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第41章:教義と聖約103章;105章


「第41章:教義と聖約103章;105章」教義と聖約 生徒用資料

「第41章」教義と聖約 生徒用資料

第41章

教義と聖約103章105章

紹介とタイムライン

1834年2月24日,パーリー・P・プラットとライマン・ワイトは,ミズーリの聖徒たちの窮状を説明して勧告と援助を求めるために,預言者ジョセフ・スミスとカートランドの高等評議会との会合を持った。これと同じ日に,預言者は教義と聖約103章に記録されている啓示を受けた。この啓示で,主は聖徒たちが「受け継ぎを汚」さないならば,「シオンの地に戻され」る(教義と聖約103:13-14)と約束され,ミズーリの聖徒たちを助けるために物資を集め,一緒に行く者を募るよう教会の指導者たちに指示された。

主の命令に従って,預言者ジョセフ・スミスと200人を超える志願者が,ミズーリ州ジャクソン郡の家から強制的に追い出された聖徒たちの援助に向かうためにイスラエルの陣営(後にシオンの陣営として知られるもの)を結成した。1834年6月22日,ミズーリ州のフィッシング川の北4マイル(約6キロメートル)で野営していたとき,ジョセフ・スミスは教義と聖約105章に記録されている啓示を口述した。主はこの啓示で,聖徒たちは「しばしの間シオンの贖いを待つ」必要があると説明された(教義と聖約105:9)。主は,将来シオンが贖われる,つまりシオンが聖徒たちによって取り戻されるために必要な事柄に関する指示も与えられた。

1833年11-12月聖徒たちはミズーリ州ジャクソン郡から強制的に追い出された。

1834年2月24日教義と聖約103章が与えられた。

1834年3-5月教会の指導者たちは,ミズーリ州への行軍の準備として男性を募集し,金銭を集めた。

1834年5月シオンの陣営の隊員がオハイオ州とミシガン州からミズーリ州への行軍を開始した。

1834年6月15日預言者ジョセフ・スミスは,ミズーリ州ジャクソン郡の家に戻るために聖徒たちを助ける民兵をダニエル・ダンクリン知事が提供しないことを知った。

1834年6月22日教義と聖約105章が与えられた。

1834年6月下旬シオンの陣営の隊員と,そのほかの教会員がコレラに苦しめられた。

1834年7月上旬シオンの陣営の隊員は解任された。

教義と聖約103章:追加の歴史的背景

1833年後半にミズーリ州ジャクソン郡に住む聖徒たちが自分の家から追い出されたとき,聖徒たちの多くはミズーリ州クレイ郡のミシシッピ川を渡った所を避難所とした。預言者ジョセフ・スミスは,これらの聖徒たちから受けた手紙から,彼らの状況について知った。1834年1月上旬,パーリー・P・プラットとライマン・ワイトはジョセフ・スミスと直接会って話し,ミズーリの聖徒たちの状況について詳しく伝えるために,ミズーリからオハイオ州カートランドへ旅することを申し出た。

1834年2月24日,預言者ジョセフ・スミス,新しく組織されたカートランドの高等評議会やほかの人々は,パーリー・P・プラットとライマン・ワイトから話を聞くために集まり,聖徒たちをどのようにしてジャクソン郡の彼らの家に帰還させるか話し合った。預言者は,ミズーリに行って,シオンを贖うのを助けるという決意を述べ,その場に集まった約30-40人もミズーリに行くことを決意した。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, ed. Gerrit J. Dirkmaat and others [2014], 453–54.

同じ日に,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約103章に記録されている啓示を受けた。この啓示は,主が6か月前に与えられた啓示が次々と成就していく中の一部と見られている。その啓示の中で主は預言者に,「わたしの家の勇士……を率いて,……わたしの果樹園の地へ行き,果樹園を取り戻しなさい」と指示された(教義と聖約101:55-56参照)。教義と聖約103章に記録された啓示に従い,教会指導者は,多くの聖徒たちが住んでいる所を巡りながら数週間旅をして,資金や物資を集め,最初はイスラエルの陣営として知られ,後にシオンの陣営と呼ばれる援軍で援助する志願者を募集した。 (See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833 –March 1834, 453–54, 457–59.)

