「第44章:教義と聖約111-114章」教義と聖約 生徒用資料
「第44章」教義と聖約 生徒用資料
第44章
教義と聖約111-114章
紹介とタイムライン
1836年の夏,預言者ジョセフ・スミスとほかの教会の指導者たちは,教会の負債を支払う助けとなる手段を探してマサチューセッツ州セーレムまで旅をした。1836年8月6日,これらの兄弟たちがセーレムに滞在していたとき,主は預言者に教義と聖約111章に記録された啓示をお与えになった。この啓示で,主は「シオンのため〔の〕……多くの宝を〔セーレム〕に持っている」(教義と聖約111:2)と預言者に断言し,教会の負債とシオンの将来に対する懸念に対処された。
1837年,十二使徒定員会の会長であったトーマス・B・マーシュは,オハイオ州カートランドの十二使徒定員会の会員の間における反発と不和について心配していた。また,彼は伝道の業についても疑問を持っていた。彼は預言者ジョセフ・スミスからの勧告を求め,1837年7月23日,主は教義と聖約112章に記録されている啓示をお与えになった。この中で,主はトーマス・B・マーシュに対し,十二使徒定員会の業と,その会長としての彼の召しについて指示された。
1838年3月,オハイオ州カートランドからミズーリ州ファーウェストに移住した後,預言者ジョセフ・スミスはイザヤ書の特定の節に関する質問に対して霊感による回答を受け,口述した。これらの質問と回答は教義と聖約113章に記録されており,末日の回復とシオンの贖いに関するイザヤの預言を明確にしている。
1838年4月11日,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約114章に記録されている啓示を受けた。この啓示で,主はデビッド・W・パッテンに将来の伝道に備えるよう指示され,反抗的な教会指導者たちには,彼らが忠実でなければ彼らの「職」,つまり召しを失うと警告された(教義と聖約114:2)。
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1836年8月5日預言者ジョセフ・スミスと同僚たちがマサチューセッツ州セーレムに到着した。
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1836年8月6日教義と聖約111章が与えられた。
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1837年春と夏オハイオ州カートランドの様々な教会員と指導者たちが,預言者ジョセフ・スミスに反論した。
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1837年夏使徒であるトーマス・B・マーシュ,デビッド・W・パッテン,ウィリアム・スミスが,十二使徒定員会における反発と不和に対処するためにミズーリ州ファーウェストからオハイオ州カートランドに赴いた。
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1837年7月23日教義と聖約112章が与えられた。
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1838年1月12日預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,暴徒による暴挙から逃れるためにオハイオ州カートランドから逃げ,ミズーリ州ファーウェストへの旅を始めた。
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1838年3月教義と聖約113章が与えられた。
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1838年4月11日教義と聖約114章が与えられた。
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1838年10月25日教義と聖約114章に記録されている啓示で主がデビッド・W・パッテン長老にお話しになってから6か月後,パッテン長老はクルックト川の戦いで銃撃され,致命傷を負った。
教義と聖約111章:追加の歴史的背景
1836年7月25日,預言者ジョセフ・スミス,ハイラム・スミス,シドニー・リグドン,オリバー・カウドリは,オハイオ州カートランドを出発し,ニューヨーク市とボストンを旅してから,1836年8月5日にマサチューセッツ州セーレムに到着しました。9月半ばにカートランドに戻る前に,3週間セーレムに滞在しました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, ed. Brent M. Rogers and others [2017], 271–72.)これらの教会指導者がセーレムに行った理由を説明する当時の文書はありませんが,後の記述によってその旅の考えられる理由についての洞察が幾つか与えられています。
1836年夏,預言者ジョセフ・スミスやほかの教会指導者たちは教会の財政について深く心配していました。それ以前の何年かで,教会指導者は主の命令に従ってカートランド神殿を建て,オハイオ州とミズーリ州に土地を購入し,シオンの陣営に資金提供をしたことで,教会は多額の負債を負っていました。また教会は家を追われた教会員たちのためにミズーリ州に土地を購入する財源を必要としていました。1834年,主は預言者とそのほかの教会指導者たちに「すべての負債を返済する」ように指示されました(教義と聖約104:78)。しかし,ミズーリ州インディペンデンスのシドニー・ギルバートの商店やウィリアム・W・フェルプスの印刷所といった収入を生み出す事業を失っていたため,主の指示を果たすことができませんでした。
預言者ジョセフ・スミスと同僚たちがマサチューセッツ州セーレムを訪れた53年後,元教会員であったエベニーザー・ロビンソンがそのときの訪問についての話を書きました。彼は次のように主張しています。1836年,バージェス兄弟と名乗る教会員がオハイオ州カートランドにやって来て,「マサチューセッツ州セーレムのある家の貯蔵庫に,ある未亡人が所有していた大金が隠されており,そのことについて,またその家の場所を知っている人で,まだ生きているのは自分しかいないと思うと語りました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 274)
預言者ジョセフ・スミスとそのほかの教会指導者が,バージェス兄弟が主張したことを聞いて,教会の負債を幾らかでも返済することができるよう,隠された金を探しにマサチューセッツ州セーレムに行くことを決めた可能性はあります。ロビンソンの記録によると,バージェス兄弟はセーレムで教会の指導者たちと会いましたが,彼は町のことをもはや分からなくなっていたため,金が隠されている家を見つけることができず,その後すぐにセーレムを立ち去ってしまったということです(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 274)。預言者ジョセフ・スミス,シドニー・リグドン,オリバー・カウドリ,ハイラム・スミスはセーレムに家を借りて,それから数週間過ごし,福音を宣べ伝え,地元の史跡を訪ね,教会の負債を払うための宝を手に入れようと試みました。セーレムに到着した翌日の1836年8月6日,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約111章に記録されている啓示を受けました。この啓示は預言者の生存中は教義と聖約の中に含まれず,発表されませんでした。その後,最初に1876年版に含められました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 277)。
