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第47章:教義と聖約121:11-46


「第47章:教義と聖約121:11-46」教義と聖約 生徒用資料

「第47章」教義と聖約 生徒用資料

第47章

教義と聖約121:11-46

紹介とタイムライン

1838年10月31日,ミズーリ州ファーウェストで,ミズーリ州の民兵隊が預言者ジョセフ・スミスとほかの教会指導者たちを捕らえた。この兄弟たちは,最終的にミズーリ州クレイ郡リバティーの監獄に入れられ,4か月にわたる監禁の間,大きな苦しみに耐えた。預言者は1839年3月20日に,リバティーの監獄で教会員への手紙を口述した。預言者はそのおよそ2日後に書かれた2通目の手紙で,悪人の受ける裁きと,「イエス・キリストの福音のために勇敢に堪え忍んだ」人々に約束された祝福について述べた(教義と聖約121:29)。預言者ジョセフ・スミスは,神権の権能と力に関する原則も教えた。教義と聖約121:11-46には,これらの手紙の一部が記録されている。

1838年8-10月教会員とほかのミズーリ州住民の間の誤解と緊張が高じて武力紛争に至った。

1838年10月27日リルバーン・W・ボッグズ知事が,ミズーリ州からの全末日聖徒の撲滅または排除を承認した。

1838年10月30日反モルモン自警団が,ミズーリ州ファーウェストから約19キロ東にあったハウンズミル入植地を襲い,17人の男性と男児を殺害し13人にけがを負わせた。

1838年10月31日ミズーリ州ファーウェストで,ミズーリ州民兵隊が預言者ジョセフ・スミスらを捕らえた。

1838年12月1日預言者ジョセフ・スミスと同僚たちがミズーリ州クレイ郡のリバティーの監獄に拘留された。

1839年3月20-22日預言者ジョセフ・スミスはリバティーの監獄から送る手紙を口述した。教義と聖約121-123章に一部が記録されている。

1839年4月6日預言者ジョセフ・スミスと同僚たちは,法廷審問を受けるためリバティーの監獄からミズーリ州ガラティンに移送された。1839年4月16日に監禁を解かれ,イリノイ州の聖徒たちに合流した。

教義と聖約121:11-46:追加の歴史的背景

リルバーン・W・ボッグズ知事が1838年10月にすべての末日聖徒をミズーリ州から追放することを命令した後,8,000人から1万人の教会員が自分たちの家から追い出されました。1839年1月から3月に,それらの教会員の多くは東に向かい,ミシシッピ川を渡り,イリノイ州クインシーへ行きました。クインシーの住民は教会員を温かく歓迎し,「〔彼らに〕食べ物,住む所,仕事を提供しました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, ed. Mark Ashurst-McGee and others [2017], 275)時を移さず,教会指導者は聖徒の入植地となる可能性のある場所を探し始めました。土地投機家であるアイザック・ガランドは,アイオワ州とイリノイ州コマースの大きな区画を教会に売却すると申し出ました。教会指導者たちは,そのときリバティーの監獄にいた預言者ジョセフ・スミスにこの土地を購入する可能性について手紙を書きました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 376–77; see also 377, note 650)。1839年3月20日,また1839年3月22日ごろにも,預言者は教会指導者への返信として,購入候補地に関する思いと指示を長い手紙に書きました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 389–90)。これらの手紙には,預言者ジョセフ・スミスが投獄されていたときに主がジョセフにお与えになった啓示も含まれていました。どちらの手紙も一部が教義と聖約121:11-46に記録されています。 

