インスティテュート
第27章:教義と聖約76:1-49


第27章

教義と聖約76:1-49

紹介とタイムライン

1832年2月16日,預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは聖書の霊感訳(ジョセフ・スミス訳とも呼ばれる)の作業を進めていた。ジョセフ・スミスがヨハネ5:29を翻訳していたとき,ジョセフとシドニーはこの節の意味について深く考えていると,教義と聖約76章に記録されている示現を示された。この示現の中で,救い主は,御自分の実在と神性を確認し,サタンの堕落と滅びの子について教え,栄光の3つの王国の性質とそれを受け継ぐ人々について明らかにされた。

教義と聖約76章の解説は,二つのレッスンに分かれている。この1回目のレッスンでは,忠実な者に対する主の約束,ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンの御父と御子についての証,ルシフェルの堕落と滅びの子についての話を含む,教義と聖約76:1-49を採り上げている。

1832年1月25日ジョセフ・スミスは,オハイオ州アマーストで行われた教会の大会で,大神権の大管長として聖任された。

1832年1月下旬ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,オハイオ州ハイラムに戻り,新約聖書の霊感訳に取り組んだ。

1832年2月16日教義と聖約76章が与えられた。

1832年3月24-25日ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,オハイオ州ハイラムで,夜間に暴徒に連れ去られて,激しく打たれ,タールを塗られて羽毛を付けられた。

教義と聖約76章:追加の歴史的背景

1832年の初めに,預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,オハイオ州ハイラムのジョンとアリス(エルサ)・ジョンソンの家で新約聖書の翻訳に取り組んでいました。この集中的な聖文研究の間,預言者は,主が聖徒に明らかにされた多くの真理についてよく考え,次のように述べています。「はっきり言えるのは,人の救いに関する多くの重要な事柄が,聖書から抜き取られた,あるいは聖書が編さんされる前に失われたということです。」(in Manuscript History of the Church, vol. A-1, page 183, josephsmithpapers.org

ジョセフとシドニーがこの期間中に深く考えていた疑問の一つは,死後どうなるかということでした。啓示を通して与えられた死後の生活に関する真理(例えば,1ニーファイ15:32教義と聖約19:3参照)によって,預言者は次のように述べるに至りました。「もし神がすべての人に肉体にあってなした行いに応じて報いを与えられるとすれば,聖徒たちの永遠の住まいとされる『天』という言葉には,一つではなく複数の王国が含まれるに違いない。」(in Manuscript History, vol. A-1, page 183; spelling and punctuation standardized)1832年2月16日,ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,ヨハネ5:29を翻訳していました。そこは,死者について次のように述べている箇所です。「善をおこなった人々は,生命を受けるためによみがえり,悪をおこなった人々は,さばきを受けるためによみがえって,それぞれ出てくる〔。〕」

預言者がこの節の翻訳を口述した後(教義と聖約76:15-17参照),ジョセフとシドニーは「神の摂理と永遠にわたる神の広大な創造に関する」示現を見ました(in The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 2: July 1831–January 1833, ed. Matthew C. Godfrey and others [2013], 183; spelling standardized)。イエス・キリストが二人に現れ,言葉を交わしました(教義と聖約76:14参照)。そして,二人は「まだ御霊に感じている」間にその示現を記録するよう命じられました(教義と聖約76:28,80,113)。その示現は,御父と御子の性質,栄光の王国,そしてサタンの反乱と滅びの子の苦しみについての真理を明らかにしました。

〔オハイオ州ハイラムのジョン・ジョンソンの家の中にある翻訳部屋の画像〕

預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,聖書の霊感訳に取り組んでいたとき,オハイオ州ハイラムのジョン・ジョンソン家のこの部屋で,一連の示現を受けた。

示現の間,そこにはほかに12人ほどの人がいました。一人の目撃者,フィロ・ディブルは,後に次のように思い出しています。

「教義と聖約に記録されているこの示現はオハイオ州〔ハイラム〕の『ジョン・ジョンソン』の家で与えられました。ジョセフとシドニーが霊において天が開くのを見ている間,その部屋にはわたしも含めてほかに12人ほどの人がいました。わたしは栄光を見て,その力を感じましたが,示現を見ることはできませんでした。……

