「第39章:教義と聖約101章」教義と聖約 生徒用資料
「第39章」教義と聖約 生徒用資料
第39章
教義と聖約101章
紹介とタイムライン
1833年後半,ミズーリ州ジャクソン郡で暴徒が教会員を攻撃し,家から追い出した。オハイオ州カートランドにいる預言者ジョセフ・スミスにこの暴力の知らせが届いたとき,預言者はミズーリの聖徒たちのことを思って悲しみ,土地と家を返してもらえるよう主に嘆願した。1833年12月16日から17日,主は預言者に御自分の聖徒が苦しむのをそのままにされる理由を明らかにされた。教義と聖約101章に記録されているこの啓示にも,「シオンの贖い」(教義と聖約101:43)に関する勧告と慰めの言葉が含まれている。
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1833年7月23日暴徒の脅威の下,ミズーリの教会指導者は,1834年4月1日までにすべてのモルモンがジャクソン郡を去るという同意書に署名した。
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1833年10月20日ミズーリの教会指導者は,聖徒たちはジャクソン郡に残り,財産権を主張する意思があることを告知した。
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1833年10月31日-11月8日暴徒はジャクソン郡のモルモン定住地を襲撃し,家を燃やし,聖徒たちをジャクソン郡から追い出した。
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1833年11月25日預言者ジョセフ・スミスは,暴徒の攻撃で聖徒たちをがジャクソン郡から追放されたことを知った。
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1833年12月16日-17日教義と聖約101章が与えられた。
教義と聖約101章:追加の歴史的背景
ミズーリ州ジャクソン郡で暴徒が聖徒たちを攻撃したことにより,1833年夏,ミズーリの教会指導者は,1834年1月1日までに半数の聖徒がジャクソン郡を去り,残りは1834年4月1日までに去るという同意書への署名を余儀なくされました。しかし,1833年8月,預言者ジョセフ・スミスと,オハイオ州カートランドの教会指導者による評議会は,ミズーリの聖徒たちに,家を立ち去らずに州政府に助けを求めるように助言しました。1833年10月初旬,オーソン・ハイド長老とウィリアム・W・フェルプス長老はミズーリのダニエル・ダンクリン知事に会い,ジャクソン郡の聖徒たちの助けと保護を要請しました。知事は地方裁判所を通して助けを要請するよう聖徒に助言しました。教会指導者がジャクソン郡の裁判所に訴訟を起こした後,聖徒は身を守る備えをしました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, ed. Gerrit J. Dirkmaat and others [2014], 386;『時満ちる時代の教会歴史 生徒用資料』 第2版〔教会教育システム資料〕 134-135参照)
1833年10月31日夜,馬に乗った約50人の暴徒がミズーリ州インティペンデンスの西にあるホイットマー入植地を襲撃しました。暴徒は教会指導者であるデビッド・ホイットマーの家に行き,「彼の妻の髪の毛をつかんで家から引きずり出し,それから家を破壊しました。」(affidavit of Orrin [Oren] Porter Rockwell, in Mormon Redress Petitions: Documents of the 1833–1838 Missouri Conflict, ed. Clark V. Johnson [1992], 526)暴徒は襲撃を続け,「10軒の家で屋根をはがし,一部を壊しました。」教会員が森に逃げ込む前に,暴徒は「数人の男性を,野蛮にも,鞭で打ちたたきました。」翌晩,インディペンデンスの暴徒の一人が「家々に石を投げ,ドアや窓を壊し,〔そして〕家具を破壊し始めました。」その夜遅く,暴徒はインディペンデンスにある教会所有のギルバートとホイットニーの店のドアを「断ち割って開け」,中のものを道路に放り出しました。(Parley P. Pratt, “History of the Late Persecution,” in Mormon Redress Petitions, 65–66.)
数日後,武装した約60人のミズーリの住人が,ある教会員の家の外に集まり,暴力で脅迫しました。末日聖徒の一団が自分たちの入植地を守るため現場に駆けつけました。銃撃戦となり,ミズーリの住人二人と教会員一人が死亡,どちらも多くがけがを負いました。後に,聖徒がインディアンを味方にしてインディペンデンスを占領したという大げさなうわさがジャクソン郡で広がりました。ミズーリの住人は,敵対する住人は殺すと教会員が脅迫しているという,別の偽りのうわさを聞きました。うわさに根拠はありませんでしたが,ミズーリの住人側はこうした主張を口実に州軍を召集しました。(See The Joseph Smith Papers, Histories, Volume 2: Assigned Histories, 1831–1847, ed. Karen Lynn Davidson and others [2012], 217–18; affidavit of Orrin Porter Rockwell, in Mormon Redress Petitions, 527–28.)
相手側は人数で勝っており,聖徒の多くが殺される恐れがあることは分かっていたので,教会員は平和的解決を求めました。暴徒の中心的存在だった州軍のトーマス・ピッチャー大佐は,聖徒に武器を捨てさせ,直ちに郡を去らせようとしました。しかし,聖徒が退去を誓った後でさえも,武装した州軍が郡をくまなく行軍し,聖徒を力ずくで追放しました。(See The Joseph Smith Papers, Histories, Volume 2: Assigned Histories, 1831–1847, 219–21.)
