第19章
教義と聖約50章
紹介とタイムライン
1831年2月初旬にジョセフ・スミスがオハイオ州カートランドに到着したとき,聖徒たちの間に「幾つかの奇妙な考えや偽りの霊が会員たちの間にひそかに入り込んでいた」ことに気づいた。ジョセフ・スミスは,それらの偽りの霊の現れを止めるために,「少し注意をしながら,幾らかの知恵を用いて」教え始めた(in Manuscript History of the Church, vol. A-1, page 93, josephsmithpapers.org)。数か月後,パーリー・P・プラット長老は伝道から戻り,カートランド周辺の教会の集会所で同じような状況を目にし,ほかの数人の長老とともにジョセフ・スミスに導きを求めた(see Manuscript History of the Church, vol. A-1, page 114, josephsmithpapers.org)。1831年5月,預言者はこのことについて主に尋ね,教義と聖約50章に記録されている啓示を受けた。この啓示の中で,主は真理の御霊によって福音を教え,学ぶよう聖徒たちに指示された。
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1831年春カートランドの教会員の一部が偽りの霊の現れによって影響を受けた。
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1831年3月下旬パーリー・P・プラットがミズーリ州のインディアン居住区への伝道からカートランドに帰還した。
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1831年4月30日エマ・スミスは双子の男女を出産するが,双子は数時間後に亡くなった。
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1831年5月9日教義と聖約50章が与えられた。
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1831年5月9日ジョン・マードックの妻ジュリアが4月30日に双子を出産後に死亡し,ジョセフとエマ・スミスはその双子を養子に迎えた。
教義と聖約50章:追加の歴史的背景
パーリー・P・プラット長老は,1830年晩秋にオハイオ州カートランド地域で100人以上の人々が改宗するのを助けた4人の宣教師のうちの一人でした。ミズーリ州西部のアメリカインディアンの間で福音を宣べ伝える召しを続けた後,プラット長老は1831年3月下旬,オハイオ州へ戻りました。そのとき彼は,カートランドの教会員の間での驚くべき行動を目にしました。プラット長老は次のように話しました。「数々の集会所を訪れてみると,非常に奇異な霊の働きが現れており,教化的であるというよりも汚らわしいものでした。ある人は卒倒しているようであり,見苦しい身振りをしたり,やつれたような表情あるいは醜い表情をしていました。ほかの人は恍惚状態になり,体をゆがめたり,けいれん,ひきつけなどを起こしました。教化的ではなく,福音の教義や精神にそぐわない示現や啓示を受けたように見える人もいました。要するに,偽りのうそつきな霊が教会内に入り込んでいたようでした。」(Autobiography of Parley P. Pratt, ed. Parley P. Pratt Jr. [1938], 61)
預言者ジョセフ・スミスは,そのころ起きていた偽りの霊の現れについて,次のように説明しました。「福音がカートランドにおいて確立されてから間もなく,まだ指導者からの指導を十分に受けていないうちに,聖徒たちの間に多くの偽りの霊が入ってきました。奇妙な示現を見たという者が数多く現れ,御霊に影響されたと言ってドアから走りだしたり,切り株の上に立って叫んだりするといった野蛮で熱狂的な考え方が入り込んで来ました。ある男は空を飛んでいるのが見えると言ってボールを追いかけました。彼は崖まで来て木の上に飛び込んだため,何とか一命を取り留めました。多くの馬鹿げた行為が行われ,神の教会の品位をおとしめ、御霊を遠ざけ,人類の救いのために計画された栄光に満ちた原則を根こそぎ破壊することをねらっているかのように入り込んで来たのです。」(in Manuscript History of the Church, vol. C-1, page 1311, josephsmithpapers.org)