〔地図9:シオンの陣営の経路,1834年の画像〕

教義と聖約103:1-20

主はシオンが贖われることを約束される

教義と聖約103:1-3。「兄弟たち……に関して,あなたがたが自分たちの務めを果たす方法」

1833年7月下旬,ミズーリの教会指導者は,半数の聖徒たちが1834年1月1日までに,残りの半数は1834年4月1日までに,ジャクソン郡を離れるという同意書に署名させられました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 187)。しかし,預言者ジョセフ・スミスは,ジャクソン郡の自分たちの土地を売らずに,州当局に護衛と賠償を求めるよう助言しました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 332–33)。1833年の最後の数週間,教会員は敵から迫害を受けたため,自分たちの家を捨て,ミズーリ州クレイ郡やそのほかの場所に避難する所を探しました。1833-1834年の冬の数か月間,数百人の聖徒たちは難民として苦しみ,ミズーリ川の北岸に沿って早急に建てた仮の住居に住みました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 346–47, note 142)。1834年2月,主はオハイオ州カートランドの教会指導者に次のように言われました。「シオンの地に散らされた兄弟たちの救いと贖いに関して,あなたがたが自分たちの務めを果たす方法を知ることができるように,わたしはあなたがたに啓示と戒めを与える。」(教義と聖約 103:1

〔ミズーリ州クレイ郡の柵と野原の画像〕

ミズーリ州ジャクソン郡の家を去ることを余儀なくされた聖徒たちの多くは,1833年の終わりにミズーリ州クレイ郡のこの近くに仮の住居を見つけた。

同様に,今日の教会指導者は,聖徒に全世界と自分たちの地域の難民に手を差し伸べ,援助を与えるように勧告しています。七十人のパトリック・キアロン長老は,今日の難民と初期の末日聖徒の窮状を比較して,次のように述べています。

「この教会の会員として,また一つの民として,わたしたちはそう遠くない昔に,暴力により幾度となく家や農場を追われた難民の時代を経験しています。……

主はわたしたちに,シオンのステークを『防御』および『嵐……の避け所』とするよう指示しておられ〔教義と聖約115:6イザヤ4:5-6も参照〕,わたしたちはすでに避け所を見いだしています。安全な場所から出て行って,わたしたちが豊かに持っている物を分かち合いましょう。明るい将来が待ち受けているという希望 と,神を信じる信仰および仲間への信頼,そして,文化やイデオロギーの違いを超えて,わたしたちが皆天父の子供であるという栄えある真理に目を向けるを分かち合うのです。」(「嵐をしのぐ避け所」『リアホナ」』2016年5月号,111, 113) 

元中央扶助協会会長のリンダ・バートン姉妹も難民の窮状について述べ,困っている人を助ける方法について次のような勧告を与えています。

「強制退去させられた人も含め,世界には6,000万人以上の難民がいます。その半数は子供です。『一人一人が非常な困難を経験し,新しい国や文化の中でやり直そうとしています。住む場所や基本的な必需品を得られるように組織が助けてくれる場合も〔時には〕ありますが,彼らに必要なのは,新しい生活に〔順応〕できるよう助けてくれる友人や支援者であり,言語を学び,社会の仕組みを理解し,帰属意識を得られるように助けてくれる人なのです。』〔‘40 Ways to Help Refugees in Your Community,’ Sept. 9, 2015, mormonchannel.org〕……

2015年10月27日付けの大管長会の手紙には,内戦そのほかの困難な状況から救済を求めて故国を去った,何百万もの人々に対する深い憂慮と同情の念がつづられています。大管長会は個人や家族,教会ユニットに対し,可能な地域において地元の難民救済プロジェクトに参加する,また教会人道支援基金に献金するなどして,キリストのような奉仕に携わるよう勧めています。……

わたしたちの助けを必要とする人から求められる『差し迫った要請』について考えるとき,『彼らに起こったことが,もしわたしに起こっていたとしたら』と自問しましょう。そのうえで霊感を求め,受けた印象に従って行動できますように。 また何かを行うよう霊感を受け,それが可能であるなら,困っている人々を助けるために一致して手を差し伸べることができますように。」(「わたしが旅人であったときに」『リアホナ』2016年5月号,13-15)

