第5章
教義と聖約6章;8-9章
紹介とタイムライン
モルモン書の翻訳は,預言者ジョセフ・スミスが翻訳を中止して助けを待つように命じられた1829年3月まで断続的に,専任の筆記者なしで進められていた(教義と聖約5:30-34参照)。「手立てを与え〔る〕」(教義と聖約5:34)という主の約束の成就として,オリバー・カウドリがペンシルベニア州ハーモニーの預言者の家に到着し,援助を申し出た。努力を新たにし,1829年4月7日,ジョセフ・スミスは筆記者として助力するオリバーと共に翻訳を再開した。預言者は,その月の後半に教義と聖約6章に記録されている啓示を受けた。この啓示で,オリバーは主の業における彼の役割について勧告と確認を受けた。
モルモン書の翻訳が進むにつれ,オリバーは翻訳したいと望むようになった。教義と聖約8章に記録されている1829年4月に受けた啓示で,主はオリバーに啓示の賜物と古代の記録を翻訳する能力を約束された。
オリバーは翻訳しようとし始めたが,続けることができなかった。ジョセフ・スミスはオリバーの依頼に応じて主に尋ね,教義と聖約9章に記録されている啓示を受けた。この啓示で,主はオリバーが翻訳に苦慮した理由を説明すると共に,啓示に関する原則を教えられた。
教義と聖約6章:追加の歴史的背景
1829年のはじめ,預言者ジョセフ・スミスと妻のエマは,ペンシルベニア州ハーモニーのエマの両親の家の近くにあった小さな家に住んでいました。この時ジョセフは,エマの援助を受けながらモルモン書の翻訳を続けていましたが,仕事はなかなかはかどりませんでした。その3月,ジョセフは主に助けを求め,主はその答えとして「わたしがあなたに命じたことを成し遂げる手立てを与えよう」と約束されました(教義と聖約5:34)。そのすぐ後にオリバー・カウドリが到着し,ジョセフ専任の筆記者となりました。
オリバー・カウドリは,1828年から1829年の冬に,預言者ジョセフ・スミスの両親であるジョセフ・スミス・シニアとルーシー・マック・スミスの家で下宿していた教師でした。ニューヨーク州パルマイラ地域に住んでいた時,オリバーは金版についての話を聞きました。彼は聞いたことについてスミス一家に尋ねました。そしてジョセフ・スミス・シニアの信用を得た後,版を翻訳するジョセフ・スミス・ジュニアの取り組みについて詳しく知りました。預言者ジョセフ・スミスは,後に次のように記録しました。「主は示現の中でオリバー・カウドリという名の若者の前に御姿を現わされ,彼に金版をお見せになりました。……そのために彼はわたしの元に来て筆記することを望んだのです。」(in The Joseph Smith Papers, Histories, Volume 1:Joseph Smith Histories, 1832–1844, ed. Karen Lynn Davidson and others [2012], 16; spelling, punctuation, and capitalization standardized)
オリバー・カウドリは,ジョセフ・スミスの元に行って助けることが主の御心であると固く信じていたため,彼はジョセフ・スミスの弟サミュエルと共にペンシルベニア州ハーモニーに向かい,1829年4月5日に到着しました。ジョセフとオリバーは1829年4月7日に翻訳を始めました。彼らが一緒に作業を始めてから間もなく,預言者は,オリバーに指示を与え,ジョセフを支援する彼の役割を明確にする導きを主から受けました。
教義と聖約6:1-24
主はオリバー・カウドリに神の業における彼の役目についてお教えになる
教義と聖約6:6。「シオンの大義を起こして確立するように努めなさい」
主は,預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに「わたしの戒めを守り,シオンの大義を起こして確立するように努めなさい」と勧告されました(教義と聖約6:6)。これは,教義と聖約でのシオンへの最初の言及です。「シオンの大義を起こして確立する」とは,イエス・キリストの福音を回復し,わたしたちの時代にイエス・キリストの教会をあらためて組織し,ほかの人々をシオンに集めるために福音を宣べ伝える業であると理解できます。
教義と聖約6:7,11。「神の奥義」
