「第55章:教義と聖約137-138章」『教義と聖約 生徒用資料』
「第55章」『教義と聖約 生徒用資料』
第55章
教義と聖約137-138章
紹介とタイムライン
1836年1月21日,預言者ジョセフ・スミスとそのほかの教会指導者は,ほぼ完成したカートランド神殿で特別な集会を開いた。このとき,預言者は日の栄えの王国を示現で見て,「この福音を知らずに死〔ぬ〕者」(教義と聖約137:7)を主がどのように裁くかについて説明されるのを聞いた。この啓示は教義と聖約137章に記録されている。
1918年10月3日,ジョセフ・F・スミス大管長が教義と聖約138章に記録されている啓示を受けた。この啓示では,死者の救いの教義がさらに明らかにされた。スミス大管長は,救い主が亡くなってから復活するまでの間,パラダイスで「死の縄目からの贖い」(教義と聖約138:16)を待っていた義人たちを教え導かれたことを,この示現の中で知った。スミス大管長は霊界で伝道活動が組織されるのも目にした。
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1823年11月19日アルビン・スミスがニューヨーク州パルマイラで死亡した。
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1836年1月カートランド神殿がほぼ完成した。
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1836年1月21日教義と聖約137章が与えられた。
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1918年世界的なインフルエンザの大流行により,世界中で何百万人もの死者が出た。11月には1,700万人以上もの死者を出した第一次世界大戦が終わった。
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1918年10月3日教義と聖約138章が与えられた。
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1976年4月3日教会員により,日の栄えの王国に関する預言者ジョセフ・スミスの示現と,死者の贖いに関するジョセフ・F・スミス大管長の示現が,教会の標準聖典の一部として支持され,承認された。これらは,高価な真珠に加えられた。
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1979年6月大管長会により,日の栄えの王国に関するジョセフ・スミスの示現(現在の教義と聖約137章)と,死者の贖いに関するジョセフ・F・スミスの示現(現在の教義と聖約138章)が,1981年版の教義と聖約に掲載されることが発表された。
教義と聖約137章:追加の歴史的背景
「1836年1月21日の午後,〔ジョセフ・スミス〕と教会の大管長会が,エンダウメントの準備をさらに一歩前へ進めるために,印刷所の上にある評議会室に集まりました。これらの教会指導者たちは,聖書に記された慣例に従って,水で体を洗い,よい香りのする洗浄液を体につけました。」その晩,ジョセフ・スミスと大管長会の顧問たち,そしてそのほかの教会指導者たちが,ほぼ完成したカートランド神殿の階上の一室に集まりました。「オリバー・カウドリによれば,教会の大管長会の人々は,『モーセとアロン,そしていにしえの時代に主の前に立った人々が油を注がれたときと同じ〔方法〕で,同じ種類の油を注がれました。』〔出エジプト40:9-15参照〕大管長会は,まず,大祝福師であるジョセフ・スミス・シニアの頭に聖別された油を注ぎ,祝福を与えました。その後,祝福師が,大管長会の人々に,年齢順に油を注ぎました。ジョセフ・スミス・シニアは,〔ジョセフ・スミス〕の頭に油を注ぐとき,『末日にイスラエルを導くというモーセの祝福を〔ジョセフ・スミス〕に結び固めました。』
祝福師が息子を祝福した後,〔ジョセフ・スミス〕は,『大管長会の全員』の手の下で数々の祝福と預言を受けました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, ed. Brent M.Rogers and others [2017], 157)
預言者ジョセフ・スミスが祝福を受けると,「天が開かれ」,預言者とそこにいた何人かの人が示現と啓示を受けました。ジョセフ・スミスは次のように記しています。「わたしとともにこの儀式を受けた兄弟たちの多くが,同じように,輝かしい示現を見ました—天使たちが,わたし自身に,また彼らに教えと導きを授け,わたしたちの上に至高者の力が宿りました。建物の中は神の栄光で満たされ,わたしたちは『神と小羊に,ホサナ』と叫びました。」(In The Joseph Smith Papers, Journals, Volume 1: 1832–1839, ed. Dean C.Jesse and others [2008], 167–68, 170; punctuation and capitalization standardized.)その折に,預言者は日の栄えの王国に関する示現を見ました。
日の栄えの王国に関する預言者ジョセフ・スミスの示現は,現在,教義と聖約137章に記録されていますが,この示現が標準聖典の一部となったのは1976年になってからのことでした。その年の4月の総大会で,教会員はこの示現を聖文として受け入れることについて賛意を表明しました。この啓示は当初,高価な真珠に収められましたが,1979年に,1981年版の教義と聖約の137章とすることが決定されました。(See N. Eldon Tanner, “The Sustaining of Church Officers,” Ensign, May 1976, 19; “Scriptural Text for Visions Added to Pearl of Great Price,” Ensign, May 1976, 127; “Additions to DC Approved,” Church News, June 2, 1979, 3; “Three Additions to Be in Doctrine and Covenants,” Ensign, Aug. 1979, 75.)