詳細については,本書第46章の「教義と聖約121-123章:追加の歴史的背景」を参照してください。

教義と聖約121:11-25

主は御自分の業に反対する者に対して保留している罰について述べられる

教義と聖約121:11-25。「戒めに背いたとしてあなたを責める者たち」

教会の金融機関であるカートランド安全協会は,地元の住民からの反対,合衆国の経済危機による影響,ジョセフ・スミスやほかの教会指導者による不適切な財政判断によって,1837年の夏の終わり近くに閉鎖しました。オハイオの多くの教会員は,預言者ジョセフ・スミスに失望して怒りを抱き,教会の財政問題の責めを負わせ,「堕落した預言者」と呼びました(The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, ed. Brent M. Rogers and others [2017], 365)。この離反者の幾人かは破門され,その後も引き続き預言者と教会に敵対し,ジョセフ・スミスとほかの教会指導者たちの命を脅かしさえしました。ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは命が危険にさらされているという主の警告を聞き,1838年1月にオハイオ州カートランドを去り,1838年3月に家族とともにミズーリ州ファーウェストに到着しました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 441–42, 537.)到着したとき,カートランドの離反者の一部もファーウェストに移住しており,そこの教会指導者を感化して,カートランドと同様に預言者に反対するよう扇動していたことを知りました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, 4, 8–9)。この元教会員たちは,結果として預言者ジョセフ・スミスが投獄され,聖徒がミズーリから追放されることになる出来事の一因となりました。

リバティーの監獄に監禁されている間に預言者ジョセフ・スミスに与えられた霊感あふれる言葉の中で,信仰を失い,主の「油注がれた」僕を積極的に滅ぼそうとする者が受ける厳しい結果について,主は宣言されました(教義と聖約121:16)。最後の晩餐で,イエス・キリストは,御自分の弟子の一人が裏切ろうとしていると言われました。そのとき主は旧約聖書の次の聖句を引用されました。「わたしの信頼した親しい友,わたしのパンを食べた親しい友さえもわたしにそむいてくびすをあげた。」(詩篇41:9ヨハネ13:18も参照)「わたしにそむいてくびすをあげた」という言葉は,公然と主と主の業に反対し,戦いを挑むと決意する人,または,主の業に背を向けて離れる人のことを表します。ヨハネ13:18で使われたこの言葉は,イエス・キリストを裏切って敵の手に渡したユダの背信を表します。教義と聖約121章に記録されているように,預言者ジョセフ・スミスに背き,預言者を滅ぼそうとした背教者を表す際に,主は同じ言葉を使われました(教義と聖約121:16参照)。 

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〔イスカリオテのユダに食物をお与えになるイエスの様子の画像〕

旧約聖書の預言は,ユダのように,「わたしにそむいてくびすをあげた」人々について語った(詩篇41:9ヨハネ13:18教義と聖約121:16も参照)。

預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は次のように説明しています。

「背教者たちは,忠実な人々をだれよりも容赦なく迫害してきました。ユダは叱責されると直ちに主を裏切り,主を敵の手に渡しました。サタンがユダに入ったからでした。

十分に固い決意をもって福音に従う者には,優れた英知が授けられます。もしそれに対して罪を犯すなら,背教者は神の御霊をはぎ取られ,見捨てられたままにされ,やがては実際にのろわれることとなり,最後には焼かれます。持っていた光が取り去られると,以前に照らされていた程度に応じてそれと同じだけ暗くなります。したがって,持てる力のすべてを尽くして真理に逆らうようになり,ユダのように最大の恩人を滅ぼそうとしても,何ら不思議ではありません。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』320-321

十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長(1924-2015年)は,オハイオやミズーリの背教者のように,神の王国と戦う今日の人々について次のように教会員に警告しています。

「また主は,『わたしの名を知っていると公言しながらわたしを知らず,わたしの家の中でわたしを冒瀆』する少数の教会員について警告されました〔教義と聖約112:26〕。……

教会の中のある少数の人々は,公に,あるいは恐らくそれよりはるかに悪いことに,匿名という闇に紛れて,ワードやステークや中央の教会指導者を非難し,イザヤが言ったように『言葉によって人を罪に定め』ます〔イザヤ29:21〕。主はそのような人々のことをこう述べておられます。

『わたしの油注がれた者に向かってかかとを上げる者は皆のろわれる,と主は言う。……わたしの目にかなうことと,わたしから命じられたことを行ったのに,彼らは罪を犯したと叫ぶ者は皆のろわれる,と主は言う。

しかし,戒めに背いたと叫ぶ者は,彼ら自身が罪の僕であり,不従順の子らであるからそう叫ぶのである。……

……彼らはわたしの幼い者たちをつまずかせたので,わたしの家の儀式から絶たれるであろう。

彼らのかごは満ちることなく,彼らの家と倉は朽ち果て,彼ら自身は彼らにへつらった者たちに見下されるであろう。

彼らも,彼らの後の子孫も代々,神権を受ける権利を持たないであろう。』〔教義と聖約121:16-17,19-21

福音に従って生活するよう力を尽くし,指導者を支持することに最善を尽くす人々には,この恐るべき罰が下ることはありません。また,かつて無関心さらには反抗という罪さえ犯した人々でも,悔い改めて罪を告白し,その罪を捨てれば,罰が下ることはありません〔教義と聖約58:43参照〕。」(「十二使徒」『リアホナ』2005年9月号,29)