主は,知恵を求めれば「神の奥義はあなたに明らかにされ〔る〕」とオリバー・カウドリに約束されました(教義と聖約6:7)。聖文には,「神の奥義」は「啓示によってのみ知ることのできる霊的な真理である。神は福音に従順な人に奥義を示される」とあります。(『聖句ガイド』「神の奥義」の項,scriptures.lds.org)これらの真理の多くは世の人々に知られておらず,理解も評価もされていませんが,イエス・キリストに従う者は,聖文と生ける預言者たちの言葉の研究,および聖霊を通して与えられた個人的な啓示によって,福音の真理に関する知識を得てそれを理解することができます。教義と聖約は,戒めを守り,信仰によって神に尋ねることで,神の奥義のより深い霊的な理解を求めるようにその読者を励まします(教義と聖約8:11;42:61,65;63:23;76:5-10,114-117参照)。
教義と聖約6:10-12。オリバー・カウドリの賜物
教義と聖約6:10-12で説明されているオリバー・カウドリが持つ賜物は,啓示の賜物です(教義と聖約8:2-5参照)。天の御父の子供たちはすべて,天の御父の助けを祈り求める時に,霊的な導きを受けることができます。バプテスマを受け,聖霊の賜物を授かり,戒めを熱心に守る人は,啓示の賜物を受けることができます。
教義と聖約6:14-17。「尋ねる度に」
オリバー・カウドリは,預言者ジョセフ・スミスの業について神に尋ねた最初の人の一人でした。わたしたち皆がそうであるように,オリバーも御霊の現れを認識する方法を学ばなければなりませんでした。教義と聖約6:14-15に収められた主の言葉から,オリバーは,祈る度に神の導きを受けて来たことを学びました。主はオリバーに,彼の祈りにこたえて御霊が彼を教え,彼の思いを照らしたことを思い起こさせました(教義と聖約6:14-15参照)。主はまた,オリバーがこのようにして受けた回復された福音の真実性の証が,彼をパルマイラからハーモニーに,そして今従事している業に導いたのだと指摘されました。主は,オリバーに以前の啓示的な経験を思い起こさせることによって,将来御霊を通して啓示を認識するオリバーの能力を高める援助をされました。
十二使徒定員会のリチャード・G・スコット長老(1928-2015年)は次のように教えました。
「一人一人が学ぶ必要のある偉大な教えの一つは,尋ねることです。主はなぜ,主に祈り,尋ねるよう望んでおられるのでしょうか。なぜなら,それこそが啓示を受ける方法だからです。……
神が祈りにこたえてくださらないと感じたら,この聖句を深く考えてください〔教義と聖約6:14-15〕。それから,神がすでに祈りにこたえておられる証拠を自分の生活の中で注意深く探してください。」(「個人の生活で啓示と霊感を受ける方法」『リアホナ』2012年5月号,45,47)
教義と聖約6:18-19。「わたしの僕ジョセフの傍らに立っていなさい」
教義と聖約6章に記録された啓示を通じて,主はオリバー・カウドリに対し,ジョセフ・スミスが主の僕であることを保証されました。オリバーは,主の僕の「傍らに立〔つ〕」,つまり主の僕に対して忠実で協力的であり(教義と聖約6:18),主の僕から忍耐強く「訓戒」を受ける,つまり過ちを正される(教義と聖約6:19)義務があることを学びました。この業における預言者との密接なつながりの中で,オリバーも必要に応じてジョセフに「訓戒」するよう主から勧告されました(教義と聖約6:19)。預言者は人間の弱さ持っており,完全無欠であると主張したことは決してありませんでした。生涯が終わりに近づいたとき,ジョセフ・スミスは「わたしは自分が完全であると言ったことは一度もありません。しかし,わたしが教えてきた啓示には,まったく誤りがありません」と宣言しました。(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』,522)しかし,若いころの自分の弱点について説明しながらも,預言者は自分の性格について次のような洞察を提供しました。「わたしが何か大きな罪,すなわち憎むべき罪を犯したと思うには及ばない。このような罪を犯す性質など,決してわたしにはなかった。」(ジョセフ・スミス—歴史,1:28)