教義と聖約137章
預言者ジョセフ・スミスは,日の栄えの王国に関する示現を見る
教義と聖約137:1-4。「わたしは神の日の栄えの王国とその栄光を見た」「
預言者ジョセフ・スミスは,日の栄えの王国の栄光と美しさについて語り,「〔日の栄え〕の王国を受け継ぐ者たちが入る門……は回転している炎のよう」であり,「その王国の美しい街路……は金を敷き詰めたかのようであった」と説明しています(教義と聖約137:2,4)。聖文において,火は「清め,純化,聖化の象徴」であり,「神の臨在の象徴としても用いられ」ます(『聖句ガイド』「火」の項,scriptures.lds.org)。色における金と,金属における金は,しばしば,王族,富,力と関連付けられます。
これらの比喩的表現は日の栄えの王国を説明するのに役立つかもしれませんが,これらの表現によってその栄光を理解することはとうていできません。また別の機会に,預言者ジョセフ・スミスは,「星の栄えの〔王国〕の栄光〔でさえ〕……人知ではとうてい計り知れ〔ず〕」,「日の栄えの〔王国〕の栄光……はあらゆる点で勝っている」(教義と聖約76:89,92)ということを知りました。
教義と聖約聖約137:1。「それが体のままであったか,体を離れてであったか,わたしには分からない」
預言者ジョセフ・スミスは,日の栄えの王国の示現について説明し,「それが体のままであったか,体を離れてであったか,わたしには分からない」(教義と聖約137:1)と述べました。このとき,ジョセフ・スミスは,使徒パウロが「第三の天にまで引き上げられた」ことについて述べたときに使った,「それが,からだのままであったか,からだを離れてであったか,わたしは知らない。神が御存じである」(2コリント12:2-3)という言葉を繰り返したのでした。現世の人間に啓示を与えるとき,主は御霊を通して人の霊に真理を明らかにされます(1コリント2:9-14参照)。すると,人は御霊に包まれ,自然界にかかわることを気に留めなくなるほど主の栄光で満たされます。預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,霊的な交わりを受けるこの過程を次のように説明しています。「神がその無限の知恵によって,わたしたちが死すべき状態でこの地上にいる間に,わたしたちに明らかにするのをふさわしく,適切であるとされたことは何であろうと,抽象的に,この死すべき幕屋を通さずに知らされます。すなわち,まるで肉体を持たないかのように,直接霊に啓示が与えられるのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』474-475)
教義と聖約137:5-6。「わたしは……わたしの父と母,……兄のアルビンを見た」
預言者ジョセフ・スミスは,日の栄えの王国に関する示現の中で,父なる神とその御子イエス・キリストのほかに,5人の人を見たと述べています。「わたしは父祖アダムとアブラハム,またわたしの父と母,眠ってから久しい兄のアルビンを見た。」(教義と聖約137:5)この示現を受けた時点で,預言者の両親は健在であり,父は部屋の中にいました。アルビンは,苦痛を伴う胃けいれんを患い,12年前の1823年11月19日に亡くなっていました。彼はスミス家の長子で,天使モロナイの訪れとモルモン書の版の存在について語るジョセフの話を信じていました。亡くなる前に,彼はジョセフに,従順で忠実であるように,また「〔モルモン書〕の記録を手に入れるためにできるかぎりのことを〔する〕」ように励ましました(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』401参照)。
アルビンの死は,一家にとって「ひどい苦難」(ジョセフ・スミス—歴史1:56)となりました。特に,当時17歳だったジョセフは悲しみに暮れ,後に,「思い返せば,兄が死んだとき,若き日のわたしの胸は悲しみでふさがれ,感じやすい心は今にも破裂しそうだった」と書いています(in The Joseph Smith Papers, Journals, Volume 2: December 1841–April 1843, ed. Andrew H.Hedges and others [2011], 116)。「アルビンが世を去ったとき,家族はニューヨーク州パルマイラの長老派の牧師に葬儀の司式を依頼しました。アルビンはその牧師の信徒ではなかったため,牧師は説教の中で,アルビンは救いを得ることができないと断言しました。ジョセフの弟ウィリアム・スミスは,次のように回想しています。『〔牧師は〕……〔アルビン〕は教会員でなかったので地獄に行ったと,とても強い調子で言いました。しかしアルビンは善良な人であり,父は牧師のその言葉を好ましく思いませんでした。』」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』401参照)