パーリー・P・プラットは,不可解な行動を見て,預言者に説明を求める者もいたことについて次のように記述しています。「自分たち自身の弱さと経験の浅さを感じ,またこのような霊の現象に関して誤った判断を下さないために,わたしとジョン・マードックとそのほか数人の長老たちはジョセフ・スミスのもとに行き,これらの霊や現れについて主に尋ねるよう求めました。」(Autobiography of Parley P. Pratt, 61–62)
教義と聖約50:1-9
主,教会の長老たちに偽りの霊に注意するよう警告される
教義と聖約50:2-3。「サタンはあなたがたを欺こうと努めてきた」
主は,サタンに加えて,地上には神の子供たちを欺き破壊しようとする偽りの霊が存在することについて,聖徒たちに警告されました。十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長(1924-2015年)は,にせの感情や偽りの霊によって欺かれないよう,教会員に警告しました。
「邪悪なところから来るささやきにだまされないよう,常に注意して下さい。偽りの霊感を受けることもあり得るのです。偽りの天使がいるように,偽りの霊も存在するのです。(モロナイ7:17参照)……
わたしたちの霊的な部分と感情的な部分とは密接な関係にあるため,感情の高まりを霊的なものと取り違えてしまう可能性があります。受けた本人は神から与えられた霊的なささやきと考えているのに,実際は感情的なものであったり,悪魔からのものであったりということがよくあります。」(「主のともしび」『聖徒の道』1983年10月号,45参照)
パッカー会長は,悪魔による誘惑と主によるまことの啓示を識別することの重要性について,別の折に次のように話しました。
「偽りの啓示や悪魔による促し,誘惑は実際に存在します。生きているかぎり,サタンは皆さんを迷わせようと様々な方法を取り続けるのです。……
預言者ジョセフ・スミスは「神の御霊を受けていると思っていながら,実は偽りの霊の力にほんろうされているときほど,人が傷つけられることはない」〔Teachings of the Prophet Joseph Smith, 205〕と言っています。……
不安を感じさせるような勧め,正義の原則に反し,間違っていると心に感じるような勧めを受けたときには,決して従わないでください。」(「個人の啓示—賜,試し,約束」『聖徒の道』1995年1月号,66参照)
教義と聖約50:4-9。「欺くものと偽善者」
主はカートランドの聖徒たちに対し,教会員の間の「欺くものと偽善者」について警告されました(教義と聖約50:6)。十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード長老は,わたしたちが偽預言者と偽教師に気をつけなければならないことについて,次のように説明しました。
「主イエス・キリストの使徒には,わたしたちを欺き,信仰と証を打ち砕こうとひそかに待ち構えている偽預言者と偽教師に気をつけるようにと教会員に警告する,見張り台の見張り人となる責任があります。今日,わたしたちは警告します。偽預言者と偽教師の数は増加しており,注意しないと,末日聖徒イエス・キリスト教会の信仰深い会員でさえ偽りの犠牲になってしまうでしょう。……
わたしたちが偽預言者や偽教師について考えるとき,明らかに誤った教義を支持したり,あるいはキリストのまことの教えを自らの解釈で教える権能があると思い込んでいたりする人のことを想像しがちです。そのような人を,社会の反主流を走る小さな革新的グループとかかわりのある人だと我々はしばしば考えます。しかし,繰り返し申しますが,現に教会の会員である,あるいは教会の会員であると自称する偽預言者や偽教師がいるのです。何の権能もなく,自分の生産物や活動が教会の承認を得ていると主張する人たちもいます。そのような人に気をつけてください。」(「偽預言者と偽教師を警戒しなさい」『リアホナ』2000年1月号,73-74参照)