ジョセフは時々,『わたしの目に映るものは一体何だろう』と言いました。それは,人が窓の外を見ながら話すような口調で,部屋の中の者たちには見えないものを見ているようでした。それから彼らは,それまでに見たことや,そのときに見ていたことについて話しました。するとシドニーが,『わたしにも同じものが見える』と答えました。シドニーも『これは何だろう』と言ってから,自分が見たこと,現に目にしていることを繰り返しました。するとジョセフが『わたしが見ているのも同じものだ』と語りました。

これらの言葉は示現が終わるまで,何度か短時間のうちにやり取りされたものです。……

ジョセフは壮大な栄光の中にいたその間中,しっかりとまた落ち着いて座っていましたが,シドニーの方は疲れて顔色もよくなく,ぐったりとしているようでした。ジョセフはそれを見て笑いながら,『シドニーは,わたしほど慣れていないんだ』と言いました。」(in “Recollections of the Prophet Joseph Smith,” Juvenile Instructor, May 1892, 303–4

〔「地図5:アメリカ合衆国のニューヨーク州,ペンシルベニア州,およびオハイオ州地域」の画像〕

教義と聖約76:1-10

主は御自身に仕える者に祝福を約束しておられる

教義と聖約76:5-10。「わたしは彼らにすべての奥義を……明らかにし,……わたしの御霊によって彼らに光を注〔ぐ〕」

預言者ジョセフ・スミスが受けた啓示は,神が御自分の子供たちを導き,真理を教えられるという証拠です。主は,聖徒たちに「謙遜であれば,強くされ,高い所から祝福を受け,また折々知識を与えられるようにする」と約束されました(教義と聖約1:28)。預言者の教えを通して導きを受けることに加えて,初期の教会員は次のことを知りました。「あなたは求めれば,啓示の上に啓示を,知識の上に知識を受けて,数々の奥義と平和をもたらす事柄,すなわち喜びをもたらし永遠の命をもたらすものを知ることができるようになるであろう。」(教義と聖約42:61)主は教義と聖約76章に記録された神聖な示現を,御霊の力を通して神の王国の奥義を明らかにすることによって,主に奉仕する人々に誉れを与えることを約束されました(教義と聖約76:5-10参照)。

預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,個人の啓示がどのようにわたしたちにとって祝福となるかについて次のように説明しています。

「神のもとへ行って啓示を受けることは,神の子供たちの特権です。……神は人を偏り見る御方ではありません。わたしたちは皆同じ特権を持っています。

わたしたちは次のように信じています。わたしたちには,天の御父である神から,啓示,示現,夢を受ける権利があります。もし神の戒めを守り,神の目から見てふさわしい者であるならば,わたしたちは霊の幸福を得るために必要なすべてについて,イエス・キリストの御名により,聖霊の賜物を通して,光と英知を受けることができます。

啓示の霊が最初に何かを勧めたときにそれと気づくなら,人は益を得ることでしょう。例えば,純粋な英知が流れ込んできたと感じるとき,突然様々な考えが湧いてくることがあります。そのような促しに気づくならば,その日のうちに,あるいはそう遠くない将来に,それが成就するのを確認できる,(言い換えれば,)神の御霊によって心に示された事柄が,実際に起こるのです。このように,神の御霊を経験し,理解することによって,啓示の原則が身に付いていき,ついにはキリスト・イエスにあって完全な者となるでしょう。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』132

教義と聖約76:7-10。「隠されていた……奥義」とは何か

主は,「義をもって真理にかなって〔主〕に仕える者」(教義と聖約76:5)に,「隠されていた〔主〕の王国のすべての奥義」と「〔主〕のひそかな思い」を「明らかに〔する〕」(教義と聖約76:7,10)ことを約束されました。これらの奥義には,聖霊の力によってのみ理解できる福音の原則と真理が含まれます。奥義や真理の一部は,神聖な神殿で明らかにされます。