教義と聖約103:4-10。「彼らは,……わたしの敵に打ち勝ち始めるであろう」

主は,「〔彼らが〕わたしの与えた訓戒と戒めに完全には聞き従わなかったので,」聖徒たちがミズーリ州ジャクソン郡から強制的に去ることになったと説明されました(教義と聖約103:4教義と聖約101:2,6-9も参照)。主は以前に,「彼らの中には,あつれきや争い,ねたみ,対立,およびみだらなむさぼりの欲望があった」(教義と聖約101:6)ことを指摘されました。イエス・キリストに従う者として,聖徒たちは「世の光となり,人々の救い手となるように」命じられました(教義と聖約103:9)。一部の聖徒たちは主の戒めを心に留めなかったため,彼らは「ひどくかつ厳しい懲らしめを受け」ました(教義と聖約103:4)。しかしながら,彼らが悔い改め,直ちに「〔主の〕勧告に……聞き従う」なら,主は彼らを助け,守ってくださると約束されました(教義と聖約103:5)

預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,イギリスで伝道していた教会指導者に次のように教えています。

「わたしたちが一つとなって携わっている業は,尋常の業ではありません。戦わなければならない敵は狡猾で,非常に策略に長けています。力を結集させることに注意を払い,最善の思いを心に抱く必要があります。そうすれば,全能者の助けによって,わたしたちは勝利に勝利を重ね,征服に征服を重ねていくことでしょう。邪悪な思いは抑えられ,偏見は消え去るでしょう。胸に憎しみを宿す余地はなくなり,悪徳はその醜い顔を隠すでしょう。そしてわたしたちは天の承認を受け,神の息子たちと認められるでしょう。

わたしたちは自分自身のためにではなく,神のために生きなければならないことを理解しましょう。そうすることによって最も大いなる祝福が,この世においても永遠にわたっても,わたしたちにとどまるでしょう。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』276

ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,主や主の業に反対する者に打ち勝つ力は,主の戒めと標準に対するわたしたちの従順さによると次のように断言しています。「世の標準がどのように揺れ動こうとも,教会員が世の標準にのまれてよいという言い訳にはなりません。確実で,立証済みの,有益な標準が多く与えられています。その標準に従えば従うほど,わたしたちは前進します。標準を軽視すればするほど,自分自身の進歩や主の業の発展を妨げることになります。わたしたちに与えられている標準は,すべて神から与えられたものです。中には世の標準と比べれば少し時代遅れに見えるものがあるかもしません。しかし,たとえそのように見えたとしても,決してその正当性が損なわれるわけでも,実践する価値が失われるわけでもありません。いかに巧みでもっともらしく聞こえても,人の理論が神の宣言された知恵を変更することはできないのです。」(「確かな道を歩みなさい」『リアホナ』2005年1月号,4)

教義と聖約103:11-20。「シオンの贖い」

1831年6月,主は聖徒たちに,ミズーリの地は「受け継ぎの地」として聖別されると宣言されました(教義と聖約52:2-5,42参照)。預言者ジョセフ・スミスに与えられた啓示によれば,ミズーリ州ジャクソン郡のインディペンデンスの町はシオンの町の中心の場所,すなわち,新エルサレムとなり,あらゆる国から聖徒たちが集まり,神殿が建てられ,聖徒たちが自分の受け継ぎの地で安全に平和に暮らす場所となります(教義と聖約45:66-6957:384:2-4参照)。しかし,1833年末までに,ジャクソン郡に住む教会員は自分たちの家と土地から強制的に追放され,「散らされ」ました(教義と聖約103:11参照)。

聖徒たちがジャクソン郡から追放された後,預言者は,シオンは最終的には贖われるという啓示を受けました。つまり,聖徒たちが聖められた後に,現代の約束の地は取り戻される,すなわち,回復されるという意味です(教義と聖約101:16-20103:11-15105:1-10参照)。教義と聖約103章に記録されている啓示の中で,主は,シオンの贖いを受け継ぎの地に導かれたイスラエルの子らにたとえられました。主は次のように言われました。「わたしは一人の男をわたしの民のために立てよう。その男は,モーセがイスラエルの子らを導いたように彼らを導くであろう。」(教義と聖約103:16出エジプト3:7-10も参照)主は聖徒たちに,あなたがたは「イスラエルの子らであり,アブラハムの子孫であって,力により……囚われの身から導き出され」る必要があると言われました(教義と聖約103:17)。主は,古代のイスラエルとともに主の天使が前を上って行ったように,今回は天使だけではなく,御自分もともにそこにいると断言されました(教義と聖約103:19-20参照)。主がモーセに率いられたイスラエルの子らとともにおられなかったのは,彼らが「かたくなな民」であったからでした(出エジプト33:2-3参照)。