教義と聖約121:19-21。「彼らも,彼らの後の子孫も代々,神権を受ける権利を持たないであろう」

ミズーリの悔い改めない背教者たちは,もはや神の預言者に従わないことを決めました。それによって,神権の儀式と祝福にあずかる特権を失いました。神の教会から離れると決めたことで,結局は「彼らの後の子孫も代々」にまで影響を及ぼし,子孫が福音の祝福を享受する機会と「神権を受ける権利」が制限されることになりました〔教義と聖約121:21〕。スペンサー・W・キンボール大管長(1895-1985年)は,このことがどのように起こり得るか次のように説明しています。

「教会員の間では,反抗は教会の幹部や指導者を批判するといった形で頻繁に見られます。彼らは『栄光ある者たちをそしって』『自分が知りもしないことをそし〔る〕』とぺテロは言っています(2ペテロ 2:10,12)。彼らは教会のプログラムに不平を言い,幹部をけなし,まるで自分たちを判事であるかのように考えています。やがて彼らは内心いろいろなことを腹立たしく思うようになり,教会の集会を欠席するようになります。そして什分の一を納めなくなり,ついにはほかの点でも教会員としての義務を怠るようになります。一言で言えば,彼らは背教の精神を宿しているのです。この背教の精神は常に批判から生まれてきます。……

このような人々は,子孫に証を述べることはできず,自分の家庭の中で信仰を破壊し,もしこのようなことがなければあらゆることに忠実であったはずの子孫から実際に『神権を受ける権利』を奪ってしまうのです〔教義と聖約121:21〕。」(The Miracle of Forgiveness [1969], 42–43)

ある人の選びが子孫に重大な影響を与えるということを知っておくことは大切ですが,各人は自分自身の選択に責任を持たなければならず,先祖の選びに対して責任を持つのではないことを覚えておくべきです。

教義と聖約121:26-33

預言者ジョセフ・スミスは,神は御霊を通して永遠の真理を明らかにされると教える

教義と聖約121:26-33。「神は……知識を,あなたがたに与えてくださるであろう」

リバティーの監獄における4か月にわたる艱難の間,預言者ジョセフ・スミスが解放されることを切に願ったことは確かですが,一方で,それは預言者にとって教えを受ける機会でもありました。十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は次のように説明しています。

「1838年12月1日から1839年4月第1週まで,リッチモンドの監獄で始まりリバティーの監獄まで続いた逆境の時期は,啓示の過程と個人的強化の過程を見ることができる特別な窓を提供します。……

リバティーの監獄にいる間に,預言者ジョセフ・スミスは,どの神権時代のどの預言者も受けたことのない,最も壮大とも言える啓示を受けました。それらの啓示は現在,教義と聖約121章と 122章として知られています。その中に主が末日の預言者を訓練される神聖な指導があります。恐らく,それは今あるすべての聖文で最も優しい指導でしょう。」(“A Choice Seer” [Brigham Young University fireside, Mar. 30, 1986], 5, speeches.byu.edu)

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Winter at Liberty Jail, by Al Rounds

Winter at Liberty Jail(「リバティーの監獄の冬」)by Al Rounds.預言者ジョセフ・スミスとほかの教会指導者たちは,リバティーの監獄に監禁されていた1838年から1839年の冬の間,苦しんだ。

1839年3月に聖徒たちにあてた手紙に預言者が記録した高尚な真理は,リバティーの監獄での経験を通して,確かに預言者がより主に近づいたことの証です。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は次のように説明しています。 