預言者ジョセフ・スミスは,1836年1月21日に受けた示現で日の栄えの王国にいるアルビンを見たとき,「〔アルビン〕がどのようにしてその王国で受け継ぎを得たのか不思議に思〔いました〕。兄は主が再びイスラエルを集める業を始められる前にこの世を去り,罪の赦しのためのバプテスマを受けていなかったからで〔す〕。」(教義と聖約137:6)預言者は,モルモン書を翻訳することによって,またほかの啓示を受けることによって,「現世は人が〔福音を受け入れ,悔い改め,バプテスマを受けることによって〕神にお会いする用意をする時期である」ことを学んでいました(アルマ34:32-33参照。教義と聖約76:51も参照)。教義と聖約137章に記録されている示現を受けたとき,預言者はまだ,死者のための身代わりの業について理解していませんでした。しかし,その4年後の1840年8月15日,預言者ジョセフ・スミスは,ある葬儀の場で,死者のためのバプテスマの教義について公に教えました。「葬儀での説教から1か月後,預言者は重病を患い瀕死の状態にあった父親を訪れました。預言者が死者のためのバプテスマの教義について語ると,父スミスは愛する息子アルビンのことを思いました。そしてアルビンのために『直ちに』業を行うように頼みました。世を去る直前に,父スミスはアルビンを見たとはっきり述べました。1840年の後半,ハイラムが兄アルビンのためにバプテスマの儀式を受け,スミス家の人々はそのことを大いに喜びました。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』403参照)
教義と聖約137:7-9。「この福音を知らずに死んだ者……は皆」
教義と聖約137章に記録されている,預言者が1836年にカートランド神殿で見た示現から,天の御父の計画によって御父のすべての子供たちに救いの祝福が用意されていることが明らかになりました。十二使徒定員会のクエンティン・L・クック長老は,救いの計画は神のすべての子供たちに適用されると説明しています。「ジョセフ・スミスが啓示を受けて教会を組織したころ,当時の大多数の教会が,救い主の贖いは人類のほとんどを救うことはないだろうと教えていました。一般的に教えられていたのは,ごく少数の人だけが救われて,ほとんどの人が最も残酷で,言葉で表せないほど激しい,終わりのない苦痛を受けるように運命づけられているというものでした。預言者ジョセフに明らかにされたすばらしい教義によって,この世の生涯でキリストについて聞くことのない人や,責任を負う年齢に達する前に亡くなった子供,理解する能力のない人をも含む全人類のための救いの計画が示されました〔教義と聖約29:46-50;137:7-10参照〕。」(「御父の計画—すべての子供たちを救う壮大なもの」『リアホナ』2009年5月号,36)
教義と聖約137章に記録されている啓示では,福音についても,その不可欠な救いの儀式についても知らずに死ぬ人に,どのようにして救いがもたらされるか,説明されていませんが,その後の啓示がこの教義を明らかにする助けとなりました(教義と聖約聖約127;128;138章参照)。
教義と聖約137:9。「主なるわたしは,すべての人を……その心の望みに応じて裁く」
預言者ジョセフ・スミスは,教義と聖約137章に記録されている啓示によって,天の御父の救いの計画が御父のすべての子供たちにとって公平で憐れみ深いものであることを知りました。アルビン・スミスのように,「この福音を知らずに死〔ぬ〕者で,もしとどまることを許されていたらそれを受け入れたであろう」(教義と聖約137:7)人々にも,日の栄えの王国を得られるという希望があります。この希望は,神はすべての人を「その行いに応じて,またその心の望みに応じて」(教義と聖約137:9)裁かれるという教義を中心としています。
十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,この教義についての理解が深まるように,たとえ現世で福音の祝福を受ける機会を持てなかった人でも義にかなった望みを抱いていれば,福音の祝福をどのように受けることができるか説明しています。
「わたしたちが心にどのような望みを抱いているかは,最後の裁きにおいて重要な判断材料となります。アルマはこう教えています。『人が死ぬことを望もうと生きることを望もうと,神〔は〕彼らの望むままにされ……,人々が救いを望もうと滅びを望もうと,神は彼らの意のままに〔される〕。……善悪の分かる人には,……自分の望むままに与えられるのである。』(アルマ29:4-5)
厳粛な教えですが,喜ばしいものでもあります。つまり,できるかぎりのことを力を尽くして果たしたら,あとの足りないところは自分がどのような気持ちでしたかによって判断されます。心の中の望みが正しければ,それを実行する段階でやむを得ず犯した間違いは赦していただけるのです。それは無力感にさいなまれるわたしたちにとって大きな慰めです。……
……心の中の望みがいかに正しくても,それをもって福音の儀式に代えることはできないということです。命じられている福音の二つの儀式について主の言葉を考えてみてください。『よくよくあなたに言っておく。だれでも,水と霊とから生れなければ,神の国にはいることはできない。』(ヨハネ3:5)また日の栄えの光栄における三つの階級に関して,近代の啓示にはこう述べられています。『その最高の階級を得るためには,人はこの神権の位(すなわち,結婚の新しくかつ永遠の聖約)に入らなければならない。』(教義と聖約131:2)これらの戒めには例外はありません。また聖典のどこにも例外について書かれている箇所はありません。
神はその義と憐れみによって,現世でこれらの不可欠な儀式を受ける機会がなかった人々のために,代理人による儀式が執り行われるようにしてくださいました。これによって,霊界の人々も,自分自身で儀式を受けたと見なされます。地上の代理人の愛の奉仕を通して,すでにこの世を去った霊たちも心の中の望みに応じた報いを受けることができるのです。」(「心の中の思い」『聖徒の道』1987年6月号,24参照)
十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,義にかなった望みを持てるようになることの大切さを次のように強調しています。
「わたしたちが望み続ける事柄は,やがては実現し,永遠にわたってわたしたちが受け継ぐものとなるでしょう。……