主は以前の啓示の中で,預言者ジョセフ・スミスが末日のモーセようであるだけでなく,教会の大管長も皆「モーセのようである」と説明されました(教義と聖約107:91教義と聖約28:2も参照)。

教義と聖約103:21-40

主は聖徒にシオンに戻るように指示され,預言者ジョセフ・スミスにイスラエルの陣営を組織するようにお命じになる

教義と聖約103:21-28。主は,預言者ジョセフ・スミスにシオンに行くよう命じられる

1833年12月,主はシオンの地の贖いに関するたとえを明らかにされました。このたとえの中で,「ある身分の高い人」が僕たちに12本のオリーブの木を「特別な良い土地」に植えるように命じました(教義と聖約101:44)。彼は僕たちに,「一つの見張り台を築いて,その台の上で見張り人となる者が……土地を見渡せるよう」にして,敵から土地を守るように命じました(教義と聖約101:45)。しかし,僕たちは見張り台を完成させなかったので,「夜に敵がやって来て,……敵は彼らの造ったものを壊し,オリーブの木を折り倒し〔ました〕」(教義と聖約101:46-51参照)身分の高い人,つまり果樹園の主人は,それから僕の一人に言いました。「僕たちの残りを集めて,……わたしの家の勇士全員,すなわち,わたしの戦士たち……を率いて行きなさい。そして,すぐにわたしの果樹園の地へ行き,果樹園を取り戻しなさい。」(教義と聖約101:55-56

教義と聖約103章に記録されている啓示で,主は,このたとえの中で果樹園を「贖う」つまり「取り戻す」僕は預言者ジョセフ・スミスであることを明らかにされました(教義と聖約103:21参照)。主は預言者に,「わたしの家の勇士」からなるグループを率いて,自分の土地から追放され,散らされた聖徒たちを助けるようお命じになりました(教義と聖約103:22)。この責任は危険が伴う可能性があったので,そのグループのメンバーは,主の命令を成就するためには必要なら進んで命を犠牲にする必要があると主は言われました(教義と聖約103:27-28参照)。

大管長会のジェームズ・E・ファウスト管長(1920-2007年)は,命をささげるように言われても言われなくても,すべてのイエス・キリストの弟子は犠牲を求められると次のように説明しています。 

「救い主に真に従う者は,自分の命をささげる覚悟をしておかなければなりません。実際に命をささげた人もいます。……

わたしたちの多くに求められるのは,教会のために死ぬことではなく,生きることです。多くの人々にとって,キリストのような生活を毎日送ることは,命をささげることよりも難しいかもしれません。」(「主の弟子となる」『リアホナ』2006年11月号,21-22)

教義と聖約103:29-40。「わたしの家の勇士五百人」

1834年2月24日,オハイオ州カートランドで開かれた集会中に,パーリー・P・プラットとライマン・ワイトからミズーリの教会員の艱難についての報告を聞いたことで,預言者ジョセフ・スミスとその集会にいた約30-40人の男性たちは,迫害を受けている聖徒たちを助けるためにシオンの地に行く決意をしました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 458)教義と聖約103章に記録されている啓示の中で,主は預言者ジョセフ・スミスとほかの7人の兄弟たちをミズーリに遠征するための志願者を募るために召されました。彼らは少なくとも100人の男性,できれば「わたしの家の勇士五百人」を得なければなりませんでした(教義と聖約103:30教義と聖約103:34も参照)。

教義と聖約103章に記録されている啓示を受けてから数日以内に,預言者ジョセフ・スミスとほかの7人の教会指導者は,オハイオ州カートランドをたって,数週間にわたって聖徒たちが住んでいる場所を訪れて,寄付を集め,立ち退かされたミズーリの聖徒たちを進んで助けに行く志願者を募りました。 1834年5月1日に出発する予定を立てていたため,彼らは早急に行動しました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 458–59; see also The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 4: April 1834–September 1835, ed. Matthew C. Godfrey and others [2016], xix)。