十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は次のように説明しました。「ジョセフ・スミスは,あらゆる困難もものともせず,神に命じられた圧倒的な使命を成し遂げようと努力した死すべき体を持つ人間でした。驚くべき点は,ジョセフが人間の弱点を見せたことがなかったということではなく,彼の使命において成功を収めたことです。彼が結んだ実は疑う余地のないものであり,紛れもなく良い実なのです。」(“The Prophet Joseph Smith” [Brigham Young University–Idaho devotional, Sept. 24, 2013], byui.edu/devotionalsandspeeches)
教義と聖約6:22-24。「わたしは……あなたの心に平安を告げなかったであろうか」
啓示は様々な方法で得ることができます。教義と聖約6:22-24に記録されているように,主は,オリバー・カウドリが平安な気持ちを受けることによって霊的に導かれていることを理解できるように彼を助けられました。リチャード・G・スコット長老は,次のように証言しました。「平安な気持ちは確認の証であり,わたしが個人的に経験する中で最もよく受けるものです。ある重要なことでとても心を悩まし,解決しようともがいてもうまくいかなかったとき,わたしは信仰をもって努力を続けました。後に御父が約束されたように,平安に満たされ,わたしの問題は解決しました。」(「祈りという天与の賜物を用いる」『リアホナ』2007年5月号,10)
教義と聖約6:25-37
主はジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに翻訳し,疑わず恐れないように勧告される
教義と聖約6:25-28。福音の回復における2人の証人
オリバー・カウドリに約束された二つ目の賜物は,翻訳する賜物と鍵でした。主は,預言者ジョセフ・スミスとオリバーが主の言葉が明るみに出されたことを証する二人の証人になると説明されました。福音の回復におけるほかの重要な出来事が起きた時,オリバーが証人としてジョセフのかたわらにいたことは意義深いことです。例えば,オリバーは以下の事柄にかかわりました。
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モルモン書の翻訳とその出版(ジョセフ・スミス—歴史1:71,注釈〔訳注—文末の*〕参照)。
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バプテスマのヨハネによるアロン神権の回復(教義と聖約13章参照)。
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ペテロ,ヤコブ,ヨハネによるメルキゼデク神権の回復(ジョセフ・スミス—歴史1:72参照)。
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2人の長老によって導かれる教会の組織(教義と聖約20:2-3参照)。
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モーセ,エライヤス,エリヤによる神権の鍵の回復(教義と聖約110章参照)。
教義と聖約6:32,37。「わたしの手と足……を見なさい」
教義と聖約6:32,37が,文字どおりの体験か比喩的な体験か分かっていません。主は,オリバーが初めて預言者ジョセフ・スミスと金版のことを聞いた時の経験を彼に思い出させているだけなのかもしれません(本資料の教義と聖約6章の追加の歴史的背景にある解説を参照)。
教義と聖約8章:追加の歴史的背景
モルモン書の翻訳中,預言者ジョセフ・スミスの筆記者としての役目を務めていた時に,「オリバーは,翻訳する賜物を授かりたいと切実に求めるようになりました」(Joseph Smith, in History of the Church, 1:36)。主はオリバーに,「あなたがわたしに望むことが,あなたにそのとおりになるであろう」と約束され,「もしあなたがわたしに望むならば,わたしはあなたに,わたしの僕ジョセフのように,翻訳する賜物を授ける」と言われました(教義と聖約6:8,25)。オリバーの翻訳に対する関心は,ジョセフとオリバーが翻訳の賜物に関するモルモン書の記述をよく知るようになったことによっても深められたのかもしれません(モーサヤ8:9-16参照)。このような状況下で,オリバーは預言者ジョセフ・スミスを通じて教義と聖約8章に記録されている指示を受けました。
教義と聖約8章
