「第54章:教義と聖約134-136章」『教義と聖約 生徒用資料』
「第54章」『教義と聖約 生徒用資料』
第54章
教義と聖約134-136章
紹介とタイムライン
1835年8月17日,オハイオ州カートランドの教会員は,近々出版される教義と聖約の内容を承認する特別な集会を開いた。預言者ジョセフ・スミスはミシガン準州の教会員を訪問するために不在だったため,オリバー・カウドリがこの集会を管理した。この集会で,教義と聖約に「政府と法律……に関する所信の宣言」(教義と聖約134章,前書き)を含めることに教会員が賛意を表明した。この宣言は教義と聖約134章に記録されている。
1844年6月27日,預言者ジョセフ・スミスと兄ハイラムが,イリノイ州カーセージで殉教した。当時ハイラムは,教会の大管長補佐であり,また大祝福師であった。1884年版の教義と聖約には,目撃者であった十二使徒定員会のジョン・テーラー長老とウィラード・リチャーズ長老の証言に基づく,殉教の発表が収録された。この発表は教義と聖約135章に記録されている。
1846年2月,教会員はイリノイ州ノーブーからの退去を始め,アイオワ準州を横断して西へと旅を進めた。ブリガム・ヤング会長は1847年1月,教義と聖約136章に記録されている啓示をネブラスカ州ウィンタークォーターズで受けた。この啓示の中で,主は,聖徒たちに自らを組織して西部への旅に備えるよう勧告された。
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1835年8月17日教義と聖約134章を教義と聖約に加えることがオハイオ州カートランドの教会員によって承認された。
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1844年6月27日預言者ジョセフ・スミスとハイラム・スミスは,イリノイ州カーセージにあるカーセージの監獄にて殉教した。
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1844年7月-8月教義と聖約135章が記録された。
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1846年2月4日イリノイ州ノーブーから聖徒の最初の一団が西へ向けて出発した。
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1846年6月ブリガム・ヤングが率いる聖徒の一団がミズーリ川に到着した。その後,この地に,アイオワ州ケインズビルやネブラスカ州ウィンタークォーターズなどの入植地が建設された。
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1847年1月14日教義と聖約136章が与えられた。
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1847年7月24日ブリガム・ヤングが率いる開拓者の一団がソルトレーク盆地に到着した。
教義と聖約134章:追加の歴史的背景
1883年後半,教会員たちがミズーリ州ジャクソン郡の家から不法に追い出された後,教会指導者は,州政府および連邦政府当局に対し,聖徒の公民権を保護し,失った財産を取り戻すための助けを求めましたが,教会のこの救済要請は繰り返し失敗に終わりました。時には,教会員は,「ミズーリ州でもほかの場所でも,冷酷な敵対者から,法と秩序を乱していると糾弾され」,不当にも,「国の法律と対立する法律を制定していると描写され」たりもしました(Joseph Fielding Smith, Church History and Modern Revelation [1953], 2:30–31)。
1833年7月,ミズーリ州インディペンデンスで発生した暴徒による暴力によって,印刷された『戒めの書』の多くが失われ,ごくわずかな冊数のみが残りました。そのため,1835年,オハイオ州カートランドで,預言者ジョセフ・スミスが受けた啓示を収録した新たな書物を出版する準備が行われました。1835年8月17日,教義と聖約の初版の出版に先立ち,これを承認するための教会員の総会が開かれました。この総会で,オリバー・カウドリは「政府と法律全般に関する」と題された追加文書を読み上げました。出席者たちは教義と聖約にこの文書を加えることを全会一致で承認し,この文書は付録(現在の教義と聖約133章)の後,1835年版の最後に追加されました。現在,教義と聖約134章に記録されているこの文書は,預言者ジョセフ・スミスに与えられた啓示ではなく,恐らく,オリバー・カウドリが,ウィリアム・W・フェルプスの助けを借りて,教会員と政府および法律との関係に関する教会員の信条を明確に示す宣言として作成したものだと考えられます。(See The Joseph Smith Papers, Documents, Volume 4: April 1834–September 1835, ed. Matthew C.Godfrey and others [2016], 479–82.)