教義と聖約105章:追加の歴史的背景

1834年2月,預言者ジョセフ・スミスは,教会員がジャクソン郡の家や土地を取り戻すのを助けるために,男性の遠征隊を率いてミズーリに向かう意思を表明しました。教義と聖約103章に記録されている啓示の中で,主は預言者ジョセフ・スミスとほかの7人の男性に,本部から離れた教会の支部を回り,シオンを贖う助けをする志願者を募るよう指示されました(教義と聖約103:22-40参照)。主は遠征のために500人の男性を募るように求められましたが,彼らが集めることができたのは,200人を少し超えた男性と,同行する約12人の女性と10人の子供たちだけでした(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 4: April 1834–September 1835, xx)。

ミズーリでは聖徒たちに対する攻撃が激しくなったため,教会指導者は,聖徒たちが自分たちの土地や家に戻れるように,州から護衛兵を派遣してもらえるようダニエル・ダンクリン知事に何度も懇願しました。1833年12月,ウィリアム・W・フェルプスはオハイオの教会指導者に手紙を送り,次のように説明しました。「知事にはわたしたちを戻す意思がありますが,現行法の下では,わたしたちが戻るときに,護衛する権限は彼にはないので,わたしたちは戻ろうとは思いません。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 384

預言者ジョセフ・スミスによって組織された遠征隊の隊員は,追放された聖徒たちが家に戻るのを助ける州軍を援助するために,ミズーリに行く準備をしました。遠征軍の隊員は,その後ジャクソン郡で,保護部隊としてとどまることになっていました。1834年5月上旬,預言者ジョセフ・スミスは,オハイオ州北東部から約100人の男性とともに出発しました。この隊は,イスラエルの陣営と言われ,後にシオンの陣営として知られるようになりました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 4: April 1834–September 1835, xx)。この陣営は,オハイオ,インディアナ,イリノイを通り,約900マイル〈約1448キロメートル)を旅しました。ミシガン準州でハイラム・スミスとライマン・ワイトが募った男性と,そのほか西に向かう途中で加わった人々が陣営に加わりました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 4: April 1834–September 1835, xx)

シオンの陣営はミズーリ北部を行軍しているときに,モルモン軍が近づいているという噂が広まったため,ジャクソン郡と周辺の郡での緊張が高まりました。預言者ジョセフ・スミスは,ジェファーソン市にあるミズーリ州議会議事堂にパーリー・P・プラットとオーソン・ハイドを送り,聖徒たちがジャクソン郡の自分たちの地に戻るのを援助するためにダニエル・ダンクリン知事が約束した援軍を要求しました。しかし,ダンクリン知事はこの件にかかわることに消極的でした。このことは,聖徒たちが自分たちの家を取り戻すために必要な保護を受けられないことを意味しました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 4: April 1834–September 1835, 62.

〔フィッシング川の陣営,ミズーリ州クレイ郡の画像〕

1834年6月19日,シオンの陣営はミズーリ州クレイ郡のフィッシング川の二つの支流の間のこの地点に陣を張った。その晩,激しい嵐が起こり,この嵐によって聖徒たちは暴徒による襲撃から守られた。

ダンクリン知事からの援助を受けられないという知らせを受けた後,シオンの陣営の隊員は,ミズーリ州クレイ郡に避難している追放された聖徒たちに向かって進み,その後ミズーリ州リバティの北東約10マイル(約16キロメートル)のフィッシング川の二つの支流の間に陣を張りました。6月19日,5人の武装した男が陣にやって来て,その晩約400人の男たちが陣を襲撃する計画をしていると脅しました。しかし,雷雨が大きな雹を降らし,フィッシング川の水かさが40フィート(12メートル)近く増したため,暴徒は襲撃をすることができず,陣営の隊員は守られました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 4: April 1834–September 1835, 63.)シオンの陣営の隊員は,嵐は神が彼らを守っておられることを証明していると思いました。陣営の隊員の一人であるネーサン・ボールドウィンは,次のように言っています。「以前主は,主の聖徒の戦いを主御自身が戦うと言われました。……この現象は主の力がみもとから発せられて,主の僕たちを守るために天の大砲が発射されたかのようでした。」(マシュー・C・ゴッドフリー「受け入れられたシオンの陣営のささげ物」「受け入れられたシオンの陣営のささげ物」『啓示の背景』マシュー・マクブライドとジェームズ・ゴールドバーグ編,またはhistory.lds.org