カートランド地域の教会員の中には,実際には所有しない霊的な力や権限をまるで所有しているかのように振る舞う者もいました。そのため主はこれらの者たちを「欺くものと偽善者」と呼ばれました(教義と聖約50:6)。十二使徒定員会のジョセフ・B・ワースリン長老(1917-2008年)は,偽善を定義し,わたしたちの生活から除外するよう,次のように勧めました。
「偽善とは,徳や義のある振りをすることであり,ほんとうの自分ではないものを装うことです。何が正しいかを知り,その知識に従って生活することを公言しながら,それを行わなければ,わたしたちは偽善者です。救い主は,仮借ない言葉〔マタイ23:27-28;教義と聖約50:6,8参照〕で偽善者を非難されました。……
末日聖徒は何をすべきでしょうか。答えは簡単です。聖徒たちは,生活のあらゆる面において,ことごとく偽りをなくすのです。すなわち家庭や家族,教会の召し,職業,あらゆる取引,そして特に,自分自身と主しか知らない個人的な生活において,偽りをなくすのです。
自分の心を吟味して,動機や行いが清く潔白かどうか,また不正や偽りがないかどうか確かめてみましょう。」(「偽りのない者」『聖徒の道』1988年6月号,86-87参照)
教義と聖約50:10-36
主は偽りの霊と真理の御霊を識別する方法を長老たちに指示される
教義と聖約50:13-18。真理の御霊によって教える
オハイオ州カートランドの教会員たちは偽りの霊に惑わされ,その結果混乱が起きました。彼らは,一部の教会員による奇妙な宗教的行いが聖霊の現れであると勘違いしていたのです。主は,聖霊の役割を「慰め主」の役割と定義され,聖霊は混乱を招くためではなく,「真理を教えるために遣わされた」と言われました(教義と聖約50:14)。また主は,教会の長老たちは御霊によって福音を宣べ伝えるよう命じられており,それ以外の方法で行おうとすれば,その教えは神によるものではないと説明されました(教義と聖約50:17-18参照)。十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,御霊によるものではない教えの例について,次のように話しました。
「もしわたしたちが主の定められた方法で教えるならば,主は御霊を送ってくださり,それによってわたしたちから教えを受ける人々は徳を高め,光を受けることができるのです。もしもわたしたちが主の方法によって教えないとしたら,つまり,自分自身の知識に頼ったり自分自身の知性に頼ったりして教えたり,あるいは,もし自分の準備した内容に過度にこだわったり,他人の知恵やテキストの字句に拘束されてそこから抜け出せなかったりしたら,わたしたちの教えることは「神から出てはいない」ことになるわけです〔教義と聖約50:18〕。……
もしディベートのテクニックに頼ったり,販売促進の方法論に頼ったり,あるいはグループ心理学に頼ったりすると,わたしたちは別の方法で福音を宣べ伝えていることになり,神から出たものではなくなります。……
理性や論理といった知的なものは,道を備えることはできます。また,わたしたちの準備の手助けをすることもできます。しかし,わたしたちが主の御霊ではなく,そうしたものにこだわりすぎると,主の方法で福音を教えているとは言えなくなるのです。」(「御霊によって教え,学ぶ」『リアホナ』1999年5月号,16-17)
主は,御自身の福音は「真理の言葉」(教義と聖約50:17)であり,そのため,福音を宣べ伝える者は,「慰め主すなわち真理の御霊によって」(教義と聖約50:17)それを行うように努めなければならないと説明されました。真理が教えられるときに,聖霊がその証をされます。十二使徒定員会のL・トム・ペリー長老(1922-2015年)は,福音を宣べ伝える者が御霊による重要な助けを得る方法について,次のように説明しました。
「教師としての備えをするときにわたしたちを高め導いてくださる,神会の一員である聖霊を常に伴侶とできるのは,わたしたちにとって特権です。わたしたちは,『教えるときに,主の御霊により高められるよう主に請い願うなら,自信が増すであろう』という神の教えに従うことを通して自分自身を備えるべきです。わたしたちを導く御霊がともにあるとき,わたしたちは大いなる力で教えることができます。……