教義と聖約111章
主は,セーレムへの旅について預言者ジョセフ・スミスとそのほかの教会指導者たちを慰められ,また教会の負債や,シオンの将来について安心させてくださる
教義と聖約111:1。「あなたがたの愚かな行為にもかかわらず,……不快には思わない」
預言者ジョセフ・スミスと同僚たちがマサチューセッツ州セーレムに旅をした目的の一つは,教会の財政状況を改善しようとしたことと思われます。彼らは,ある家に金が隠されているとバージェス兄弟が主張したことで,「資産を授けて」その負債から「〔彼らを〕救おう」と言われた主の約束が成就する可能性があると考えたのかもしれません。(教義と聖約104:80)
主は御自分の僕たちがセーレムに旅した動機を理解しておられ,「主なるあなたがたの神であるわたしは,あなたがたの愚かな行為にもかかわらず,あなたがたが〔セーレムへの〕この旅をしてきたことを不快には思わない」と宣言されました(教義と聖約111:1)。愚かな行為とは,判断の誤りまたは間違いのことです。これらの兄弟たちが,バージェス兄弟の主張と自分たちの努力に頼って教会の財政難を解決しようとしたことが「愚か」だったのかもしれません。しかし,教義と聖約111章に記録されている啓示の残りの部分全体を通して,主は憐れみをもって,継続的な助けと導きを約束されました。
主がこれらの教会指導者の過ちを認められたことは,過ちを犯すことと罪を犯すことの違いを明確にする助けとなります。十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,わたしたちは皆過ちを犯すということを認め,過ちはわたしたちが成長する助けとなると次のように教えています。
「過ちは現世での成長の過程において避けることはできません。間違いを犯すすべての可能性を避けることは,すべての成長の可能性を避けることになります。タラントのたとえの中で,救い主は,誤った投資による損失のリスクを最小限にすることをあまりにも案じて,タラントを隠し,それを使って何もしなかった一人の僕について話しておられます。その僕は主人から非難されました(マタイ25:24-30参照)。
もし,わたしたちが自分の過ちを正されることを進んで受け入れるなら,無知のために犯した過ちは成長と進歩の源とすることができます。」(“Sins and Mistakes,” Ensign, October 1996, 67)
預言者と同僚たちが過ちを犯したにもかかわらず,主は彼らの旅を実りのある試みに変えるためには何をすべきか教えてくださいました。同様に,わたしたちが心から主に従おうと努力するなら,過ちを犯したとしても,主は,わたしたちが多くの良い成果を収めるように助けることがおできになります。
教義と聖約111:2-4。「わたしは,……あなたがたに与える多くの宝をこの町に持っている」
主は「多くの宝を〔マサチューセッツ州セーレム〕に持って」おられ,「時至って〔主〕が,シオンのために,……集める多くの人が〔セーレム〕に」いると言われました(教義と聖約111:2)。預言者ジョセフ・スミスと同僚たちは,セーレムに滞在中に伝道で成功したことについて何も記録していませんでしたが,この約束が与えられた5年後にその旅による実りを得ました。「1841年7月,〔ペンシルベニア州〕フィラデルフィアの教会の大会で,大管長会のハイラム・スミスとウィリアム・ローは,エラスタス・スノー長老とベンジャミン・ウィンチェスター長老にセーレムについて指示を残しました。これらの指示には〔現在教義と聖約111章に記録されている啓示〕の写しが添えられており,その啓示が成就してセーレムの人々が主の王国に集められる『主の定められた時がすでに来ている』と大管長会の考えが表明されていました。」(エリザベス・キューン「宝が幾つもあるであろう」『啓示の背景』マシュー・マクブライドとジェームズ・ゴールドバーグ編,またはhistory.lds.org。see also The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 275)
1841年9月3日,スノー長老とウィンチェスター長老はマサチューセッツ州セーレムに到着しました。二人は休むことなく教えを説きましたが,最初は成功しませんでした。1週間後,ウィンチェスター長老はフィラデルフィアへ行き,スノー長老はセーレムに残りました。数か月教えを説いた後,1841年11月にスノー長老はセーレムでの初めての改宗者にバプテスマを施しました。1842年3月5日,スノー長老はセーレムに53人の会員から成る支部を組織しました。1843年2月までに,セーレム支部の会員は2倍以上の110人になりました。これらの改宗者の一部は,その地域における教会の成長を助けるためにセーレムにとどまりましたが,多くの改宗者はやがてイリノイ州ノーブーに移住し,その後,聖徒たちとともにソルトレーク盆地に移りました。(キューン「宝が幾つもあるであろう」232,またはhistory.lds.org参照。see also The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 275.)。
預言者ジョセフ・スミスと同僚たちに,「〔主〕が,シオンのために,……集める多くの人が〔セーレムに〕」いると約束されただけでなく(教義と聖約111:2),「わたしはあなたがたの手にこの町を与えて,あなたがたがこれを治める力を持つ」という約束も与えられました(教義と聖約111:4)。それから主は「彼らがあなたがたの心に秘めた事柄を知ることのないようにする」というヘブル語の慣用句を引用されました(教義と聖約111:4。イザヤ3:17も参照)。すなわち,教会員は公然と恥を受けたり,見下されたりすることはないという意味です。主はまた,「金銀に関する」セーレムの富は,「あなたがたのものとなる」ことも示され(教義と聖約111:4),セーレムにあるこの世的な富もシオンの益となることを示唆されました。
教義と聖約111:5。「あなたがたの負債について心配することはない」
1834年4月23日,主は教会指導者に「すべての負債を返済する」ように言われ,「あなたがたが熱心かつ謙遜であり,信仰をもって祈るならば,見よ,わたしは貸し主の心を和らげ,その間に資産を授けてあなたがたを救おう」と約束されました(教義と聖約104:78,80)。2年後,カートランド神殿のために土地を購入して神殿を建て,オハイオ州とミズーリ州に土地を購入し,シオンの陣営に資金提供をしたことで,教会はさらに多くの負債を負いました。預言者ジョセフ・スミスとそのほかの教会指導者たちは,どうやって教会の負債を返済するかについて心配が大きくなっていきました。1836年8月6日にマサチューセッツ州セーレムにて預言者ジョセフ・スミスが受けた啓示の中で,主は教会指導者たちを次のように再び慰められました。「あなたがたの負債について心配することはない。わたしはそれを返済する力をあなたがたに与えるからである。」(教義と聖約111:5)主は御自分の時においてその約束を果たされ,ついに教会はそのすべての負債を返済することができました(『歴代大管長の教え—ロレンゾ・スノー』142参照)。