追放された聖徒たちは,冬のさなかにミズーリ川の北岸沿いに一時的な避難場所を作り,そこに逃げ込みました。この悲惨な状況について,パーリー・P・プラットはこう記しています。
「〔ミズーリ川の〕川岸には,渡し船の両側に,男,女,子供,品物,荷車,箱,食糧などの列ができ,その間も船は絶え間なく往来していました。……数百人があちこちに散らばり,土砂降りの雨の中を,ある者はテントの中に,ある者はたき火の周りに集まっていました。夫は妻の行方を尋ね,妻は夫を捜し,親は子供を,子供は親を捜し歩きました。家族全員で家財道具や食糧を持ち出せたという幸運な者もいれば,友人の消息が分からない者,持ち物を一切失った者もいました。その光景は筆舌に尽くし難く,地上のいかなる人の心をも同情にあふれさせるに違いないでしょう。あの盲目の虐待者,盲目で無知な住民を除いては。……
教会員はことごとく郡から追放され,トウモロコシ畑は荒らされ,壊滅しました。麦の束は燃やされ,家財は略奪され,建物や所有物は破壊されました。」(Autobiography of Parley Parker Pratt, ed. Parley P. Pratt Jr.[1938], 102-3)
1,000人以上の聖徒がジャクソン郡から追い出され,200軒以上の家が焼かれました。
預言者ジョセフ・スミスは,聖徒たちがシオンから追い出されたことを聞くと大いに落胆しました。1833年12月10日付けのミズーリの教会指導者への手紙で,預言者はこう記しています。「これまでに与えられてきた戒めから考えて,わたしはシオンが幾らか苦難を受けるであろうと常に思ってきました。……わたしは主がふさわしいと思われるときにシオンが贖われることを知っています。しかしシオンの清め,艱難,苦難がどのくらいの期間に及ぶかは,主はわたしの目から隠しておられます。そしてわたしがこの件に関して尋ねるとき,主の声は次のように告げられます。『安らかにしていて,わたしが神であることを知りなさい。わたしの名のために苦しむ者は皆,わたしとともに統治し,わたしのために自分の命を捨てる者は,再びそれを見いだすであろう。』さて,わたしには分からないことが二つあります。主はそれを示してはくださいません。……シオンがこれほどひどい苦難を受けているというのに,神はなぜほうっておかれるのか,このひどい苦難のおもな原因は何なのか,ということです。また,主はどのような方法で,……シオンがその受け継ぎを再び受けられるようになさるのか,ということです。」 (in Manuscript History of the Church, vol. A-1, page 393, josephsmithpapers.org) 預言者は神に答えを求め続け,1833年12月16日から17日にわたって,シオンとミズーリの聖徒たちの艱難について啓示を受けました。
教義と聖約101:1-21
主は聖徒が艱難に遭うのを許しておられるのはなぜかを説明し,勧告と慰めを与えられる
教義と聖約101:1-8。「主なるわたしは,……彼らの受けている苦難が彼らに及ぶのを許した」
主は,ミズーリの聖徒たちが艱難に遭い,ジャクソン郡から追い出されたのは「争い,ねたみ,対立,およびみだらなむさぼりの欲望」といった「彼らの背き」のためであることを明らかにされました(教義と聖約101:2,6。教義と聖約105:2-9も参照)。このため彼らはシオンの地において,「その受け継ぎを汚した」のです(教義と聖約101:6)。
ミズーリの聖徒たちの中には,「混乱が起こって疫病をもたらすことのないために,急いではならない」という,聖徒への主の勧告に反してジャクソン郡に押し寄せることで,主の戒めに背く者もいました(教義と聖約63:24)。物質的にも霊的にもよく備えて,到着次第,奉献の律法に従って生活できる人たちだけが,シオンに行くことになっていました。さらに,シオンに行く人たちは召されなければなりませんでした。すなわち「シオンに上って行くように聖なる御霊により命じられる」必要がありました。また,シオンに到着すると,自分のふさわしさと堅実な状態を示す「教会の三人の長老からの証明書,またはビショップからの証明書」を提出しなければなりませんでした(教義と聖約72:24-25)。ジョン・コリルは信仰から背教する前はミズーリの教会指導者で,多くの教会員がこの指示に従わなかったと次のように記しています。「教会員はシオンに行くことに躍起になっていました。ビショップたちの勧告に反して,裕福な者は土地を購入するための資金を送ることをためらい,貧しい者は住む場所を提供されないまま,大人数でシオンに集まりました。」(in The Joseph Smith Papers, Histories, Volume 2: Assigned Histories, 1831–1847, 146)末日聖徒がジャクソン郡に殺到したため,地元ミズーリの住人は,聖徒が郡人口の大半を占めるようになれば,自分たちが経済的にも政治的にも影響力を失うのではないかと恐れ,警戒しました。
ミズーリで教会員の中に起こった不和は,この世の富を貧しい人の世話やシオンを築くために用いることを拒否し,奉献の律法を無視したことによるものでした。ロレンゾ・スノー大管長(1814-1901年)は次のように説明しています。「ジャクソン郡およびほかの地域の聖徒たちは,奉献の律法を守ることを拒み,その結果,彼らの受け継ぎの地から追い出されました。そして,自らの義務が何であるかを完璧に学び,経験を通して従順の必要性を知り,それによって神の律法を守る準備がよくなされるまで,戻るべきではないとされたのです。」(“Discourse,” Deseret News, Jan. 7, 1874, 772)
何か月にもわたって,ミズーリの教会指導者の何人かは,預言者ジョセフ・スミスとオハイオの教会指導者を批判し,あら探しをしました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 2: July 1831–January 1833, ed. Matthew C. Godfrey and others [2013], 364)。1833年1月11日付けのウィリアム・W・フェルプスにあてた手紙で,ジョセフ・スミスはフェルプスとA・シドニー・ギルバートが非難したことについて,次のように嘆いています。「あなた〔とシドニー・ギルバート兄弟〕が送ってきた手紙に込められた精神を,わたしたちの心は大変悲しんでいます。そのような精神は疫病のようにシオンの力をそぎます。もし自らの内からそのような精神を見いだして捨て去らないなら,神が警告される裁きに対してシオンの機が熟すでしょう。」 (in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 2: July 1831–January 1833, 367; spelling standardized)
数日後,「12人の大祭司の大会」でオーソン・ハイドとハイラム・スミスは,エドワード・パートリッジビショップとその顧問,ミズーリの聖徒たちにあてて手紙を書くように任じられました。手紙は主が聖徒を戒められた次の聖句を引用することから始っています。聖徒は「不信仰な悪い心のゆえに,とがめを受けなければならない。また,シオンの……兄弟たちも,……〔ジョセフ・スミス〕に逆らったので,とがめを受けなければならない。」(教義と聖約84:76)シドニー・ギルバートから受け取った「低俗で邪悪,不完全な憶測」を書いた手紙のことを指していました。さらに,預言者ジョセフが「君主的な権力を求めている」と主張する別の手紙についても,とがめました。ミズーリの聖徒たちのこうした背きなどのために,オーソン・ハイドとハイラム・スミスは「シオンの幸いを大いに心配して」「シオンが悔い改めて,主の前に自らを清めなければ,神の裁きが〔シオン〕に下されるに違いない」と警告しました。(In The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 2: July 1831–January 1833, 373–75.)