1834年6月21日,ミズーリの住民をなだめるために,預言者ジョセフ・スミスと陣営の幾人かは,「人や人の体に対して戦いを始める」つもりはなく,聖徒たちが平和的な方法でジャクソン郡に戻ることを求めていると書かれた声明に署名しました(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 4: April 1834–September 1835, 69–70; spelling standardized)。翌日の1834年6月22日,預言者は評議会を開き,陣営をどのように進めていくか話し合いました。その集会の間に,預言者は教義と聖約105章に記録されている啓示を受け,教会はそのときにはもはやシオンの地を贖う必要はないことが明らかにされました。陣営の隊員は戦う必要がないことが分かったとき,それを主の御心として受け入れる人もいましたが,怒り,不平を言う者や教会から背教する者さえいました(see 71–72)。

シオンの陣営の隊員であり,後に大管長会の一員として務めたヒーバー・C・キンボールは,シオンの陣営の隊員がミズーリに入る前に,預言者ジョセフ・スミスが懲らしめを警告したことについて次のように記録しています。「ジョセフ兄弟は荷馬車の中で立ち上がって,預言を与えると言いました。兄弟たちにたくさんの良い助言を与えた後,ジョセフは彼らに忠実で謙遜であるように強く勧めて,次のように言いました。『隊員の中の怒りや不従順な精神のために,陣営に懲らしめがもたらされ,やせ衰えた羊のように死ぬであろうと主は言われました。それでも,彼らが悔い改めて,主の前にへりくだるなら,さらなる懲らしめは取り去られるかもしれません。しかし,主が生きておられるように,この陣営はその手に負えない気質を制御しないために,艱難に遭うことでしょう。』その艱難は後に,実際に兄弟たちの悲しみとなったのです。」(Orson F. Whitney, The Life of Heber C. Kimball [1945], 47–48

〔ラッシュ・クリークでの陣営,ミズーリ州クレイ郡の画像〕

1834年6月24日,シオンの陣営はミズーリ州リバティの東わずか数マイルのラッシュ・クリークの岸にとどまった。ここで陣営はコレラの大発生に襲われ,シオンの陣営の隊員が13人と地元の教会員が2人死亡した。犠牲者の幾人かは,教会員のジョージ・バーケットが所有するそこからほど近い土地に埋葬された。

教義と聖約105章に記録されている啓示が与えられた2日後に,陣営ではコレラの大発生が始まり,嘔吐やひどい下痢が生じました。その結果,預言者ジョセフ・スミスを含む68人が感染し,陣営の隊員13人とクレイ郡に住む末日聖徒2人が死亡しました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 4: April 1834–September 1835, 72, note 334)。

教義と聖約105:1-19

シオンの贖いは「しばしの間」延期される

教義と聖約105:1-8。「彼らは……従おうとせず」

教義と聖約105章に記録されている啓示の中で,主は,そのときシオンが贖われない幾つかの理由の概要を述べられました。聖徒たちの背きのため,シオンを確立するために必要な一致をもたらすことができませんでした(教義と聖約105:3-5参照)。例えば,ミズーリ以外に住む教会員は,ミズーリやオハイオ州カートランドに神殿を建設するための土地の購入や,シオンの陣営の遠征を助けるための基金を求められたときに応じませんでした。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 4: April 1834–September 1835,5-6.)1834年4月7日,陣営が出発する前に書かれた手紙の中で,預言者ジョセフ・スミスは共同商会の二人の会員とともに,聖徒たちが要求に応じなかったことに対して遺憾を表明して次のように言っています。「もしキリストの教会であろうと〔努めて〕いるこの教会が,犠牲を払わずに神が授けられた祝福を使ってわたしたちを助けられるのに,そうしないならば,神は彼らのタラントを取り去り,それを持っていない人に与え,シオンの地で避け所や受け継ぎを彼らが決して得られないようになさるでしょう。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 4: April 1834–September 1835, 8; spelling and punctuation standardized) 

教義と聖約105:4-5。「日の栄えの王国の律法の諸原則」

預言者ジョセフ・スミスを通して,主は聖徒たちにこう言われました。「日の栄えの王国の律法の諸原則によらなければ,シオンを築き上げることはできない。」(教義と聖約105:5)シオンの町は「聖なる都」(モーセ7:19),「我々の神の都」(教義と聖約97:19),主が御自分の聖徒たちの中に住まわれる清い場所となります。この地上における日の栄えの王国を表すものです。「日の栄えの王国の律法の諸原則」(教義と聖約105:5)は,イエス・キリストの福音の中に見いだすことができます(教義と聖約76:50-60参照)。福音の原則に従って生活することで,わたしたちは「心を一つにし,思いを一つにし,義のうちに住〔みます〕。そして,彼らの中に貧しい者はいな〔くなります〕。」これはシオンの際立った特徴です(モーセ7:18)。