預言者ジョセフ・スミスは,1832年2月16日にジョセフとシドニー・リグドンが受けた示現を通して「あふれるばかりの光が世に注がれた」と証しています(in Manuscript History of the Church, vol. A-1, page 192, josephsmithpapers.org)。ジョセフとシドニーは示現の中で二人に明らかにされた教義の多くを記録しましたが,主は,御自分が明らかにした真理の一部は書き記してはならないと命じられました(教義と聖約76:114-117参照)。預言者ジョセフ・スミスは後に次のように言っています。「わたしは,もしわたしが(そうすることが許されていれば),そして人々がそれを受ける備えができていれば,示現の中でわたしに現された王国の栄光を今まで以上に100倍説明することができます。主はこの民を,子供を持つ優しい親のように扱っておられます。その民が聞くのにふさわしい光と英知と知識を主の方法で与えられるのです。」(in Manuscript History of the Church, vol. D-1, page 1556, josephsmithpapers.org; spelling, capitalization, and punctuation standardized

教義と聖約76:11-24

ジョセフ・スミスとシドニー・リグドン,天父とイエス・キリストを見る

教義と聖約76:11-14。「御霊の力によってわたしたちの目は開かれ〔る〕」

ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,ヨハネ5:29を翻訳していたときに,「御霊に感じて」(教義と聖約76:11)「御霊の力によってわたしたちの目は開かれ〔た〕」(教義と聖約76:12)と語っています。神の子供たちの一人が聖霊によって影響を受けると,その人は神の視点から物事を見ることができます。七十人のキム・B・クラーク長老は次のように証しています。「わたしたちがキリストを頼って目を開き,耳を澄ませるならば,聖霊はわたしたちが自分の生活において働く主イエス・キリストの御手を認識できるよう,また主を信じるわたしたちの信仰を強めてくださっていることが分かるよう確信と証拠を与えてくださいます。神が御覧になるように愛と思いやりをもって兄弟姉妹を見ることができるようになっていきます。救い主の声は聖文や御霊のささやき,預言者の言葉の中で聞くことができます。主の預言者と,主のまことの生ける教会のすべての指導者の上に主の力があるのを見て,これが主の聖なる業であることがはっきりと分かるようになるでしょう。自分と周囲の世界を,救い主がなさる方法で見て,理解するようになるでしょう。わたしたちは使徒パウロが『キリストの思い』と呼んだものを持つようになります〔1コリント2:16〕。見る目と聞く耳を持つようになって,神の王国を築くのです。」(「見る目と聞く耳」『リアホナ』2015年11月号,125)

教義と聖約76:15-19。「わたしたちがこれらのことについて思いにふけっていたときに」

預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンが見た示現は,ヨハネ5:29の霊感訳について深く考えいたときにもたらされました。その節の霊感訳が彼らに「与えられ」(教義と聖約76:15),「〔彼ら〕を驚かせ」まし(教義と聖約76:18)。ほかの示現や啓示は,預言者たちが聖文について深く考え,瞑想しているときに与えられました(教義と聖約138:1-11ジョセフ・スミス—歴史1:8-20参照)。

〔弟子たちを教えられるイエスの画像〕

復活によって得られる報いについてのイエスの言葉は,ヨハネ5:29に記録されている。預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,教義と聖約76章に記録されている示現が与えられたとき,この節を翻訳しながら深く考えていた(教義と聖約76:15-16参照)。

大管長会のヘンリー・B・アイリング管長は,研究することと深く考えることの違いについて,また深く考えることと啓示を受けることの関係について次のように教えています。「読むことと,研究することと,深く考えることは同じではありません。読めば何かに気づき,研究すれば聖文中のパターンと関連性を見いだすでしょう。しかし,深く考えるときに,御霊の啓示を招くのです。わたしの場合,深く考えるとは,聖文を入念に読み,研究した後に考え,祈ることを意味しています。」(「御霊とともに奉仕する」『リアホナ』2010年11月号,60)

デビッド・O・マッケイ大管長(1873-1970年)は,次のように教えています。「瞑想は,わたしたちが主の前に行くためにくぐる最もひそかで最も神聖な門の一つです。」(『歴代大管長の教え—デビッド・O・マッケイ』32