教義と聖約101:3-5。「懲らしめに耐えない……者は……,聖められることはあり得ない」
聖徒の背きにもかかわらず,主は「彼らを自分のものとする」と言われ,主が再び来て「〔主の〕宝石を集める」ときに,彼らは主のものとなるであろうと約束されました(教義と聖約101:3。マラキ3:17も参照)。主の「宝石」とは,主の忠実な聖徒を表し,主にとって大切な存在で,主が戻って来られるときに主の宝として定められる人のことです。主の宝となるよう備えられるために,聖徒は「懲らしめを受け,……アブラハムのように,試みられ〔る〕」必要がありました(教義と聖約101:4)。主がアブラハムに息子イサクを犠牲にするよう命じられたとき,アブラハムの信仰は厳しく試されました(創世22:1-13参照)。
同様に,信仰を証明し,悔い改めの必要性を理解できるように,主はミズーリの聖徒たちが艱難に遭い,懲らしめを受けることをお許しになりました。主は,「懲らしめに耐えないで,わたしを否定する者は皆,聖められることはあり得ない」と説明されました(教義と聖約101:5)。聖められるとは,清く,聖なるものとなり,罪から解放されることです。十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は,神が自分の子供たちを懲らしめられる目的について,次のように説明しています。
「神がお与えになる懲らしめには(1)悔い改めを促す,(2)精錬し,聖める,(3)神が御存じのより良い道へ生活を方向転換させる,という少なくとも3つの目的があります。……
その助けを進んで受け入れるときに,必要ないさめが様々な形で,また様々な場所から与えられます。それは祈りをささげているときに神が聖霊を通して思いと心に語りかけてくださる方法であるかもしれません(教義と聖約8:2参照)。祈りに対して,『いいえ』など,自分の期待と異なる答えを受けるという形を取るかもしれません。聖文を勉強することによって,自分の欠けている点,不従順あるいは怠っている事柄に気づくことが懲らしめとなる場合もあります。
いさめは,ほかの人々,特に神の霊感によってわたしたちが幸福になるよう助けてくれる人々を通してもたらされることがあります。今日の教会に使徒,預言者,祝福師,ビショップ,そのほかの人々が置かれているのは,古代と同様に『聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ,キリストのからだを建てさせ〔る〕』ためです(エペソ4:12)。」(「すべてわたしの愛している者を,わたしはしかったり,懲らしめたりする」『リアホナ』2011年5月号,98-100)
教義と聖約101:9。「わたしの心は,彼らに対する哀れみに満たされている」
昔,心は人の感情,特に哀れみや愛の中心と考えられていました( 創世43:30;コロサイ3:12;1ヨハネ3:17;3ニーファイ17:6参照。教義と聖約101:9;121:3-4,45も参照)。「聖典の中では,哀れみは文字どおり『ともに苦しむこと』を意味する。また,互いに対する同情や気の毒に思う心,慈しみも意味する。」(Guide to the Scriptures, “Compassion,” scriptures.lds.org) ミズーリの教会員は自分たちの背きのために懲らしめを受けましたが,主は彼らに哀れみを持っておられました。主は聖徒を拒むことはなさらず御自分の民として,「激しい怒りの日」つまり彼らが懲らしめを受けている間,「憐れみを思い起こそう」と,慰めをお与えになりました(教義と聖約101:9)。イエス・キリストはわたしたちの「苦痛と苦難と試練」を受けられました。また,わたしたちに対して「御自分の心が憐れみ」と哀れみ「で満たされるように」,〔御自分の贖いの犠牲を通して〕わたしたちの「弱さ」も受けられました(アルマ7:11-12)。わたしたちが主のもとに行って,悔い改め,福音に従おうと心を尽くして努めるなら,主は哀れみを示し,憐れみの手を差し伸べ,わたしたちの罪を赦してくださいます。
教義と聖約101:16。「安らかにしていて,わたしが神であることを知りなさい」
聖典には避け所と安全の地としてシオンと新エルサレムの都を築くことに関する大いなる預言が含まれています(イザヤ35:10;エテル13:5-8;教義と聖約42:9;45:66-71参照)。このため初期の聖徒たちは,主が命じられたようにミズーリ州ジャクソン郡に集合し,シオンを確立することを熱望したのです。後に聖徒たちはジャクソン郡の土地や家から追い出されたときに,シオンの将来について落胆し,確信を失いました。悲しみや混乱のさなか,主は彼らに「安らかにしていて」,主を信頼するように勧告されました(教義と聖約101:16)。
ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は, 教義と聖約101:16に記録されている原則によって慰めを得た経験について次のように話しています。
「最近,重大な結果を招くであろうと思われるような問題があり,いろいろと考えた末にひざまずいて祈りました。するとわたしの心に平安が訪れ, 主の『安らかにしていて,わたしが神であることを知りなさい』という言葉が聞こえてきました。わたしは聖典を用いて,150年前に預言者ジョセフ・スミスに授けられた主の約束の言葉を読みました。『シオンについて心に慰めを得なさい。すべての肉なるものはわたしの手の内にあるからである。安らかにしていて,わたしが神であることを知りなさい。』(教義と聖約101:16)