教義と聖約111:7-8。「あなたがたが……とどまるようにと,わたしが望む場所は,……わたしの御霊……によって,あなたがたに知らされるであろう」
主は,預言者ジョセフ・スミスと同僚たちに,「〔マサチューセッツ州セーレム〕と周りの地域にとどま〔る〕」よう指示されました(教義と聖約111:7)。主はこれらの教会指導者たちに,どこに「とどまる」,すなわち滞在するべきかは「〔主の〕御霊の平安と力によって」知らされると約束されました(教義と聖約111:8)。わたしたちもまた,御霊の促しを通して主の導きを受けることができます。
十二使徒定員会のL・トム・ペリー長老(1922-2015年)は,この原則を示す経験について次のように話しています。ペリー長老は,中央幹部に召される前に,数年間勤めていた小売会社が大きな会社と合併したことについて次のように説明しました。
「数か月もたたぬうちにわたしは大変難しい局面に立たされてしまいました。新しいオーナーたちが,信頼を裏切るような行為をするように求めてきたのです。わたしにはとてもできないことでした。お互いの主張を譲らずに,長い間話し合いを続けました。難局を打開する道がないと感じたわたしは,会社を辞めることを了承しました。わたしにとってこのタイミングは最悪でした。妻は重病で,多額の医療費が必要でした。娘は家を離れて大学に通っており,息子は伝道中でした。それからの1年間というものは,コンサルティングの仕事から得る収入だけで,あらゆる費用を支払わなければなりませんでした。
約1年間苦労した末に,カリフォルニアのある会社から,仕事の件で話し合いたいのでカリフォルニアまで来るようにとの電話連絡を受けました。わたしは早速その会社へ行って交渉した結果,非常に良い条件で契約できることになりました。わたしはこの機会をとても喜んでいました。いったん家に帰って家族と相談してから返事をしたいと言いました。わたしは家に戻ると,家族とともに注意深く検討した結果,これは正しいことであって実行すべきだという結論に達しました。ところが仕事を引き受けることを会社に連絡しようとしていると,わたしはかつて聞いたこともないほど力強く告げる声を聞いたのです。それは『その仕事を断りなさい』というものでした。この声を無視できなかったわたしは仕事を断りましたが,残念な気持ちをぬぐい去れませんでした。なぜそのように言われたのか訳が分かりませんでした。2階の寝室へ行くと,ベッドに腰を下ろして,聖典を開きました。何げなく開いた箇所が教義と聖約第111章でした。この章は当時わたしたち家族が住んでいたマサチューセッツ州で与えられた啓示で唯一,教義と聖約に収められているものでした。これらの聖句が文字どおりページから飛び出してきて,わたしの目に留まりました。
『あなたがたの負債について心配することはない。わたしはそれを返済する力をあなたがたに与える……。
この地と周りの地域にとどまりなさい。』(教義と聖約111:5,7)
心に大きな平安が生まれました。それから数日もたたぬうちに,わたしはボストンで申し分のない条件の仕事を見つけることができました。そして数か月後に,当時大管長会の第一顧問であったハロルド・B・リー管長を迎えて開く大会を主催するという特権にあずかりました。大会は大成功でした。わたしたちはリー管長の言葉に感動しました。翌年の7月にジョセフ・フィールディング・スミス大管長が亡くなり,リー管長が大管長に召されました。それから3か月後に,わたしはソルトレークへ来るようにとの連絡を受けました。そしてソルトレークへ向かうと,仕事を辞めて中央幹部になるようにとの召しを受けたのです。
もしあのとき,ボストンを離れてはならないと勧告する聖なる御霊に耳を傾けなかったとしたら,どうなっていただろうかと考えることがよくあります。」(「善を行うように導く御霊」『聖徒の道』1997年7月号,79-80)。
教義と聖約111:9-10。「この町のもっと昔の住民と創建者たちについて熱心に調べなさい」
「この町のもっと昔の住民と創建者たちについて熱心に調べなさい」(教義と聖約 111:9)と主が命じられたことに従うために,預言者ジョセフ・スミスと同僚たちは,マサチューセッツ州セーレムに滞在している間に,セーレムとその周りの地域の至る所で博物館,史跡,図書館を訪れました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 278, note 248)。彼らは,その町が1600年代初めに清教徒の移住者によって築かれたことや,アメリカ独立戦争とアメリカ合衆国の建国について詳しく学びました(see Manuscript History of the Church, vol. B-1, page 749, josephsmithpapers.org)。
時間を取ってセーレムの魔女裁判について学んだ兄弟たちもいました(see Oliver Cowdery, “Prospectus,” Latter Day Saints’ Messenger and Advocate, Oct. 1836, 388–91)。さらに,預言者ジョセフ・スミスと同僚たちは,宗教的不寛容によって反カトリックの暴徒たちが破壊したチャールストン・ウルスラ会女子修道院の史跡も訪れました。この経験について,預言者は次のように書き記しています。「人はいつになったら人と戦うことをやめ,そして良心の命じるままに神を礼拝するという神聖な権利を奪うことをやめるのだろうか。聖なる父よ,その日を早めてください。」(in Manuscript History of the Church, vol. B-1, page 749, josephsmithpapers.org)
教義と聖約111:11。「わたしはあなたがたの益となるように,あなたがたが受け入れることのできる早さで万事を整えよう」
主は,御自身の知恵,憐れみ,予知によって,預言者ジョセフ・スミスと同僚たちに,将来祝福を受けるために,自分たちの「愚かな行為」(教義と聖約111:1)から学び,マサチューセッツ州セーレムの人々のために土台を築くうえで経験していることから益を得られる機会をお与えになりました。わたしたちが主に忠実であり続けるなら,主は「〔わたしたちの〕益となるように……万事を」「整え〔る〕」,すなわち取り計らうことがおできになります。成長するための祝福や機会は,必ずしもわたしたちが望んでるような形では来るわけではないかもしれませんが,適度に,そして適切な時に,「〔わたしたちが〕受け入れることのできる早さで」(教義と聖約111:11)やってきます。
教義と聖約112章:追加の歴史的背景
1836年10月,オハイオ州カートランドの町を発展させ,教会の負債を減らす計画の一環として,預言者ジョセフ・スミスとそのほかの教会指導者たちは,カートランドとその周辺に土地を購入し,カートランド安全協会銀行と名付けられる銀行をカートランドに開く準備をしました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 285)。