教義と聖約76:19-24。「『小羊は生きておられる。』わたしたちはまことに神の右に小羊を見たからである」

預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,「御父の右に」立っておられるイエス・キリストの栄光を見ました(教義と聖約76:20)。彼らは「神……を拝する,聖なる天使たちと聖められている者たち」(教義と聖約76:21)を見て,「証する声を聞いた。すなわち,『〔イエス・キリスト〕は御父の独り子であ〔る。〕』」(教義と聖約76:23)この顕著な経験により,この二人の証人は次のように宣言しました。「そして今,小羊についてなされてきた多くの証の後,わたしたちが最後に小羊についてなす証はこれである。すなわち,『小羊は生きておられる。』」(教義と聖約76:22)「最後に」という言葉は,これが救い主に対して与えられた最後の証であることを意味するものではありません。むしろ,彼らの証は,古代の預言者と聖徒たちによって宣言された長きにわたる証の中で,神の御子の実在についての最新の証でした。世界中の預言者,使徒,および聖徒たちは,救い主であるイエス・キリストが実に生きておられることを引き続き証しています。

〔復活されたキリストの画像〕

「わたしたちが最後に小羊についてなす証はこれである。すなわち,『小羊は生きておられる。』わたしたちは……小羊を見たからである。」(教義と聖約76:22-23参照)

2000年1月1日,大管長会および十二使徒定員会は,生けるキリストの実在を証する次のような声明を発表しています。「わたしたちは正式に聖任を受けたイエス・キリストの使徒として証します。イエスは生けるキリスト,不死不滅の状態にある神の御子です。イエス・キリストは今日,大いなる王,インマヌエルとして御父の右に立っておられます。イエス・キリストは世の光,命,そして希望です。イエス・キリストの道は,この世においては幸福に,後の世においては永遠の命に至る道です。わたしたちは御子という比類ない贈り物を授けてくださった神に感謝しています。」(「生けるキリスト—使徒たちの証」『リアホナ』2000年4月号,3)

教義と聖約76:24。創造主としてのイエス・キリスト

神は古代の預言者たちに,人は創造された世界を数えることはできないことを明らかにされました(モーセ1:28-337:30アブラハム3:11-12参照)。この示現によって,イエス・キリストがそれらの世界の創造主であられることが再確認されました。十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は次のように教えています。

「ベツレヘムにお生まれになってナザレのイエスとして知られるようになるはるか昔,救い主はエホバでした。そのはるか以前に,御父の指示の下で,宇宙の主であるキリストは無数の世界を創造されており,わたしたちの世界はその一つにすぎないのです(エペソ3:9ヘブル1:2参照)。

宇宙に,人が住む惑星は幾つあるのでしょうか。それは分かりませんが,この宇宙に存在するのはわたしたちだけではないのです。神は,この惑星だけの神ではないのです。」(「キリストの特別な証人」『リアホナ』2001年4月号,5)

教義と聖約76:24。「それらに住む者は神のもとに生まれた息子や娘となる」

イエス・キリストのもとに来て主の戒めを守る者は,主の息子や娘となります。イエス・キリストは,悔い改めて霊的な再生を経験するすべての人々の父であられます(モーサヤ5:715:11-1227:25-26アルマ5:147:14エテル3:14教義と聖約11:28-30参照)。預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンがこの示現の中で聞いた声は,イエス・キリストによって創造されたすべての世界に住む者は「神のもとに生まれた息子や娘となる」と宣言しました(教義と聖約76:24)。これは,イエスが「無数の世界」の創造主であり救い主でもあられることを意味します(モーセ1:33)。

十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン会長は,イエス・キリストの贖罪の広範な影響について次のように説明しています。「主の贖罪は無限で,終わりがありません〔2ニーファイ9:725:16アルマ34:10,12,14参照〕。贖罪は全人類が永久の死から救われることにおいても無限です。主の計り知れない苦難に関しても無限です。贖罪は時においても無限であり,動物の犠牲という以前の象徴は終わりを告げました。贖罪は範囲においても無限で,ただ一度だけ行われました〔ヘブル10:10参照〕。贖罪の効力は無数の人々だけでなく,主によって造られた無数の世界にも及んでいます〔教義と聖約76:24モーセ1:33参照〕。人間のいかなる尺度も理解を超えた無限のものなのです。」(「贖い」『リアホナ』1997年1月号,40参照)

教義と聖約76:25-29

ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,前世におけるルシフェルの反乱を見る

教義と聖約76:25-29。サタンは「神の聖徒たちに戦いを挑〔む〕」

「御父の右に御子の栄光」を目撃した後(教義と聖約76:20),預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,サタン,すなわちルシフェルについての対照的な示現を見ました。二人は,前世において権威ある地位にあったルシフェルが,神に反抗し,多くの神の霊の子供たちに同じことをさせた後で,神のもとから落ちるのを見ました(イザヤ14:12黙示12:7-10教義と聖約29:36-37アブラハム3:27-28参照)。ルシフェルは「滅び」と呼ばれるようになりました(教義と聖約76:26参照)。損失または破壊という意味です。

