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第38章:教義と聖約98-100章


「第38章:教義と聖約98-100章」教義と聖約 生徒用資料

「第38章」教義と聖約 生徒用資料

第38章

教義と聖約98-100章

紹介とタイムライン

1833年,ミズーリ州ジャクソン郡で末日聖徒が増加していることに,以前から住んでいた人たちは強い懸念を持つようになった。両者の間には文化や政治,宗教の面で大きな違いがあったからである。1833年7月20日,ミズーリの住民は,末日聖徒にジャクソン郡から立ち退くように要求した。聖徒たちが適切に返答する前に,暴徒は教会の印刷所を破壊し,エドワード・パートリッジビショップとチャールズ・アレンにタールを塗り,羽根を付けた。3日後,大勢の暴徒の攻撃はさらに脅威を増し,教会指導者は,すべてのモルモンが1834年4月1日までにジャクソン郡を離れるという同意書に署名させられた。1833年8月6日,オハイオ州カートランドで,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約98章に記録されている啓示を受けた。その中で主は,聖徒に,迫害にどのように対処するかを教えられた。主はまた「国の合憲的な法律」に従うよう勧告し,聖約を守るよう警告された(教義と聖約98:6)。

ジョン・マードックはニューヨークから来た最初の宣教師が1830年11月にオハイオ州カートランドに到着したときに教会に加わり,直ちに福音を宣べ伝え始めた。1832年6月,ジョンはアメリカ合衆国中西部地域での伝道から帰還した。教義と聖約99章に記録されている1832年8月29日に預言者ジョセフ・スミスに与えられた啓示の中で,主はジョン・マードックを宣教師としての務めを続けるように召された。

1833年10月に,預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,アッパーカナダで少しの間伝道する旅に出た。1833年10月12日,ニューヨーク州ペリーズバーグに立ち寄ったときに,預言者は教義と聖約100章に記録されている啓示を受けた。主は預言者とシドニーに,オハイオの彼らの家族が無事であると保証された。また主は,迫害に苦しむミズーリの聖徒たちについても慰めを与えられた。

1832年6月ジョン・マードックはアメリカ合衆国中西部地域での伝道から帰還した。

1832年8月29日教義と聖約99章が与えられた。

1833年7月20日ミズーリ州ジャクソン郡の暴徒によってインディペンデンスの教会の印刷所が破壊され,エドワード・パートリッジビショップとチャールズ・アレンはタールを塗られ,羽根を付けられた。

1833年7月23日暴徒に襲われるという脅威にさらされ,ミズーリの教会指導者は,モルモンは年末までにジャクソン郡から退去を始めるという同意書に署名した。

1833年8月6日教義と聖約98章が与えられた。

1833年8月9日オリバー・カウドリは,ミズーリの聖徒たちが暴徒たちから攻撃を受けているという知らせを持って,オハイオ州カートランドに到着した。

1833年10月5日ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,ニューヨークとアッパーカナダ(現在のオンタリオ州)のマウントプレザントで福音を宣べ伝えるためにオハイオ州カートランドを出発した。

1833年10月12日教義と聖約100章が与えられた。

教義と聖約98章:追加の歴史的背景

主がミズーリ州インディペンデンスにシオンの町と神殿を築くように言われてから間もなく(教義と聖約57:1-3参照),何百人もの末日聖徒がジャクソン郡周辺に集まり始めました。1833年の夏までに,およそ1,200人以上の教会員がミズーリに移住しました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, ed. Gerrit J. Dirkmaat and others [2014], 121)。末日聖徒,つまりモルモンが増加していることに,以前からミズーリ州ジャクソン郡に住んでいた人たちは強い懸念を持つようになってきました。両者の間には文化や政治,宗教の面で大きな違いがあったため,誤解や争いが生じたのです。

〔イブニング・アンド・モーニング・スター(The Evening and the Morning Star)新聞の1832年6月発行の一面の画像〕

The Evening and the Morning Star”(『イブニング・アンド・モーニング・スター)は教会の最初の新聞で,1832年6月にミズーリ州インディペンデンスで発刊され,暴徒が印刷所を破壊するまで続きました。その後,オハイオ州カートランドで1834年9月まで発行されました。