オハイオ州からは銀行設立免許,すなわち銀行取引を開始する権限を受けることができませんでしたが,1837年1月2日に預言者ジョセフ・スミスとそのほかの教会指導者は,合資会社としてカートランド安全協会を再組織しました。これは,教会員が協会の株式を購入することによって,カートランド安全協会の共同所有者となり,協会の運営の資金供給を助けることを意味します。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 286–89.)Latter Day Saints’ Messenger and Advocate(『末日聖徒のメッセンジャー・アンド・アドボケイト』)の1837年1月号で,預言者は教会員に新しい協会の株式を購入するように呼びかけました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 325)。
カートランド安全協会は設立して間もなく反対に直面しました。地元の新聞は,安全協会が発行する紙幣は価値がないと主張する記事を載せ,読者にその紙幣を受け入れないように警告しました。カートランドやその周辺に住む人も,カートランド安全協会が事業をやめた,顧客には協会の紙幣を通常の通貨と交換させないなどのうわさを広めて,「協会に対する反対運動を活発に行いました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 287–88)また,銀行設立免許もなしに銀行のような業務を行っているとして,安全協会の幹部に対して幾つかの訴訟も起こされました。さらに,安全協会は株主から十分な資金を得られないという問題にも直面しました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 291–93.)これらの困難な出来事に加えて,1837年春に,後に「1837年恐慌」として知られる国家的経済危機が始まり,合衆国全土で何百もの銀行が閉鎖に追い込まれました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 363)。
預言者ジョセフ・スミスとその家族は,カートランド安全協会に多額の投資をしていたため,会社が継続しなければそのほとんどを失っていたかもしれません。しかし,安全協会が継続困難になったとき,ほかの人たちは株式を償還していましたが,ジョセフとスミス家のほかの家族はジョセフの勧めに基づいて,自分たちは償還しないことを選択しました。その代わりに,スミス家は自分たちの株式をオリバー・グレインジャーとジェレド・カーターに渡し,すべての負債が確実に返済できるようにしました。(See Mark Lyman Staker, Hearken, O Ye People: The Historical Setting for Joseph Smith’s Ohio Revelations [2009], 528.)その年の7月までに,預言者ジョセフ・スミスはカートランド安全協会の運営をほかの人たちに移譲しました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 41)。1837年の夏の終わり近くに,カートランド安全協会は閉鎖しました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 366)。
このころ教会はほかの困難な出来事にも直面していました。後に中央扶助協会の第二代会長となったエライザ・R・スノーは,カートランドの教会員の多くは高慢になり,主の御霊を失ったと書き記しています。次のように書いています。「カートランドでは教会員の間に大きな変化が続いていました。一部の十二使徒の心の中にも投機熱〔裕福になる望み〕がひそかに入り込み,定員会全員ではなくてもほとんとが,多かれ少なかれ影響されました。」(Biography and Family Record of Lorenzo Snow [1884], 20)1837年は年間を通して,経済不況が悪化し,教会に対する反対は着実に増加しました。幾人かの教会指導者や教会員たちは公然と預言者ジョセフ・スミスを非難し,カートランド安全協会の問題を預言者のせいにし,堕落した預言者と呼ぶ者さえいました。カートランドの十二使徒定員会の会員のうち,ブリガム・ヤングとヒーバー・C・キンボールの二人だけが,この時期に預言者を支持し続けました。(See Ronald K. Esplin, “‘Exalt Not Yourselves’: The Revelations and Thomas B. Marsh, an Object Lesson for Our Day,” in Sperry Symposium Classics: The Doctrine and Covenants, ed. Craig K. Manscill [2004], 281.)
十二使徒定員会会長で当時ミズーリに住んでいたトーマス・B・マーシュは,オハイオ州カートランドの教会員が受けている困難について聞き,同僚である定員会の会員の中に預言者ジョセフ・スミスに背く者たちがいることを知りました。マーシュ会長は大変心配しました。また,同僚の使徒であるパーリー・P・プラットが定員会会長の助言を求めることなく,外国に伝道に出る計画をしていたことを知って不快に思いました。マーシュ会長は,外国の伝道部を管理するのは,十二使徒定員会会長としての自分の責任だと信じていました。(See Esplin, “Exalt Not Yourselves,” 281–82.)
1837年5月10日,マーシュ会長とデビッド・W・パッテン長老は,パーリー・P・プラットに手紙を送り,まず自分たちに会うことなく伝道に出ないように勧告しました。手紙の中で,マーシュ会長は十二使徒定員会のそれぞれの会員に,1837年7月24日にオハイオ州カートランドで開かれる集会に出席するように呼びかけて,定員会の中の問題を収め,イギリスへの伝道を計画しようとしました。これらは定員会で先の2月から話し合っていたことでした。(See “Letterbook 2,” pages 62–63, josephsmithpapers.org.)マーシュ会長,パッテン長老,ウィリアム・スミス長老は,1837年の夏に,7月24日の十二使徒定員会との集会に出席するため,ミズーリ州ファーウェストからオハイオ州カートランドへ赴きました。しかし,カートランドに着く前に,預言者ジョセフ・スミスはヒーバー・C・キンボール長老をイギリスへの伝道に召し,オーソン・ハイド長老は自分も行くという望みを表明しました。この二人の使徒は,1837年6月13日にカートランドを出発し,イギリスでの伝道に向かいました。1837年7月8日にマーシュ会長がカートランドに到着したとき,キンボール長老とハイド長老が自分の承認なしに伝道に召されたことを知って,気分を害しました。(See Esplin, “Exalt Not Yourselves,” 281–83; see also The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 410–11.)