神は,神御自身の偉大な計画に基づいて膨大なつづれ織りを織っておられます。人類はすべて主の御手にあり,主に物申す権利はわたしたちにはありません。わたしたちの義務であり機会でもあるのは,心と精神とを平安に保ち,主が神であられることを知ること,またこの業は主の業であり,主はこの業が水泡に帰するのをお許しにならないと認識することです。
恐れる必要はありません。悩む必要もありません。推測する必要もありません。何にも増して必要なのは,召しが与えられたときに,一人一人がその義務を果たすということです。なぜなら,末日聖徒が信仰をもって歩み,確信をもって行動するときに,教会は絶えず強くなっていくからです。」(「主はまどろみも眠ることもされない」『聖徒の道』1983年7月号,9参照)
教義と聖約101:17-21。シオンとそのステークは確立されなければならない
聖徒たちはミズーリ州ジャクソン郡から追放されましたが,主は「シオンの子らが散らされても,シオンがその場所から移されることはない」(教義と聖約101:17)と再び断言されました。シオンのステークは地の表の至る所に広がっていますが,ジャクソン郡は「中心の場所」であり,新エルサレムの都が築かれる所であると主によって決められていることに変わりはありません(教義と聖約57:1-3;101:17,20-21参照)。
十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老 (1915-1985年)は次のように教えています。「終わりの時にシオンを,すなわち新エルサレムを築き上げることについて,疑念や不安を抱く必要はありません。主はかつて御自分の民に,全世界に向けて律法が出る場所であるそのシオンを築く機会をお与えになりました。しかし民は築くことができませんでした。なぜでしょうか。彼らは準備ができておらず,ふさわしくなかったからであり,現在王国を成しているわたしたちも同様です。わたしたちが民として準備ができ,ふさわしくなったときに,主は再びわたしたちにお命じになり,御業は前進することでしょう。予定どおり,再臨の前に,大管長の指示のもとで進んでいくことでしょう。そのときまで,だれもミズーリへの集合や,その地に受け継ぎの土地を得る準備に向けて,個人的な手段を講じる必要はありません。その代わりに,関係する偉大な概念を学び,自分たちの時代に主から課せられる業にふさわしい者となりましょう。ジャクソン郡を築き上げるのに先立って,まだなすべき事柄があるのです。」(A New Witness for the Articles of Faith [1985], 586)
教義と聖約101:22-42
主は福千年の状態について説明し,御自分の聖約の民は「地の塩」であると宣言される
教義と聖約101:22-34。福千年での生活の状態
ジャクソン郡から追放された後,ミズーリの聖徒たちは周辺地域の至る所に散らされました。主は,「集まり,聖なる場所に立〔つ〕」ように命じられました(教義と聖約101:22)。聖なる場所とは,神殿や教会堂に限らず,神の御霊を享受できる場所なら,どんな所でも聖なる場所となります。今日,主の教会の民は支部やワード,ステーク,家族や家庭,神殿といった聖なる場所に集まります。わたしたちがこのような聖なる場所に集まる一つの理由は,「来るべき啓示に備える」ためです(教義と聖約101:23)。これはすべての人がイエス・キリストにまみえる主の再臨を表します。この世界規模の出来事は,現世に生きている人だけでなく,亡くなって,再臨のときに復活する義人も目撃します(教義と聖約61:39;63:49-50;101:35参照)。
救い主の再臨は,福千年として知られる1,000年間の幕開けとなります。「〔主の〕知識と栄光が全地のうえにある」ように,地球はその朽ちる状態から清められ,変貌し,更新されます( 教義と聖約101:24-25参照。信仰箇条1:10も参照)。福千年は大いなる平和の時でもあります。動物や死すべき状態の男女の中から「敵意」すなわち憎しみや暴力はなくなります(イザヤ11:6-9;教義と聖約101:26参照)。神の力と地上に残る人々の義がサタンを捕らえ,サタンは「〔神の子供たちの〕だれをも誘惑する力を持たな〔く〕」なります(黙示20:2-3;1ニーファイ22:26;教義と聖約101:28参照)。
愛する人の死による悲しみもなくなります。死すべき状態は福千年の間も地上で続きますが,子供たちは年若くして死ぬことはなく,老いて「木の寿命」まで生きます(教義と聖約101:30。教義と聖約63:50-51も参照)。預言者イザヤは福千年について預言し,木の寿命は約「百歳」であると示唆しました(イザヤ65:20,22参照)。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長 (1876-1972年)は,イエス・キリストの再臨のときのことについて次のように教えています。「地上にとどまるすべての人に変化がもたらされるのです。彼らは年を取るまで死に支配されないように,生かされるのです。人々は100歳になると死に,たちまち不死不滅の状態に変えられます。この千年の間,墓は造られません。」(The Way to Perfection [1970], 298–99)このようにして,人々は福千年の間に死ぬと,即座に,すなわち「一瞬のうちに」,死すべき状態から栄光に満ちた復活した状態になります(教義と聖約101:31)。
教義と聖約101:32-34。「主はすべてのことを明らかに〔され〕る」