「ほとんどの人は,通常,リバティーの施設を『監獄』あるいは『牢獄』と評します。確かにそうでした。しかし,七十人第一評議会のブリガム・H・ロバーツ長老(1857-1933年)は,教会歴史を記録するに際して,同じ施設を神殿, あるいはもっと正確に言えば,『牢獄の神殿』 と評しています〔see Comprehensive History of the Church, 1:521 chapter heading; see also 526〕。……確かに,そこはわたしたちのほんとうの神殿,奉献された神殿が持つ聖さ,美しさ,快適さ,清潔さには欠けています。そこにやって来た看守や犯罪人の言動は,神殿の精神とは懸け離れたものでした。実際,リバティーでの経験に見られる,自由を奪う残虐性と不法行為は,わたしたちの神殿とそこで行われる儀式の持つ解放的な憐れみの精神とはまったく正反対だと思うでしょう。

では,リバティーの監獄が『神殿』と呼ばれるのはなぜでしょうか。この呼び名は神の愛と教えに関して,また,いつどこでその愛と教えが明らかにされるかという点も含めて,わたしたちに何を語っているでしょうか。まさに次のような意味です:どのような状況に置かれていても,神聖で啓示のような深い教えを主から受ける経験ができるということです。実に,人生で最も悲惨な経験の最中に,すなわち最悪の環境で,最大の苦痛をもたらす不法行為に耐えていて,いまだかつて直面したことのない克服不可能と思える障害や反対に直面しているときに,神聖で啓示のような深い教えを主から受ける経験ができるのです。」(“Lessons from Liberty Jail,” Ensign, Sept. 2009, 28)

教会が組織されて間もなく,主は忠実な教会員に,求めれば「啓示の上に啓示を,知識の上に知識を受けて,……〔それは〕喜びをもたらし永遠の命をもたらす」と約束してくださいました(教義と聖約42:61教義と聖約1:28も参照)。神の戒めを守る人々は「真理と光を受け,ついに真理によって栄光を受けて,すべてのことを知るようになる」のです(教義と聖約93:28)。教義と聖約121:26-32に記録されているように,神は重要な啓示によって聖徒たちを祝福されます。

預言者ジョセフ・スミスは次のように教えています。「時満ちる神権時代には,以前のすべての神権時代において明らかにされてきた事柄と,かつて明らかにされたことのない事柄も明るみに出されるでしょう。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』510)また別の機会にジョセフはこの神権時代について次のように書いています。「これまでにあったこと,また昔の預言者や賢人たちが目にすることを望みながらかなうことなく世を去っていった,それらの事柄を,神が御自分の教会において明らかにし,整え始めておられます。また創世の前から隠されてきたことが明らかにされ始め,主の栄光すなわち日の栄えの栄光と,神と小羊の祭司たちと王たちの王国が,シオンの山にとこしえに戻って来るときに地を備えさせるために,エホバが御自分の定められたときにその僕たちに知らせると約束しておられることが,明らかにされ始めています。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』510

回復の初めからこのように知識が注がれ,これは「主〔が〕すべてのことを明らかに〔し〕」(教義と聖約101:32)「何事も隠されることのない」(教義と聖約121:28)福千年まで続きます。十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,福千年の間に明らかにされる知識について,次のように述べています。

「わたしたちには完全な永遠の福音があります。それは,完全な救いを得るために必要なすべてを与えられていることを意味します。わたしたちには,日の栄えの世界の,最高の天における昇栄を得るために必要なあらゆる真理,教義,原則,そしてあらゆる儀礼,力,儀式が与えられています。それでもわたしたちはすべてのことを知っているわけではありません。……

すべてのことは福千年に明らかにされます。モルモン書の封じられた部分は世に出され,真鍮の版は翻訳されるでしょう。アダム,エノク,ノア,アブラハムなど多くの預言者が書いたことが明らかにされるでしょう。主イエスのこの地上での務めについて,わたしたちは現在の知識より千倍も多くのことを学ぶでしょう。永遠なる御方とともに歩み,話をした古代の人々にさえも知らされていない,王国についての大いなる奥義を学ぶでしょう。創造や人の起源についても詳しく学ぶことになるでしょう。……地の中のことも,地上のことも,地の上のことも,人間〔の知識〕に明らかにされないものはないでしょう。それは,もし人が創造主のようになるなら,いつかすべてのことを知らなければならないからです。」(The Millennial Messiah: The Second Coming of the Son of Man [1982], 675–77)