マーシュ会長は伝道の召しについて気分を害していたにもかかわらず,カートランドにいる十二使徒定員会の会員の間で一致が回復されるように熱心に働きました。到着後の最初の数週間の間に一致することに幾分成功しましたが,マーシュ会長は「まだ,定員会の会員が反抗的であったことや,外国での伝道の業が自分の関与なしで進んでいることに頭を悩ましていました。自分自身の立場について案じ,また,主が十二使徒をそれでも受け入れてくださるのかを心配し,7月23日に〔預言者ジョセフ・スミス〕のもとに行き,……自分が懸念していることについて話し合いました。」(Esplin, “Exalt Not Yourselves,” 283)それに応じて,預言者は教義と聖約112章に記録されている啓示を受けました。
教義と聖約112章
主はトーマス・B・マーシュに十二使徒定員会と,その会長としての役割について指示される
教義と聖約112:1-2。「あなたの心の中に,……主なるわたしの心にかなわないことが少しばかりあった」
主はトーマス・B・マーシュを,同僚である十二使徒定員会の会員を助けるために祈り,働いていることについて褒められましたが,「あなたの心の中に,またあなた自身に関して,主なるわたしの心にかなわないことが少しばかりあった」ことも認められました(教義と聖約112:2)。なぜ主が「心にかなわない」と言われたか明確ではありませんが,トーマス・B・マーシュがまだ,預言者ジョセフ・スミスがマーシュ会長に相談することなく,キンボール長老とハイド長老をイギリスへの伝道に召したことに気分を害していたからかもしれません。
教義と聖約112:3-10。トーマス・B・マーシュが謙遜であり続けるなら,主は祝福を約束される
トーマス・B・マーシュ会長は,十二使徒定員会会長として,自分がこの神権時代に外国に送られる最初の宣教師でなかったこと,もしくはその業を指示する者ではなかったことに気分を害していたかもしれませんが,主はマーシュ会長に,「地の果てまで〔主の〕言葉を送り出〔し〕」,「多くの国の中」で教えを説く機会がまだあるので,「元気を出しなさい」と言われました(教義と聖約112:4,7)。マーシュ会長の将来の機会は,主が御自分の子供たちすべてのために計画された機会と同様に,自分自身の忠実さに基づいていました。マーシュ会長は忠実であり続けなかったので,これらの約束された機会を受けるのにふさわしくありませんでした。皮肉にも,トーマス・B・マーシュが教会から背教した1年後の1839年に,十二使徒定員会の会員たちはイギリスへの次の伝道に向けて出発しました。
トーマス・B・マーシュの将来の機会について話されたことに加えて,主は彼に具体的な勧告もお与えになりました。「朝ごとに戦い,日々あなたの警告の声を発しなさい」(教義と聖約112:5)という彼に対する主の勧告は,宣教師として彼が「戦〔う〕」,すなわち主のメッセージを大胆に宣言することを示唆しています。主はまたマーシュ会長に,引き続きミズーリに住み,教会の出版物を発行し続けるようにも勧告されました(教義と聖約112:6参照)。それについての具体的な記録は残っていませんが,十二使徒定員会会長として,トーマス・B・マーシュはそこに移住して,定員会の一致を維持し,整えるべきではないかと案じていたのかもしれません。
主はまた,トーマス・B・マーシュに,神に導かれて,祈りに対する答えを受けるために,謙遜になる必要があるとも言われました(教義と聖約112:10参照)。ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)はこの勧告を使って,わたしたちも主の導きを受けるのにふさわしくなれるよう謙遜になるために何ができるか次のように教えています。
「わたしたちの生活には,傲慢がふさわしい場所はありません。うぬぼれがふさわしい場所はありません。利己主義がふさわしい場所もありません。わたしたちには,なすべき偉大な業があります。達成すべきことがあります。教育を得るときには導きが必要です。永遠の伴侶を選ぶときにも助けを必要としています。
主は次のように言われました。『あなたは謙遜でありなさい。そうすれば,主なるあなたの神は手を引いてあなたを導き,あなたの祈りに答えを与えるであろう。』(教義と聖約112:10)
この言葉には何とすばらしい約束が述べられていることでしょうか。わたしたちにうぬぼれや高慢,尊大さがなく,謙遜で従順であるならば,主は手を引いてわたしたちを導き,祈りにこたえてくださるのです。これ以上望むべきことがあるでしょうか。この約束に勝るものはありません。……
柔和で謙遜な人々とは,よく教えを聞く人々であるとわたしは思います。このような人々は,進んで学ぼうとします。生活の中で導きを得るため,進んで静かな細い声のささやきを聞こうとします。主の知恵を自分の知恵よりも尊ぶ人々です。」「若人への預言者の勧告と祈り」『リアホナ』2001年4月号,40)
教義と聖約112:11-14。トーマス・B・マーシュの十二使徒定員会会長としての役割
トーマス・B・マーシュが預言者ジョセフ・スミスに会いに行き,神からの啓示を求めたとき,彼は十二使徒定員会の会員について心配しており,定員会会長としてどのように彼らを助けることができるか知りたいと望んでいました。主は彼に次のように勧告されました。「彼らをほかの多くの人以上に偏って愛してはならない。 しかし,自分自身を愛するように彼らを愛しなさい。……また,十二使徒会の兄弟たちのために祈りなさい。」(教義と聖約112:11-12)主はまた,「わたしの名のために彼らを厳しく訓戒しなさい。そして彼らに,すべての罪のために訓戒を受けさせなさい」とも言われました(教義と聖約112:12)。主はマーシュ会長に,「彼らがわたしに対してその心をかたくなにせず,強情でなければ,彼らは心を入れ替えるので,わたしは彼らを癒そう」と約束されました(教義と聖約112:13)。
教義と聖約112:11-13に記録されている,トーマス・B・マーシュの十二使徒定員会会長としての役割に関する主の勧告は,ほかの人を導き,教え,見守るように召されているすべての人に当てはめることができます。ほかの人を導き,見守るように召されている人は,(1)自分が導くように召された人を愛し,(2)彼らのために祈り,(3)罪とその結果について勧告,助言,警告を与え,(4)人は皆,選択の自由が与えられており,主に従うかどうかを自分自身で選ばなければならないことを認識すべきです。
教義と聖約112:15。「自分を高くしてはならない。わたしの僕ジョセフに背いてはならない」
混乱のさなかにあった1837年,オハイオ州カートランドに住んでいた十二使徒定員会の幾人かの会員は,自分たちを高くする罪,すなわち,ほかの人より自分たちの方が優れていて聡明だと思うこと,そして預言者ジョセフ・スミスに背く罪を犯していました(教義と聖約112:15参照)。例えば,1837年には多くの教会員が経済的な困難に陥っていたので,十二使徒定員会の会員の一部やほかの教会員の中には,預言者ジョセフ・スミスの教会の事業の運営について公然と非難する人がいました。ブリガム・ヤング大管長は,一部の人は預言者がこの世の事柄にかかわるべきではないと感じていたと回想しています(see Discourses of Brigham Young, sel. John A. Widtsoe [1954], 461)。