教義と聖約134章
政府とその国民の責任が明記される
教義と聖約134:1-3。「良心の自由な行使」
1833年に聖徒たちがミズーリ州で迫害を受けたことと,政府指導者の助けを得られなかったことによって,政府は「良心の自由な行使,財産の所有権と管理,および生命の保護」(教義と聖約134:2)を含む国民の権利を守るべきだという聖徒たちの信念はますます強固なものとなりました。国民が自分の良心に従って行動できるようにする法律によって,信教の自由が守られます。十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,政府は「良心の自由な行使」(教義と聖約134:2)と国民の信教の自由を守る責任があると教えています。
「今日では,政治,紛争の解決,経済的発展,人道支援,そのほかの分野における宗教の重要性〔を〕……無視することはだれにもできません。……宗教を理解し,宗教と世界的な問題,および政府との関係を理解することは,わたしたちの住む世界をより良くしていくために不可欠です。……
したがって,政府は国民の宗教の自由を確保するべきです。有名な,国連の世界人権宣言第18条には次のように述べられています。『すべて人は,思想,良心および宗教の自由に対する権利を有する。この権利は,宗教または信念を変更する自由ならびに単独でまたは他の者と共同して,公的にまたは私的に,布教,行事,礼拝および儀式によって宗教または信念を表明する自由を含む。』〔1948年12月10日に国連総会で採択された世界人権宣言,un.org〕」(「宗教が世界で果たす重要な役割」『リアホナ』2017年6月号,14)
教義と聖約134:4,7。「宗教上の信条を自由に行使できる」
預言者ジョセフ・スミスは,1842年に信仰箇条1:11を書いたとき,教義と聖約134章に述べられている信教の自由の原則を強調して,次のように述べました。「わたしたちは,自分の良心の命じるとおりに全能の神を礼拝する特権があると主張し,またすべての人に同じ特権を認める。彼らがどのように,どこで,何を礼拝しようと,わたしたちはそれを妨げない。」ただし,信教の自由は,必ずしもすべての宗教上の行いが法律で保護されることを意味するわけではありません。教義と聖約134:4によれば,国民は宗教を実践することができなければなりませんが,これは,その「宗教上の考えが他人の権利と自由を侵害するように促すものでないかぎり」という但し書きを伴います。したがって,宗教活動の制限は,それが他人の生命,財産,健康,または安全など,きわめて強い公の利益を保護するために必要なものであるならば,妥当です。
預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,信教の自由を守ることの重要性について,次のように述べています。
「すべての人は平等に造られており,良心に関するすべての事柄について自分自身で考える特権を与えられています。わたしたちはこれを正しい原則であると考えており,すべての人がそのことがもたらす力について正当に評価すべきであると信じています。したがってわたしたちは,人が個人として自由に考えるのを妨げるようなことは,たとえそうする力があったとしても,しません。それは,最もすばらしい賜物の一つとして天が恵み深く人類家族に授けてくださったものなのです。
わたしはすべての教派や宗派,門派に対して,この上なく寛大な気持ちを抱き,慈愛を感じています。そして良心の権利と自由を何よりも神聖に,また大切にしており,自分と意見が異なるためにだれかをさげすんだりはしません。
聖徒たちはわたしが兄弟たちのために進んで自分の命を捨てるかどうかについて証することができます。もしこれまで『モルモン』のために進んで命を差し出すことが証明されてきたとするなら,わたしは自分が長老派,バプテスト,あるいはほかの宗派の善良な人の権利を守るためにも同じように命を差し出す用意ができていることを,天の前にあえて宣言します。末日聖徒の権利を踏みにじる考え方は,……信者が少なく,自分たちを守る力を持たない宗派の権利をも踏みにじるものです。
わたしの心を鼓舞するのは,自由を愛する思いです。すなわち全人類が民事上と宗教上の自由を得ることです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』344-345)
十二使徒定員会のロバート・D・ヘイルズ長老は,わたしたち全員が促進し支持するよう努めるべき信教の自由の基本原則について,次のように教えています。
「わたしたちには末日聖徒として頼り,守るべき信教の自由の四つの隅石があります。
第1の隅石は,信じる自由です。何人も,神について信じていることのために個人や政府から批判や迫害や攻撃を受けるべきではありません。それは非常に個人的で,非常に大切な事柄です。……
信教の自由の第2の隅石は,自分の信仰や信条を人に伝える自由です。……両親,専任宣教師,会員宣教師として,わたしたちは,主の教義を家族や全世界に教えるために,信教の自由に頼っています。
信教の自由の第3の隅石は,宗教団体や教会を結成する自由と,他の人々と争うことなく礼拝する自由です。……国際人権関連文書や多くの国の憲法はこの原則を支持しています。
信教の自由の第4の隅石は,信仰に生きる自由,つまり家庭や礼拝所だけでなく公の場でも信仰を行使する自由です。」(「選択の自由を保ち,信教の自由を守る」『リアホナ』2015年5月号,112)
教義と聖約134:5-6。「すべての人は,……自分が住む地のそれぞれの政府を支持し,支える義務を負う」
末日聖徒は,自分たちは「自分が住む地のそれぞれの政府を支持し,支える」べきである(教義と聖約134:5)と信じています。預言者ジョセフ・スミスは,信仰箇条1:12を書いたとき,この原則を要約して,次のように述べています。「わたしたちは,王,大統領,統治者,長官に従うべきこと,法律を守り,尊び,支えるべきことを信じる。」教会員は,この原則に基づいて生活しながら,自国の法律に従うとともにほかの人々にも法律に従うように促し,地域で奉仕し,政府当局者に敬意を示し,投票を行います。
時には,国の法律が教会員の信条と対立することもあります。ダリン・H・オークス長老は,司法および宗教界の指導者が出席したある会議で語った際に,このジレンマが起きたときにどうしたらよいか教えています。
「信仰を持つ人々は皆,神の律法を尊んでいますが,そのような人のほとんどが民法もまた神によって定められたものであることを認めています。主イエス・キリストは,『それでは,カイザルのものはカイザルに,神のものは神に返しなさい』(マタイ22:21)と指示なさいました。このように教えられていることから,わたしたちは,できるかぎり,両方の法体系に従わなければなりません。明らかな対立があるときは,調和を見いだすよう努める必要があります。まったく相いれないときは,同じ考えを持つ人々と一緒に,神の律法と合うように民法を変更する努力をすべきです。一方を支持するために他方を軽視する決断をするときには—このような状況が起こることはごくまれですが—いかなる場合も決断前にきわめて慎重に検討する必要があります。