主が再び来られるとき,どのように「主はすべてのことを明らかに〔され〕る」のかについて(教義と聖約101:32), ブルース・R・マッコンキー長老は次のように教えています。「福千年にはすべてのことが明らかにされるでしょう。モルモン書の隠された部分は世に出され,真鍮の版は翻訳されるでしょう。アダム,エノク,ノア,アブラハムなど多くの預言者が書いたことが明らかにされるでしょう。主イエスのこの地上での務めについて,わたしたちは現在の知識より千倍も多くのことを学ぶでしょう。永遠なる御方とともに歩み,話をした古代の人々にさえも知らされていない,王国についての大いなる奥義を学ぶでしょう。創造や人の起源についても詳しく学ぶことになるでしょう。」マッコンキー長老は福千年について,「地の中のことも,地上のことも,地の上にあるもののことも,明らかにされないものはない」と結論付けています ( The Millennial Messiah: The Second Coming of the Son of Man [1982], 676。2ニーファイ30:15-18;教義と聖約121:26-28も参照)。
教義と聖約101:35-38。「わたしの名のために迫害を受け〔る〕者」
ミズーリの聖徒たちは宗教のために激しい迫害を受けたことにより,大きな苦難を経験しました。主は彼らに次のように約束されました。「わたしの名のために迫害を受け,信仰をもって堪え忍ぶ者は皆,たとえ召されてわたしのために命を捨てるとしても,なお彼らはこのすべての栄光にあずかるであろう。」(教義と聖約101:35。101:26-34も参照)
大管長会のジェームズ・E・ファウスト管長 (1920-2007年)は,1900年代初頭にメキシコに住んでいた二人の忠実な教会指導者が,救い主のためにどのように忠実に迫害を堪え忍んだか次のように話しています。
「ラファエル・モンロイはメキシコの小さな支部,サンマルコス支部の会長で,ビセンテ・モラレスは第一顧問でした。1915年7月17日,彼らはサパティスタ民族解放軍〔メキシコの革命軍〕に捕らえられました。そして武器を引き渡し,その聞き慣れない宗教も捨てるなら解放すると言われました。モンロイ兄弟は武器を持っていないことを伝えると,ポケットから聖書とモルモン書を取り出して言いました。『皆さん,これらの書物が,わたしが今までに持ったことのある唯一の武器です。誤りに対する真理の武器です。』
武器を持っていないことが分かると,解放軍は武器の隠し場所を聞き出すために,この兄弟たちを残酷な拷問にかけました。しかし武器はありませんでした。その後,兵に見張られながら小さな町の外れに連行され,トネリコの大木のそばで,銃殺隊の前に立たされました。将校は,もし自分たちの宗教を捨て,サパティスタ国民解放軍に加わるなら自由を与えると言いました。しかしモンロイ兄弟はこう答えました。『わたしの宗教は自分の命よりも大事なものです。捨てることはできません。』
二人は銃殺を宣告され,最後に何か望むことがあるか,と聞かれました。ラファエル兄弟は,処刑される前に祈ってもよいか尋ねました。彼は執行者たちの前でひざまずくと,神が彼の愛する人々を祝福し守り,指導者を失う小さな弱い支部を見守ってくださるよう皆に聞こえる声で祈りました。祈り終えると,彼は救い主が十字架上でおっしゃった言葉で,死刑執行者たちのために祈りました。『父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。』〔ルカ23:34〕そして,モンロイ兄弟とモラレス兄弟は銃殺隊に撃たれたのです。」(「主の弟子となる」『リアホナ』2006年11月号,21-22参照)
この話は,たとえ忠実であったとしても,末日聖徒が迫害や死からいつも守られるわけではないことを表しています。すべての迫害がミズーリの聖徒たちやメキシコの教会指導者が経験したような厳しく暴力的なわけではありません。多くの人にとって,宗教に対する迫害は,自分の宗教的信念のためにののしられたり見くびられたりというように,様々な形を取ってやって来ます。
十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,末日聖徒は異なる信仰を持つ人々を迫害したり,不寛容になったりしないように気をつけるべきであると,次のように教えています。
「隣人を愛し,争いを避けるという福音の教えにわたしたち皆が従うべきです。キリストに従う人々は,礼節の模範となるべきです。わたしたちはすべての人々を愛し,良い聞き手となり,相手の誠実な信念に関心を示すべきです。賛成はできなくても,攻撃的になってはなりません。意見の分かれるテーマについては,争いを引き起こすような態度を執ったり,発言をしたりするべきではありません。わたしたちは,知恵を使って,教会員としての立場を説明,追求し,影響力を行使しなくてはなりません。その際,わたしたちの真心からの宗教的信条や宗教の自由な実践が人を不快にさせないようにと願っています。わたしたち全員が救い主の黄金律を実践するように,すなわち『何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりに〔する〕』ようにお勧めします(マタイ7:12)。
……どのようなことが起ころうとも,すべての人に親切な態度である一方で,人種,民族,宗教的信仰あるいは不信仰,性的指向の違いに基づく迫害を含めて,いかなる種類の迫害も拒むべきです。」(「違いがあっても周りの人を愛し,受け入れる」『リアホナ』2014年11月号,27)
教義と聖約101:39-42。「地の塩,また人の味」