もしわたしたちが祈りと研究を通してへりくだって教えるなら,わたしたちはもっと効果的に教えることができるでしょう。そうすればわたしたちは,主がわたしたちに教えたいと望んでおられることと一致し調和した形で,御霊の助けを受けながら御言葉を分かち合うことができるのです。」(「力のかぎり神の御言葉を民に教える」『リアホナ』1999年7月号,8)
福音が御霊によって教えられるとき,主の言葉を受け入れる者は教化され,養われます。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,教会のすべての教師が聖霊の導きを受けるよう努めるべきである理由を,次のように話しました。
「主から教会への勧告で,『御霊,すなわち真理を教えるために遣わされた慰め主によって』〔教義と聖約50:14〕福音を教えることほど,主が強調されたものはありません。……
天よりの御霊によって動かされなければ永遠の学習は行われません。……
これこそ,会員が集会に集い,様々なクラスに参加する際,ほんとうに求めているものです。福音の知識を新たに幾つか学び,友人に会うことは大切な要素ですが,単にそれだけを目的に教会に来る会員はほとんど存在しません。会員が教会に集うのは,霊的な経験を求め,平安を感じ,信仰を強め,新たに希望を得たいと望んでいるからです。つまり,神の善い言葉で養われ,天の力により強められるよう望んでいるのです。話の責任や,教え,あるいは指導する責任を受ける人は最善を尽くし,教会に集う目的を満たせるようにする義務があります。」(「神からこられた教師」『聖徒の道』1998年7月号,29参照)
教義と聖約50:19-22。真理の御霊により福音を受ける
真理の御霊によって宣べ伝えられたイエス・キリストの福音を聞く者には,慰め主を感じ,教化され,真理を受ける機会があります。人が御霊によって真理を教え,教えられた人が御霊によってそれを受けようとするなら,「両者ともに教化されて,ともに喜〔びます〕。」(教義と聖約50:22)
人が聖霊によって教えられた福音のメッセージを受けるためには,真理の御霊による影響を受けようとする必要があります。元中央日曜学校会長のA・ロジャー・メリル兄弟は,わたしたちが最良な形で御霊により福音を受け,学ぶ方法について,次のように教えました。
「御霊によって教えることの大切さについてはよく強調されます。それは適切なことですが,御霊によって受けることも,同じように大切な事柄として主がお定めになったことを,覚えておく必要があります。(教義と聖約50:17-22参照)……
教会の集会や,個人や家族の聖文研究において,さらには……主の預言者や使徒の話を聞いている間も,ある人々はほかの人々よりも多くを受けています。それはなぜでしょう。わたしが学んできたのは,真に受ける人は,ほかの人がしていないような事柄を少なくとも3つ行っているということです。
まず,彼らは求めます。世の娯楽に囲まれ,観客になりがちなわたしたちは,知らず知らずのうちに,『わたしはここにいます。さあ,霊感を与えてください』という態度で大会や教会に出席することがあります。霊的に受け身の姿勢になっているのです。
しかしそうではなく,御霊を求め,受けることに集中すると,教師や話者に注意を向けることよりも,御霊に心を向けることを意識するようになります。受けるとは動詞であることを忘れないでください。行動の原則であり,信仰を表すための基本的な表現です。
第2に,受ける人は,感じます。啓示は思いと心に与えられますが,最も多くの場合,感じるものです。霊的な感覚に注意を向けられるようにならなければ,御霊を認識することさえできません。……
第3に,御霊によって受ける人は,行おうとします。預言者モロナイが教えているように,モルモン書の証を受けるには,『誠心誠意』尋ねなければなりません(モロナイ10:4)。御霊は,学んだ事柄を誠実に行おうとするときに,教えを与えてくださるのです。」(「御霊によって受ける」『リアホナ』2006年11月号,93-94)