Zion’s Camp, by Judith A. Mehr

Zion’s Camp,(「シオンの陣営」)by Judith A. Mehr.1834年6月19日,シオンの陣営がミズーリ州クレイ郡のフィッシング川の二つの支流の間の地に夜営していたときに起こった嵐によって,聖徒たちは暴徒の襲撃から免れた。

十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は,わたしたちが聖徒としてどのように一致できるようになるか,次のように説明しています。

「シオンが栄えるためには一致が求められますが,その一致を得られているかどうか考えるに当たっては,自分が『あつれきや争い,ねたみ,対立』を克服できているか自問する必要があります(教義と聖約101:6参照)。個人としても民としても,対立や争いを完全に避け,『日の栄えの王国の律法により求められている和合一致に従って』いるでしょうか(教義と聖約105:4)。この一致を得るには赦し合うことが不可欠です。イエスは言われました。『主なるわたしは,わたしが赦そうと思う者を赦す。しかし,あなたがたには,すべての人を赦すことが求められる。』(教義と聖約64:10

わたしたち一人一人が救い主を生活の中心に置き,主がわたしたちを導くために任命された指導者に従うとき,心を一つにし,思いを一つにすることができます。」(「シオンに来たれよ」『リアホナ』2008年11月号,38) 

教義と聖約105:9-13。「しばしの間シオンの贖いを待つ」

主は,聖徒たちは,シオンが贖われるまで「しばしの間待つ」必要があると説明されました(教義と聖約105:9,13教義と聖約100:13103:4も参照)。 十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,シオンが贖われるまで「しばしの間」教会員は何をする必要があるかについて次のように教えています。

「しばしの間—どのくらいの間でしょうか。200年でしょうか。300年でしょうか。再臨の日は決まっていますが,シオンの贖いの日はわたしたちに懸かっています。わたしたちが日の栄えの王国の律法に従って生活し,必要な経験をし,自分の責任を学び,信仰と従順によりエノクの時代の聖徒たちのようになり,身を変えられるのにふさわしくなった後,そして主の計画がそれを求める日に,シオンは贖われます。そうなるまでは贖われることはないでしょう。

『わたしの長老たちが高い所から力を授けられるまで,これは成し遂げられない。見よ,彼らが忠実であり,わたしの前に引き続き謙遜であるならば,わたしは,一つの大いなるエンダウメントと祝福が彼らに注がれるように用意をしている。』〔教義と聖約105:11-12〕この時点では,主の宮の儀式は明らかにされていませんでした。これらの儀式を通して授かる,高い所からの力によるエンダウメントは,前途にある天の業において必要でした。『それゆえ,わたしが必要としているのは,長老たちがしばしの間シオンの贖いを待つことである。』〔教義と聖約105:13〕ですからわたしたちは,『しばしの間』がいつまでと定められているのか知りたいと思いながら,待つのです。その期間については,何も言うことはできません。ただわたしたちが知っているのは,『しばしの間』が末日聖徒のために定められた備えの期間であるということです。その備えの期間の中で,わたしたちは最初のシオンを築いた人たちが得たのと同じ霊的な状態に達しなければなりません。そのとき初めて,わたしたちは末日の聖なる都を築くのです。」(A New Witness for the Articles of Faith [1985], 616

教義と聖約105:16-19。「信仰の試練として,彼らがここまで連れて来られることは,わたしにとって必要であった」

シオンの陣営の行軍の最初の目的は達成しなかったように思われましたが,主は,参加者の犠牲を「ささげ物」として受け入れられたこと,そして,この経験を「信仰の試練」と見るべきであることを説明されました(教義と聖約105:19)。十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は次のように教えています。

「表面上,その遠征は失敗に終わったわけです。しかしその遠征隊には,その後,半世紀にわたって教会を導いた人,聖徒たちを率いて大平原を渡り,西部の山岳地帯に聖徒たちを入植させた指導者たちがいました。彼らはシオンの陣営の行軍中,預言者ジョセフを個人的に知り,指導者としての才能を伸ばす訓練を受けました。オルソン・F・ホイットニー長老は,シオンの陣営について次のように述べています。