教義と聖約101章に記録されている啓示の中で,救い主は御自分の教会の会員を「地の塩」にたとえておられます(教義と聖約101:39。マタイ5:13;3ニーファイ12:13も参照)。七十人のカーロス・E・エイシー長老(1926-1999年)は,塩の象徴について次のように説明しています。「歴史学者は次のように語っています。『その昔,塩には宗教的な意味があり,清浄のシンボルとされていました。……塩は現在でも尊敬,友情,厚遇のしるしとして多くの民族の間で大切に扱われています。』……(The World Book Encyclopedia, 1978, 17:69)」(「地の塩—人の味,人々の救い手」『聖徒の道』1980年9月号,65)
モーセの律法の下では,塩は犠牲のささげ物に添えられました。これは,塩が契約を交わすことにも関連していることを表します(レビ2:13参照)。「地の塩」として,教会員は交わした聖約に対して清く,誠実であることの模範とならなければなりません。主は御自分の聖約の民を「人の味となるように」召されます(教義と聖約101:40)。味とは,風味や味付けを表します。塩は食べ物の風味や質を良くします。味はまた,塩の保存性や治癒効果という独特な性質を表します。「人の味」として,聖約を交わした教会の会員は,世の中で義にかなった影響力となり,人々をイエス・キリストや主の永遠の福音に導くことで,人々を守り,救うのを助けます(教義と聖約103:9-10参照)。しかし,教会員が「味」を失うなら,人々に良い影響を与えて,彼らを救い主のもとに導く力を失います。
カーロス・E・エイシー長老は,続けて次のように教えています。
「ある世界的に有名な化学者の言葉によれば,塩は古くなっても味が変わらないということです。不純物が混ざった場合にのみ,塩は塩気を失ってしまうのです。……
不純な思いを抱いて心を汚し,偽りを語って口を汚し,悪事に走って自己の持てる力を誤用する人は,『人の味』を失い,品格を落とすことになるのです。……
わたしは,特に若人の皆さんに『人の味』を守るための簡単な原則を紹介したいと思います。それは,『清くないことを考えてはならない。真実でないことを語ってはならない。正しくないことを行ってはならない』ということです。(see Marcus Aurelius, “The Meditations of Marcus Aurelius,” in The Harvard Classics, Charles W. Eliot, ed., New York: P. F. Collier and Son, 1909, p. 211)」(「地の塩—人の味,人々の救い手」66)
塩と違って,聖約を交わした教会員は「味」すなわち清さや義の特質を取り戻せるということを覚えておくことは大切です。イエス・キリストと主の贖罪によって可能になった悔い改めという神の賜物を通してそれができるのです。
教義と聖約101:43-75
主は,身分の高い人とオリーブの木のたとえを教え,引き続き集合の業を続けるよう聖徒に勧告される
教義と聖約101:43-62。身分の高い人とオリーブの木のたとえ
身分の高い人とオリーブの木のたとえは,イザヤやイエス・キリストによって教えられたたとえと類似していますが,教義と聖約特有のものです(イザヤ5:1-7;マタイ21:33-46参照)。主はこのたとえを使って,聖徒がシオンの地から追い出された理由を説明し,シオンの贖いについて明らかにしておられます。
主はミズーリ州ジャクソン郡のシオンの地を,身分の高い人が所有する特別な良い地にたとえられました。身分の高い人は僕たちに,この地に12本のオリーブの木を植えるように命じますが,このことは主が聖徒に,シオンに定住地を築くよう命じられたことを表すと言えます(教義と聖約57:8,11,14参照)。オリーブの木の周りに見張り人を置くことは,シオンの聖徒を導くために教会指導者や役員を召すことを表すでしょう。昔,城壁や塔の上の見張り人は,敵の攻撃という差し迫った危険を警告することで,町ばかりでなく果樹園や畑を守る責任がありました(エゼキエル33:1-6参照)。聖文は主の預言者や指導者を見張り人にたとえています(イザヤ62:6;エレミヤ6:17;エゼキエル3:17;33:7参照)。啓示を通してこれらの見張り人は遠くからでも敵を認めることができ,迫り来る危険を聖徒に警告することができます。
このたとえの中の塔の解釈は明らかではありません。これは主が聖徒にジャクソン郡に建てるよう命じられた神殿を表していると考えられるかもしれません(教義と聖約57:2-3;84:1-5;97:10-12参照)。もっと広い意味では,塔は,聖徒たちが主の戒めに従うことによってのみ建てることができるシオンを表すとも言えるでしょう(教義と聖約101:11-12;105:3-6参照)。このたとえでは,身分の高い人の僕たちは「一つの見張り台を築き始めた」のですが,結局,「非常に怠惰にな〔り,〕そして,その主人の命令に聞き従わなかった」のです(教義と聖約101:46,50)。その結果,敵が彼らを散らし,彼らの造ったものを壊しました。
このたとえで,身分の高い人は僕の一人に「〔彼の〕家の勇士」を集めて,行って果樹園を取り戻すように命じました(教義と聖約101:55)。その僕とは預言者ジョセフ・スミスを表します(教義と聖約103:21-22参照)。主の命令に従って,預言者はシオンを贖い,聖徒たちの土地や家を取り戻すために,イスラエルの陣営(後にシオンの陣営と呼ばれた)を組織しました(教義と聖約103:29-40参照)。