ジョセフとシドニーは,サタンは神と義を求めるすべての人々に敵対する実在する者であることを思い出しました。サタンは「わたしたちの神とそのキリストの王国を取ろう」としました(教義と聖約76:28)。また,引き続き「彼は神の聖徒たちに戦いを挑み,彼らを取り囲む」ことで同様のことをしています(教義と聖約76:29)。預言者ジョセフ・スミスは,後に次のように説明しています。「神の王国に関しては,悪魔はいつも,神に反対してまさに同じ時期に自分の王国を打ち建てます。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』14

悪魔が神の王国に敵対するのと同様に,彼は霊的に進歩することを求める個人にも敵対します。なぜなら,「悪魔は,すべての人が自分のように惨めになることを求めている」からです(2ニーファイ2:27)。

〔総大会の部会のためにカンファレンスセンターに入って行く人々の画像〕

サタンが「神の聖徒たちに戦いを挑〔む〕」とき,教会員たちはその忠実さによって守られる(教義と聖約76:28-29参照)。

教義と聖約76:30-49

ジョセフ・スミスとシドニー・リグドン,滅びの子らの苦しみを見る

教義と聖約76:30-35。滅びの子とはどのような人のことか

預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンがルシフェルの反乱を目撃した後,主は二人に滅びの子の苦しみを示されました。二人は示現の詳細を書くのではなく,見たことについて主の声が述べられたことを記録しました。主は,滅びの子とは神の力についての知識を与えられる人たちであり,彼らは「それにあずかる者とされながら」「自らを……打ち負かされるに任せ,また真理を否定し,〔神〕の力に反抗する」に自らを任せた者であると説明されました(教義と聖約76:31)。さらに,彼らは「聖なる御霊を受けた後にそれを」否定し,また,「御父の独り子を」否定する者です(教義と聖約76:35)。

この示現が与えられた数年後,預言者ジョセフ・スミスは次のように説明しています。「聖霊に逆らう罪以外のすべての罪は赦されるでしょう。イエスは滅びの子らを除くすべての人を救われるからです。何をすれば赦されない罪を犯すことになるのでしょうか。聖霊を受け,諸天が開かれ,神を知り,しかる後に聖霊に逆らうことです。聖霊に逆らう罪を犯した者には,まったく悔い改めの余地はありません。このような者は輝く太陽を見ていても太陽は輝いていないと言い,自分にもろもろの天が開かれているのにイエス・キリストを否認し,自分の目をしっかりと真理に据えたうえで救いの計画を否定するのです。」(in Manuscript History of the Church, vol. E-1, page 1976, josephsmithpapers.org; capitalization and punctuation standardized

赦されない罪は,不注意に,あるいは偶然によってなされるものではありません。むしろ,滅びの子になる者は,喜んで故意にそうするのです。滅びの子は,「御父の独り子を否定し……,また独り子を自ら十字架につけ」ました(教義と聖約76:35ヘブル6:4-6も参照)。十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,次のように述べています。「この赦されない罪を犯す者は,福音を受け,聖霊からの啓示によりキリストが神であることを完全に理解し,そのうえで『自らが聖められた新しくかつ永遠の聖約を拒み,それを邪悪なものとよばわり,恵みの御霊に反したことを行います。』〔Joseph Smith, in History of the Church, 3:232.〕そうすることで,彼は主の死に同意し,殺人を犯すことになります。すなわち,真理の完全な知識を持ちながら,公然と反抗し,キリストが神の御子であると完全に知りながら,彼を十字架にかける状況に自らを置くのです。こうして,またもやキリストを十字架にかけ,公に辱めるのです(教義と聖約132:27)。」(Mormon Doctrine, 2nd ed. [1966], 816–17