主は啓示の霊を理解できるようにオリバー・カウドリを助けられる
教義と聖約8:1,10-11。「信仰を持って,正直な心で求める」
以前の啓示で,オリバー・カウドリは翻訳する賜物を約束されました(教義と聖約6:25参照)。しかし,オリバーが翻訳するためには「信じながら,信仰を持って,正直な心で求める」(教義と聖約8:1)ことが必要でした。
神から知識と啓示を受けるという約束は,それらを受けると信じながら,信仰を持って,正直な心で求めるすべての人に与えられます。十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード長老は,わたしたちが知識と理解を必要とするときに神に願い求めることの重要性を強調しました。
「今日,わたしたちは人が神に尋ね求めない世の中で生活しています。人は,それよりもグーグルに尋ねることを好むようです。信仰に関する質問についてでさえ,究極の真理の源であるわたしたちの天の御父よりも,インターネットが正確かつ公正で偏りのない情報を提供してくれると信じている人が大勢います。
……今日,インターネットでは知識が足りず未熟な人たちを欺こうと待ち構えている人であふれています。
福音の真理の探究において,わたしたちは信頼できる情報源を見つける必要があるだけでなく,日々の務めにおいて同等の時間を主のために費やす必要もあります。聖文と主の僕の言葉を研究する必要があります。神の前に正しく生き,神の御心を行う必要があります〔ヨハネ7:16-17参照〕。わたしたちの霊的な懸念について神に直接尋ね,神の霊感と導きを信頼することの大切さを強調してもし過ぎることはありません。」(“Women of Dedication, Faith, Determination, and Action” [address given at Brigham Young University Women’s Conference, May 1, 2015], 5–6, womensconference.ce.byu.edu/transcripts)
教義と聖約8:2-3。「わたしはあなたの思いとあなたの心に告げよう」
神が御心を神の子供たちに明らかにされる方法の一つは,「啓示の霊」を通した方法です(教義と聖約8:3)。主が預言者ジョセフ・スミスを通してオリバー・カウドリに説明されたように,これには思い(知性)と心(気持ち)が関係しています(教義と聖約8:2参照)。
啓示は,私たちの心か思い,またはその両方に与えられる場合があります。啓示がわたしたちの思いと心の両方に与えられる例の一つは,霊感を受けた考えやアイデアがわたしたちの思いに浮かび,わたしたちの心にもたらされる霊的な気持ちによってそれが真実であると確認されるときです。リチャード・G・スコット長老は,御霊がわたしたちの思いと心に伝えるほかの方法について説明しました。
「思いに告げられる印象は非常に具体的です。詳細に説明する言葉は,聞いたり感じたりすることができます。また,あたかも口述筆記するかのように教えを書き留めることもできます。
心に告げられる内容は,もっと大まかな印象として与えられます。主はよく,最初に印象をお与えになります。人がその大切さに気づき,それに従うとき,より詳細な指示が思いに与えられます。心に感じた印象に従うなら,より詳細な指示が思いに与えられて,強化されるのです。」(“Helping Others to Be Spiritually Led” [address to Church Educational System religious educators, Aug. 11, 1998]; see also Teaching Seminary: Preservice Readings [Church Educational System manual, 2004], 55)
教義と聖約8:3。モーセと啓示の霊
主は,オリバー・カウドリに約束され,預言者ジョセフ・スミスが持っていた「啓示の霊」は,モーセがイスラエルの子らを導いて紅海を渡らせたときにモーセを導いた霊と同じであると説明されました(教義と聖約8:3参照)。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,啓示の霊をより良く理解するためにモーセの例を役立てることができる方法を幾つか説明しました。
