満ちたメッセージを地上に広めるよう強くお勧めします。真正で,人々を教化し,称賛に値するメッセージを,文字どおり洪水のごとくに地に行き渡らせるのです(モーセ 7:59-62参照)。」(「ソーシャルメディアによって洪水のごとくに世界を満たす」『リアホナ』2015年8月号,50,53)
教義と聖約84:77-95。「あなたがたは明日のことを思い煩ってはならない」
教義と聖約84:77-95に書かれている多くの説教は,主が古代の使徒を福音を宣べ伝えるよう送り出される前に彼らに与えた指示と同じです(ジョセフ・スミス訳マタイ6:25-27〔英文〕〔in the Bible appendix〕;マタイ10:5-20参照)。これらの指示は教会員全体に与えられたものではなく,むしろ専任宣教師に召された人に与えられたものであることを覚えておくことは大切です。教義と聖約84章が与えられたとき,主は宣教師たちに財布も袋も持たずに,つまり金銭も食料も携えずに,行って福音を宣べ伝えるよう命じられました(教義と聖約84:78,86参照)。救い主の時代,財布にお金を入れ,食べ物やほかの必要なものは袋,つまり小さなかばんで持ち運びました。さらに,主は御自分の宣教師たちに,物質的な必要について「明日のことを思い煩ってはならない」と指示されました(教義と聖約84:81)。つまり,彼らは必要以上に食べ物,着る物,泊まる所のことは心配してはならないということでした。その代わりに,主がほかの人を通して,彼らに必要なものを与えてくださると主を信頼し,頼るべきだったのです。同様に宣教師たちは何を教えるべきか必要以上に心配するべきではありませんでした。むしろ,必要なときに何を言えばよいか霊感を受けることができるように,神の言葉を「絶えず〔彼らの〕心の中に大切に蓄え」なければなりませんでした(教義と聖約84:85)。今日の宣教師たちも,何をどのように教えたらよいか御霊の促しに頼っていますが,主は財布も袋も持たずに宣教師たちを送り出されることはもうしておられません。
教義と聖約84:88。「わたしはあなたがたに先立って行こう」
主に仕えようとする人には,主が先立って道を備えてくださり,御業を成し遂げるために主の御霊と仕える天使たちが助けてくれるという力強い約束を与えてくださっています。ヘンリー・B・アイリング管長は,教会員がこの約束の成就を経験できる一つの方法について次のように説明しています。
「最初にする決意は,自分は独りではないことを胸に刻んで奉仕をするということです。救い主の代わりに行ってだれかを慰めたり,奉仕をしたりするとき,主は皆さんの前に道を備えてくださいます。今夜ここにいる帰還宣教師たちに聞けばよく分かりますが,それは,ドアの向こう側にいる人たちがいつも皆さんを歓迎してくれるとか,皆さんが仕えようとする人たちがいつも感謝してくれるということではありません。しかし,主は皆さんの先に行って,道を備えてくださいます。……
主は,いろいろな方法で皆さんの先を行ってくださいますが,その方法の一つは,だれかに仕えるよう皆さんに依頼されるとき,相手の人の心を備えてくださるということです。主は皆さんの心も備えてくださいます。
主は皆さんのそばに,右に,左に,皆さんの周りを取り囲むように,助けとなる人を置いてくださるということが,皆さんにも分かるでしょう。主のために人に仕えるとき,皆さんは独りではありません。」(「善を行うように導く御霊を信頼しなさい」『リアホナ』2016年5月号, 17参照)
教義と聖約84:92。「足を……洗い清め……なさい」
人々が主の僕たちのメッセージを拒むときに,足を洗い清めるように言われた主の指示については,本書の教義と聖約24:15の解説を参照してください。
教義と聖約84:98-102。シオンが贖われるときの新しい歌
イエス・キリストの再臨があって,福千年が始まった後,すべての人々は主を知るようになり,「声を上げ,声を合わせて次のような新しい〔シオンの贖いの〕歌を歌う」ようになるでしょう(教義と聖約84:98)。主がシオンを確立され,忠実に主の聖約を守ることを通して受ける主の恵みによって贖われることに,聖徒たちは喜び,主をほめたたえるでしょう。聖徒たちはまた,サタンが縛られ,エノクの町,すなわち「上から〔の〕シオン」が戻り,「下から〔の〕シオン」と出会うことを,喜ぶでしょう(教義と聖約84:100。モーセ 7:62-64も参照)。
教義と聖約84:106-110。互いに教化されて強くなる
主の業を助けるためにすべての教会員が必要とされいます。主は教会の長老たちに,「御霊において強い者」とともに主の業を助けるように「弱い者」を招くよう勧告されました。それは,「彼らも強くなるため」でした(教義と聖約84:106)。また主はすべての教会員が与えられた召しを果たすことによって,王国に貢献するべきであることを説明されました(教義と聖約84:109参照)。それから,主は教会と教会員を,体と体の各部分にたとえられました(教義と聖約84:109-110参照。1コリント12:13-27も参照)。
体のあらゆる部分は体全体が正常に機能するために必要です。同様に,どのような召しや地位であっても,すべての教会員は大切で必要とされています。各々の教会員が教会を強め,ほかの会員を教化する助けができます。大管長会のディーター・F・ウークトドルフ管長 は次のように教えています。「自分よりももっと有能で,もっと経験豊かで,もっと立派にこの召しや割り当てを果たせる人がいると感じるかもしれません。しかし,主があなたの責任を与えられたのには理由があるのです。あなたにしか影響を与えたり,心を動かしたりできない人がいるかもしれないのです。恐らく,ほかのだれにもまねのできない何かを,あなたはできるかもしれないのです。」(「自分の立っている場所で持ち上げる」『リアホナ』2008年11月号,56参照)
教義と聖約84:117。「忌まわしい荒廃」とは何か
主は,ニューエル・K・ホイットニービショップと教会のほかの長老たちに,「有名な町や村」で福音を宣べ伝え,「終わりの時における忌まわしい荒廃」について人々に警告を与えるように指示されました(教義と聖約84:117)。旧約聖書の預言者ダニエルは,「荒す憎むべきもの」について預言しました(ダニエル11:31)。救い主は弟子たちに,ダニエルの預言は2回成就すると教えられました。この預言が最初に成就したのは,紀元70年にエルサレムとその神殿がローマ人によって破壊されたときのことです(ジョセフ・スミス—マタイ1:12参照)。2回目は,終わりのときに,回復された福音が全世界で宣べ伝えられた後に成就します(ジョセフ・スミス—マタイ1:31-32参照)。「終わりの時における忌まわしい荒廃」とは(教義と聖約84:117),さらに一般的に,生者と霊界にいる死者双方の悪人に下される裁きのことを表しています(教義と聖約88:84-85参照)。この理由で,悪人が悔い改めて,来るべき破壊と荒廃から逃れられるように,悪人に警告を与え,永遠の福音を宣べ伝えるよう,主は御自分の僕を遣わされました(See Bible Dictionary, “Abomination of desolation.”)。