この場合,わたしは信仰を持つ仲間である皆さんに次のように述べたいと思います。わたしたちは,宗教の自由な実践が,組織または個人の信教の自由を侵害していると解釈され得るあらゆる法律および政府の行為よりも優先されると主張すべきではありません。これまで度々申し上げてきたように,宗教の自由な実践には,明らかに,宗教上の信条と宗派を選ぶ権利と,選んだ信条を実践または実行する権利の両方が含まれます。しかし,様々な宗教上の信条を持つ国民で構成される国では,すべての国民の健康と安全を守るために,一部の国民がその宗教上の原則に従って行動する権利を政府の責任で制限する必要があります。」(“The Boundary Between Church and State” [address at the Second Annual Sacramento Court/Clergy Conference, Oct. 20, 2015], mormonnewsroom.org)
教義と聖約134:12。「わたしたちは信じる。……奴隷に口出しを……することは正しくない」
1821年,ミズーリ州は,奴隷州,つまり奴隷制度が法律で認められている州として合衆国に組み込まれました。十二使徒定員会のクエンティン・ L・クック長老は,信教の自由に関するある会議で語った際に,過去に,ミズーリ州の聖徒が,一つには奴隷制に反対する信条を持っていたために迫害を受けたことを説明しました。
「1833年,ミズーリ州において,わたしたち末日聖徒の価値観は,わたしたちと同じ信仰を持たないほかの入植者と直接対立するものでした。ミズーリの多くの住民は,アメリカインディアンを残忍な敵と見なし,その地から追い出したいと思っていました。さらに,ミズーリの入植者の多くは奴隷所有者であり,制度に反対する人々に脅威を感じていました。……
それとは反対に,わたしたちの教義はアメリカインディアンを尊び,わたしたちの望みは彼らにイエス・キリストの福音を教えることでした。奴隷制度に関して,わたしたちの聖文は,何人もほかの人に束縛されることがあってはならないということを明確に示しています。教会の初期には黒人の会員の数は比較的少数でしたが,彼らは白人の会員と一緒に礼拝していました。……主の啓示に従って大勢の末日聖徒がミズーリに移り住んだとき,ミズーリのほかの入植者たちは脅威を感じました。
そこから,非常に大きな対立が起こり,教会員に対する激しい迫害に至ったのです。」(“Accountability to God: Religious Freedom and Fairness” [address at the Seymour Institute Seminar on Religious Freedom, July 26, 2017], mormonnewsroom.org)
ミズーリの入植者たちの一部は,末日聖徒の出版物であるThe Evening and the Morning Star(『イブニング・アンド・モーニング・スター』)に掲載された社説に腹を立てました。彼らは,この社説が,ミズーリへの黒人の自由民の移住を支持していると解釈したのです(see Manuscript History of the Church, vol. A-1, pages 332–33, josephsmithpapers.org)。オリバー・カウドリは,ミズーリの聖徒たちが受けた激しい迫害を目にしました。オリバーが「わたしたちは信じる。……奴隷に口出しを……することは正しくない」(教義と聖約134:12)と書いたのは,この非難に対して教会を擁護するためだったのかもしれません。オリバー・カウドリのこの言葉は,教会が,奴隷として生活している人々に対して,「奴隷の所有者の意志と願いに反して」,「福音を宣べ伝えたり,バプテスマを施したりする」ために,現行の法律を犯すことを支持したりはしない(教義と聖約134:12)ことを明確に示しました。
「教会は1830年に設立されましたが,そのころ合衆国内ではひどい人種差別がありました。当時,アフリカ系の人々の多くは奴隷として生活しており,白人のアメリカ人の間で人種差別と偏見はごくありふれたものであったばかりでなく,慣習でもありました。今日ではなじまない憂慮すべきものですが,こうした現実が,宗教も含めて,人々の生活のあらゆる面に影響を与えていました。例えば,当時の多くのキリスト教会は,人種によって分けられていました。教会の初期から,あらゆる人種や民族の人々はバプテスマを受け,会員として受け入れられました。教会の創始者であるジョセフ・スミスは人生の終わりにあって奴隷制度には公然と反対しました。」(「人種と神権」福音のテーマの論文,topics.lds.org参照)
教義と聖約135章:追加の歴史的背景
1844年の初頭に,イリノイ州,ノーブーの背教者たちの一群が,預言者ジョセフ・スミスは堕落した預言者であり,対抗する教会を創設しようとしていると宣言しました。中には,秘密の会合を開いて,ジョセフ・スミスを殺そうと企んだ者たちもいました。(See Glen L.Leonard, Nauvoo: A Place of Peace, a People of Promise [2002], 357–62.)1844年6月7日に,これらの離反者たちの一部が,Nauvoo Expositor(『ノーブーエクスポジター』)という名前の新聞の創刊号であり,最終的に唯一の号となったものを印刷し,配布しました。この新聞は,ノーブー市長を務めていた預言者ジョセフ・スミスの指導について非難し,スミスは偽りの教義を教え,政治上および宗教上の越権行為を働き,密かに多妻結婚を実践していると糾弾しました。また,ノーブー憲章の撤回を要求しました。(See Leonard, Nauvoo, 362–64.)1844年6月10日に行われたノーブー市議会で,「議会は『ノーブーエクスポジター』を有害物として宣言する条例を可決し,この有害物を〔差し止める〕よう〔ジョセフ・スミス〕に命じました。」この市議会で,預言者ジョセフ・スミスは,「これらの人々や新聞の行いは町の平和を損なうために計画されたものです。このようなものは群衆心理を生むものであるため,このようなものが存在するのは安全ではありません」と述べました。また,ジョセフ・スミスは,その新聞は,「人々の間で,暴徒化して自分たちの言い分を通そうとする気持ちをかきたて,わたしたちに死と滅びをもたらそうとしていました」とも述べています。(In Manuscript History of the Church, vol. F-1, pages 74, 77–78, 80, josephsmithpapers.org.)