「主は『啓示の霊』について説明する際,なぜ紅海を渡ったことを典型的な例として用いられたのでしょうか。なぜ最初の示現を用いられなかったのでしょうか。……ヤレドの兄弟の示現を例示されなかったのはなぜでしょうか。もちろん,主はいずれをも用いることがおできになりましたが,そうされませんでした。この啓示で主は別の目的を心に抱いておられたからです。
まず,啓示はほとんどの場合,疑問の答えとして,たいていは差し迫った疑問に対する答えとして与えられます。モーセのチャレンジは,自分を含めたイスラエルの子らを彼らが置かれている恐ろしい境遇からどのようにして脱出させるかということでした。……
あなたも情報を必要とするでしょう。しかし,重大な事柄については,それを緊急に必要とし,信仰をもって謙遜に求めるのでなければ,与えられないでしょう。モロナイはそれを『誠心誠意』で求めると表現しています(モロナイ10:4)。あなたがそのような方法で求め,それを続けるならば,悪魔の攻撃に遭っても義にかなった道からそれたりはしないでしょう。
啓示を真剣に求める人に紅海は開かれることでしょう。敵は道をふさぎ,パロの軍勢を集結させ,海辺まで追いかけて来る力を持っていますが,わたしたちが許さなければわたしたちを征服することはできません。これが啓示の霊によって紅海を渡ることに関して学ぶ,第1の教訓です。
啓示を受け,重要な決断を下す過程で,恐れが破壊的な力を持ち,時には無力化する役割を演じます。
イスラエルの子らが紅海の岸辺まで来たときに直面したのがまさにこの問題でした。これが第2の教訓です。これは,過去に受けた光に忠実であるかどうかに大いに関係しています。記録はこのように告げています。『パロが近寄った時,イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て,非常に恐れた。』(出エジプト14:10)
……疑念やほかの考えと戦うときにわたしたちの信仰は試されます。いつの日か,わたしたちは奇跡的な方法でエジプトから導き出されて,うわべだけの自由を得て,自分の道を歩む気でいるかもしれませんが,実際はもう一度紅海の水を目の前にすることでしかないのです。このような時に,ろうばいしたり,放棄してしまおうとしたりする誘惑を退けなければなりません。
『モーセは民に言った,「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って,主がきょう,あなたがたのためになされる救いを見なさい。……主があなたがたのために戦われる。」』(出エジプト14:13-14)
これが啓示の霊に関する第2の教訓です。メッセージを理解し,主の愛を感じ,主の言葉を聞くための代価を支払ったら,前へ進むのです。恐れを抱いたり,躊躇したり,言い逃れをしたり,弱音を吐いたりしてはなりません。
紅海を渡る奇跡における主の啓示の霊から学ぶ第3の教訓は,義にかなう目的や義務に向けてわたしたちを導いてくれる啓示とともに,神はその目的を成し遂げるための手段と力を用意してくださるということです。」(“Remember How You Felt,” New Era, Aug. 2004, 7–8)
教義と聖約8:4-5。「これがあなたの賜物である。この賜物を使いなさい」
イエス・キリストに従おうとする人ならだれでも,オリバー・カウドリに約束された啓示の賜物を授かることができます(教義と聖約6:10-12参照)。この賜物を授かるには「この賜物を使」わなければならないと主はお教えになりました(教義と聖約8:4)。十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,啓示の霊をどのように「使〔う〕」ことができるかについて話しました。
「心からの望みとふさわしさは生活に啓示の霊を招きます。……
聖文では,聖霊は『静かな細い声』(列王上19:12;1ニーファイ17:45。3ニーファイ11:3も参照)や『まったく優しい静かな声』(ヒラマン5:30)と表現されています。御霊は優しく,繊細にささやくので,なぜわたしたちがふさわしくないメディア,ポルノグラフィー,有害で依存性のある薬物や行為を避けるべきか,分かるでしょう。サタンはこれらの手段を使って,御霊の力によって伝えられる,神の静かなメッセージを認識してそれにこたえるわたしたちの能力を損ない,ついには破壊します。わたしたち一人一人は,悪魔の誘惑を拒み,『この賜物』すなわち啓示の霊を個人の生活や家族の中に義にかなって『使〔う〕』方法を真剣に,よく祈って深く考えるべきです。」(「啓示の霊」『リアホナ』2011年5月号,87-88)