1833年7月,ウィリアム・W・フェルプスが“Free People of Color”(「有色の自由な民」)と題した社説を,ミズーリの教会の新聞『イブニング・アンド・モーニング・スター』に掲載しました。奴隷制度を擁護する地元の市民の中には,ウィリアム・W・フェルプスの記事は政治的な発言であり,かつて奴隷だった人々にミズーリに移住するように提唱していると見なす人もいました。このことは大きな緊張を招き,数日後,およそ300人の市民が,ジャクソン郡を立ち去るようモルモンに求める書面に署名しました。1833年7月20日,市民を代表する委員会はジャクソン郡の教会指導者に自分たちの要求を書いたリストを提示し,15分以内に返答するよう要求しました。教会指導者が彼らの要求に応じることを拒否すると,インディペンデンスの町の敵意に満ちた集団が,『戒めの書』を作っていた印刷所を破壊し始めました。暴徒はさらに,エドワード・パートリッジビショップとチャールズ・アレンにタールを塗り,羽根を付けました。(See 186–87.)3日後の1833年7月23日,約500人の住民から成る暴徒がジャクソン郡に住む教会員をさらに激しい暴力を使って脅迫しました。6人の教会指導者が,「『もし教会に対する怒りを解く〔ことになる〕なら,自らを〔暴徒に〕身代わりとして差し出し,進んで打たれ,殺されようとしました。』〔“To His Excellency, Daniel Dunklin, The Evening and the Morning Star, Dec. 1833, 114〕しかし暴徒は,すべての教会員は立ち去らなければ殺すと宣言しました。」(in  187)暴力という脅威の下,教会指導者は,1834年1月1日までに教会の指導者と教会員の半数が,そして1834年4月1日までに残りがジャクソン郡を立ち去ることを要求する同意書に署名しました(see The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 187参照)。

オリバー・カウドリは直ちにミズーリ州インディペンデンスを出立してオハイオ州カートランドに行き,自ら体験した出来事を指導者に話しました。オリバー・カウドリは1833年8月9日にカートランドに到着しました。1833年8月6日,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約98章に記録されている啓示を口述しました。その中で主は聖徒に,迫害にどのように対処するかを教えられました。この啓示は,教義と聖約94章および97章に記録されている啓示とともに,オリバー・カウドリがカートランドに到着する2日前の8月7日に,手紙に記されミズーリの教会指導者に送られました。預言者はジャクソン郡で教会員とそれ以外の人々の間の緊張状態が悪化していることに確かに気づいていましたが,この啓示を受ける前に,ミズーリ州インディペンデンスで7月20日と23日に起きた対立について知っていたはずはありませんでした。

〔ミズーリ州インディペンデンスの公共広場の画像〕

ミズーリ州インディペンデンスの公共広場。この近くでエドワード・パートリッジビショップとチャールズ・アレン兄弟は暴徒に襲われた。

教義と聖約98:1-22

主は聖徒たちを慰め,国の法律に従い,聖約を守るように勧告される

教義と聖約98:1-3。「すべてのことは,あなたがたの益のために,……ともに働く」

預言者ジョセフ・スミスは,1833年7月20日と23日にミズーリ州ジャクソン郡で起きた暴動と対立についての知らせはまだ受け取っていませんでしたが,8月6日にオハイオ州カートランドで受けた啓示から,主はミズーリの教会員の逆境や艱難について大変気にかけておられることが分かります。主は祈りを聞いておられることを聖徒に確信させ,「あなたがたを苦しめたすべてのことは,あなたがたの益のために,……ともに働く」と言われ,「恐れてはならない」と励まされました(教義と聖約98:1,3ローマ8:28も参照)。十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,試練はわたしたちを精錬し強めると,次のように教えています。

「わたしたちは啓示に感謝しています。啓示は,苦難にさえも感謝すべきであると教えています。苦難を通して,人は神に心を向け,神の望まれるような者になる備えをする機会が与えられるのです。……ブリガム・ヤングはこれを理解していました。このように語っています。『人生のいかなる境遇,いかなる体験も,それを学習の機会とし,それを基に成長しようとするすべての人にとって,役に立たないものは何一つありません。』(『歴代大管長の教え—ブリガム・ヤング』 197参照)……

ジョン・テーラー大管長……は,苦難に感謝することについて……記〔して〕います。『わたしたちは苦難によって多くの事柄を学んできました。わたしたちはそれを苦難と呼びますが,わたしは経験という学校と呼びます。……わたしはこれらを,聖文にあるように,火によって7度清められた金のようになることができるよう,神の聖徒を清めるための試練であるという以外の見方をしたことがありません。』(『歴代大管長の教え—ジョン・テーラー』202-203)ジョン・テーラー大管長のような開拓者は,預言者が殺害されるのを目撃し,信仰のゆえに長期にわたる迫害と想像を絶する苦難を経験しました。しかし,神をほめたたえて感謝したのです。試練と,試練に立ち向かう勇敢で霊感あふれる行動によって,信仰と霊性が強められました。苦難を通して,神の望まれるような者となり,今日わたしたちの生活に祝福をもたらしている大いなる業の土台を据えたのです。」(「すべてについて感謝をささげる」『リアホナ』2003年5月号,96)

大管長会のディーター・F・ウークトドルフ管長は,すべてのことにあって感謝をささげることについて理解を広げることができるように,次のように教えています。

「人生が順調に思えるとき,物事に対して感謝するのは容易です。では,自分の望むものが手の届かないところにあるように思えるときはどうでしょうか。

感謝することを一つの性質として,現在の状況がどうであろうと実践できる生き方として捉えてはどうでしょうか。つまり,『物事 に対して感謝する』よりも,どのような状況にあろうと,『自分の置かれた状況にあって感謝する』ことに意識を向けるということです。……