……望みは,養い育てることによってのみ,敵ではなく味方になるのです。」(「わたしたちの『心の望みに応じて』」『聖徒の道』1997年1月号,22,24)
教義と聖約137:10。「責任を負う年齢に達する前に死ぬ子供たち〔は〕皆,天の日の栄えの王国に救われる」
「責任を負う年齢に達する前に死ぬ子供たち〔は〕皆,天の日の栄えの王国に救われる」(教義と聖約137:10)という啓示は,多くの教会員に慰めをもたらしたに違いありません。幼い子供たちを亡くしていたエマ・スミスとジョセフ・スミスにとってもこの啓示は慰めとなりました。この啓示を受けたとき,ジョセフ・スミスとエマ・スミスは彼らの最初の6人の子供のうち4人をすでに失っていました。ジョセフとエマの11人の子供(実子9人,養子2人)のうち,成人するまで生き延びたのは5人だけでした(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 1: July 1828–June 1831, ed. Michael Hubbard McKay and others [2013], 464)。
この啓示の時点では,多くの教会が,バプテスマを受けずに死んだ子供は罰の定めを受ける,つまり神に救われることはない,と教えていました。教義と聖約137章に記録されているこの啓示を含む,末日の聖文の幾つかの箇所で,責任を負う年齢である8歳に達する前に亡くなった子供に対する神の憐れみが明らかにされています(モロナイ8:8-22;教義と聖約29:46-47;68:25,27参照)。
トーマス・S・モンソン大管長は,責任を負う年齢に達していない子供を亡くした人々に次のように慰めを与えました。
「まことの平安の源はただ一つです。すずめが落ちるのも御存じの主は,大切な子供たちから一時的にせよ引き離された人々に隣れみを寄せておられます。癒しと平安の賜物がぜひとも必要であり,イエスは贖いを通して,すべての人のためにそれを備えられたのです。
預言者ジョセフ・スミスは,啓示と慰めに満ちた言葉を語っています。
『責任を負う年齢に達する前に死ぬ子供たち〔は〕皆,天の日の栄えの王国に救われる……。』(教義と聖約137:10)
『幼子を亡くして,その子をこの世で成人になるまで育てる特権と喜びと満足を失った母親〔と父親〕は,復活した後に,この世でその子を霊の完全な大きさにまで成長させることにより得られる以上の喜びと満足と楽しみを得るであろう。』〔quoted in Joseph F.Smith, Gospel Doctrine, 5th ed. (1939), 453〕これはギレアデの乳香のように,悲しむ人々や,大切な子供を亡くした人々に慰めをもたらします。」(「常に感謝する」『リアホナ』1999年1月号,21)
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は,責任を負う年齢に達する前に亡くなった子供は,「天の日の栄えの王国に救われる」(教義と聖約137:10)だけでなく,「昇栄にかかわるすべての結び固めの祝福の特権」も受けると述べ,次のように教えています。
「幼くして亡くなった子供であっても,いかなる祝福も失いはしません。このような子供は,復活後,霊の完全に成熟した状態まで成長すると,この世にとどまることを許されていたとしたら資格を与えられ,受けていたであろうすべての祝福に対して,その資格が与えられます。」(Doctrines of Salvation, comp. Bruce R.McConkie [1955], 2:54。モーサヤ15:25も参照)
教義と聖約138章:追加の歴史的背景
1918年10月3日,ジョセフ・F・スミス大管長は,「死者の贖い」に関する重要な真理を明らかにする,霊界の示現を見ました(教義と聖約138:54,60)。大管長は,「聖文に思いをはせ,……神の御子が払われた大いなる贖いの犠牲……について深く考えていた」ときに,この啓示を受けました(教義と聖約138:1-3)。ジョセフ・F・スミスは,わずか5歳だった1844年に父ハイラム・スミスを,13歳だった1852年には母メアリー・フィールディング・スミスを亡くし,若くして喪失の悲しみを知りました。また,スミス大管長は,その人生の中でわが子の何人かとそのほかの家族も失っています。この経験は大管長に大きな痛みをもたらしました。大管長が死者というテーマについて深く考えるようになったのは,そのせいかもしれません。
1918年は,ジョセフ・F・スミス大管長にとって特に厳しい年でした。「1月に,愛する長男であるハイラム・マック・スミス長老が,虫垂破裂によって急逝しました。……2月には,まだ若い義理の息子が落下事故で亡くなりました。そして9月には,ハイラムの妻アイダが出産の数日後に亡くなり,5人の遺児が残されました。」この啓示が与えられた当時,第一次世界大戦の破壊的影響とインフルエンザの世界規模の大流行によって,何百万人もの命が奪われていました。スミス大管長にとっては,自身が病弱であることも気がかりの一つとなっていたのかもしれません。(リサ・オルセン・テイト「スーザン・ヤング・ゲイツと死者の贖いに関する示現」『啓示の背景』マシュー・マクブライドとジェームズ・ゴールドバーグ編)
霊界の示現を受けた日の翌日,スミス大管長は,1918年10月に行われた総大会の最初の部会で次のように語りました。「今朝わたしの胸の内にある多くの事柄について話すことはあえてしません。わたしの思いと心に宿る幾つかの事柄を皆さんに話すのは,主の御心にかなう将来のときまで延ばそうと思います。この5か月の間,わたしは独りではありませんでした。祈りと嘆願と信仰と決意の霊の内にあり,絶えず主の御霊と交わっていたのです。」(in Conference Report, Oct. 1918, 2)