このたとえは,イスラエルの陣営からシオンの最終的な贖いまでには,幾らか時間の経過があることを予示しています。僕が身分の高い人に果樹園がいつ贖われるのか尋ねると,身分の高い人は「わたしが望むときである」と答えました(教義と聖約101:59-60参照)。このたとえは最後に,「多くの日の後,すべてのことが成し遂げられた」と言って締めくくられます(教義と聖約101:62)。主はイスラエルの陣営の解散を命じた後の啓示の中で,聖徒がシオンの贖いを「しばしの間……待」たなければならなかった理由を述べておられます(教義と聖約105:9。教義と聖約105:1-19参照)。
教義と聖約101:63-66。「わたしは……わたしの民を集めなければならない」
身分の高い人とオリーブの木のたとえをお教えになった後,主は,末日聖徒全員の集まりを意味する「すべての諸教会……に関して」御心を述べられました(教義と聖約101:63)。主は聖徒に,主が「〔御自分の〕名のために聖なる場所に彼らを築き上げる」ことができるように,「集合」を続けるよう指示されました(教義と聖約101:64)。主は,「小麦と毒麦のたとえに従って〔御自分〕の民を集め〔る〕」ことを約束されました(教義と聖約101:65)。毒麦は未熟な時期には小麦と見分けがつきませんが,生長すると一目で見分けがつくようになります。小麦と毒麦のたとえでは,小麦は忠実な教会員を表し,毒麦はその中から散らされる悪人を表します(マタイ13:24-30,36-43;教義と聖約86:1-7参照)。
主は御自分の民を集めることを小麦が「倉」に集められることにたとえておられます(教義と聖約101:65)。昔は,小麦は倉,つまり穀物倉に集められました。安全に貯蔵し守るためです。十二使徒定員会の デビッド・A・ベドナー長老はアルマ26:5について話しながら,アンモンが「束」つまり穀物の束は「倉に納められる」と言っている所を引用して,こう教えています。「倉は聖なる神殿です。」(「名と地位を立派に維持する」『リアホナ』2009年5月号,97)教会員は,主の聖なる神殿に集まって自分自身のため,または先祖に代わって,救いの儀式を受け,聖約を交わすときに,守りの祝福を受け,日の栄えの栄光と永遠の命に備えられます。
預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は次のように教えています。「世の様々な時代に,神の民が……集められたのはどのような目的のためだったのでしょうか。……第一の目的は,主のために宮を建て,それによって,主がその民に主の宮の儀式と主の王国の栄光を明らかにし,救いの道を教えることがおできになるようにすることでした。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』416)
小麦と毒麦のたとえの詳しい説明は,本書教義と聖約86:1-7の解説を参照してください。
教義と聖約101:76-101
主は聖徒たちに,ミズーリの家に帰る方法を探し求めるように勧告される
教義と聖約101:76-80。神が合衆国憲法を制定された
主は,ミズーリの聖徒たちが「補償と譲り戻しを受ける」ことについて,政府に「執拗に求め〔る〕」よう,つまり要請するように指示されました(教義と聖約101:76)。すなわち,ジャクソン郡の自分たちの土地を取り戻すために正義と助けを求め続けるべきだということでした。また主は,合衆国憲法という法律は,「公正かつ聖なる原則に従ってすべての〔人民〕の権利と保護のために維持されるべき」であり,
「それは,すべての人がわたしの与えた道徳的な選択の自由に応じて,……教義と原則に従って行動できるようにして,各々が裁きの日に自分自身の罪に対する責任を負うようにするため」だとも説明されました(教義と聖約101:77-78)。
主はこう言われました。「この目的のために,わたしは〔合衆国〕の憲法を制定する賢人たちを立てて,彼らの手によってその憲法を制定し〔た〕。」(教義と聖約101:80)
エズラ・タフト・ベンソン大管長(1899-1994年)は,合衆国憲法について感謝と敬意を表し,次のように述べています。「わたしは合衆国憲法を聖なる文書として敬っています。わたしにとって,憲法の言葉は神の啓示と同じです。それは,神がこの国の憲法に承認の印を押されたからです。わたしは,天の神が,福音の回復と救い主の再臨の幕開けとして,この政府の土台を築くために,えり抜きの霊を選んでこの地に送ってくださったと証します。」 (“The Constitution—A Glorious Standard,” Ensign, May 1976, 93)
教義と聖約101:78。信教の自由と合衆国憲法
初期の聖徒たちが信仰のために迫害されたことは,回復された福音が確立され,ついには地上のすべてのものにもたらされるために,信教の自由が大切であることを示しています。1833年12月,ミズーリの聖徒たちが厳しい迫害を受けていたころ,主はその聖なる手によって,合衆国憲法と憲法が守る信教の自由の権利を築いたことを証されました。 ブルース・R・マッコンキー長老は次のように説明しています。
「宗教上の迫害から逃れ,アメリカにやって来た初期の入植者たちは,様々な宗派を持っており,入植すると直ちにそれぞれ独自の礼拝制度を作り,ほかのすべての宗派の人を非難したり,迫害したりしました。旧世界と同様に,魔女は焼かれ,異端者は迫害されました。アメリカの入植者は単に退廃的で間違ったキリスト教を新しい地に移しただけでした。しかし,アメリカ革命戦争と国家が生き残る必要性から,次の条項を持つ憲法が生み出されました。『連邦議会は,国教を定めたり自由な宗教活動を禁止したりする法律……を制定してはならない。』このようにして,アメリカ合衆国では信教の自由は自分たちの制御の及ばない力によって推し進められ,教会と国家の一体化は永遠に禁じられました。