ノーブー市議会は市警察署長に印刷機を破壊するように命令しました。その後,『ノーブーエクスポジター』の所有者たちは,ジョセフ・スミスとそのほかの市の役人を,暴動を起こしたとして起訴しました。預言者の敵対者による告発にあおられて,近隣のカーセージとウォーソーの地域の住民が,ジョセフ・スミスやそのほかの人々が当局に屈服しないなら,イリノイ州からすべての末日聖徒を武力によって追い払うことを要求する演説を行ったり,新聞記事を書いたりしました。ジョセフ・スミスは,ノーブー市長として,予想される襲撃から市の住民を守るために戒厳令を宣言しました。預言者はまた,州当局に,法的問題の解決を支援してほしいと求めました。州内で緊張が高まる中,イリノイ州知事のトーマス・フォードは,ジョセフ・スミスとそのほかのノーブー市の役人に対して,イリノイ州カーセージに行き,暴動の嫌疑に関する裁判を受けるように命じました。ノーブーが襲撃の脅威にさらされる中,フォード知事から安全で公正な裁判を保証されたことから,預言者ジョセフ・スミス,ハイラム・スミス,そしてそのほかのノーブーの役人たちはカーセージに赴きました。審理の後,ジョセフ・スミスとそのほかの被告人は保釈金を支払うことを許されました。この時点で,預言者の敵対者たちは,ジョセフがノーブーで戒厳令を宣言したことに基づいて,ジョセフ・スミスとハイラム・スミスを反逆罪で起訴しました。反逆罪は保釈が認められない犯罪だったため,ジョセフとハイラムは裁判まで獄中で過ごさなければなりませんでした。預言者とその兄は拘留されることになり,滞在先のハミルトンホテルからカーセージの監獄に移されて裁判を待つことになりました。(See Leonard, Nauvoo, 365–72, 376, 381, 384.)
1844年6月27日の午後,敵意を持った暴徒がカーセージの監獄の2階にある看守の寝室を襲い,そこにいた預言者ジョセフ・スミスとハイラム・スミスを殺害しました。その部屋には,預言者とその兄のほかに,十二使徒定員会の会員であるジョン・テーラー長老とウィラード・リチャーズ長老の二人もいました。ジョン・テーラーは重傷を負いましたが,ウィラード・リチャーズは無傷で逃れました。
1844年の7月と8月にかけて,目撃者であるジョン・テーラー長老とウィラード・リチャーズ長老の話に基づいて,殉教について発表する文書が作成されました。教会は,1844年版の教義と聖約の最後にこの発表と預言者ジョセフ・スミスへの賛辞を収録しました。(ジェフリー・ムハース 「殉教を記憶にとどめる」『啓示の背景』マシュー・マクブライドとジェームズ・ゴールドバーグ編,またはhistory.lds.org.)この発表は,現在,教義と聖約135章に記録されています。
教義と聖約135章
教会が,預言者ジョセフ・スミスとハイラム・スミスの殉教を発表する
教義と聖約135:1-3。「〔ジョセフ〕は,自らの血をもって自分の使命と業を証明したのである。彼の兄ハイラムも同様であった」
古代の多くの預言者が,神から与えられた使命を果たす中で迫害され,さらには殺されたように(使徒7:54-60;1ニーファイ1:19-20;モーサヤ17:9-13;アルマ33:14-17;ヒラマン8:17-19参照),預言者ジョセフ・スミスも批判され,迫害を受け,ついには殺されました。それによって,ジョセフ・スミスは,「自らの血をもって自分の使命と業を証明した」(教義と聖約135:3)のでした。ブリガム・ヤング大管長に与えた啓示の中で,主は,「〔ジョセフ・スミス〕に誉れが与えられ,悪人が罪に定められるために,〔ジョセフ・スミス〕が自らの血をもって自分の証を確実なものとすることは必要であった」(教義と聖約136:39)ことを確認されました。ロバート・D・ヘイルズ長老は次のように教えています。「ジョセフ・スミスはその証を自らの血で結び固めました。すなわちこの預言者は,モルモン書と教義と聖約が真実であることの証を結び固めるために(教義と聖約135:1参照),またこの神権時代におけるイエス・キリストとその福音への神聖な証とするために,殉教という形での死をあえて受け入れたのです。」(「個人の証を得る」『聖徒の道』1995年1月号,23参照)
預言者ジョセフ・スミスが自らの血をもって自分の証を確実なものとしたことの詳細については,この章にある教義と聖約136:39の解説を参照してください。
教義と聖約135:3。「主の預言者であり聖見者であるジョセフ・スミスは,ただイエスは別として,この世……のいかなる人よりも,この世の人々の救いのために多くのことを成し遂げた」