教義と聖約76:37。 「第二の死」

この世に生まれたすべての神の子供たちは,滅びの子になる者を含め,イエス・キリストの復活の力によって,墓からよみがえり,肉体の死に打ち勝ちます(1コリント15:22アルマ11:42-45教義と聖約88:27-32参照)。肉体の死に加えて,すべての神の子供たちは霊の死,すなわち御父と御子の物理的存在からの分離の影響を経験しました。堕落したことによって「主の御前から絶たれている」のです(ヒラマン14:16)。霊の死,すなわち神からの分離も復活を通して克服されます。復活は裁かれるためにすべての人を主の前に(少なくとも一時的に)連れ戻します(ヒラマン14:15-17参照)。

主のもとに戻った後,滅びの子は第二の死を経験することになります。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は,次のように説明しています。第二の死「を犯すと霊の罰……を招く〔。〕この罰を受けた者は神の前に出ることを拒否され,永遠に悪魔とその使いとともに住むように定められるのである。」(Doctrines of Salvation, comp. Bruce R. McConkie [1954], 1:49)滅びの子は,唯一そのような死に苦しむ者です(ヒラマン14:18教義と聖約76:3788:35参照)。

ブルース・R・マッコンキー長老は,滅びの子にのみもたらされる第二の死について次のように説明しています。

「霊の死とは,主の前から追い出されて,義と御霊につける事柄に関して死ぬことである。」(Mormon Doctrine, 761

「最終的には,『死に至る罪』(教義と聖約64:7)を犯した者,すなわち滅びの子になると定められた者を除き,すべての人が霊の死から贖われる。ヨハネはこの教えについて次のように述べている。『死も黄泉もその中にいる死人を出し……それから,死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。』(黙示20:12-15)主は末日においても,滅びの子は『第二の死が何らかの力を持つ唯一の者であ〔る〕』と言われた(教義と聖約76:37)。すなわち,彼らは復活後に何らかの力を受けるのである。」(Mormon Doctrine, 758

教義と聖約76:39-44。「イエスは……すべての者を救われる」

滅びの子と彼らの恐ろしい行く末について知った後,預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは「小羊の勝利と栄光によって……すべての者が……救われる」(教義と聖約76:39,42)ことと,イエス・キリストは「〔滅びの子〕を除くすべての者を救われる」(教義と聖約76:44)ことを知りました。十二使徒のダリン・H・オークス長老は,救われるという言葉には様々な意味があると次のように教えています。

「末日聖徒が救われる救いという言葉を用いる場合,少なくとも6つの異なった意味があります。このうち幾つかの意味からすれば,わたしたちの救いは約束されています。つまりすでに救われています。しかしほかの意味から言うと,救いは未来の出来事として(例—1コリント5:5),あるいはそのように条件の下に(例—マルコ13:13)語られるべき出来事となります。しかし,これらどの意味においても,また意味に基づくどの救いの定義にも言えるのは,救いはキリストによって,キリストを通じてもたらされるということです。……

末日聖徒にとって『救われる』とは,次の世で栄光の王国に入るとの確信を得て(1コリント15:40-42参照),第二の死(最後の霊的な死)から救われる,または解放されることを意味します。復活が万人にもたらされるように,この地上に生を受けた人は,わずかな人を除き,この意味での救いを得ることができます。……

預言者ブリガム・ヤングは次のような言葉でこの教義を教えました。『慈悲の日を追いやるほどの罪を犯さなければ,そして悪魔の使いにならなければ,すべての人が復活して栄光の王国に住むというのは真実です。』(『歴代大管長の教え—ブリガム・ヤング』315)ここでの救いの意味は,主であり救い主であるイエス・キリストの恵みにより,全人類を高貴な存在にすることです。……

……これも末日聖徒特有の親しまれた意味合いですが,救われる救いという言葉を永遠の命への昇栄を表す意味に使います(アブラハム2:11参照)。これはしばしば『完全な救い』と呼ばれます(Bruce R. McConkie, The Mortal Messiah, 4 vols. [1979–81], 1:242)。この救いを得るには悔い改めと正当な神権の権能によるバプテスマ以上のものが必要です。また,神の神殿における永遠の結婚を含む神聖な聖約を交わすことや,最後まで耐え忍ぶことによりその聖約に忠実であることが求められます。」(「あなたは救われていますか」『リアホナ』1998年7月号,63,64)

〔十字架へのはりつけの画像〕

イエス・キリストは十字架につけられるために世に来られた。「世の罪を負い,……すべての者が,彼によって救われるためである。」(教義と聖約76:41-42