教義と聖約121:28。「唯一の神か,それとも多くの神々がおられるか,そのことが明らかにされるであろう」

「唯一の神か,それとも多くの神々がおられるか」(教義と聖約121:28)という言葉は,福千年で「主〔が〕すべてのことを明らかに」されるときに(教義と聖約101:32)さらに明確に答えられる疑問の一例です。預言者ジョセフ・スミスは,御父と御子が別個の御方であられることを自分の目で見て知りました(ジョセフ・スミス—歴史1:17参照。教義と聖約76:19-23137:1-3も参照)。預言者は後に次のように説明しています。「わたしは常にこう宣言してきました。神は一人の御方であられ,イエス・キリストは父なる神とは別の御方であられ,聖霊も別の御方であって霊の御方であられると。この御三方は3人の異なった方々であり,3人の神々であられます。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』41)主はまた預言者ジョセフ・スミスに,神の子供たちが主のようになるためにしなければならないことを明らかにされました(教義と聖約132:19-20参照)。しかし,天の存在の特質や秩序についてわたしたちが理解できることは,「将来,何事も隠されることのないとき」まで,引き続き限られています(教義と聖約121:28)。

教義と聖約121:34-46

ジョセフ・スミスは「神権の権利は天の力と不可分のものとして結びついて〔いる〕」ことを教える

教義と聖約121:34-35。「召される者は多いが,選ばれる者は少ない」

1837年後半から1838年いっぱいにかけて,預言者ジョセフ・スミスは,教会の会員や指導者であった多くの友人が教会から去って行くのを見ました。リバティーの監獄にいる間に教会員に書いた霊感に満ちた教えの中で,預言者は「召される」者と「選ばれる」者を区別しました(教義と聖約121:34)。この文脈において「召される」とは,特に神権の権能を受けることを指します。しかし「選ばれる」には,ほかの人が神権の祝福を受けるのを助けるために,神権者は「天の力」〔教義と聖約121:36〕を用いるのにふさわしくなくてはなりません。しかし,「召され」「選ばれる」ことは,神権を持つ人だけではなく,広い意味で教会員全員に当てはめることもできます。1830年に教会が組織される前に,主は次のようにお教えになりました。「あなたがたは神に仕えたいと望むならば,その業に召されている。」(教義と聖約4:3ブルース・R・マッコンキー長老は「召される」とはどういう意味かについて次のように説明しています。

「召されるとは,教会と地上の神の王国の一員となることです。聖徒とともに数えられることです。福音を受け入れ,永遠の聖約を受けることです。地上のシオンに参加することです。……

この全体の枠組みの中で,重要な地位や責任を受ける人もいますが,これらはしばらくの間,特定の場所で主の用向きを果たす割り当てにすぎません。召し自体は福音の大義のためにあるものです。使徒や預言者,イスラエルの偉大で力ある者のために取っておかれたものではありません。王国のすべての会員のためのものです。」(Doctrinal New Testament Commentary [1973], 3:326)

「選ばれた」者とは,聖文では「神によって選ばれて特別な責任を受けた者」を表すために使われます(「『聖句ガイド』「選ばれた者」の項,scriptures.lds.org)。教義と聖約121章で使われているように,「選ばれる」とは,受けた召しや特別な責任を果たすに当たり忠実であることを理由に,神から神権の力やそのほかの祝福を受ける者も表します(教義と聖約121:36,45-46参照)。十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,「選ばれた者」の意味について次のような洞察を述べています。

「辞書によれば,選ばれた者という言葉には,選抜された者,選び取られる者,えり抜かれた者という意味があります。また,神に選ばれた者を指して使われる場合もあります(Oxford English Dictionary Online, second ed. [1989], ‘Chosen’)。……

選ばれた者であること,選ばれる者となることは,限られた人にだけ贈られる地位ではありません。むしろ,選ばれるかどうかは,皆さんもわたしも最終的には自分で決めることなのです。教義と聖約の次の聖句で,選ばれるという言葉がどのように使われているかに注目してください。

『まことに,召される者は多いが,選ばれる者は少ない。では,なぜ彼らは選ばれないのであろうか。

それは,彼らがあまりにもこの世のものに執着し,人の誉れを得ることを望んでいる……からである。』(教義と聖約121:34-35;強調付加)