預言者ジョセフ・スミスは,福音の回復を手助けするために神から召された死すべき人間でした(教義と聖約1:17-23;136:37-39参照)。神の預言者としてのこの召しによって,ジョセフ・スミスは,「ただイエスは別として,この世に生を受けた他のいかなる人よりも,この世の人々の救いのために多くのことを成し遂げ」ました(教義と聖約135:3)。今日,教会員は,預言者ジョセフ・スミスの業のおかげで,豊かな祝福にあずかることができます。これらの祝福について述べながら,ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,預言者ジョセフ・スミスについて次のように証しています。「38年半という短い生涯の中で,たぐいまれな知識と賜物と教義が,彼を通して豊かに注がれました。客観的に見ても,それに匹敵するものはありません。主観的に言うなら,それは全世界に住む何百万という末日聖徒一人一人の心に宿る証の本質で〔す〕。」(「神が啓示された偉大な事柄」『リアホナ』2005年5月号,83)
ジョセフ・F・スミス大管長(1838-1918年)は,預言者ジョセフ・スミスの教導の業の影響は,地上に過去のいつの時代に生きていたかや,将来のいつの時代に生きるかにかかわらず,すべての人々に及ぶと説明しています。「ジョセフ・スミスが携わっていた業はこの世だけにかかわるものでなく,来るべき世とすでに過ぎ去った世ともかかわりがあります。言い換えれば,かつて地上に住んだ人々,現在生きている人々,わたしたちの後に来る人々にかかわりがあります。また人が死すべき肉体をまとっている間だけに関するものではなく,永遠から永遠にわたって全人類の家族に関係があるのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・F・スミス』13)
ジョセフ・スミスが神の預言者であったことを自分自身で知りたいと願う人はだれでも,この真理について霊的な証を受けることができます。十二使徒定員会のニール・L・アンダーセン長老は,教会員一人一人が祈りながらこの証を求めるべきであると教えています。
「ジョセフ・スミスは回復の預言者です。彼の霊的な働きは,御父と御子が御姿をお見せになった時から始まりました。その後,天からの訪れが何度となく繰り返されます。ジョセフは神の御手に使われる者となり,神聖な聖典や失われていた教義を世に送り出し,さらに神権を回復しました。ジョセフの業の重要性を知るには,知的な考察だけでは不十分です。わたしたちもジョセフのように,『神に願い求め』〔ヤコブ1:5。ジョセフ・スミス—歴史1:11-13も参照〕なければなりません。霊にかかわる質問には霊を通して神から答えが与えられます。……
信じる人々はそれぞれ,預言者ジョセフ・スミスが天から受けた使命とその人格について霊的な確認を受ける必要があります。それはどの世代でも同じです。……
預言者ジョセフ・スミスについての証が与えられる方法は,人それぞれ違うかもしれません。それを得られるのは,ひざまずいて祈り,彼が真の預言者であったことを確認してくださるよう神に願い求めているときかもしれません。最初の示現について語る預言者の言葉を読んでいるときかもしれません。モルモン書を繰り返し読むうちに,証が少しずつ心に蓄えられるからかもしれません。預言者について自分の証を述べるときかもしれませんし,神殿にいて,地上に神聖な結び固めの権能が回復されたのはジョセフ・スミスを通してであったと気づくときかもしれません。信仰を持ち誠心誠意願うならば,預言者ジョセフ・スミスについての皆さんの証は強められます。……
今日この話を聞いている,あるいは後日この話を読む青少年の皆さんに特別な勧めをさせていただきます。預言者ジョセフ・スミスについて個人的な証を得てください。」(「ジョセフ・スミス」『リアホナ』2014年11月号,28,30)
教義と聖約135:4-5。「わたしの良心は,神に対してもすべての人に対しても,責められることがない」
預言者ジョセフ・スミスと兄ハイラムは,ノーブーの自宅でイリノイ州カーセージに出かける準備をしているときに,自分たちに死が迫りつつあるのを察知していました。預言者は,「わたしはほふり場に引かれて行く小羊のように行く」(教義と聖約135:4。イザヤ53:7も参照)というイザヤによるメシアのたとえを使って,そのときの自分の気持ちを説明しています。敵対者たちが預言者を殺害しようと陰謀を企てているのは明らかでしたが,預言者は友人たちに,「わたしは夏の朝のように心穏やかである。わたしの良心は,神に対してもすべての人に対しても,責められることがない」(教義と聖約135:4)と語りました。
殺害された当日の早い時間にカーセージの監獄で走り書きした妻のエマあての手紙の中で,預言者は次のように述べています。「わたしは自分が正しく,最善を尽くしてきたことを知っており,運命にすべてを委ねています。子供たちとすべての友人に,わたしの愛を伝えてください。……反逆罪に関しては,わたしは何も犯しておらず,彼らはそのようなことを何一つ立証できません。ですからその件でわたしたちに何らかの危害が及ぶのを恐れる必要はありません。神があなたがたすべてを祝福してくださいますように。アーメン。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』531)