自分の置かれた状況ににあって神に感謝するとき,わたしたちは艱難の中で穏やかな安らぎを味わうことができます。悲しみの中で,なお心を高めて神を賛美することができます。痛みの中でも,キリストの贖いによって喜ぶことができます。つらい悲しみがもたらす寒さの中で,天に抱かれたかのようなぬくもりを感じることができます。

時々,感謝は問題が解決した後でするものだと考えることがありますが,それは何と近視眼的な見方でしょう。雨を神に感謝せずに虹を待ち望んでいるようでは,人生においてどれほど多くのものを見過ごしにしていることでしょうか。

悩み苦しんでいるときに感謝の気持ちを持つとは,自分の置かれた状況を喜ぶという意味 ではなく,信仰の目で今日の試練の先にあるものを見るという意味です

口先だけではなく,心から感謝するのです。そのような感謝は,心を癒し,思いを広げてくれます。」(「どんな状況にあっても感謝する」『リアホナ』2014年5月号,75-76)

教義と聖約98:4-8。「国の合憲的な法律」

ミズーリ州ジャクソン郡で過酷な扱いを受けていた聖徒たちは,1833年の夏に,合衆国の合憲的な法律(憲法)に基づいた保護を受けられるはずでした。「国の法律」が「憲法にかない,権利と特権を維持することによってその自由の原則を支持する」ならば,その法律は「全人類のものであり,わたしの前に正当と認められる」と主は説明されました(教義と聖約98:5)。ですから,聖徒はその法律に従うなら正しいとされます(教義と聖約98:6参照。教義と聖約101:77-80も参照)。法律を無視する人たちのせいで聖徒たちが堪え忍ばなければならないことがあったが,それでも主は聖徒たちに「国の合憲的な法律」を擁護し,従わなければならないと教えておられます(教義と聖約98:6)。

ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は次のように教えています。「わたしたちが従っている〔合衆国の〕憲法はわたしたちに恵みをもたらしてきただけでなく,諸外国にとっても憲法の模範となってきました。これは,神の霊感による国家の安全手段であり,自由と,法の下での正義と公平を保証するものです。」(「わたしたちが生きている時代」『リアホナ』2002年1月号,85)

十二使徒定員会のL・トム・ペリー長老は,全世界の聖徒が自国の法律を学び,支持するよう次のように強く勧めています。「わたしたちは教会員として,異なった旗のもとに生活しています。自分の住む国にあってわたしたちの占める位置がどのようなものかを理解することはどんなに大切なことでしょうか。わたしたちは自国の歴史や伝統,法律に精通する必要があります。行政に参加する権利を認めている国においては,選択の自由を用いて,真理と権利と自由の原則を支持し,擁護することに積極的に携わるべきです。」(「祝祭を意義あるものに」『聖徒の道』1988年1月号,77参照)

教義と聖約98:9-10。「善良な人々と賢明な人々を支援するように努めなければならない」

主は聖徒に,すべての人の「権利と特権」(教義と聖約98:5)を維持するように制定された「国の合憲的な法律」(教義と聖約98:6)を守り,国民の指導者として,「正直」で「善良」で「賢明な」人々を「熱心に」捜し求めなければならない(教義と聖約98:10)と教えられました。どんなに法律が倫理にかなったものであっても,政府の指導者が腐敗していると,「民は嘆き悲し〔み〕」,不義な指導者の影響を受けて苦難に遭うことになります(教義と聖約98:9箴言29:2も参照)。

時には義人と悪人を見分けるのが難しいときもあるので(教義と聖約10:37参照),末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は,自分たちの住んでいる地域と国の政策や選挙候補者がどのような立場を取っているか積極的に調べるように勧められています。十二使徒定員会ジョセフ・B・ワースリン長老(1917-2008年)は次のように教えています。

「人格に優れ,理想とする政治に向かって邁進する人を支持するべきです。……

教会はどの党派も候補者も支持せず,政治的には完全に中立を保っています。しかし,どの教会員も,選挙には積極的に関与するべきです。政策と候補者をよく調べ,うわさに惑わされることなく,知識に基づいて投票しなければなりません。公職にある人々のために祈り,自分たちに影響を及ぼす重大な決議には,主の導きがあるように願う必要があります。」(「善を求める」『聖徒の道』1992年7月号,94参照)

教義と聖約98:11-15。「わたしの聖約の中にとどまるかどうか,……あなたがたを試す」

主はミズーリの聖徒に,もし戒めに従順であれば,敵を恐れる必要はないと約束されました(教義と聖約98:14参照)。主は御自分の民に対して「教えに教え」を加えて霊的な指示を与えると説明されました(教義と聖約98:12)。これは一度にすべてを理解できるわけではなく,少しずつ理解が深まるということです。授かった限られた知識をもって,聖徒が神の差し出された聖約を忠実に守るかどうかを見るために,神は「〔彼らを〕試み,〔彼らを〕試そう」とされました(教義と聖約98:12教義と聖約66:2も参照)。大管長会のヘンリー・B・アイリング管長は次のように教えています。 「愛にあふれる神が与えておられる試練は,苦難に耐えられるかどうかを試すものではなく,苦難に耐えながらも,義にかなった生活をするかどうかを試すものなのです。わたしたちは神を覚え,神から与えられた戒めを守ると証明することによって試練を乗り越えるのです。立派に堪え忍ぶには,どのような反対に遭っても,どのような誘惑を受けても,どのような問題に取り囲まれても,神の戒めを守らなければなりません。」(「主の力を受けて」『リアホナ』2004年5月号,17)