ヤング大管長はまた,この時期に起こったある出来事で,自分が預言者ジョセフ・スミスを擁護した経験について次のように書いています。「あるとき,十二使徒の数人,モルモン書の証人たち,そのほかの教会の幹部が神殿上階の部屋で評議会を開きました。議題となったのは,預言者ジョセフを罷免し,デビッド・ホイットマーを預言者に任命する方法を確定することでした。父ジョン・スミス,ヒーバー・C・キンボール兄弟を初め,そのような措置に反対する人たちがそこにいました。わたしは立ち上がり,はっきりと強い口調でジョセフが預言者であること,わたしはそれを知っていると言い,そして,彼らが気の済むまでジョセフをののしり,中傷することができても,神の預言者として任命されていることを反故にすることはできず,できるのはただ自分の権能を反故にし,預言者と神に結ばれていたきずなを断ち切り,自ら地獄へ落ちることのみであると言いました。」(in Manuscript History of Brigham Young, 1801–1844, ed. Elden Jay Watson [1968], 15–16; see also Teachings of Presidents of the Church: Brigham Young [1997], 79)
1837年5月29日,「使徒であったルーク・ジョンソン,ライマン・ジョンソン,オーソン・プラットは,虚偽,強要,および無礼な行為を行っているという理由で〔ジョセフ・スミスを含む〕教会の大管長会の会員たちを正式に告発しました。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 365)6月,パーリー・P・プラット,ジョン・F・ボイントンを含むほかの使徒たちは,預言者に対して反対の意志を表明しました。
教義と聖約112章に記録されている主の叱責は,十二使徒定員会会員とすべての教会員に対して,ジョセフ・スミスがなおも神の選ばれた預言者であり,この神権時代の鍵を持っており,主が来られるまでその鍵を持ち続けることを思い起こさせるものでした。(教義と聖約112:15参照)。
教義と聖約112:23-26。「わたしの家にそれは始まり」
教義と聖約112:23は,地上に住む人々の間に起こる背教について述べたイザヤの古代の預言が繰り返されています(イザヤ60:2参照)。教義と聖約112:24-26には,神の裁きが下される順序が示されています。十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,次のように教えています。「主がはっきりと指摘されているように,人々を清め,ふるい分ける裁きは,まず神の家から始められ,それから世界に及ぶからです(1ペテロ4:17;教義と聖約112:25参照)。」(「喜びをもって生きなさい」『聖徒の道』1983年1月号,121)教義と聖約112章に記録されている啓示の中で,主はオハイオ州カートランドに住む教会員に,罪悪を悔い改めなければ,主の罰を受ける最初の者となるであろうと警告されました(教義と聖約112:25-26参照)。
教義と聖約112:30-33。大管長会と十二使徒会は「時満ちる神権時代」の鍵を持つ
預言者ジョセフ・スミスが教義と聖約112章に記録されている啓示を受けたとき,教会は設立されてからまだ日が浅く,教会の管理について幾つかの事柄はまだ規定されていませんでした。この啓示の中で,主は大管長会と十二使徒定員会と彼らが持つ神権の鍵の関係について説明されました。大管長会は教会の最も上位の管理定員会なので,その会員は十二使徒定員会の「助言者および指導者」です(教義と聖約112:30)。預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は次のように宣言しています。「わたしは……最後の王国の鍵を持っています。それはメルキゼデク神権の結び固めの力の下で,世の初めからすべての聖なる預言者たちの口を通して語られてきたすべてのことが満ちる神権時代です。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』511)
十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長(1924-2015年)は,これらの神権の鍵が預言者ジョセフ・スミスに回復されて以来,「神権は連綿として受け継がれています。使徒に与えられた神権の鍵は,常に大管長会と十二使徒定員会の会員によって保たれてきました」と教えています(「十二使徒」『リアホナ』2008年5月号, 84)。
十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,大管長会と十二使徒定員会の会員が持つ神権の鍵について,次のような説明を与えています。
「神の王国の鍵すなわち地上の王国を統治するに当たって大管長会が持つ権威と権能は,初めに天より明らかにされ,次いで使徒として聖任され,十二使徒評議員会の一員として按手聖任された一人一人に啓示の霊により授けられるのです。
しかしこの鍵は大管長会が持つ権能ですから,それを完全に行使することのできる人は一時代に一人しかいません。その人は常に先任使徒であり,管理使徒であり,管理大祭司であり,管理長老です。他の使徒たちに指示を与えることができるのはその人だけであり,その指示は絶対です。
したがって,この鍵は,すべての使徒に与えられてはいますが,使徒の中のだれかが先任使徒となって地上における主の油注がれた者とならないかぎり,ある程度の制限の下に行使されるのです。」(「王国の鍵」『聖徒の道』1983年7月号,39)
教義と聖約112:34。「わたしが来るまで忠実でありなさい」
トーマス・B・マーシュはしばらくの間,教義と聖約112章に記録されている啓示で与えられた勧告に従いました。教会を強めるために働き,預言者ジョセフ・スミスを指示し,1837年7月には預言者とほかの数人とともにカナダに伝道に行きました。しかし,ミズーリ州ファーウェストに戻ってきた後,彼は「ほかの多くの人たちがそうであったように,背教の霊のえじきとなりました。」(ケイ・ダロウスキー「トーマス・マーシュの信仰と堕落」マクブライドとゴールドバーグ『啓示の背景』,またはhistory.lds.org)トーマス・B・マーシュは反抗的で攻撃的なミズーリ州の教会員と,その隣人たちとの間の対立について心配するようになりました。それに加えて,1838年9月,妻のエリザベスは,論争に巻き込まれました。彼女とルシンダ・ハリスは二人とも教会員であり,チーズを作るために十分な牛乳をお互いが確保できるよう,定期的に牛乳を交換することに合意していました。しかし,マーシュ姉妹は乳脂が最も豊富であった部分である「クリーム・ストリッピング」を差し出さずに取っておいたとして,その合意に違反していると非難されました。この問題は,繰り返し教会の指導者のもとに持ち出され,ついに大管長会の前に持ち出されました。そのたびごとに,教会指導者はマーシュ姉妹に過失があると判断しました。トーマス・B・マーシュはこの判断に同意せず,腹を立てました。(ダロウスキー「トーマス・マーシュの信仰と堕落」57-58,またはhistory.lds.org参照。see also George A. Smith, “Discourse,” Deseret News, Apr. 16, 1856, 44.)