それより前の1844年6月18日にノーブーで行われた説教の中で,預言者ジョセフ・スミスは次のように述べています。「わたしは自分の命には関心がありません。この民のために犠牲としてささげられる用意ができています。敵に何ができるでしょう。肉体を殺すだけであり,彼らの力はそこまでです。友の皆さん,揺らぐことなく立ち,決してひるまないでください。自分の命を救おうとしてはいけません。真理のために死ぬことを恐れる人は,永遠の命を失うからです。最後まで耐え続けてください。そうすれば復活して神々のようになり,日の栄えの王国と公国において永遠の主権をもって統治することになるでしょう。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』531)
預言者ジョセフ・スミスとその一行がカーセージの監獄に行くためにノーブーをたった1844年6月24日の朝,「ハイラムは出かける用意を終えた後……『モルモン書』のエテル書12章の終わりに近い〔モロナイの別れの言葉〕を読み,そのページを折り返し」ました(教義と聖約135:4。エテル12:36-38も参照)。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,その朝起こった出来事について説明した後に,次のように述べています。
「後に,カーセージの監獄に入れられた預言者ジョセフは,自分たちを見張る看守に向かい,モルモン書が神聖な真実の書物であることを力強く証しました〔see History of the Church, 6:600〕。そして間もなく,最期の言葉を残した二人の命を銃弾が奪ったのです。
モルモン書が神聖な書物であるというわたしの証の根拠となる数え切れないほど多くの要素の一つとして,わたしはこれをモルモン書が真実であることを示すさらなる証拠として提示します。最も助けを必要とする最期の時を迎えたこの二人が,事実に基づかない,作り話でできた書物に命と名誉をかけ(これには,教会と教導の業という意味も加えることができます),そこに永遠の救いを探し続けることで,神を冒瀆するでしょうか。
……死を目前にした二人の兄弟が,もし神の御言葉でないとしたら時の終わりまでもペテン師,詐欺師の烙印を押されるような書物から引用し,慰めを見いだしながら永遠の裁き主の御前に行こうとするでしょうか。そのようなことをするはずがありません。二人は,モルモン書が神聖な起源を持つ永遠に真実の書物であることを否定するくらいなら,むしろ進んで死を選ぶ人たちでした。」(「魂の安寧」『リアホナ』2009年11月号,89)
教義と聖約135:3,6。「彼らは生前に分かたれることはなく,また死後も離れることはなかった」
ハイラム・スミスは,預言者の兄であると同時に,ジョセフ・スミスが最も信頼を置く献身的な友であり,従う者の一人でした。ヒーバー・J・グラント大管長(1856-1945年)は,ハイラムの弟に対する偉大な忠誠心について次のように説明しています。「ハイラム・スミスが人生の中で表した,預言者ジョセフ・スミスへの兄としての愛情ほどすばらしい模範はありません。……彼らは人がなし得ないほど,一致し,慈しみ合い,愛をもって接しました。……ハイラム・スミスの心の中には……一寸の嫉妬心もなかったのです。世の人の中でハイラム・スミスほど,人生において,また死に至っても神の生ける預言者に対し,誠実,真実,そして忠実であった人物はいません。」(“Hyrum Smith and His Distinguished Posterity,” Improvement Era, Aug. 1918, 854–55)
教義と聖約136章:追加の歴史的背景
少なくとも1844年には,教会指導者たちは西部への移住の可能性について積極的に計画していました。預言者ジョセフ・スミスとそのほかの教会指導者たちは,イリノイ州で教会に対する敵意が増しているのを察知し,この州を去らなければならなくなる恐れがあることを認識していました。1844年2月,十二使徒定員会は,ジョセフの指示の下,集合の場所の候補地を探すために北米西部を探検する計画を密かに立て始めました。その後間もなく,預言者は,五十人評議会という新たな組織を設け,西部に聖徒たちの新たな本拠地を見つける務めを与えました。(See The Joseph Smith Papers, Journals, Volume 3: May 1843–June 1844, ed. Andrew H.Hedges and others [2015], 179–80; The Joseph Smith Papers, Administrative Records, Council of Fifty, Minutes, March 1844–January 1846, ed. Matthew J.Grow and others [2016], 40, 464-65, 471–72.)