このすべてに主の手があったことは公理的〔明確〕です。主はわたしたちにこう言われました。『わたしはこの国の憲法を制定する賢人たちを立てて,彼らの手によってその憲法を制定し〔た〕。』それはなぜでしょうか。法律は,『公正かつ聖なる原則に従ってすべての肉なるものの権利と保護のために』制定され,『維持されるべき』です。『それは,すべての人がわたしの与えた道徳的な選択の自由に応じて,未来に関する教義と原則に従って行動できるようにして,各々が裁きの日に自分自身の罪に対する責任を負うようにするため』です。(教義と聖約101:77-88)」(A New Witness for the Articles of Faith, 679)
教義と聖約101:78。「道徳的な選択の自由」と信教の自由
主は「道徳的な選択の自由」,すなわち,自分で選択し行動する力が,わたしたちが自分の行いに責任を負うことに不可欠であり,「教義と原則に従って行動」する能力に欠かせないものであることを明らかにされました(教義と聖約101:78)。
「選択の自由は天の御父の救いの計画に不可欠な要素です。信教の自由は,選択の自由を用いて信じることを実践したり,分かち合ったりすることを保証してくれるものです。すべての人は,どのようなことを信じているとしても,この自由を持つ必要があります。
このように重要なことでありながら,信教の自由は全世界で侵されています。このため,使徒たちは最近,このテーマについて何度も話してきました。預言者,聖見者,啓示者として,使徒たちは信教の自由を擁護する必要性を認識しています。わたしたち一人一人には果たすべき役割があります。」(“Religious Freedom,”LDS.org)
十二使徒定員会のロバート・D・ヘイルズ長老は次のように教えています。「この終わりの時に霊的に自由に生きるうえで理解しておくべきなのは,選択の自由を忠実に用いるには信教の自由が不可欠であるということです。わたしたちはサタンがこの自由を与えまいとしていることを承知しています。サタンは天で道徳的な選択の自由を損なおうと試み,今は地上で信教の自由を損ない,反対し,混乱を広めようと躍起になっています。信教の自由とは何か,またそれが霊的な生活とわたしたちの救いそのものになぜ不可欠かについて混乱させようとしています。」(「選択の自由を保ち,信教の自由を守る」『リアホナ』2015年5月号,111-112)
教義と聖約101:81-95。「わたしは……彼らを女と不正な裁判官のたとえになぞらえよう」
教義と聖約101章に記録されている啓示の中で,主は新約聖書にある,聞き入れてもらうまで裁判官に訴え続けた女のたとえを繰り返しておられます(教義と聖約101:81-84参照。ルカ18:1-8も参照)。主はミズーリの聖徒たちをこのたとえになぞらえて,政府指導者に助けを求め続けるよう励ましておられます。聖徒たちは公正を求めて,最初は裁判官のところへ,必要であればミズーリ州知事のもとへ,最終的には合衆国大統領のもとへ行くことになっていました(教義と聖約101:85-88参照)。主は,助けを求める訴えが聞き入れられなかったら,主が「立って隠れ場から出て来て,憤りをもってその国を悩ませ〔る〕」と言われました(教義と聖約101:89)。
ミズーリの聖徒たちは主の指示に従い,失った財産に対する「補償」すなわち賠償を求めてジャクソン郡の裁判所に訴えました(教義と聖約101:76)。しかし,聖徒をジャクソン群から追い出した側につく裁判官や陪審員は,聖徒たちが裁判で賠償を受けられないようにしてしまいました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 468–69)。
聖徒たちは「ミズーリ州知事ダニエル・ダンクリンに請願し,教会員がジャクソン郡で財産を取り戻せるよう,自衛できるようになるまで暴力から保護を受けられるよう,またモルモンに対する暴力を問う裁判を始められるよう,助けを求めました。」ダンクリン知事は,州軍すなわち民兵を使って,教会員が自分たちの家に戻る際に護衛する意思を表しましたが,「将来あり得る攻撃からモルモンを守るためにジャクソン郡で軍を維持する権限は持っていないと言いました。」 (in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 407)そのころ州軍は,現代の警察というより,法律を執行し,秩序を強要する組織でした。ダンクリン知事は,聖徒たちが財産を取り戻すのを助けることに同意しましたが,保護するという約束は結局守りませんでした (see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 334)。
1834年4月,教会指導者は合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンに手紙を書き,ジャクソン郡に連邦軍を派遣して,聖徒の宗教上の権利と財産権を守ってくれるように請願しました。その返事として,陸軍長官ルイス・カスがミズーリの教会指導者に,「大統領には州法の執行を援助する目的でミズーリに軍を送る権限はないと言明する」手紙を送りました(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 396, note 441)。
ミズーリの聖徒たちは繰り返し助けを求めましたが,受けた不正に対して政府から保護と賠償を受けることはできませんでした。主は必要であれば御自分が出て来て「国を悩ませ〔る〕」と約束されました。これは主が国に裁きを下されるという意味です(教義と聖約101:89)。