この聖句の意味するところは実に明快です。神は『お気に入りの名簿』など持っておられず,わたしたちはそこに自分の名前が加えられるように望む必要はないのです。神は『選ばれる者』を限定しておられるわけではありません。むしろ,最終的に神に選ばれた者となるかどうかを決めるのは,わたしたちの心であり,わたしたちの望みであり,わたしたちの従順さなのです。」(「主の深い憐れみ」『リアホナ』2005年5月号,100-101参照)

教義と聖約121:36。「神権の権利」

預言者ジョセフ・スミスは,「神権の権利」(教義と聖約121:36)を正しく理解して用いることが,「選ばれる者」(教義と聖約121:34,40)に約束された祝福を得られるかどうかを決めると述べています。ボイド・K・パッカー会長は次のように説明しています。「神権の内にある権能は聖任によって与えられます。神権の内にあるは聖約を尊びながら忠実で従順な生活を送ることによって与えられます。義にかなって神権を行使し,用いることによって,その力は増し加えられるのです。」(「神権の力」『リアホナ』2010年5月号,9)

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〔神権の祝福を受ける若い女性の画像〕

神権の権能は「義の原則に」基づいて用いる(教義と聖約121:36)。

大管長会のディーター・F・ウークトドルフ管長は,神権の力を使うために神権者が義にかなっている必要があるのはなぜかを次のように考察しています。

「全能である天の御父は,当然欠点があり不完全な死すべき者であるわたしたちに神権の権能を託されました。御父は御自分の子供たちを救うために,神の御名により行動する権能をわたしたちに授けられたのです。この偉大な力によって,わたしたちは福音を宣べ伝え,救いにかかわる儀式を執行し,地上に神の王国を築く手助けをし,家族や同胞に祝福を与えて仕える権能を授かっています。……

神権やそれに付随するいかなる責任も,金銭で買ったり,自在に操ったりできません。神権の力を行使するに当たって,地位や富,勢力によって影響を受けたり,左右されたり,強制されたりすることもありません。それは天の律法に基づいて働く霊的な力であり,全人類の偉大な天の御父がその源です。その力は独善ではなく,義の原則に従ってしか制御することも,運用することもできません〔教義と聖約121:36参照〕。

キリストは地上におけるあらゆる神権の権能と力の真の源です〔へブル5:4-10教義と聖約107:3参照〕。わたしたちが手助けする特権にあずかっているのは主の業です。『人は謙遜であり,愛に満ち,信仰と希望と慈愛を持ち,また自分に任せられたすべてのことについて自制しなければ,だれもこの業を助けることはできない。』〔教義と聖約12:8〕」(「神権の喜び」『リアホナ』2012年11月号,58-59参照)

すべての忠実な教会員は神権の力の祝福を享受できます。十二使徒定員会のニール・L・アンダーセン長老は次のように説明しています。

「わたしたちは時に,神権の力と教会の男性とを過度に結びつけてしまうことがあります。神権とは,老若男女を問わず,あらゆる人の救いと祝福のために賜った神の力であり権能です。

人は暖かい太陽の光を部屋に入れるためにカーテンを開けることができます。しかし,その人が太陽や,その光,あるいは太陽がもたらす温かさを所有しているわけではありません。神権の祝福はその賜物を行使するよう求められている人よりも無限に大きなものです。

この世および次の世において,神権の祝福と力,約束を受けることは,死すべき人にとって偉大な機会と責任の一つです。わたしたちがふさわしくあれば,神権の儀式はこの地上におけるわたしたちの生活を豊かなものとし,次の世で受ける壮大な約束に備えさせてくれます。主は,『神権の儀式によって神性の力が現れる』と言われました〔教義と聖約 84:20〕。

バプテスマを受け,聖霊を受け,定期的に聖餐を頂く人には皆,ふさわしければ,神からの特別な祝福が用意されています。神殿は,永遠の命の約束とともに,新たな光と強さをもたらしてくれます〔教義と聖約138:37,51参照〕。」(「神権に宿る力」『リアホナ』2013年11月号,92参照)

教義と聖約121:37-40。「いかなる程度の不義」でも

教義と聖約121:37-40に挙げられている例は,不適切でふさわしくない神権の使用を表しています。権能を乱用し,悔い改めない神権者は皆,主の御霊を失い,神権の権能と力をもはや用いることができなくなります。