預言者ジョセフ・スミスは,人生の終わりが近づいたころ,この神権時代の神権の鍵を十二使徒定員会の会員たちに委ねました(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』534参照)。預言者の殉教後,1844年8月8日に開かれた集会で,多くの教会員が,十二使徒定員会の会長であったブリガム・ヤングが教会を導くことを確認する霊的な示しを受けました(『時満ちる時代の教会歴史 生徒用資料』 291-293参照)。
教会の敵対者の多くは,ジョセフ・スミスが殺されれば教会は崩壊するだろうと考えていました。ところが,教会とノーブーの町は引き続き発展して栄えたため,教会員をイリノイ州から追放しようとする教会の敵対者たちの活動がますます激しくなりました。1845年9月,ジョセフ・スミスとハイラム・スミスの殺害の罪で起訴され,その後無罪となった者たちの一人であるリーバイ・ウィリアムズ大佐は,300人の暴徒を率いて,「計画的にへんぴな所にあるモルモンの農場や家を焼き払〔いました〕。彼らは……数多くの無防備な家,農業用の建物,製粉所,収穫された穀物に火を放〔ちました〕。」(『時満ちる時代の教会歴史』301; see also History of the Church, 7:439–44)イリノイ州の多くの住民が,州内に末日聖徒がいると,そのうち内戦が起こるのではないかと恐れ,教会員に州から出て行くよう求めました。1845年9月24日,十二使徒定員会は,教会が翌春イリノイ州を出ることを約束する手紙を発表しました( 『時満ちる時代の教会歴史』301-302参照)。
1846年2月,地元の暴徒と州市民軍による武力行使の脅威にさらされる中,教会員たちはノーブーからアイオワ州を横断して西部を目指す旅に出始めました。予想以上の雨と,物資の不足のため,1846年2月にノーブーをたった教会員たちは,3か月半かかって,300マイル(約500キロ)にわたるアイオワを横断しました。この間,500人以上の末日聖徒の男性たちが,ブリガム・ヤング会長の呼びかけに応じて,1846年5月に始まったメキシコ戦争で従軍するために合衆国軍に入隊しました。これらの聖徒たちは,モルモン大隊と呼ばれるようになりました。これらの男性たちの一部については,それぞれの妻子も加わりました。従軍することによって,その報酬を貧しい教会員の西部への移動の旅費にあてることができましたが,夫や父親の留守中に西部への旅を続けなければならない家族も数多くありました。このような理由から,教会指導者たちは,ロッキー山脈に向かって西に進むのは1847年の春まで待つという決定を下し,冬の間は一時的な居住地に留まるように教会員に勧告しました。(See Richard E.Bennett, We’ll Find the Place: The Mormon Exodus, 1846–1848 [1997], 31–34, 40–47; 『わたしたちの受け継ぎ—末日聖徒イエス・キリスト教会歴史概観』63-67参照。)
「聖徒たちの居住地はミズーリ川の両岸に長く広がり,その中心は西岸のネブラスカ側のウィンタークォーターズだった。ウィンタークォーターズは一躍3,500人の教会員の住む町となり,聖徒たちは丸太小屋や,柳の枝と土で作った壕に住んだ。」(『わたしたちの受け継ぎ』65)その多くは,冬の寒さをしのげるような家屋に住むことができませんでした。マラリヤや肺炎,結核,コレラ,壊血病などの病気に多くの聖徒たちが苦しみ,死んでいったのです。その最初の冬に700人以上の教会員が亡くなりました。( 『時満ちる時代の教会歴史』 319-320参照。)1847年1月,ブリガム・ヤングは,西部への移住について主の指示を求めて祈り,霊感を受けた勧告を口述しました。この内容は教義と聖約136章に記録されています。
教義と聖約136:1-33
主は,西部への旅に備えて教会員たちを組織し,彼らに勧告を与えられる
教義と聖約136:1-33。「イスラエルの陣営」
これらの流浪の末日聖徒たちは,「イスラエルの陣営」と呼ばれました。これは,モーセに導かれてエジプトから脱出したイスラエルの子らに対して古代に使われていた呼び名です(教義と聖約136:1参照。出エジプト14:19-20;ヨシュア6:23も参照)。この名の意図的な使用は,古代のイスラエルと同じように現代のイスラエルも,荒れ野を旅する間,祝福を受け,最終的には永住の地へと導びかれて到達できることを示唆していました。ネブラスカ州ウィンタークォーターズの教会員たちに対して,主は御自身のことを「主なるあなたがたの神,まことに,あなたがたの先祖の神,アブラハム,イサク,ヤコブの神」であり,「エジプトの地からイスラエルの子らを導びき出した者」と同じ神であると宣言され,「わたしの民イスラエルを救うために,わたしの腕は終わりの時に伸べられ〔る〕」と約束されました(教義と聖約136:21-22)。霊感によって与えられた,移住に向けた聖徒たちの組織の規範は,古代のイスラエルが実践した組織および統率方法に類似するものでした(出エジプト18:21-27;申命1:15参照)。
教義と聖約136:7。「開拓者として行〔く〕」
一度にすべての教会員が西部に旅立つことは不可能だったため,先に出発する人々は,「春作物の植え付け」をし,「家と穀物を栽培する畑の準備」をすることによって,「とどまる者」,つまり後から来る者のために,「力を尽して備えを始め〔る〕」ことになりました(教義と聖約136:6-7,9参照)。主はこれらの聖徒たちを「開拓者」と呼ばれました(教義と聖約136:7)。これは,彼らが,先に行って後から来る者のために道を備えることによって,後続の者たちを助けなければならないことを意味していました。
1847年4月5日に少数の教会指導者が出発した後,4月15日に開拓者の最初の部隊がウィンタークォーターズをたちました。彼らは1,000マイル(1,600キロ)以上を旅してソルトレーク盆地に1847年7月下旬に到着しました。1847年7月24日にブリガム・ヤング大管長がソルトレーク盆地に到着し,聖徒たちは新たな本拠地を見つけたという霊的な確認を受けました(『時満ちる時代の教会歴史』 331-333参照)。1869年に大陸横断鉄道が完成するまでの間に,最終的に6万人以上の人々が同じ道を歩いてユタ地域の聖徒たちに合流しました(see Bennett, We’ll Find the Place, 359)。