教義と聖約98:19-22。「地獄の門もあなたがたに打ち勝つことはない」

主は,オハイオ州カートランドにいる聖徒の「多くの者を喜んでいない」,なぜなら「彼らは自分の罪と,その悪い道と,その心の高ぶりと,その貪欲と,そのすべての憎むべきことを捨てず,〔主が〕彼らに与えた知恵の言葉と永遠の命の言葉に従っていない」からであると言われました(教義と聖約98:19-20)。主は,悔い改めて戒めに従わなければ懲らしめると警告されました(教義と聖約98:21参照)。

主はミズーリの聖徒に,もし主の戒めに従うなら,「すべての怒りと憤りを解〔き〕」「地獄の門も〔彼らに〕打ち勝つことはない」と断言されました(教義と聖約98:22)。ゴードン・B・ヒンクレー大管長はこのように教えています。

「わたしたちの安全は悔い改めに懸かっています。神の戒めを守るときにわたしたちは力を授けられます。

どうかよく祈ってください。正義のために祈ろうではありませんか。善を擁護する軍勢のために祈ろうではありませんか。どの宗教を信じているか,どこに住んでいるかにかかわりなく,善を求める男女に手を差し伸べて助けようではありませんか。自国でも外国でも,悪に対してひるむことなく立ち上がろうではありませんか。必要であれば生活を改め,すべての人の御父である御方に頼ることによって,天の祝福を受けるにふさわしい者となろうではありませんか。主は言われました。『静まって,わたしこそ神であることを知れ。』(詩篇 46:10)」(「わたしたちが生きている時代」86参照)

教義と聖約98:23-48

主は聖徒に,どのように迫害に対処すべきか教え,どのようなときに戦争が正しいとされるのか教えられる

教義と聖約98:16,23-48。「戦争を放棄して,平和を宣言しなさい」

「戦争を放棄して,平和を宣言しなさい」(教義と聖約98:16)という勧告が与えられ,戦争がどのようなときに正しいとされるのかを主が詳しく教えられたことで,ミズーリ州ジャクソン郡の聖徒が直面しているひどい迫害にどう対処すべきかが明らかになりました。

教義と聖約98章で教えられている原則は,現代の預言者や使徒たちも強調しています。十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン会長は,わたしたちが個人としてどのように「平和を宣言」できるのかについて,次のように教えています。「教会として,わたしたちは『戦争を放棄して,平和を宣言』しなければなりません〔教義と聖約98:16〕。個人としては,『平和に役立つこと……を,追い求め』なければなりません〔ローマ14:19〕。わたしたちは各自の生活の中で平和を作り出す人にならなければなりません。夫婦,家族,隣人として,平和に暮らさなければなりません。黄金律に従って生活しなければなりません。……わたしたちの愛の輪を人類家族全体へと広げていかなければなりません。」(「平和をつくり出す人たちは,さいわいである」『リアホナ』2002年11月号,41)

〔ミズーリ州インディペンデンス,ビジターセンターの印刷店の展示の画像〕

1833年7月20日に暴徒によって破壊された教会の印刷所兼ウィリアム・W・フェルプスの家の様子。

ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,平和を宣言することの大切さを教えつつ,戦争が正当とされるときもあることを次のように指摘しています。

「民主主義において,わたしたちは戦争を放棄して平和を宣言することができます。……しかし,わたしたちは皆,さらに重要なもう一つの責任を心に留めなければなりません。……

〔聖典の中の例から〕国家が家族と自由のために独裁政治や脅威,抑圧に対して戦うことが正当とされる,あるいはむしろそうする義務が生じる時や状況があることは明らかです。

最終的には,この教会の会員であるわたしたちは平和の民です。平和の君である贖い主,主イエス・キリストに従う者です。しかしその主でさえも次のように言われました。『地上に平和をもたらすために,わたしがきたと思うな。平和ではなく,つるぎを投げ込むためにきたのである。』 (マタイ10:34

以上のことから,わたしたちは平和を切に望み,平和について教え,平和のために働きますが,同時に,国民でもあり政府の法律に従うべき立場にあることになります。さらに,自由を愛する民であり,自由が危機にあるときにはいつでもすべてをささげてそれを守ります。わたしは軍服姿の男女が自分たちに課せられた合法的な義務を実行するときに,その政府の代理人として神が彼らに責任を負わせるようなことはなさらないと信じています。さらに,もしわたしたちが悪と抑圧の力との戦いに参加する人々の道を妨げたり遮ったりしようとするなら,神はわたしたちに責任を負わせられることでしょう。」(「戦争と平和」『リアホナ』2003年5月号,80参照)