このクリーム・ストリッピングに関する状況がトーマス・B・マーシュが教会を離れる原因にはならなかったものの,これとほかの数々の不満とが積み重なって,彼は教会指導者に対して次第に批判的になりました。1838年10月,トーマス・B・マーシュはミズーリの教会員が近隣住人に対する暴力を計画していることが述べられた宣誓供述書に署名しました。これは,1万5,000人の教会員たちをミズーリから追放することになった撲滅令の一因となりました(ダロウスキー「トーマス・マーシュの信仰と堕落」58,またはhistory.lds.org参照。see also George A. Smith, “Discourse,” 44.)。後にトーマス・B・マーシュは次のように回想しています。「わたしは預言者を妬むようになりました。……正しいことは何も目に入らず,悪いことを探すためにすべての時間を使いました。すると,悪魔がわたしを導くようになったのです。怒り,妬み,復讐心という肉の思いは簡単に頭をもたげました。」(“Remarks,” Deseret News, Sept. 16, 1857, 220)トーマス・B・マーシュは,ほぼ20年間教会から遠ざかっていました。1857年9月,最終的に彼はユタ州ソルトレーク・シティーで聖徒たちと和解しました。
教義と聖約113章:追加の歴史的背景
1837年7月までに,オハイオ州カートランドの教会員の間にあった不一致は収まってきました。1837年9月下旬,預言者ジョセフ・スミスとほかの数人は,現地の教会のビジネスを管理するためにミズーリへ行きました。1837年12月,カートランドに戻ったときに,一部の教会員が再び預言者を非難していることが分かりました。1838年1月までに,「教会の反対者,破門された教会員,そのほかの人々が〔ジョセフ・スミス〕やほかの教会指導者の命を脅かし,カートランドでの分離はますます顕著になってきました。」1838年1月12日,預言者は大管長会の会員とそのすべての「忠実な友人たち」に,できるだけ早くカートランドを離れてミズーリに行くようにという指示の啓示を受けました。預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンはその夜,カートランドを離れました。二人の家族は後にオハイオ州ノートンで合流し,1月16日までにミズーリに向けて出発しました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 5: October 1835–January 1838, 441–42.)
1838年3月14日,預言者ジョセフ・スミスとその家族はミズーリ州ファーウェストに到着しました(see Manuscript History of the Church, vol. B-1, page 784, josephsmithpapers.org)。ミズーリに到着後間もなく,預言者は,イザヤ書の聖句についての質問とそれらの質問に対する主の答えを記録し始めました。1838年にミズーリ州ファーウェストに住んでいた判事で教会員だったエライアス・ヒグビーは,イザヤ52:1-2について質問をしたとして名前が挙げられていますが(教義と聖約113:7参照),これらの質問を尋ねた人々とその理由について詳しくは歴史記録に残っていません。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 6: February 1838–August 1839, ed. Mark Ashurst-McGee and others [2017], 50–51.)これらの質問がなされた状況に関する詳細は与えられていませんが,質問とそれに対する主の答えは教義と聖約113章に記録されています。
教義と聖約113章
主はイザヤ書の聖句についての質問にお答えになる
教義と聖約113:1-6。「エッサイの株」,「芽」,「エッサイの根」
1823年9月21日,天使モロナイは預言者ジョセフ・スミスに現れ,「神が〔ジョセフ〕のなすべき業を備えておられる」と告げました(ジョセフ・スミス—歴史1:33)。天使はまた,金版とウリムとトンミムについて話し,それから旧約聖書に記録されている預言を引用し始めました(ジョセフ・スミス—歴史1:34-41参照)。これらの預言を語っている間に,モロナイはイザヤ11章を引用し,「それはまさに成就しようとしていると言〔い〕」ました(ジョセフ・スミス歴史—1:40参照)。15年近く後の1838年3月,預言者ジョセフ・スミスはイザヤ11章に関する質問について述べました。ジョセフが受けた霊感による答えは,この預言の幾つかの要素について説明しています。
教義と聖約113:1-2で,「エッサイの株」はイエス・キリストのことだと述べています。イザヤ11:1の株という言葉は,ヘブライ語の言葉から翻訳されたもので,伐採された木または植えられた木の幹や切り株を指します。教義と聖約113:3-6は,イザヤ11:1で「述べられている……芽」とは「キリストの手の中の一人の僕」であって,イザヤ11:10の「エッサイの根」とは「エッサイの子孫であり,ヨセフの子孫でもあって,……神権と王国の鍵とを正当に所有する者」であることを示しています。
ブルース・R・マッコンキー長老は,イザヤ11:10と教義と聖約113:3-6の中の「芽」と「エッサイの根」の一つの解釈について次のように述べています。「ここで述べられている預言者はジョセフ・スミスであると言うのは誤りでしょうか。その預言者はこの神権時代に神権をもたらし,王国の鍵を授けられ,主の民を集めるための旗を掲げた人です。その人はまた,『キリストの手の中の一人の僕であって,幾分はエフライムの子孫,すなわちヨセフの家の子孫であるだけでなく,幾分はエッサイの子孫でもあり,大きな力を授けられる者』ではないでしょうか(教義と聖約113:4-6)。」(The Millennial Messiah: The Second Coming of the Son of Man [1982], 339–40)
教義と聖約113:7-10。「シオンよ,力を着よ」