トーマス・S・モンソン大管長は,今日の教会員がどのように開拓者となれるかについて,次のように説明しています。
「末日聖徒であるということは開拓者であるということです。なぜなら開拓者とは『後に続く人々のために先立って,道を備えたり切り開いたりする人』であると定義されているからです〔The Compact Edition of the Oxford English Dictionary (1971), ‘pioneer’〕。開拓者であるということは,犠牲をいとわないということです。教会員はもう故郷を離れてシオンに旅するように求められてはいませんが,古い習慣や昔からの慣習,あるいは慣れ親しんだ友達に別れを告げなければならないことがよくあります。教会の会員であることに反対する家族とつながりを絶つという苦渋の決断をする人もいます。それでも,末日聖徒は前進し,大切な人たちもいつかは理解し受け入れてくれるようにと祈ります。
開拓者の道は容易ではありませんが,わたしたちは究極の開拓者であられる救い主の足跡に倣って進みます。救い主はわたしたちの前を歩き,従うべき道を示してくださいました。」(「先祖の信仰に忠実に」『リアホナ』2016年7月号,4-5)
教義と聖約136:34-42
主は,教会員たちを安心させ,すべての戒めを熱心に守るように勧告される
教義と聖約136:37-38。「彼は……忠実であった。それで,わたしは彼をわたし自身のもとに引き取った」
最終的に預言者ジョセフ・スミスの殺害に至った出来事の発端を作ったノーブーの離反者たちは,ジョセフ・スミスは堕落した預言者であると宣言しました。しかし,教義と聖約136章に記録されている啓示の中で,主は,預言者ジョセフ・スミスの神聖な召しについて証し,彼は「忠実であった。それで,わたしは彼をわたし自身のもとに引き取った」と述べておられます(教義と聖約136:37-38参照)。ジョセフ・F・スミス大管長は,預言者ジョセフ・スミスが,神から与えられた神聖な使命と召しに忠実だったことを次のように証しています。
「神の御子が墓より復活して高きに昇られて以来,世に起こった最も大いなる出来事は,御父と御子が少年ジョセフ・スミスを訪れて,人の王国ではなく,決して絶えることも滅ぼされることもない〔神〕の王国の基を置くための道を備えられたことです。
わたしはこの真理を受け入れてから,ジョセフ・スミスが明らかにし,宣言したほかのすべての真理を容易に受け入れられるようになりました。……ジョセフ・スミスは決して誤った教義を教えたことはありませんでした。実行するように命じられた教義はすべて実行しました。誤りを主張したことはなく,欺かれていたこともありませんでした。実際にその目で見,耳で聞き,そして命じられたことを行ったのです。したがって,ジョセフ・スミスが果たした業については,ジョセフ・スミスでなく神に責任があります。人ではなく,神がその業に対して責任を持たれるのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』545)
教義と聖約136:39。「彼が自らの血をもって自分の証を確実なものとすることは必要であった」
預言者ジョセフ・スミスの死後,多くの教会員が「彼の死のゆえに驚〔きました〕」(教義と聖約136:39)。これは,彼が殺されるのを神はなぜお許しになったのかと,教会員たちが困惑したことを意味します。教義と聖約136章に記録されている啓示で,主は,預言者ジョセフ・スミスが死んだのは,「彼に誉れが与えられ,悪人が罪に定められるために,彼が自らの血をもって自分の証を確実なものとすることは必要であった」(教義と聖約136:39)からであると説明しておられます。ウィルフォード・ウッドラフ大管長(1807-1898年)は,預言者の殉教に対する自分の気持ちを述べる中で,次のように語っています。「わたしはかつて,〔預言者ジョセフ・スミス〕の死と,その命の奪われ方について,ある気持ちを抱いていました。もし……ジョセフが望んでいたら,彼はロッキー山脈への道を導いていただろう,と感じていたのです。しかしその後,それが計画に基づいたものであったことを完全に受け入れるようになりました。この神権時代の長として,ジョセフは自らの血をもって証を結び固め,この神権時代の鍵を持って霊界に行き,『獄にいる霊たち』に福音を宣べ伝えるために現在行われている伝道を開始するよう求められていたのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』537)
ジョセフ・F・スミス大管長も,預言者ジョセフ・スミスとその兄ハイラムの死は必要であったとし,この二人からどのようなことを学べるかについて語っています。
「〔ジョセフ・スミスとハイラム・スミスの〕殉教はわたしたちに何を教えているでしょうか。遺言が効力を生じるために,『遺言には,遺言者の死の証明が必要である』という偉大な教えです(ヘブル9:16)。……これらの徳高く義にかなった人々の証が邪悪で不義な世を責める証拠となるように,主はその犠牲を許されました。また彼らは,贖い主が語っておられるすばらしい愛の模範でした。『人がその友のために自分の命を捨てること,これよりも大きな愛はない。』(ヨハネ15:13)この驚くべき愛を,彼らは聖徒たちと世に示しました。カーセージに旅立つ前に,二人は自分たちが死ぬことを悟り,そのことを表明していたのです。……
この殉教は,主の民に常に霊感を与えるものとなってきました。一人一人に,試練の際の助けを与え,義のうちに道を進み,真理を知り,それに従って生活する勇気を与えてきました。神がその僕であるジョセフ・スミスを通して明らかにされた偉大な真理を知った末日聖徒は,この殉教をいつまでも神聖な記憶としてとどめることでしょう。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』537-538)