大神権の大管長会が教義と聖約94章97-98章に記録されている啓示をミズーリの聖徒に送った数日後の1833年8月9日,オリバー・カウドリがジャクソン郡から到着し,預言者ジョセフ・スミスにミズーリで起こった対立と攻撃について知らせました。1833年8月18日に,預言者はミズーリの聖徒たちを慰める手紙を書きました。ミズーリにおける暴徒の攻撃の知らせを聞いて,オハイオの聖徒の敵も勢いづき,教会員は「暴徒から身を守るために」夜は自分たちの家の番をしなければならなくなりました(Joseph Smith, in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 263)

ミズーリの聖徒にあてた8月18日付けの手紙の中で,預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,もし忠実ならば,主が救ってくださると次のように教えています。

「サタンは激しい怒りをもって神の教会のすべての会員のうえに降って来ています。エホバの腕の中以外に,安全はありません。ほかに救い出せる者はなく,最も過酷な苦難の中で主に忠実であることをわたしたちが身をもって示さないかぎり,主は救い出してはくださらないでしょう。小羊の血によって衣を洗われる人は,大きな艱難を経験しなければならないからです。すなわち,あらゆる苦難の中で最も過酷な苦しみを通らなければなりません。しかし,このことを覚えておいてください。キリストのために人々があなたがたに対し偽って様々な悪口を言うときには,キリストはあなたがたの友であり,速やかにシオンを救ってくださるということをわたしは確かに知っています。なぜなら,それが真実であるという主の不変の聖約があるからです。しかし,神は事が行われる具体的な手段については,わたしの目から隠すのをよしとされます。……

主が来られるまでわたしたちは辛抱強く待たなければなりません。」 (in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 263–65; spelling, punctuation, and capitalization standardized)

教義と聖約99章:追加の歴史的背景

ジョン・マードックは,ニューヨークから来た宣教師が1830年11月に初めてオハイオ州カートランド地域に到着したときに,モルモン書を受け取りました。「彼は,モルモン書を読んだとき,『主の御霊がわたしのうえにとどまり』『わたしに真実であると証してくださった』と書いています。ジョンの妻ジュリア・クラップ・マードックは,ジョンが〔モルモン書を〕読んで聞かせたとき,『御霊に満たされました』。彼らはバプテスマと確認の儀式を受け,ジョンは長老に聖任されました。『それはまことに御霊があふれるように注がれた時だった』と彼は書いています。『御霊がわたしのうえにとどまったことが分かった。それは初めての経験だった。』」(Steven C. Harper, “Murdock, John,” in Dennis L. Largey and Larry E. Dahl, eds., Doctrine and Covenants Reference Companion [2012], 429)1831年4月にジュリアは双子を産んだ後,ジョンと5人の幼い子供を残して亡くなりました。エマ・スミスも4月に双子を出産しましたが,死産でした。これらの悲しい出来事の後,ジョンは自分の双子をジョセフとエマの養子とし,実の子供のように育ててもらうことにしました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 2: July 1831–January 1833, ed. Matthew C. Godfrey and others [2013], 272.)

1831年6月6日に預言者ジョセフ・スミスが受けた啓示の中で,主はジョン・マードックをミズーリで福音を宣べ伝えるように召されました(教義と聖約52:2-3,8-9参照)。ジョンは年長の3人の子供が無事に暮らせるように手配し,それから,長老たちを伴ってミズーリに行きました。そこで何か月もの間福音を宣べ伝えました。1832年6月にオハイオに戻ったとき,ジョセフとエマが引き取った双子のうちの一人は,その年の3月,オハイオ州ハイラムで預言者が暴徒に襲われ,タールを塗られ,羽根を付けられた事件の後,はしかで亡くなったことを知りました。( 「『他の仕事は辞めました』—初期の宣教師たち」 『啓示の背景』history.lds.org参照)

ジョン・マードックは年長の3人の子供の世話をして1832年の夏を過ごしました。1832年8月29日に預言者ジョセフ・スミスを通して与えられた啓示で,ジョンは再び宣教師として奉仕するよう召されました。この啓示の中で,主は3人の子供をミズーリに送り,エドワード・パートリッジビショップに世話してもらうように指示されました(教義と聖約99:6参照)。子供たちの世話を手配した後,ジョンは1832年9月24日にアメリカ合衆国の東部地域に向けて出発しました。(See 272–73.)

1876年版の教義と聖約が出版されたときに啓示の日付に間違いがあったため,教義と聖約99章に記録されている啓示は,この書物のほかの章と年代順に並んでいません。この誤りは1981年版で訂正されましたが,別の出版物におけるこの章の参照表記が変わらないように,教義と聖約の章の順序とこの章の番号はそのままにされました。(See Dennis A. Wright, “Historical context and overview of Doctrine and Covenants 99,” in Doctrine and Covenants Reference Companion, 805.)