十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,教師や生徒が福音学習における自分たちの役割を理解できるように,次のたとえを使って教えました。「例えば聖餐会において,ほんとうの,真である,偽りのない御霊による礼拝は,話者が聖霊の力によって話をし,会衆が聖霊の力によって耳を傾けるときに成立します。」マッコンキー長老は,わたしたちの聖餐会でしばしば見られることとして,会衆は福音を学ぶために霊的に準備をして参加しているとし,さらに次のように話しました。「会衆は与えてもらいたいために,大きな1ガロン(約3.8リットル)の水差しを持ってきます。俗世間の知恵を用意してきた話者は,小さな1パイント(約0.47リットル)のボトルを持ってきて注ぎますが,1ガロンの水差しはいっぱいになりません。逆に,義を説く者が主の用向きを受け,御霊に波長を合わせ,メッセージを伝えるために大きな1ガロンの水差しを用意してきても,会衆の中にはコップよりも大きな入れ物を持ってきた者がだれもいないということが時々見られます。そして彼は1ガロンの永遠の真理を注ぎますが,会衆が受け取るのはサンプル程度の量で,一時的なのどの渇きをいやすだけで,含まれていたほんとうのメッセージを受け取ることができません。適切な教導あるいは教育を行える状況を作り出すには,教師と生徒,義を説く者と会衆の双方が信仰深く一致しなければなりません。」(“The Foolishness of Teaching” [address to Church Educational System religious educators, Sept. 18, 1981], 9–10)
教義と聖約50:23-24。「人を教化しないものは,……暗闇である。神から出ているものは光である。」
暗闇はサタンの邪悪な影響を意味し,教化しないものすべてを象徴します(教義と聖約50:23-24参照)。モルモン書は,「悪魔に従い,光よりも闇の業の方を選ぶ」者は,「地獄へ下って行〔く〕」よう宣告される(2ニーファイ26:10)ことを読者に思い起こさせます。人々が神の戒めに従わないとき,彼らの罪が主の御霊から来る光を遮り,「真昼に暗闇の中を歩いている」(教義と聖約95:6)ことに気づくのです。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は,次のように教えました。「『人を教化しないものは,神から出てはおらず』という言葉ほど真理を伝えるものはありません。そして神から出ていないものは,宗教,倫理,哲学あるいは啓示のような見せかけであっても暗闇です。神からの啓示が人を教化しないことはありません。」(Church History and Modern Revelation [1953], 1:201–2)
この世での教導の業の中で,救い主は「わたしに従って来る者は,やみのうちを歩くことがなく,命の光をもつであろう」と言われました(ヨハネ8:12。教義と聖約45:7も参照)。主に従う者は,「さらに光を受ける」こととなり,それによって「真理を知り」,「暗闇を……追い払う」ことができるようになります(教義と聖約50:24-25)。十二使徒定員会のロバート・D・ヘイルズ長老は次のように教えました。
「光は闇を追い払います。光があるときに,闇は打ち負かされ,去って行かなければなりません。もっと大切なことは,光が弱まったり,去って行ったりしないかぎり,闇は光に打ち勝つことができないということです。聖霊のもたらす霊的な光があるときに,サタンの闇は去って行きます。……
……戒めに従わないことによって,あるいは聖餐を受けず,祈らず,聖文を研究しないことによって,御霊の光を明滅させたり,弱めたりすると,悪魔の暗闇は必ず入り込んできます。」(「闇を出て,驚くべき主の光の中へ」『リアホナ』2002年7月,78参照)
教義と聖約50:23-24。「光を受け,神のうちにいつもいる者は,さらに光を受ける」