『シオンの贖いには土地の購入や復興,市の建設,あるいは国家の設立以上のことが必要です。すなわち心の征服,精神の服従,肉体を清め,そして思いを清め高めることが必要なのです。』(The Life of Heber C. Kimball, & Wallis, 1945, p. 65)」 2d ed., Salt Lake City: Stevens「霊性」『聖徒の道』1986年1月号,59)

1835年2月,預言者ジョセフ・スミスが十二使徒定員会と七十人定員会を組織したとき,十二使徒定員会の会員のうちの8人と,七十人の会員の全員がシオンの陣営の隊員でした。「最初の七十人の一人であったジョセフ・ヤングによれば,預言者はこれらの兄弟たちに次のように説明した。『神は皆さんが戦うことを望んではおられませんでした。地のもろもろの国民に福音の扉を開く12人と,その指示の下で同じ道を歩む70人を,自分の命をささげ,アブラハムと同じように大きな犠牲を払ってきた人々の中から選ばなければ,神は王国を組織することがおできにならなかったのです。』」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』283

ブリガム・ヤング大管長や教会で指導者となったほかの多くの男性たちは,シオンの陣営の行軍の間に,預言者ジョセフ・スミスの近くで貴重な訓練と経験を受けたのでした。ウィルフォード・ウッドラフ大管長(1807-1898年)は,シオンの陣営の参加者として受けた祝福について,次のように証しています。

「わたしは神の預言者とともにシオンの陣営にいました。そして預言者に対する神の計らいと,神の力が預言者とともにあるのを見ました。彼は預言者で〔した〕。……

シオンの陣営が召集されたとき,わたしたちの多くはそれまで互いの顔を一度も見たことがありませんでした。見知らぬ者同士であり,多くの者が一度も預言者に会ったことがありませんでした。……背教者や不信仰な人々からは『一体何をしてきたのか』と幾度も尋ねられましたが,わたしたちは多くを成し遂げました。ほかのどのような方法によっても決して得ることのできない経験でした。預言者の顔を見る特権を得,ともに1,000マイルを旅し,神の御霊が働くのを見ました。そして,イエス・キリストの啓示がジョセフに与えられて,成就するのを見る特権を得ました。

〔わたしたちが〕シオンの陣営における旅で得た経験は黄金よりも価値があるもので〔した〕。」(『歴代大管長の教え—ウィルフォード・ウッドラフ』135138

教義と聖約105:20-41

主は聖徒に,シオンが贖われる前に何をすべきか教えられる

教義と聖約105:23-25,38-40。「注意深く集まって,人々の気持ちに添うように……しなさい」

シオンの陣営が解散された後,敵対状態は続いていましたが,主は聖徒たちに,引き続きミズーリのほかの地域に集まるように命じられました。主は彼らに,以前に幾人かの聖徒たちがしたように,隣人に「信仰も力ある業も自慢すること」がないように,また,反対する者に裁きが下されることを示唆することのないように勧告されました(教義と聖約105:24)。そうするのではなく,聖徒たちは「平和の旗を掲げ」なければなりませんでした(教義と聖約105:39)。

〔マウンドグローブ墓地にある記念碑,ミズーリ州インディペンデンスの画像〕

1958年,一人の農夫によって,シオンの陣営でのコレラ感染による犠牲者の一部の遺体が発見された。その後,1976年に,遺体はミズーリ州インディペンデンスにあるこのマウンドグローブ墓地に埋葬し直された。

同様に,現代の教会指導者は,信条や行動を問わず,すべての人に対して愛と敬意を表すように勧告してきました。ダリン・H・オークス長老は次のように教えています。

「わたしたちは……寛容であり,人に敬意を払わなければなりません。……すべての人の中に,また自分と異なる考え方や慣習の中にある善いものに敬意を払うように気を配るべきです。……

様々な違いにそのように対処すると,寛容と尊敬の念がわたしたちに向けて生み出されます。

ほかの人々とその信条に,寛容と尊敬を示すからといって,わたしたちが理解している真理と交わした聖約に対する決意を放棄するということにはなりません。……真理を擁護しなければなりません。その一方で,わたしたちとは異なる信条や考え,またそれらを保持する人々に寛容であり,敬意を示します。」(「真理と寛容のバランスを取る」『リアホナ』2013年2月号,31-32)