〔地図2:初期の教会歴史における幾つかの重要な場所の画像〕

教義と聖約99章

主は福音を宣べ伝えるようジョン・マードックを召される

教義と聖約99:1-4。「あなたを受け入れる者はわたしを受け入れる」

イエス・キリストの地上での務めの間,主は福音を宣べ伝えるために僕たちを召して任命した後送り出されました。その際に,僕たちに,「あなたがたを受けいれる者は,わたしを受けいれるのである」と言われました(マタイ10:40)。主は,1832年8月にジョン・マードックを福音を宣べ伝え続けるよう召したときに,この約束を繰り返されました(教義と聖約99:2参照。教義と聖約84:35-38も参照)。

主の召された人を受け入れるという原則は,教会の指導者を支持することにも当てはまります。大管長会のマリオン・G・ロムニー管長は次のように教えています。「この言葉は強調するに値します。『わたしの僕たちを受け入れる者は,わたしを受け入れる〔。〕』〔教義と聖約84:36〕主の僕とはだれでしょうか。神権の職において主を代表する者,すなわち中央,ステーク,神権定員会,ワードの役員がそれに当たります。わたしたちの管理役員,ビショップ,定員会会長やステーク会長などを軽視したい気持ちに駆られるとき,役員の召しの管轄権内であるなら,彼らはわたしたちに勧告や注意を与えるということを覚えておくべきです。」(in Conference Report, Oct. 1960,73)

教義と聖約99:2。「あなたは,わたしの聖なる御霊の証明のうちにわたしの言葉を告げ知らせる力を持つであろう」

主はジョン・マードックに「あなたは,わたしの聖なる御霊の証明のうちにわたしの言葉を告げ知らせる力を持つであろう」(教義と聖約99:2)と約束されました。回復されたイエス・キリストの福音を教える人は,自分の能力や才能よりも御霊に頼る必要があります。預言者ジョセフ・スミスはこう宣言しています。「だれも聖霊を受けないまま福音を宣べ伝えることはできません。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』332

ブリガム・ヤング大管長(1801-1877年)は,確信を与える聖霊の力について次のように教えています。

「〔御霊の〕影響力以外のどんな力も,救いの福音が真実であるという確信を人にもたらすことはできません。……

わたしが会った人は雄弁でないどころか,人前で話す才能すらありませんでした。『わたしは聖霊の力によってモルモン書が真実であること,ジョセフ・スミスが主の預言者であることを知っています』としか言えませんでした。わたしがその人に感じた聖霊の力はわたしの理解に光を与え,そして光と栄光と不死不滅がわたしの前に明らかにされました。わたしはそれに囲まれ,満たされ,そして,その人の証は真実であることを自分自身で知りました。わたしの判断力,天賦の才能,教育は,簡潔ではあるが力強いこの証に屈服したのです。」(“A Discourse,” Deseret News, Feb. 9, 1854, 4)

教義と聖約99:6。家族を置いて伝道に出る

〔ジョン・マードックの画像〕

ジョン・マードックは,オハイオ州カートランドの初期の改宗者の一人で,生涯にわたって宣教師として,また教会指導者として務めた。

LDS教会記録保管庫の厚意により掲載

教義と聖約99章に記録されている啓示に従って,ジョン・マードックは3人の子供をミズーリのエドワード・パートリッジビショップのもとに送りました。そこでパートリッジビショップは,子供たちがシオンで末日聖徒の家族とともに生活できるように手配しました。ジョンはそれからアメリカ合衆国東部で伝道するために旅立ちました(教義と聖約99:1参照)。後年,ミズーリ,それからイリノイ州ノーブーへと移り住み,ノーブーでビショップとして奉仕しました。聖徒とともに西へ進みユタに着いた後,再びビショップとして務め,それからオーストラリアに派遣された最初ての宣教師の一人となりました。(See Harper, “Murdock, John” in Doctrine and Covenants Reference Companion, 429.)

エズラ・タフト・ベンソン大管長(1899-1994年)は,父親のジョージ・T・ベンソンについて話したとき,同じような決意の模範について次のように語っています。

「信仰をどのように示すかについて考えると,いつも必ず父の模範が思い浮かんできます。どのようにして伝道の精神に満ちた生活を送るようになったのかはっきりと思い出すことができます。父が伝道の召しを受けたのは,わたしが13歳のときでした。……

わたしたちが居間にある長年使い慣れたソファの周りに集まると,父は伝道の召しが来たことを話してくれました。すると母が言いました。『お父さんが伝道に出るのにふさわしいと見なされたということは,とても名誉なことよ。二人とも少し泣いたけれど,それは2年間お父さんと会えないからなの。』……

こうして父は伝道に出ました。そのときわたしは,父の決意の深さがどれほどのものであったのか,あまりよく分かりませんでしたが,今では,父が進んでこの召しを受け入れたということは,大きな信仰の表れだったことがよく分かるようになりました。神権者は皆老若を問わず,そのような信仰を育てていくべきでしょう。」(「神の性質」『聖徒の道』1987年1月号,51-52)