イエス・キリストの福音は,霊的な成長の過程を通じて神の子供たちが完全になるための備えとなります。主に従い,主の完全な光を手に入れるように努める者は,最終的に主のように完全になります(モロナイ10:32;教義と聖約67:13参照)。預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,霊的な光を受けることが,なぜわたしたちが神のようになる備えとなるのかを教えました。「わたしたちは次のように考えています。すなわち,神は人を,教えを受けることのできる心を持ち,天からの光に向ける注意と熱意の度合いに応じて増大する知力を持つ者として創造されたのです。人は完成に近づくほどに視野が開け,喜びが大きくなっていきます。そしてついには人生の様々な悪に打ち勝ち,罪に対する望みを一切持たなくなります。そしてその信仰は,古代の聖徒たちのように,造り主の力と栄光に包まれて,主とともに住むために引き上げられるほどの状態に到達します。しかしこれは,だれ一人として瞬時に到達したことのない状態であるとわたしたちは考えています。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』210-211)
霊的な光を受けることは,霊的な知識を得,個人的な義を育む過程です。大管長会のディーター・F・ウークトドルフ管長は,光を手に入れようと努力することが,どのように人の真理に対する証を強め,明確にするのかについて,次のように説明しました。
「心と思いを神に向ければ向けるほど,天の光が与えられます。そして,熱心に進んでその光を求める度に,わたしたちはさらなる光を受ける備えができていることを神に示します。ぼやけて,暗く,遠くに見えていたものが,徐々にはっきりとした,輝きのある,慣れ親しんだものになっていきます。
同様に,福音の光から離れると,1日や1週間のうちにではなく長い時間をかけて徐々にですが,わたしたちの光は輝きを失っていきます。やがて振り返ってみると,どうして福音が真実であると信じていたのかさえ理解できなくなってしまうのです。以前の知識が愚かにすら思えるのは,かつてあれほどはっきり見えていたものが,再びぼやけ,かすんで,遠くになってしまったからです。……
この霊的な光は神の子供一人一人の手の届くところにあると証します。その光は,皆さんの思いを啓発し,心を癒し,人生を喜びで満たします。愛する皆さん,神の業,すなわち光と真理の業について個人の証を得て,それを強めることを後回しにしないでください。
光と真理について得た個人の証は,死すべき世にある間に皆さんと子孫を祝福するだけでなく,世々限りなく,永遠に皆さんとともに歩み続けます。」(「光と真理の証を受ける」『リアホナ』2014年11月,22-23参照)
教義と聖約50:26-30。「願い求めるべきものはあなたがたに知らされるであろう」
主の聖任された僕たちは,主が求められることのすべてを成し遂げるための助けとして,天の力を利用することができます。この神聖な助けは「すべての罪から清められてきれいにされ(た)」(教義と聖約50:28)者のみに与えられます。十二使徒定員会のリチャード・G・スコット長老(1928-2015年)は,わたしたちが罪から洗い清められるために努力することが,祈りへの答えを得るための備えとなる理由について,次のように説明しました。
「その(自然科学の)法則に従わずに,結果だけを得られると考える人がいるでしょうか。霊にかかわる律法も同じです。わたしたちが助けを受けたいと望むならば,その助けをつかさどる霊にかかわる律法に従わなければならないのです。霊にかかわる律法といっても,神秘のベールに包まれたようなものではありません。だれにでも理解できるものです。……
主には,いつでもわたしたちに祝福を授ける力があります。しかし,わたしたちが主の助けをいただくためには,絶えず主の戒めを守っていなければならないのです。……
『もしもあなたがたがすべての罪から清められてきれいにされるならば,何であろうと自分の望むことをイエスの名によって求めると,それは行われる。しかし,このことを知っておきなさい。願い求めるべきものはあなたがたに知らされるであろう。』(教義と聖約50:29-30;強調付加)……
わたしたちが熱心に祈りをささげるならば,その祈りが主の御心にかなうものであるかぎり,必ず答えは与えられます。わたしたちは主の御心を完全に理解できるわけではないので,信仰によって歩んでいく必要があります。主は全知であり,その決定は完璧です。確かにわたしたちの理解力には限度があるため,主の人に対するみ旨をすべて理解することはできません。しかし,だからといって,主が授けてくださる祝福にも限度が定められているということはありません。主の御心にかなったことを行うのは,わたしたちがその御心を完全に理解していようといまいと,わたしたちの人生における最善の選択です。わたしたちが自分の自由意思を賢明に使って行動するときには,主はその御心にかなうかぎり,確かに祝福を授けてくださるのです。