大会の10日後,スミス大管長は,当時十二使徒定員会の会員だった息子のジョセフ・フィールディング・スミスに向けて,霊界の示現を口述しました。1918年10月31日,この示現は,大管長会の顧問たち,十二使徒定員会,そして大祝福師に,啓示として承認されました。(テイト「スーザン・ヤング・ゲイツと死者の贖いに関する示現」;教義と聖約138章,前書き参照。)1976年,この示現を記述したものが高価な真珠に加えられました。1979年,大管長会と十二使徒定員会は,聖典の1981年版でこの示現を教義と聖約の138章として加えると発表しました(see “Additions to DC Approved,” Church News, June 2, 1979, 3)。
教義と聖約138:1-11
ジョセフ・F・スミス大管長は,「聖文に思いをはせ」,霊界の示現を見る
教義と聖約138:1-11。「これらのことを深く考えていると」
ジョセフ・F・スミス大管長が,「聖文に思いをはせ,世の贖いのために神の御子が払われた大いなる贖いの犠牲……について深く考えていた」ときに経験したこと(教義と聖約138:1-3)は,聖文について深く考えることによって研究し学ぼうと努める者を主が祝福してくださることを示しています。深く考えるとは,「聖句や神にかかわる事柄について,しばしば暝想し,十分に思い巡らすこと」を意味し,「これが祈りと結びついたときに,啓示が与えられたり,理解の目が開かれたりすることがあ〔ります〕。」(『聖句ガイド』「深く考える」の項,scriptures.lds.org)
十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は,深く考えることをどのように聖文研究に取り入れるかについて,総大会の際に青少年に向けて次のように説明しています。「メッセージの全体像をつかむために,時々,聖典1冊を目標期間内に読むのは良いことです。しかし改心したければ,時間内に読む量よりも,聖文にどれだけ時間を割くかに心を向ける必要があります。時には,数節読み,深く考え,同じ節を注意深く読み返し,意味を考え,理解を求めて祈り,心に問いかけ,霊的な考えが浮かんでくるまで待ち,覚えたりさらに学んだりするために感じたことや理解したことを書き留める,そのような読み方をしている皆さんの姿が目に浮かびます。このような方法で学ぶとき,30分かけても多くは読めないでしょうが,心に神の御言葉を受け入れる場所を設け,神が語りかけてくださるのです。」(「あなたが改心したときには」『リアホナ』2004年5月号,11)
教義と聖約138:3-4。「この贖い主の贖罪によって,……人類は救われるのである」
霊界の示現をどのようにして受けたかについて説明する中で,ジョセフ・F・スミス大管長は,「贖い主のこの世への来臨に当たって御父と御子」の「大きな驚くべき愛」が「示された」(教義と聖約138:3)と教えています。大管長はまた,「この贖い主の贖罪によって,また福音の諸原則に従うことによって,人類は救われるのである」(教義と聖約138:4)とも教えています。この教義は,スミス大管長の示現の主要なメッセージの一つであり,生者と死者の両方に適用されます。
十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,イエス・キリストの贖罪は天の御父の子供たちに無条件の賜物と条件付きの賜物をもたらし,これらの賜物は生者と死者のどちらにも与えられることについて,次のように説明しています。
「〔イエス・キリストの〕贖罪のもたらす賜物のうち,幾つかは万人に及び,無限であり,無条件に与えられます。これらの賜物にはアダムの最初の背きの代価を〔主が〕支払って〔くださる〕ことが含まれています〔信仰箇条1:2参照〕。もう一つ万人に及ぶ賜物は,現在,過去,未来にわたって地上に生を受けるすべての男女,子供が死からよみがえることです。
キリストの贖罪のもたらす恵みには,このほかに,条件付きのものがあります。そうした恵みを享受できるかどうかは,神の戒めを熱心に守るかどうかにかかっています。例えば,全人類は自分で努力しなくてもアダムの罪からは無条件で赦されていますが,自分の犯した罪を赦されるには,キリストを信じる信仰を持ち,悔い改め,主の名によってバプテスマを受け,聖霊の賜物を受けて,キリストの教会の会員として確認され,人生の残る旅路を忠実に堪え忍んで歩まなければなりません。……
もちろん,キリストの恵みによらなければ,無条件か条件付きかを問わず,贖罪の祝福を受けることはできません。贖罪の無条件の祝福の方が労せずして与えられるものであることは明らかです。しかし条件付きの祝福の方は,従順でありさえすれば自分の力だけで完全に得られる,というものではありません。人は忠実な生活を送り,神の戒めを守ることによって,さらに様々な特権を得ることができます。けれども,それはなお主が惜しみなく与えてくださるのであって,自分の力で手に入れるものではないのです。モルモン書は『聖なるメシヤの功徳と憐れみと恵みによらなければ,だれも神の御前に住める者がいない』とはっきり宣言しています〔2ニーファイ2:8〕。
神はこれと同じ恵みによって,幼子や知的障がいを持つ人,生きている間にイエス・キリストの福音を聞くことのなかった人などを救われます。こうした人たちはキリストの贖罪の普遍的な力によって贖われ,死後,霊たちが復活を待つ霊界において,完全な福音を受ける機会を得ます〔アルマ40:11;教義と聖約138章参照。ルカ23:43;ヨハネ5:25と比較〕。」(「イエス・キリストの贖罪」『リアホナ』2008年3月号,35-37参照)