教義と聖約100章:追加の歴史的背景

フリーマン・ニッカーソンはニューヨーク州ペリーズバーグに住んでいました。そして,1833年4月に妻のハルダとともにバプテスマを受けました。2か月後,息子のモーゼスがアッパーカナダから彼らを訪れて,福音を聞くことに関心を示しました。1833年9月,フリーマンとハルダはオハイオ州カートランドに行って,預言者ジョセフ・スミスにニューヨークとアッパーカナダに赴き,自分たちの家族に福音を宣べ伝えてくれるように頼みました。要請にこたえて,1833年10月5日,預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンはニッカーソン夫婦とともに出発し,1833年10月12日にニューヨーク州ペリーズバーグのニッカーソン家の自宅に着きました。

ペリーズバーグに着いた日に,預言者は日記にこう書いています。「主がわたしたちとともにおられることはうれしく思うが,わたしは自分の家族について非常に心配している。」(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1833, 323; see pages 321–23)同じ日に,預言者は教義と聖約100章に記録されている啓示を受けました。その啓示で主からの保証が与えられました。預言者とシドニー・リグドンはカナダへと旅を続け,1週間以上福音を宣べ伝え,14人にバプテスマを施しました。その中にはモーゼス・ニッカーソンとその兄弟エリアザルがいました。

1833年11月4日に,ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンはカートランドの家族のもとに戻りました。その後預言者は家族について,「主の約束のとおり皆元気だった。この祝福のために,主の聖なる御名に感謝する」と書いています(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March 1834, 323; punctuation standardized)

〔地図5:合衆国のニューヨーク,ペンシルベニア,オハイオ地域の画像〕

教義と聖約100章

主はジョセフ・スミスとシドニー・リグドンに慰めと導きをお与えになる

教義と聖約100:1。「あなたがたの家族は健在である。彼らはわたしの手の内にあ〔る〕」

1833年10月までに預言者ジョセフ・スミスは,福音を宣べ伝え教会の諸事を行うために,頻繁に家と家族を離れては戻って来ていました。ミズーリ州ジャクソン郡への2回の長期にわたる旅も含まれていました。1833年10月5日にシドニー・リグドンとともにニューヨークとアッパーカナダへ伝道に出かけたとき,ジョセフが家族を残して行くことを心配したのは無理のないことでした。ジョセフとエマは結婚後最初の6年の間に4人の幼い子供を亡くしていました。1833年10月には2人の子供が家にいました。2歳のジュリアと,もうすぐ1歳になるジョセフ3世です。オハイオ州カートランドの聖徒に対する反対勢力が増していたので,預言者は家族の身の安全についても心配していました。(「カナダへの伝道」『啓示の背景』 history.lds.org)主は預言者とシドニーに「家族は健在である。彼らはわたしの手の内にあ〔る〕」(教義と聖約100:1)と保証してくださったので,預言者の家族に対する心配は和らぎました。

大管長会のヘンリー・B・アイリング管長は,主に仕える人に対して,慰めとなる勧告と約束を次のように与えています。

「主に献身的に仕えるとき,主がわたしたちの愛する家族に近づいてくださるのです。わたしは主の奉仕の業に召されて転居したり,家族と離れたりする度に,主が妻と子供たちを祝福してくださるのを目にしてきました。……

ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンが主の用向きを受けて家族から離れていたときに主が彼らに約束されたことを,皆さんは覚えています。『友である……シドニーとジョセフ……。あなたがたの家族は健在である。彼らはわたしの手の内にあり,わたしは自分のよいと思うままに彼らに行う。わたしには一切の権威があるからである。』〔教義と聖約100:1〕……

主に祈り,仕えている皆さんが自分自身と家族のために願うすべての祝福を受けると約束することは,わたしにはできません。しかし,救い主が皆さんに近づき,最善のものを皆さんと家族に祝福として与えてくださると約束することができます。皆さんが手を差し伸べて人に奉仕をするときに,皆さんは主の愛に満ちた慰めを受け,祈りの答えとして主が近づいてくださるのを感じるでしょう。皆さんが助けの必要な人の傷に包帯を巻き,罪を悲しむ人に主の贖罪の清めを受けるよう勧めるとき,主の力が皆さんを支えてくれます。主の御手が皆さんの手とともに差し伸べられ,皆さんの家族も含め,天の御父の子供たちを助け,祝福してくださるでしょう。」(「わたしのもとにきなさい」『リアホナ』2013年5月号,24)

教義と聖約100:3-4。「「人々の救いのために」「効果的な門が開かれるであろう」

1833年初め,宣教師がニューヨーク西部を訪れ,多くの改宗者にバプテスマを施しました(see  321)。ニューヨーク州北部とアッパーカナダでの1か月の伝道の間に,預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,多くの人に福音を宣べ伝えるときに「効果的な門」が開かれるであろうという主の約束が成就するのを見ました(教義と聖約100:3)。フリーマン・ニッカーソンの息子モーゼス・ニッカーソンは,これらの宣教師から福音のメッセージを聞いて,バプテスマを受けました。1836年,パーリー・P・プラット長老は,福音を宣べ伝えるためにアッパーカナダの同じ地域を再訪しました。モーゼス・ニッカーソンは,プラット長老にジョン・テーラーを紹介する手紙を渡しました。プラット長老はその手紙のおかげでジョン・テーラーに会い,ジョン・テーラーは後に教会の第3代大管長となりました。(「カナダへの伝道」『啓示の背景』 history.lds.org