わたしたちはこの世においては,主がわたしたち一人一人のために備えてくださった永遠の計画のほんの一部しか見ることはできません。たとえこの世で大きな苦しみに遭ったとしても,主の永遠の計画のことを考えて,どうぞ深く主を信頼してください。今すぐ祝福がほしいと思うときでも,待つよう求められたら,どうぞ忍耐強く待ってください。主は,皆さんの考えとはまったく相反するようなことを,皆さんに求められるかもしれません。そのようなときは信仰を働かせ,『みこころがなりますように』と言ってください。そのような誉むべき経験を重ねるうちに,さらに大きな祝福を受ける備えができていくのです。御父と同じように,主の願いも,皆さんが永遠の幸福にあずかり,たゆみない進歩を続け,ますます力が増し加えられることです。主は,御自分が今持っておられるものをことごとく皆さんに授けたいと願っておられます。」(「主から助けをいただく」『聖徒の道』1992年1月号,92-93,95参照)
大管長会のマリオン・G・ロムニー管長(1897-1988年)は,わたしたちの祈りが神の意志を表すところにまでどのように発展できるのかについて,次のように説明しました。「わたしたちが神に尋ねる前に,神の意志を知るようになる時が来ます。そのとき,わたしたちが祈るものはすべて『必要』なものとなります〔教義と聖約88:64〕。また,わたしたちが求めるものはすべて『正当』なものとなるのです〔3ニーファイ18:20〕。これは,義にかなった生活の結果,御霊を伴侶としているために,何を尋ねるべきか御霊が指示してくださるということです。」(in Conference Report, Oct. 1944, 56)
教義と聖約50:31-35。「父から定められていないすべてのものに打ち勝つ力」
教義と聖約50:31-35の中に記録されているように,主は御自身の僕たちに,偽りの霊,まことの霊的賜物,そして神の現れを区別する優れた判断力を与えられます。この力により神権者たちは,偽りあるいは暗黒の霊を感じたときに,見分けたり発表したりしますが,彼らはこの能力に関して高慢になるべきではありません。彼ら自身が欺かれてしまうかもしれないからです。
教義と聖約50:37-46
主は教会を強めるために御自身の僕たちを召され,一緒におられることを約束される
教義と聖約50:40-46。「あなたがたは……今はすべてのことに耐えることはできない。あなたがたは……成長しなければならない。」
主は,教会の長老たちは福音の知識について「幼い子供」のようであると言われました。しかし,主を受け入れるのであれば,彼らは「恵みと真理の知識とにおいて,成長(し)」(教義と聖約50:40),いつか御父と御子とともに一つになることができると約束されました(教義と聖約50:43参照)。十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,霊的な成長がゆっくりであってもがっかりしないようにと,聖徒たちに次のように話しました。
「ゆっくりとした進歩を主は受け入れてくださるだけでなく,むしろ奨励されています。神聖な宣言には,『あなたがたは幼い子供であり,今はすべてのことに耐えることはできない』(教義と聖約50:40),さらに『わたしがあなたがたを導いて行く』(教義と聖約78:18)と記してあります。神聖なことが明らかにされるときは通常,またここにも少し,そこにも少しと,教えに教え,訓戒に訓戒を与えられるのと同じように,わたしたちも徐々に霊的な進歩を遂げるのです(教義と聖約128:21;98:12参照)。
憐れみの特質のように,即座に完全になれないというだけで失敗したと思うよりも,わたしたちは『時がた(つ)』ことに対し,これまで以上に憐み深くあるよう努めるべきです。勤勉に努力をするときにでも,非現実的な期待をする必要はありません。完全でなくても前進を遂げている人は,まだその先の道のりは長くても,自分の人生における進路が主によって受け入れられていることを実際に知ることができます。」(Men and Women of Christ [1991], 23)