教義と聖約113:7-10には,イザヤ52章についてエライアス・ヒグビーが尋ねた質問と,それらの質問に対する答えが含まれています。教義と聖約113:8は,「『シオンよ,力を着よ』という命令」(教義と聖約113:7。イザヤ52:1参照)が,「神が終わりの時に召される者たち,すなわちシオンを元に戻し,イスラエルを贖う神権の力を持つ者たちを指して」述べられていることを示しています。教義と聖約113:10は,シオンへの「その首の縄を解き捨てる」(教義と聖約113:9。イザヤ52:2参照)ようにという命令が,イスラエルの家の「散らされた残りの者」に対して「その主に立ち返〔り〕」,完全な福音を受け入れるよう求めていることだと説明しています。「その首の縄」という言葉は「シオンに下された神ののろい」(教義と聖約113:10)を指しており,神の民が集められて神に立ち返るときに,それは解かれるるのです。
教義と聖約114章:追加の歴史的背景
十二使徒定員会が1835年に初めて組織されたとき,デビッド・W・パッテンは定員会の最初の会員の一人でした。パッテンは肉体的な強さ,献身的な伝道,病人を癒す能力,仲間の教会員を擁護する勇気でよく知られていました(see Lycurgus A. Wilson, Life of David W. Patten: The First Apostolic Martyr [1900], 15–29)。1838年春,幾人かの主要な指導者が背教したときに,デビッド・W・パッテンは,トーマス・B・マーシュとブリガム・ヤングとともに,ミズーリの教会を導き強めるように任命されました(see Wilson, Life of David W. Patten, 52–53)。1838年4月11日,預言者ジョセフ・スミスはデビッド・W・パッテンに関する啓示を受けました。教義と聖約114章に記録されているこの啓示は,パッテン長老に,翌春,伝道に出られるように,個人的な諸事を整えるよう指示を与えました。
約6か月後,デビッド・W・パッテンは,ミズーリの住民グループの捕虜となっていた3人の教会員を救出するためにモルモン民兵のグループを率いました。住民グループは,3人を殺害してその地域の残りのモルモンを焼き払うと脅しました。生じた戦いの中で,パッテン長老は致命傷を負い,数時間後に亡くなりました(see Wilson, Life of David W. Patten, 64–69)。デビッド・W・パッテンの伝記を書いた人によると,パッテン長老がかつて預言者ジョセフ・スミスに次のように話したとウィルフォード・ウッドラフ大管長は伝えたそうです。「パッテン長老が殉教者として死なせてくださるよう主に頼んだと言うと,預言者は強く心を動かされ,深い悲しみを示した。『なぜなら』とデビッドに向かってこう言った。『あなたのような信仰の持ち主が何かを主に求めるなら,願ったことはほとんどの場合かなえられます。』」(in Wilson, Life of David W. Patten, 53)デビッド・W・パッテンの葬儀の日に,預言者は次のように証しました。「ここに横たわっているのは,口にしたことは必ず実行してきた人です。彼は友のために命をささげたのです。」(in Manuscript History of the Church, vol. B-1, page 10 [addenda])デビッド・W・パッテンの忠実さを御覧になられて,後に主は次のことを明らかにされました。「わたしの僕デビッド・パッテン」は「現在わたしとともにいる〔。〕……デビッド・パッテンは,わたしがわたし自身のもとに受け入れた。見よ,彼の神権を彼から取り去る者はだれもいない。」(教義と聖約124:19,130)
教義と聖約114章
主は,デビッド・W・パッテンに伝道の準備をするように指示され,「〔主〕の名を否定する」教会員に警告される
教義と聖約114:1。「来年の春に,……使命をわたしのために果たすように」
十二使徒定員会の会員であったデビッド・W・パッテン長老は,教義と聖約114章に記録されている主の勧告に従って,翌春,伝道に行く備えをするために,諸事を整えました(教義と聖約114:1参照)。預言者ジョセフ・スミスがこの啓示を受けてから間もなくしてパッテン長老が亡くなったことは,「できるだけ早く彼の事業をすべて清算〔する〕」ようにというパッテン長老に対する主の勧告が主の知恵であることを表しています(教義と聖約114:1)。パッテン長老が主に従う決心をしたことは,戦いの中で致命傷を負い亡くなった後に,祝福となりました。パッテン長老は,信仰を保ったことと,自分の人生が正しかったという確信をもってこの世を去ることができました。
また,わたしたちが主の勧告と促しに従うほど十分に主を信頼するなら,主は,わたしたちのために主が計画してくださっているどんなことにでも備えられるように導いてくださいます。七十人のローレン・C・ダン長老(1930-2001年)は,教会の青少年に神の預言者の勧告に従うことによって神への信仰を行使するよう,次のように勧めています。「すべてのことを御存じである主は(アブラハム2:8参照),将来を御覧になり,預言者によってこれから起きる出来事にわたしたちが備えれられるようにしてくださっています。今日のわたしたちの預言者……は,勧告によって,わたしたちが個人的に将来に備えられるようにしてくれます。」(“The Case of the Chevrolet,” New Era, Apr. 1983, 4)
教義と聖約114:2。「ほかの者を代わりに立てて,否定する者の職を与えなければならない」
教義と聖約114章に記録されている啓示が与えられたとき,十二使徒定員会の幾人かの会員とほかの教会指導者は教会から背教していました。主は,忠実でない者に代わって,ほかの人にその「職を与えられ〔る〕」と言われました(114:2)。ここでいう「職」という言葉は,人の職務,すなわち,教会を監督,管理するために召された人に与えられる,神から任された権能と責任を指します。教義と聖約114章に記録されている啓示が与えられた3か月後,「堕落した者たちの空席を満たすために」(教義と聖約118:6),4人の兄弟が十二使徒定員会に召されました。