教義と聖約100:5-8。「わたしがあなたがたの心の中に入れる思いを語りなさい」

主は預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンに「〔主〕が〔彼らの〕心の中に入れる思い」を語ることによって福音を宣べ伝えるように指示を与えられました(教義と聖約100:5)。主はそれからこう約束されました。「あなたがたの言うべきことは,まさにそのときに,まことにその瞬間にあなたがたに授けられるからである。」(教義と聖約100:6)これは主が地上で務めを果たしておられたときに弟子たちにお与えになった約束と同じです(マタイ10:19-20参照)。

十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は,主がどのようにわたしたちの心の中に思いを入れてくださるかについて次のように説明しています。「教え,証するとき,聖霊は皆さんの言葉が真実であることを証言してくださいます。敵意を持つ人に話すとき,聖霊は,言うべきことを心に入れ,『人々の前で辱められることはない』という主の約束を果たしてくださいます(教義と聖約100:5)。」(「聖約の力」『リアホナ』2009年5月号,22)

十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード長老は,次のように教えています。

「主を信頼してください。主は良い羊飼いです。主は御自身の羊を御存じで,主の羊はその声を知っています。 今日,良い羊飼いの声は,皆さんの声であり,わたしの声です。……

外交的な性格も,雄弁さも必要ありません。また説得力のある教師である必要もありません。自分の中に揺るぎない愛と希望があれば,主がこう約束しておられるからです。『この民に向かって声を上げなさい。わたしがあなたがたの心の中に入れる思いを語りなさい。そうすれば,あなたがたは人々の前で辱められることはないであろう。

〔そして〕あなたがたの言うべきことは……その瞬間にあなたがたに授けられる〔。〕』〔教義と聖約100:5-6〕」(「主に信頼を寄せる」『リアホナ』2013年11月号,44参照)

教義と聖約100:9-11。「この民に語る代弁者」

主がシドニー・リグドンを預言者ジョセフ・スミスの「代弁者」として任じられたことで,モルモン書に記録されている預言が成就しました(2ニーファイ3:17-18教義と聖約100:9-11参照)。大管長会のジョージ・Q・キャノン管長は次のように言っています。「シドニー・リグドンを知る人々は,神がどれほど彼に霊感を授けられたか,また彼がどれほど雄弁に神の言葉を人々に宣べ伝えたかを知っています。彼は,預言者の存命中,また短期間ではありましたが預言者の死後も,代弁者として神の手の中にあって力強くその務めを果たしました。」(“Discourse by Prest. George Q. Cannon,” Deseret News, Apr. 23, 1884, 210)

シドニーが預言者の「代弁者」であったように,ジョセフ・スミスはシドニーの「啓示者」でした。このようにシドニー・リグドンは「地上における〔主の〕王国のことに関するすべてのことが確かであるのを知る」(教義と聖約100:11)ようになりました。悲しいことに,シドニー・リグドンはこの「代弁者」としての召しを乱用し,預言者ジョセフ・スミスの死後数週間,「人々の守護者」すなわち教会を導くべき者としての権利を主張しました。(see History of the Church, 7:229–30)

教義と聖約100:13-17。「一つの清い民をわたしのために起こすであろう」

1833年8月下旬,預言者ジョセフ・スミスは,オーソン・ハイドとジョン・グールドを遣わして,艱難に遭っている聖徒たちを励ます手紙とそのほかの書類をミズーリ州ジャクソン郡に届けさせました。1833年11月25日に,二人はジャクソン郡で聖徒たちに対する攻撃が再開したという良くない知らせを持ってオハイオ州カートランドに戻りました。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 3: February 1833–March, 1834, 325, note 39.)

1833年10月12日,預言者ジョセフ・スミスは,シオンはしばらくの間懲らしめを受けた後に癒されるという約束を主から受けました(教義と聖約100:13参照)。この懲らしめは「義をもって〔主に〕仕える一つの清い民」を備える手段でした(教義と聖約100:16)。十二使徒定員会のニール・A・マクスウェル長老(1926-2004年)は次のように教えています。「教会に関して言えば,聖典には人々がますます明確にふるい分けられ,霊性および数の面での増大があると記されています。これらはすべて,神の民が武器ではなく『義……をもって……武装』し,主の栄光が彼らのうえに注がれる前に起こることです(1ニーファイ14:141ペテロ4:17教義と聖約112:25も参照)。主は試しを受け,清さを証明された民を求めると断言しておられます(教義と聖約101:4100:16136:31参照)。また,こうも言われています。『主なるあなたの神が行おうと心にかけたことで,行わないことはない。』(アブラハム3:17)」(「われ汝らを導きて行けばなり」『聖徒の道』1988年6月号,8参照)