十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン会長はこのように述べています。

「神権の権能を与えられていながら,電力のような神権のに欠けている男性があまりにも多いのではないかと心配しています。怠惰や不正直,高慢,不道徳,あるいは,この世のことに夢中になるといった罪が原因で,神権の力がせき止められているのです。

あまりに多くの神権者が,天の力にアクセスする能力を増す努力を,ほとんどあるいはまったくしていないのではないかと懸念しています。思いや感情や行動を汚すことにより,または,妻子をおとしめることにより,神権の力を自ら断ち切っているすべての人について心配しています。

悲しいことにあまりにも多くの神権者が選択の自由を敵に明け渡し,自らの行為により,『救い主の神権で人を祝福するよりも,自分の望みを満たすことの方が大切だ』と宣言しているのではないでしょうか。

兄弟の皆さん,わたしたちの中のある人々は,ある日目覚めて,神権の真の力に気づき,神の力を行使する方法を学ぶよりも,人の上に立つことや職場で昇進することにあまりにも多くの時間を使ってきたことを深く悔やむことになるかもしれません〔教義と聖約121:36参照〕。」(「神権の力を得るための代価」『リアホナ』2016年5月号,67-68)

教義と聖約121:38。「とげのある鞭をけ〔る〕」とはどういう意味か

「『とげのある鞭』とは,動物を突いて前に進ませるために使用された,とがった槍や棒を指します。頑固な動物は,前に進む代わりに後ろ足でけり返しました。文字どおり『とげのある鞭』をけったのです。このような反応は,動物が飼い主から,より痛い方法で促されることになるので,苦痛を増すだけでした。」(New Testament Student Manual [Church Educational System manual, 2014], 295)教義と聖約121:38の「とげのある鞭をけ〔る〕」という言葉は,主や主によって召された僕の指示に反対するまたは拒否するという意味です。

教義と聖約121:41-45。神権の義にかなった行使

神権者は「義の原則」に従うことによって神権を正しく使います(教義と聖約121:36)。義にかなって神権を行使するために,神権者は教義と聖約121:41-45に挙げられている特質を伸ばすよう努めなければなりません。これらの特質は,イエス・キリストの生涯と教導の業の中にその模範を見ることができます。ボイド・K・パッカー会長は次のように教えています。「神権の権能を正しく行使するとき,神権者は神がその場におられるなら行われるであろうことを行うのです。」(「神権の力」7)

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〔ラッセル・M・ネルソン大管長とヤングアダルトの画像〕

神権の力を通して人に影響を与えようとする人は,「説得により,寛容により,温厚と柔和により,また偽りのない愛により」行う(教義と聖約121:41)。

トーマス・S・モンソン大管長は神権者に対して次のような勧告を与えています。 

「兄弟の皆さん,わたしたちはそれぞれ,かつて人類に授けられた最も貴い賜物の一つを託されています。わたしたちが神権を尊び,常にふさわしく生活をするとき,わたしたちを通して神権の祝福が注がれます。 わたしは教義と聖約121章45節に見られる次の言葉が大好きです。『あなたの心が,すべての人に対して,また信仰の家族に対して,慈愛で満たされるようにしなさい。絶えず徳であなたの思いを飾るようにしなさい。そうするときに,神の前においてあなたの自信は増し,神権の教義は天からの露のようにあなたの心に滴るであろう。』

神の神権を持つ者として,わたしたちは,主イエス・キリストの業に携わっています。わたしたちは主の召しにこたえてきましたし,主の用向きを受けています。主について学び,主の足跡に従い,主の勧めに従って生活しましょう。そうすれば,わたしたちは主から召されるいかなる務めに対してもそれを果たす備えができます。」(「神権—神聖な賜物」『リアホナ』2015年5月号,90) 

教義と聖約121:45。「神権の教義は天からの露のようにあなたの心に滴るであろう」

七十人のクレーグ・A・カードン長老の次の言葉は,教義と聖約121:45に記録されている真理を応用する方法が分かるよう助けます。

「主は,わたしたちすべての神権者に向けて,天の力と影響力は不義によって終わるが,義によって強められるということを教えてくださいました。主は『心を大いに広げる』特質として,『説得……,寛容……,温厚と柔和……,偽りのない愛……,優しさと純粋な知識』を挙げられました〔教義と聖約121:41-42〕。さらにこのように教えられました。『またあなたの心が,すべての人に対して,また信仰の家族に対して,慈愛で満たされるようにしなさい。絶えず徳であなたの思いを飾るようにしなさい。そうするときに,神の前においてあなたの自信は増し,神権の教義は天からの露のようにあなたの心に滴るであろう。』〔教義と聖約121:45