教義と聖約138:5-11。「わたしは……ペテロの第一の手紙の第三章と第四章を読んだ」
ジョセフ・F・スミス大管長の,教義と聖約138章に記録されている示現によって,キリストは「あなたがたを神に近づけようとして,自らは義なるかたであるのに,不義なる人々のために,……罪のゆえに死なれた」,またキリストは「獄に捕われている霊どものところに下って行き,宣べ伝えることをされた」というペテロの言葉(1ペテロ3:18-19)の意味が明らかにされました。「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは,彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが,霊においては神に従って生きるようになるためである。」(1ペテロ4:6)さらに,ジョセフ・F・スミス大管長の息子であるジョセフ・フィールディング・スミス大管長によって,ペテロの教えが次のように解釈されました。「〔死者の贖いという〕この大いなる業を始められたのは救い主であった。すなわち,主は獄へ行ってそこに囚われていた霊に説き,彼らが悔い改め,彼らのために亡くなったイエス・キリストの使命を受け入れるなら,彼らが肉にあっては人として(言い換えれば福音の原則に従って)裁きを受け,霊にあっては神に従って生きられるようにされた。」(Doctrines of Salvation, 2:132–33)
教義と聖約138:12-24
ジョセフ・F・スミス大管長は,救い主の訪れを霊界で待つ義人たちを見る
教義と聖約138:12-19,23-24。「栄光ある復活の望みを確固として持って」
ジョセフ・F・スミス大管長は,アダムの時代からイエス・キリストの死までの間に生きた,「非常に多くの」,「大群衆」となった義人の霊たちが,救い主にまみえるために集まっているのを見ました(教義と聖約138:12,18)。これらの義にかなった男女は,「死すべき世に住んでいた間,イエスの証に忠実で」あり,「栄光ある復活の望みを確固として持って死すべき世を去った」者たちでした(教義と聖約138:12,14)。しかし,これらの義人の霊たちは,自分は「囚われ人」として「死の縄目」もしくは「死の鎖」によって縛られていると見なしていました(教義と聖約138:16,18)。これらの霊たちは,「その霊が体から長い間離れていることを一つの束縛と考え〔て〕」いたのです(教義と聖約138:50)。そのため,彼らは霊界に「神の御子が現れ〔た〕」時を「解放の時」と見なしました(教義と聖約138:18)。旧約聖書の預言者イザヤが約束したように,贖い主は「忠実であった囚われ人に自由を宣言され」ます(教義と聖約138:18。イザヤ61:1も参照)。この解放は,イエス・キリストが死から復活され,天の御父のすべての子供たちが同様に復活するための道が切り開かれたときに可能となりました。
七十人のポール・V・ジョンソン長老は,次のように説明しています。「復活した後,霊が再び肉体を離れることはありません。救い主の復活が完全に死に打ち勝ったからです。わたしたちが永遠の目的を達成するには,この不死不滅の命—霊と肉体の両方が永遠に一つとなること—が必要なのです。霊と不死不滅の体が分離しないように完全に結合すると,『満ちみちる喜びを受ける』〔教義と聖約93:33;138:17〕ことができます。実際のところ,復活がなければ,わたしたちは満ちみちる喜びを受けることはなく,永遠に惨めな状態となります〔2ニーファイ9:8-9;教義と聖約93:34参照〕。忠実で義にかなった人々でさえ,肉体と霊が分離した状態を囚われの状態と考えています。わたしたちは復活を通してこの囚われの状態から解き放たれます。つまり,死の縄目または鎖から贖われるのです〔教義と聖約138:14-19〕。霊と肉体の両方がなければ,わたしたちは救われません。」(「もはや,死もなく」『リアホナ』2016年5月号,121-122)
教義と聖約138:12-17。「霊と体が決して再び分離することのないように結び合わされるのである」
エルサレムのイエス・キリストに従う者たちは,キリストが十字架上の死を見て悲しみと混乱を経験しましたが(マタイ27:55-58;マルコ15:40-43;ルカ23:49;ヨハネ19:25-27参照),救い主は死後に霊界を訪れられ,「喜び」とともに迎えられました(教義と聖約138:18)。「神の御子が霊界に来〔られる〕のを待っていた」忠実な聖徒たちの霊は,自分たちがやがて「死の縄目からの贖い」を受け,それによって肉体と霊が「決して再び分離することのないように」結び合わされることを知っていました(教義と聖約138:16-17)。預言者ジョセフ・スミスは次のように述べています。「わたしたちがこの地上に来たのは,肉体を得て,日の栄えの王国において神の前にその肉体を清い状態で差し出すためです。偉大な幸福の原則は,肉体を得ることの中にあります。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』211)
十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン会長は次のように説明しています。「やがて時が来ると,それぞれの『霊と体は再び結合して完全な形になり,手足も関節も……その本来の造りに回復され』〔アルマ11:43。伝道12:7;アルマ40:23;教義と聖約138:17も参照〕,もう決して分かれません。」(「神に感謝しましょう」『リアホナ』2012年5月号,79)
教義と聖約138:20-22。「しかし,悪人のところへは,御子は行かれなかった」