教義と聖約8:6-9。「アロンの賜物」とは何であったか
教義と聖約8章の啓示が1833年の『戒めの書』で初めて出版された時,オリバー・カウドリの賜物は「棒を用いる賜物」と記述されていました(see “Book of Commandments, 1833,” page 19, josephsmithpapers.org; see also Jeffrey G. Cannon, “Oliver Cowdery’s Gift,” footnote 9, in Revelations in Context, ed. Matthew McBride and James Goldberg [2016], 19, see also history.lds.org)。これは,オリバー・カウドリが時折使用した,占い棒として知られる物であった可能性があります。しかし,預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリは,そのような「棒」がどのように使用されたのかについての記録をまったく残していません。1835年版の教義と聖約では,「棒を用いる賜物」という言葉が「アロンの賜物」に変更されました(see “Doctrine and Covenants, 1835,” page 161 [section XXXIV, verse 3], josephsmithpapers.org; see also Melvin J. Petersen, “Preparing Early Revelations for Publication,” Ensign, Feb. 1985, 20)。この変更は,中核となるメッセージが啓示を受ける賜物,そして古代の記録を翻訳するための神に導かれた力であることを表します。
「聖書には,杖,竿に掛けられた真鍮の蛇(広く医療の象徴となった),エポデ(二つの宝石を入れた祭司の衣装の一部),ウリムとトンミムなど,人々が物理的な物を用いて霊的な示しを受けたことも述べられています。」(リチャード・E・ターリー・ジュニア,ロビン・S・ジェンセンならびにマーク・アシャースト-マギー,「聖見者ジョセフ」『リアホナ』2015年10月号,11)モーセとその兄弟アロンに関する聖書の記述では,神の御心と御力の道具および外面的な現れとしての杖の使用が説明されています(出エジプト4:1-5;7:9-12;14:15-18;民数17:1-10参照)。従って,「アロンの賜物」(教義と聖約8:6)という言葉は,オリバーの「棒を用いる」賜物について言及するとともに,モーセとアロンの担っていた役割に対する預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリの関連性を裏付けるためのより一般的な方法であるのかもしれません。オリバーの「アロンの賜物」を確認した後,主は,オリバーが信仰に基づいて行動し,これらの神聖な賜物を「軽んじな」ければ,すでに授けられている啓示の賜物に翻訳の賜物が増し加えられると再び約束されました(教義と聖約8:8-11参照)。
教義と聖約9章:追加の歴史的背景
ジョセフ・スミスと同様に,オリバー・カウドリも英語のみを話し,神の力による助けがなくては古代の記録を翻訳することはできませんでした。オリバー・カウドリは,賜物と神の力によってモルモン書の版を翻訳しようとし始めましたが,彼は「翻訳を開始したときのように翻訳を続けなかった」ため,この特権は取り去られてしまいました(教義と聖約9:5)。主は,預言者ジョセフ・スミスを通じて与えられた啓示で,オリバーには将来他の記録を翻訳する機会が与えられるとオリバーに約束されました。主は,版の翻訳が完成するまで預言者の筆記者を務めるようにオリバーに勧告されました。
教義と聖約9章
主は啓示に関する原則を明らかにされる
教義と聖約9:1-11。オリバー・カウドリによる翻訳の試み