主は『すべての人』に対して慈愛を持つようにとおっしゃった後で,『また信仰の家族に対して』と言い添えられました。なぜでしょう。『すべての人』と言えば『信仰の家族』も含まれるのではないのでしょうか。この言葉を,もっと具体的に『あなた自身の信仰の家族』という意味に理解したらどうなるか考えてみてください。残念なことに,教会員の中には,自分の配偶者,子供,兄弟,親よりも,家族以外の人に大きな慈愛を示す人がいます。人前では優しく振る舞いながら,家庭では争いの種をまいて育て,本来最も親密であるべき人をおとしめているのです。それは,あってはならないことです。

主はまた,絶えず徳をもって思いを飾る,つまり思いを清く保つようにと語られました。清い思いは罪を遠ざけます〔アルマ13:12参照〕。清い思いから出る言葉は『しかり,しかり,否,否』であり〔マタイ5:37〕,ずる賢さや偽り,策略はありません。清い思いを保つなら,人の長所や可能性に目を向け,だれしも何かしら持っている不完全さには目をつむります。

この聖句は思いが清められるプロセスについてのすばらしい教えで終わっています。日々思いを清めていく中で,この原則を応用する方法をさらに理解するために,水の入った二つのグラスを思い浮かべてください。見た目には同じグラスが,湿度の高い部屋に置かれています。しばらくすると,片方のグラス〔の外側〕に水滴がつき始めますが,もう片方のコップは乾いたままで,変化しません。実は,最初見た目では分からなかったのですが,違う温度の水を入れてあったのです。そのため,空気中の水分は片方のグラス〔の表面〕に強いられることなく『流れ込〔み〕』〔教義と聖約121:46〕ましたが,もう一つのグラスには何も起こりませんでした。これと同じように,心を大いに広げてくれる特質,つまり人に対する慈愛,特に家族に対する慈愛,そして徳で飾られた思いを持つことにより,わたしたちの霊は神権の教義が心に滴る温度に調節されるのです。

このように,聖任や儀式を通して,また個人の性質を清めることにより,神権は聖霊の働きを通して人を神に近づけていきます。こうして,神の子供たちに機会が開かれ,神に似た者となり,最終的には永遠に神の御前に住めるようになるのです。それは,山を動かすことよりも栄光ある業です〔モーセ1:39参照〕。」(「主に近づく」『リアホナ』2006年11月号,95-96参照)

教義と聖約121:46。「聖霊は常にあなたの伴侶となり,あなたの笏は義と真理の不変の笏となるであろう」

教義と聖約121:41-45に挙げられているキリストのような特質を求めて実践している神権者は,神権の祝福を通して力を受けます。この神聖な力は「義と真理の不変の笏」と言われています(教義と聖約121:46)。笏とは,王のような統治者が持つ,地上での権威を象徴する棒または杖のことです。教義と聖約121:46では,笏は,「神権の権利」を「義の原則」を用いて行使する人に,イエス・キリストすなわち王の王がお授けになる神権の権能と力を表す比喩です(教義と聖約121:36)。このように義にかなった神権者は,「聖霊〔を〕常に〔彼ら〕の伴侶」とし,彼らの「主権は永遠の主権となり,それは強いられることなく,とこしえにいつまでも,〔彼ら〕に流れ込む」ことでしょう(教義と聖約121:46)。このように,その「心が……慈愛で満たされ」「絶えず徳で〔自分の〕思いを飾る」(教義と聖約121:45),「キリストの福音のために勇敢に堪え忍んだすべての者」(教義と聖約121:29)に主によって与えられる神聖な力は,「不義の支配」(教義と聖約121:39)によって行使される悪の力とは対照的です。このような人は,強要や強制によらず愛と義を通して人々を導き,影響を与えます(教義と聖約121:37参照)。その結果,義を愛する人は彼らに従いたいと望みます。

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