霊界へのイエス・キリストの訪れについて自身が受けた示現に関して,ジョセフ・F・スミス大管長は,救い主は「神を敬わない者や,肉体にあるときに自らを汚して悔い改めなかった者の中」には,「行かれなかった」(教義と聖約138:20)ことに言及しています。また,救い主は「昔の預言者たちの証と警告を拒んだ不従順な者」(教義と聖約138:21)のもとも訪れられませんでした。教義と聖約138:37によれば,悪人のもとへは,その「背反と戒めに対する背きのゆえに」,救い主「御自身が行くこと〔は〕できなかった」のです。
スミス大管長はまた,霊界での悪人の状態と義人の状態の違いについて次のように説明しています。「〔悪人〕のいる所では暗闇が支配していた。しかし,義人の間には平安があった。」(教義と聖約138:22。アルマ40:12-14も参照)十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,救い主が霊界を訪れられる前は,義人の霊と悪人の霊に間に「淵」があったと教えています。
「キリストが,義人が悪人と交わり,悪人に福音を宣べ伝えることができるように,パラダイスと地獄の間の淵に橋をおかけになるまで,地獄にいる悪人は,パラダイスにいる義人と接触できない場所に閉じ込められていました。……
パラダイスにいる義人の霊が,地獄にいる悪人の霊に救いのメッセージを伝えるように任じられたことで,善い霊と悪い霊がある程度交わるようになりました。悔い改めは,地獄にいる霊たちに対して獄の扉を開きます。地獄の鎖につながれた者たちは,悔い改めることで,暗闇,不信仰,無知,罪から解放されます。これらの障害を乗り越えるなら,すなわち光を得,真理を信じ,英知を得,罪を捨て,地獄の鎖を断ち切るなら,彼らはたちまち地獄から解放され,パラダイスの平安の中で義人とともに住むことができるのです。」(Mormon Doctrine, 2nd ed. [1966], 755)
教義と聖約138:25-60
ジョセフ・F・スミス大管長は,救い主が霊界において福音の宣教をどのように組織されたかを学ぶ
教義と聖約138:30-37。「肉においては人間として裁きを受ける」
霊界への救い主の訪れについて自身が受けた示現の中で,ジョセフ・F・スミス大管長は,死者の贖いをもたらすという神の計画を成し遂げるために,「力と権能をまとった使者たち」が「任じ〔られ〕,暗闇の中にいる者たち,すなわちすべての人の霊のもとへ行って福音の光を伝えるように」命じられたこと,そして「真理を知らずに罪のうちに死んだ者や,預言者たちを拒んで背きのうちに死んだ者」に福音が宣べ伝えられたこと(教義と聖約138:30,32)を知りました。これらの霊たちに教えられたメッセージは,イエス・キリストの教義を中心とするものであり,天の御父の生きている子供たちに教えられるメッセージと同じです(教義と聖約138:33-34参照)。天の御父の王国に入りたいと願う人は皆,生者も死者も,福音の原則と儀式を受けなければなりません。わたしたちの神権時代においては,預言者ジョセフ・スミスが死者のための身代わりのバプテスマの教義を紹介した1840年8月15日以降,死者もこれらを受けられるようになりました(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』403参照)。天の御父は,御自身のすべての子供たちが同じ基準に従って裁きを受けられるように,福音を現世で聞くか霊界で聞くかにかかわらず,すべての人に福音を受け入れる,もしくは拒む機会を与えてくださいます。
教義と聖約138:38-52。「偉大な力ある者たちの中に」
自身が受けた霊界の示現について説明する中で,ジョセフ・F・スミス大管長は,救い主がお教えになった義にかなった霊たちの一部として,古代の預言者や,「わたしたちの栄光ある母〔と〕……多くの忠実な娘たち」(教義と聖約138:39)などのそのほかの人々の名前を数多く挙げています。これらの人々には,「〔イエス・キリスト〕が死者の中から復活された後に出て来て,御父の王国に入り,そこで不死不滅と永遠の命を冠として受け,……主を愛する者たちのために取っておかれたすべての祝福にあずかる者となる」ための「力」が与えられました(教義と聖約138:51-52)。これらの祝福を受けることは,神権の儀式と力を通して可能になります。
教義と聖約138:53-56。「霊の世界において最初の教えを受け」
旧約聖書の預言者アブラハムは,与えられた示現の中で前世を見ました。神のすべての霊の子供たちの中で,何人かは,アブラハム自身のように,「高潔で偉大」な者たちであり,地上における神の王国を「治める者」となるように「選ばれ」ていました(アブラハム3:22-23)。ジョセフ・F・スミス大管長も,霊界の示現の中で「高潔で偉大な者たち」を数多く見ました(教義と聖約138:55)。これらの「高潔で偉大な者たち」の中には,父ハイラム・スミス,おじの預言者ジョセフ・スミス,そしてそのほかの初期の教会指導者たちが含まれていました(教義と聖約138:53)。スミス大管長はまた,これらの指導者たちに加えて,「ほかの多くの者」を見ました。彼らは「霊の世界において最初の教えを受け,主の定められたときに出て行って人々の霊の救いのために主のぶどう園で働く準備をした」のでした(教義と聖約138:56)。これは予任の教義を指しており,次のことを教えています。「前世の霊界において,神はある霊たちを任命し,彼らが死すべき世で特定の使命を果たすようにされました。……予任は一人一人がある特定の召しや責任を受けるという保証ではありません。そのような機会は,予任が前世で義を選んだ結果与えられたのとまったく同様に,現世で選択の自由を義にかなって行使した結果与えられるものです。」(「予任」topics.lds.org参照)