オリバー・カウドリによる翻訳の試みについての詳しい情報はあまりありません。オリバーにはモルモン書の記録を翻訳したいという大きな願望がありましたが,翻訳を始めた後,それを続けることができませんでした。主は,オリバーが「翻訳を開始したときのように翻訳を続けなかった」(教義と聖約9:5)と説明され,彼が啓示を受ける原則を用いていれば「翻訳できたであろう」と言われました(教義と聖約9:10)。主は,オリバーが翻訳する機会を保留されましたが,彼が翻訳を助けることが許される「ほかの記録」があると言われました(教義と聖約9:2)。
教義と聖約9:2。「ほかの記録がある」
主は,翻訳する必要のある「ほかの記録がある」とオリバー・カウドリに告げられましたが(教義と聖約9:2。教義と聖約6:26も参照),オリバーがそのいずれかの翻訳を実際に助けたかどうかは分かっていません。しかし,預言者ジョセフ・スミスが聖書の霊感を受けた翻訳を行ったときにオリバーが筆記者としての役割を務めたことは確かです。ジョセフ・スミスは,後にパピルスを含めたエジプトの工芸品も幾つか入手しました。預言者がそのパピルスを調べることで,アブラハムの生涯と教えについての啓示を受けることにつながりました。ジョセフ・スミスがどのようにアブラハムの書を翻訳したのかは正確には分かっていませんが,オリバーが筆記者として援助したことは分かっています。
教義と聖約9:5-9。「わたしに求めさえすれば,何も考えなくても」
わたしたちは,主の御心と主の時に従って個人的な啓示を受けます。個人的な啓示を受ける準備をする方法には,義にかなった願望を得ること(教義と聖約6:8,20参照),信仰を持って尋ねること(教義と聖約8:1参照),および神の戒めを守ること(教義と聖約63:23参照)が含まれます。オリバー・カウドリは,問題について神に答えを尋ねる前に,「心の中でそれをよく思い計〔る〕」べきであることを学びました(教義と聖約9:8)。
十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,オリバーの研究と信仰の両方を組み合わせるという必要性について説明しました。「神聖な知識を得るうえでの研究と信仰との正しい関係は,オリバー・カウドリが古代の記録を翻訳しようとしたときに示されました。カウドリはただ『ひたすら』神に願うばかりで何も考えなかったために,失敗したのです。(教義と聖約9:7)主はカウドリに『心の中でよく思い計り』,そのうえでそれが正しいかどうか尋ねる必要があると言われました。(教義と聖約9:8)そのようにしてこそ,主は翻訳が正しいかどうかを示してくださるのでした。しかも,その啓示を受けて初めて,書き記すことができたのです。なぜなら,『あなたはわたしから与えられなければ,神聖なことを書くことはできない。』とあるからです。(教義と聖約9:9)聖なる知識を得るには,学識や論理は啓示に取って代わることはできません。学識や論理は目標に到達するための手段であり,目指すところは神からの啓示なのです」(「さまざまな他の声」『聖徒の道』1989年7月号,32-33)。
個人的な啓示を手にするための過程では,私たちが努力すること,そして苦労することさえも必要とされる場合がしばしばあります。リチャード・G・スコット長老は,わたしたちが単に答えを尋ねる以上のことをしなければならない理由について教えました。「御霊の声に導かれるための能力を即座に習得できる簡単な方法やテクニックなどないと,わたしは確信しています。御父は,皆さんが御父とその聖なる御子イエス・キリストを信じる信仰を行使することによって神聖な助けを得ることを望んでおられます。単に願うだけで霊感を受けられるとしたら,皆さんは弱くなり,御二方にますます依存してしまうでしょう。御霊に導かれる方法を学ぼうと努力することにより,必要な個人の成長を遂げられることを御二方は御存じなのです。」(「霊的な導きを得るために」『リアホナ』2009年11月号,6-7)
教義と聖約9:8-9。「あなたの胸を内から燃やそう……〔そうでなければ〕思いが鈍くな〔る〕」
オリバー・カウドリは,教義と聖約8:2-3に記録されている主の勧告を通じて,主が聖霊の力によって神の子供たちの思いと心に語られることを学びました。主は,教義と聖約9:8-9で,気持ちと知性を通じて啓示が認識できることをオリバーに思い起こさせました。主は彼に,翻訳が正しければ「それが正しいと感じるであろう」とお教えになりました(教義と聖約9:8)。また,主は御霊の働きを説明するために「あなたの胸を内から燃やそう」(教義と聖約9:8)という言葉を使われました。