霊的な性質を育むことの大切さについて話す中で,ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように教えています。
「あなたの霊は永遠の存在です。……
天の御父は非常に長い期間あなたのことを御存じでした。御父の息子あるいは娘として,あなたはまさにこの時代にこの世に来て,地上における御父の偉大な業において指導者となるように御父によって選ばれました〔アルマ13:2-3;教義と聖約138:38-57参照〕。あなたは身体的特性のために選ばれたのではなく,雄々しさ,勇気,心の誠実さ,真理に対する渇き,知恵に対する飢え,ほかの人々に仕えたいという望みなど,霊的な特質のために選ばれたのです。
あなたは前世でこれらの特質の一部を伸ばしました。ほかにもこの地上で伸ばせる特質があり,根気強くそれらを求めるときに伸ばすことができます〔1コリント12章;14:1-12;モロナイ10:8-19;教義と聖約46:10-29参照〕。」(「永遠のための決断」『リアホナ』2013年11月号,107)
教義と聖約138:54。「神殿を建て,そこで死者の贖いのために儀式を執行すること」
ジョセフ・F・スミス大管長は,死者の救いにおいて神殿と身代わりの儀式の業が果たす重要な役割について次のように強調しています。「わたしたちは自分自身とわたしたちを頼るすべての人を救うまでは自分の業を終えることはないでしょう。なぜならわたしたちはキリストと同じように,シオン山の救い手になるはずだからです。わたしたちはこの使命を与えられています。死者はわたしたちなしに完全ではなく,わたしたちは死者なしに完全ではありません〔教義と聖約128:18参照〕。わたしたちには死者に代わってなすべき使命があります。無知と地上にいたときに置かれていた不幸な境遇のために,永遠の命への準備ができていない人々を解放するために,なすべき仕事があります。わたしたちは死者が自分でできない儀式,死者が獄から解き放たれるために欠くことのできない儀式を執行し,彼らが霊にあって神に従う生活をし,肉にある人として裁きを受けることができるように,門を開かなければなりません〔教義と聖約138:33-34参照〕。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・F・スミス』410)
教義と聖約138:57。「忠実な〔者〕たちが,……死者の霊たちの大いなる世界において〔働きを続ける〕」
「死者の霊たち」(教義と聖約138:57)が,イエス・キリストを信じる信仰を働かせ,罪を悔い改め,彼らのための身代わりの儀式を受けるためには,彼ら自身が福音のメッセージを聞かなければなりません(教義と聖約138:33参照)。ジョセフ・F・スミス大管長は,示現の中で,「この神権時代の忠実な長老たちが,死すべき世を去っても彼らの働きを続け,死者の霊たちの大いなる世界において暗闇と罪の束縛の下にいる者たちの間で,……福音を宣べ伝えている」のを見ました(教義と聖約138:57)。スミス大管長がこの示現を見る何年も前に,ウィルフォード・ウッドラフ大管長(1807-1898年)は,霊界における伝道活動について次のように教えています。「信仰を持ってこの世を去った使徒,七十人,長老などは皆,幕の向こう側へ行くとすぐに,教導の業を開始します。そこには,宣べ伝える〔対象の〕人が,この世の千倍もいます。……彼らは幕の向こう側でなすべき業があります。人が必要とされていて,召されるのです。」(in “Discourse by Prest.Wilford Woodruff,” Deseret News, Jan. 25, 1882, 818)
ジョセフ・F・スミス大管長は,男性とともに,忠実な女性も,霊界で福音を宣べ伝えるように召されると教えています。「さて,世界の始まり以後,代々,福音について知らないまま,地上で生き,死んでいったこれら何百万ものすべての霊たちの中の少なくとも半分は女性と考えられる。これらの女性たちには,だれが福音を宣べ伝えるのであろうか。福音について知ることなく死んでいった女性たちの心に,だれがイエス・キリストの証を伝えるのであろうか。わたしの考えでは,これは単純なことである。業をなすよう任命され,聖任され,それに召され,女性を教え導くために聖なる神権の権能によって権能を受けたこれらの善良な姉妹たちが,生者と死者のための神の家において,女性に福音を宣べ伝え,教え導く権能と力をすべて与えられるであろう。」(Gospel Doctrine, 5th ed. [1939], 461)
教義と聖約138:58-60。「悔い改める死者は,……贖われるであろう」
地上に生きている天の御父の子供たちが,教えられた福音のメッセージを受け入れるか拒むかを自由に決めることができるのと同じように,死者もまた,自分のために行われる身代わりの業を受け入れるかどうかを選択することができます。ロレンゾ・スノー大管長(1814-1901年)は,福音が霊界の人々にどのように受け入れられるかについて,次のように教えています。「福音が獄にいる霊たちに宣べ伝えられるとき,その成果は,現世で長老が説いて得られる成果よりはるかに大きい,とわたしは,強く,信じています。福音を説かれたときに受け入れない霊は,ごくわずかであるとわたしは信じています。霊界の状態は現世より何千倍も好ましいでしょう。」(“Discourse by President Lorenzo Snow,” The Latter-day Saints’ Millennial Star, Jan. 22, 1894, 50)