ダリン・H・オークス長老は,御霊が胸を内から燃やすことによって私たちと交流される方法を明確にしました。「『胸が内から燃える』とはどういう意味なのでしょうか。栄養物の燃焼によって生じる熱のように,カロリーの熱のようなものを感じるということでしょうか。もしそういう意味だとしたら,わたしは胸が内から燃やされたことはありません。当然,この聖句の『燃やす』という表現は,平安や静寂といった思いのことを意味しています。そういう証をこれまで多くの人が受けてきているのです。啓示を受けるとはそういうことなのです。」(「御霊によって教え,学ぶ」『リアホナ』1999年5月号,22)
主の「あなたの胸を内から燃やそう」(教義と聖約9:8),および「あなたは……思いが鈍くな〔る〕」(教義と聖約9:9)という御言葉が,モルモン書を翻訳するときに預言者ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリを導くために特に与えられたものであると覚えておくことが大切です。わたしたちが霊的な導きを求める時,聖霊がこの特定の方法でいつもわたしたちに語られると考えるのは賢明ではないかもしれません。聖典は,聖霊が様々な方法で私たちと交流することがおできになると教えています(教義と聖約6:23;8:2-3;9:8;11:12-13;85:6;128:1参照)。
リチャード・G・スコット長老は,教義と聖約9:9に記されている「思いが鈍くな〔る〕」とはどのような意味であるのかを,次のように説明しました。「主は,このように明確にしておられます。『しかし〔もしあなたが提案したことが〕正しくなければ,……思いが鈍くな〔る。〕』わたしにとってそれは落ち着かない,不安な気持ちのことです。」(「祈りという天与の賜物を用いる」,10)
スペンサー・W・キンボール大管長(1895-1985年)は次のように教えました。
「過去の時代と同じように,今日多くの人々は,もし啓示があるとするならば,それは畏敬の念を起こさせるような,地を揺るがすような方法で与えられるだろうと期待しています。……
目を見張るようなことを期待していると,絶えず与えられているにもかかわらずその交信を感知することができません。」(『歴代大管長の教え—スペンサー・W・キンボール』240-241)
教義と聖約9:8-9。答えを受けたという気持ちを感じない場合はどうすればよいか。
わたしたちが祈りをもって重要な質問を主に尋ねるとき,わたしたちには「もしそれが正しければ,……あなたはそれが正しいと感じるであろう。しかし,もしそれが正しくなければ,あなたはこのような感じを少しも受け〔ない〕」(教義と聖約9:8-9)という主の約束があります。しかし,答えを受けたかどうかを判断することが困難な場合もあります。
リチャード・G・スコット長老は,神から答えを受けたという気持ちを感じない時にどうするべきかについて教えました。「入念に準備し,熱心に祈り,答えを受けるのに妥当なだけの間待ったのに,それでも答えを感じられない場合,皆さんはどうしますか。そのような場合,それは御父の信頼の証であるため,感謝した方がよいかもしれません。ふさわしい生活を送っており,その選択が救い主の教えと一致していて,そして行動を起こさなければならないのであれば,信頼を胸に前進してください。御霊の促しに敏感であれば,二つのうちのいずれかが必ず適切なときに起こります。つまり思いが鈍って不適切な選択であったことが示唆されるか,平安を感じたり胸の内が燃えたりするのを感じ,選択が正しかったことが確認されます。皆さんが義にかなった生活を送っていて,神を信頼して行動しているならば,間違った決定をしている場合,神は警告的な気持ちを与えないまま,皆さんが進みすぎてしまうのを黙って見ているようなことはされません。」(「祈りという天与の賜物を用いる」『リアホナ』2007年5月号,10)
ブリガム・ヤング大管長は,次の洞察を提供しました。「もしわたしの生活に関してなすべき事柄について,あるいはわたしの進路,わたしの友人,家族,子供たちまたはわたしが管理する人々が行くべき道について知恵を与えてくださるよう主に願い求め,何の答えも与えられなかったとしたら,わたしは自分の判断において最も良いと思われることを行います。この場合に主はわたしの決定を受け入れ,尊重してくださるはずです。主は必ずそうされます。」(『歴代大管長の教え—ブリガム・ヤング』,48)